2013年07月23日

山と日本人 [日本アルプス略史]



古来、日本では山そのままが「神」であった。

とりわけ駿河の富士、加賀の白山、そして越中の立山は「日本三霊山」として古くから崇められてきた歴史をもつ。



その「立山」、日本を作り終えた神様が天界に戻る際、よいしょと踏み台代わりに足をかけて立ったから「立山」だという説がある。

その開山は古く、奈良時代の701年。そこにはこんな伝説が息づく。










◎白鷹伝説



時は文武天皇の時代、越中(現在の富山県)では騒乱がおさまらない。頭を悩ました天皇はこんな夢を見た。

「佐伯有若に治めさせよ」

神のお告げである。かくして越中国司に任じられた有若(ありわか)。

野を越え山を越え、有若が越中を目前とした倶利伽羅山に差しかかった時である。一羽の美しい「白鷹」が現れる。この白鷹のおかげか越中の国はその後、見事に治まった。さらには待望の男児・有頼(ありより)も授かった。



そして月日は流れ、息子・有頼(ありより)は16歳に。ここで事件が起こる。息子・有頼は父が大切にしていた白鷹を逃してしまうのだ。

無断で白鷹を持ち出して狩りをしていた最中だったから、さあ大変。有頼は血眼になって白鷹を探し回る。そしてようやく、一本の大松の梢に止まる白鷹を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。

だがその時、竹藪から現れた一頭の熊に白鷹は驚き、ふたたび大空高く舞い上がり、その彼方へと消え去ってしまった。



怒ったのは有頼だ。

「このバカ熊め!」とばかりに、はっしと矢を射ち放つ。怒りのこもったその矢は見事、熊の胸にグサリ。熊は手負いとなりながらも山奥へと逃げていく。

「待て!バカ熊」と追いすがる有頼。熊の流す血の跡を延々とたどり、何日も何日も険しい山中を駆け続ける。



川あり坂ありの至難の道を進み続け、ようやく有頼は美しい山上の高原へとたどり着く。ふと見れば、探しあぐねていた白鷹は天を翔け、いまだ傷癒えぬ熊は地を走り、ともにそろって岩穴へと入っていく。

「しめた」と有頼も岩穴へと続く。するとその時、漆黒の闇に包まれていたはずの穴の中が、突然まばゆいばかりに光に包まれる。

目のくらんだ有頼がようやく薄目を開けた時、その眼前に立っていたのは、胸に矢の刺さった仏さま。その後ろには不動明王。



その光景に有頼は即座に悟った。白鷹は不動明王、熊は阿弥陀如来の化身であったことを。

「なんてこった…」。自らが犯してしまった恐ろしい誤ちに、有頼は嘆き悲しむ。そして、その場で弓矢を折るや、すらりと剣を抜き放ち、自らの腹をかき切らんとす。

すると阿弥陀如来は世にも優しく語りかける。「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山で待っていた。お前の父をこの国の国司にしたのも、動物の姿となってお前をこの場所に導いたのも私である」

「切腹などせず、この霊山を開くべし」



のちにこの話を知った文武天皇は深く心を動かし、勅命により立山を霊域とする。

以後、有頼は「慈興」という僧名を得て、立山寺(現在の雄山神社)を建立。佐伯有頼こと「慈興上人」は、「立山開山縁起」においてその祖とされ、生涯を立山の開山に尽くしたということである。

現在、雄山神社のご神体は立山そのものであるが、その祭神はイザナギと天手力男命(たぢからお)、二柱の男神。神を仏に結びつける本地垂迹説によれば、イザナギは「阿弥陀如来」を、天手力男命は「不動明王」を本地にするとのことである。






◎修験道








平安時代になると、日本では山を師とする「修験道」と呼ばれる独自の山岳宗教が誕生し、立山の信仰にも深く結びついていく。

修験道によれば、山に入ることは「死」を意味した。一度死んで山中の修行に励むことにより、生前の罪や穢れを浄化し、下山すれば生まれ変わると信じられた。入山すれば「死と蘇り(黄泉がえり)」を体現できる、と。

