2013年07月15日

消されるはずだった神話、古事記


「無視された歴史書」

かつて「古事記」がそうだった、と千田稔氏(奈良県立図書情報館・館長)は言う。



古事記とは、今から1300年前に完成した日本最古の歴史書であり、そこには神々の神話から人間へと連なる話が連綿と書きつづられている。

具体的には、天照大神(アマテラス)という神様がどのようにして日本と関わり合い、天皇家につながっていったのかなどが面白おかしく記されている。








だが、その天皇家の歴史ともいえる古事記は、その完成のわずか8年後に成立した「日本書紀」によって正史(国の正式な歴史書)としての座を奪われる。

以後、古事記は歴史の大海に埋没し、ずっと長い間「忘れられた存在」となり果てる。それが再発掘されるのは江戸時代、本居宣長の手によってである。



なぜ、古事記は一時、日本歴史の本流から外されてしまったのか?

そしてなぜ、それでも1300年という永い歳月を生き抜くことができたのか?

その舞台裏には「2人の女帝の姿」と、その書に込められた日本という国、そして日本人というものに対する「やむにやまれぬ想い」が込められていた。






◎未曾有の国難



「国史」、つまり日本の正式な歴史書として、古事記の編纂を命じたのは「天武天皇」(681年、国史編纂の詔)。

その背後にあったのは、当時の大帝国「唐(中国)」である。



その詔からさかのぼること18年前、前帝・天智天皇の時代に、日本は朝鮮半島での戦(白村江の戦い)において、唐と新羅の連合軍に大敗を喫している(663年)。

それまで対外戦争をあまりしてこなかった日本は、軍備や戦略において全くの不十分。いとも容易く負けてしまったのである。



この敗戦を機に、日本は大きな変革を迫られる。各地に豪族たちが乱立している状態では、連合してやって来る唐と新羅には太刀打ちできない。国家の権力をどこか一点に集中させ、税と兵とを一本化しなければならない。

国難に遭った日本では、いわゆる中央集権化がかしましく叫ばれ、そのためにはそのシンボルとなる「国史編纂」が急務となった。



国史編纂という事業は、その国が一国の立派な独立国であることを、その確固たる歴史をもって他国に示すものである。日本人が独自の民族として存続するためには、そうした「国家としての枠組み」がどうしても必要とされたのである。

むしろそれなしには、大国の属国もしくは属領とされてしまう時代であった。事実、大国・唐に飲み込まれ消滅してしまった国もあったのだ。






◎女帝



歴史の大国・唐に対抗するため、日本に求められた国家神話。

その中心に据えられたのが、太陽神「天照大神(アマテラス)」。

世界各地の太陽神が「男」であるのに対して、日本の太陽神は「女性」。しかも、畏れ多くも日本の天皇家はその子孫と位置づけられた。



なぜ、日本の太陽神は女性なのか?

古事記という国史の編纂を命じたのは男帝・天武天皇であったが、その事業はその妻であった「女帝・持統天皇」に引き継がれていた。

これは古事記全般にいえることだが、この書に描かれた神話はその当時の時代背景を無視はできない。



古事記が完成の日の目を見るまでのおよそ30年間、日本の天皇は天武から持統、文武、元明と4代の時が流れている。

そのうち、古事記の編纂にとりわけ熱心だったのが「持統天皇」と「元明天皇」の2人の女帝。古事記に描かれた神話には、太陽神アマテラスをはじめ、色とりどりの女性たちが物語に花を添えていくわけだが、その裏にはこの両女帝の存在が見え隠れしている。

たとえば、アマテラスという神さまは「持統天皇」その人だともいわれている。






◎皇祖神



アマテラスは天皇家の直接のご先祖様となる「皇祖神」として古事記に登場する。だが、アマテラスは全知全能の神様ではない。むしろ弱々しく頼りない神様である。

彼女は、弟の暴れ神「スサノオ」の乱暴狼藉に右往左往し、神生みの対決(天安河原)ではいいように言いくるめられてしまう。そしてとうとうアマテラスは「天の岩屋(あめのいわや)」に隠れ籠もってしまうのであった。

そんなアマテラスを助けるのは、思金神(おもいかねのかみ)という「知恵の神」や、手力男命(たぢからおのみこと)という「怪力の神」。そうした周りの者たちの力を借りて、ようやく光を取り戻すのがアマテラスという神様である。



一方、アマテラスに模される持統天皇は、偉大な天皇であった天武天皇の跡を継いだその妻。自ずとその立場は先代に及ぶべくもなく、藤原不比等ら官僚たちの力を借りざるを得ない。

しかも、当時の日本はまだ内乱の火種が各所にくすぶっていた。というのも、663年白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた日本は、そのおよそ10年後、古代史上最大の内乱である「壬申の乱(672)」に突入したのであった。

その壬申の乱を制したのが、大海人皇子ことのちの「天武天皇」。持統天皇その人の夫である。






◎国風



そもそも内乱の原因となったのが、「国風か唐風か」の争いでもあった。

唐に敗れた後、日本国内では唐の風に倣うべきだという意見と、「いや、あくまで大和の国、独自の流儀でいくべきだ」との主張が真っ向からぶつかり合った。



大海人皇子(のちの天武天皇)と激しく対立した大友皇子という人は、いわば外国かぶれ、唐かぶれ。

作家の長部日出雄氏は「大友の皇子は日本を『唐のような国』にしたかったんですよ。この人は唐人のようにペラペラペラペラ漢語を流暢にしゃべれるし、それから漢詩もうまかった」と言う。

一方の大海人皇子、「この人はもともと日本にあった『やまと言葉』や『やまと歌』、これを大事にしなくて何の日本かっていうのがあった」と長部氏は言う。



未曾有の国難(白村江の戦い)に遭ったあと、国内でいわば「唐風」と「国風」が激突した「壬申の乱」。

唐を理想とする大友皇子は、完全に唐風の都を日本につくろうとした。だが唐風に対する国内豪族らの反発というのは凄まじく、結局は国風を掲げた大海人皇子が豪族らの力を求心して戦いに勝つことになる。

「もし唐風の大友皇子が勝ったら、日本は中国の冊封(属国)体制の中に組み込まれていましたよ」と長部氏は言う。



幸いにも、古代史上最大の内乱に勝利したのは国風の大海人皇子。のちに天武天皇となるこの人が勝ったというのことが、日本独自の神話を形づくる古事記の誕生にもつながることになる。

ゆえにこの書は、日本が日本たる道筋を描くことにもなったのである。










◎イザナギ



大乱は「国風」が勝った。だが、唐風が一掃されたわけではない。むしろ唐風勢力はその復権の機を虎視眈々と狙い澄ましていた。それは国風旋風を巻き起こした天武天皇の崩御であった。

ここで古事記の記述に照らし合わせてみると、天武天皇の妻・持統天皇をアマテラスとすれば、天武天皇その人はアマテラスを生んだ「イザナギ」となる。



イザナギという神様は、妻イザナミとともに日本列島を形