ゆえに、山中には「地獄」と「極楽」が共存することになる。



立山においては、一宮・雄山神社のある雄山(おやま)が「仏そのもの」、極楽浄土。芦峅寺(あしくらじ)のある麓の高原は弥陀ヶ原。

硫黄臭ただよう地獄谷は、その名の通り「地獄」。その近くのみくりヶ池は「血の池」、剣岳は「針の山」とされ、日本中の死者は立山の地獄に落ちるとされていた。

その様を克明に描くのは「立山曼荼羅」。佐伯有頼が阿弥陀如来に出会う一場面から、閻魔大王が罪人たちを裁く風景などが入り乱れている。



日本に古くからある「山上他界」という信仰によれば、亡くなった人の魂は山の彼方へ行ってしまうと信じられていた。

もし、その他界である山から生きて帰ってくることができた時、修験者たちには常人に持てない力(法力)を身に付けられると信じた。この信仰は、生きながら悟りを開く「即身成仏」の観念とも通じるものであった。










◎立山信仰



江戸時代になると、立山は修験者だけのものではなくなる。信仰登山の対象とされた立山には大勢の登山客が訪れるようになる。

その理由は、山麓で熱心な布教活動を続けた「芦峅寺(あしくらじ)」や「岩峅寺(いわくらじ)」の御師による尽力が大きいといわれている(「峅」という文字は、神さまの降り立つところを意味し、「御師」とは社寺への参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者たちのこと)。

江戸時代後期には、芦峅寺には24坊、岩峅寺には33坊もの宿坊が建ち並んでいたという。



御師(おんし)たちは諸国を巡り、立山信仰を全国へと広めていく。江戸はもちろん、全国各地に「檀那場(だんなば)」と呼ばれる立山信者が集中して暮らす縄張りを張り巡らせ、御師たちは護符や立山曼荼羅などを持って檀家を回ったという。

その時、同時に持参したものに「薬」、立山龍胆や熊の胆などがあり、それが「富山の薬売り」の流れにつながっていったという説もある。御師たちは「檀那帳(だんなちょう)」と呼ばれる顧客名簿のようなものに、いつどこの檀家を訪ねたかなどを事細かに記していたという。



檀家を訪れた御師たちが広げる、極彩色で描かれた「立山曼荼羅」は一番の見せ場であった。地獄や極楽の描かれたその掛け軸には立山の名所なども記されており、まるで絵物語。

難解な説教など理解しえぬ人らも、その分かりやすい絵画と御師たちの巧みな話芸を大いに楽しんだということだ。








江戸時代に越中富山を領したのは前田家であるが、当家は立山信仰を手厚く保護したと伝わる。

立山一帯の自然を乱すものがいないか見回りを命じる条例まで出されていたという。これは高山植物や動物保護に関する日本初の条例であるともいわれている。






◎近代登山の夜明け



明治時代になると、ヨーロッパに生まれた「近代登山」がいよいよ日本にも芽吹きはじめる。明治以後、信仰の山は娯楽の対象への道を進むことになる。

ここで大きな役割を果たすのはイギリス人。外国人による北アルプス登山として最も早く記録されているのは、明治5年(1872)に来日した「ウィリアム・ガウランド(William Gowland)」。

ガウランド(ゴーランドとも)が来日したのは、大阪造幣寮(現・造幣局)の冶金技師としてであったが、彼は日本各地の鉱山を回りながら、同時に立山などの北アルプスへの登頂を果たした(1875)。



「日本アルプス(Japanese Alps)」という言葉を初めて用いたのは、このガウランドだといわれている。

明治14年(1881)に出版された「中部・北部日本の旅行ハンドブック」の中でガウランドは、この地方の山脈は日本において最もすばらしく「日本アルプスと称して然るべきところであろう」と述べている。








そしてその後、のちに「日本近代登山の父」とされる人物「ウォルター・ウェストン」が、明治18年(1888)、宣教師として熊本にやって来る。当時26歳という若さであった。

マッターホルンの登頂など登山経験が豊富だったウェストンは、宣教師としての活動よりも「日本の山々」に夢中になる。明治23年(1890)に富士山に登ると、それを足がかりに日本アルプスへと取り掛かる。

ちなみにこの時代、女人禁制とされていた立山登山も明治5年(1872)にその禁が解かれており、その翌年、深見チエが女性として初登頂を果たしている(1873)。





◎上條嘉門次



イギリス人宣教師・ウェストンが「上條嘉門次(かみじょう・かもんじ)」に出会ったのは、前穂高岳(標高3,090m)に意欲を燃やしていた時だった(1893)。

当時といえばまだ山岳地図もなく、山中に宿泊施設もない。ゆえに山に精通した嘉門次のような案内人を雇うことが、登山成功へのカギだった。

だが、嘉門次とて山の案内が本職ではなかった。嘉門次は山麓の村に住む猟師であり、冬は熊やカモシカ猟、夏場はイワナ釣りなどを生業としていた。



ウェストンと出会った時の嘉門次は45歳。

12歳から父に連れられ山を巡り、30歳の頃から明神池のほとりに小屋を構えていた嘉門次にとって、その近辺の山場は彼の庭同然であった。請われれば、抜群の経験と鋭いカンで山の案内もしていた。時には滑落した人を背負って麓まで降りることもあった。



のちに深い絆で結ばれることになる2人であるが、その初対面はむしろ険悪だった。

ウェストンは先を急いでいた。だが、嘉門次は頑としてそれを拒む。天候がそれを許さないと譲らなかったのだ。

結局、折れたのはウェストン。その日の出発は諦め、翌日に出発することとなった。



翌日、山に入ったウェストンは嘉門次の慧眼に驚く。豪雨による爪痕はウェストンの想像以上に深く、それを山中で目の当たりにしたのだった。

嘉門次はといえば、それを誇るわけでもなく、黙々と重い斧を振り回して藪をなぎ倒して進んでいく。なんと頼もしき姿であろうか。

そして麓の小屋を出て6時間後、ウェストンは外国人として初めて穂高の一角に足跡を残すこととなった。






◎ピッケル



その後、いったんイギリスへ帰国したウェストン。ロンドンで「日本アルプスの登山と探検」という本を刊行し、その中で「ミスター・カモンジ(嘉門次)」を写真付きで「老練なる山岳人」として紹介。

こうして、穂高山中の一杣人であった上條嘉門次は、一躍日本の名ガイドとしての名が世界に轟いた。








2人が再会するのは18年後、ウェストンは婦人を伴って上高地を訪れた。嘉門次はといえば、すでに60代半ばとなっていた。

この時、ウェストン夫人が登頂を果たしたのは日本第3位の高峰「奥穂高岳(標高3,190m)」。女性としては初登頂となった。



その4年後、上條嘉門次は70歳で息を引き取る。

現在、明神池のほとりには嘉門次の曾孫が「嘉門次小屋」を営み、今も暖かく登山客を迎え入れている。

その囲炉裏のある部屋の奥、煤けて黒光りするカモシカの角には「一本のピッケル」が大切に飾られている。それはウェストンが友情の証にと、嘉門次に贈ったものだという。

生前、囲炉裏で焼いたイワナを頬張るときが「至福の時だ」と言っていた嘉門次。きっと2人は山行の疲れをその囲炉裏端で癒していたのだろう。










◎山小屋



ウェストンの開いた近代登山の扉は、小島烏水(こじま・うすい)を開眼させ、ウェストンの勧めにより彼は東洋初の山岳会「日本山岳会」を明治38年(1905)に設立。日本近代登山に先鞭をつける。

その翌年、登山者が山中で寝泊まりするためにと、松沢貞逸(まつざわ・ていいつ)によって北アルプス最初の山小屋が白馬岳山頂に開業する(1906)。

その山小屋は、元あった石室を改造したもので、立てば頭が天井につかえるような質素なものであったというが、「野営からみればまさに天国のような居心地」と登山者たちを大喜びさせた。








「近代登山には山小屋が必要だ」と考えたのは穂苅三寿雄(ほかり・みすお)も同様だった。

だが時代の風は厳しい。「あんな場所に山小屋をつくって君は何をするつもりなんだ?」と松本小林区署は冷たかった。三寿雄の計画では、槍ヶ岳の険しい山頂直下に山小屋をつくろうとしていたのである。



それでも三寿雄の決意は固い。彼が初めて名峰・槍ヶ岳を制したのは大正3年(1914)、23歳の時だった。当時の登山には案内人を雇うことが必要不可欠。それには相応の費用がかかったが、三寿雄は何とかその大金を捻出して山頂に立ったのだった。

その時痛感したのが、山小屋の必要性。当時の槍ヶ岳には石室があったものの、寒いうえに雨にも弱く、登山者がゆっくりと寛げる場所とは到底いえなかった。



幸いにも大正5年(1916)、東久邇宮殿下が槍ヶ岳登山を行う。いわゆる「宮様登山」。それに合わせて登山道や橋が整備されることになり、三寿雄の山小屋計画も半ば署員に呆れられながらも承認されることになったのである。

そして大正16年(1917)に開業したのが山小屋「アルプス旅館(のちに槍沢小屋に改名)」。これが北アルプスで2番目の山小屋である。質素ながらも大いに繁盛したとのことである。








余談ではあるが、宮様登山において秩父宮ご夫妻を槍ヶ岳に案内したのは、ミスター・カモンジこと上條嘉門次だといわれる。

妃殿下が断崖に向かって歩き出した時、「オオカミサンっ! そっちは行っちゃーなんねーっ!」と怒鳴ったという嘉門次。彼にとってそれが一世一代の敬語であった、と嘉門次の妻は語っていたという。

「なんせ、皇族の奥様をカミサン呼ばわりしたもんは、前にも後にもあの人しかおりましねぇ(笑)」










◎その後



宮様登山に次いで、次々と開業していく山小屋。

それが大正の登山ブームに火を着けた。

同時期、大正2年(1913)から発売された陸地測量部の「5万分の1の地図」は、映画「剣岳・点の記(原作・新田次郎)」にあった通り、最後の空白地であった剣岳の測量を終えると、すべての地図が出そろうこととなった。








昭和の一大登山ブームを巻き起こしたキッカケは、なんといっても「槇有恒(まき・ゆうこう)」ら世界的クライマーたちによるヒマラヤ山脈マナスル(標高8,163m)の初登頂であった。

1950〜1960年代に「カニ族」と呼ばれるのは、横にかさばるキスリング・ザックに鍋などをくくりつけた若者たちだ。ザックを背負ったままでは駅の改札口や列車の通路を真っ直ぐに通ることができず、横向きに歩かざるを得なかった。

今でこそ車で登山口へ行けるものの、当時は鉄道がメイン。日本アルプスへと向かう夜行列車「新宿発23時55分、長野行き」は登山列車の代表格だった。



「中央本線の登山列車は、ぼくの揺りかごだった」と岩崎元郎(いわさき・もとお)は当時の学生時代を語る。「座席よりも上等なのは『三等寝台』、床に新聞紙を敷いて横になった方がよく寝られた」

「神さまはけっこう激しく、揺りかごを揺らしてくれたものだが…」








最後に、松本営林署が配布したという昭和2年(1927)の登山案内にはこう書かれてあった。

「登山せらるる方へ

 まず、山嶽を尊重すべし

 山上の徳義を重すべし

 細心にまた周密なるべし」













(了)






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出典:時空旅人Vol.14 「日本山岳史」 2013年 07月号 [雑誌]
posted by 四代目 at 21:54| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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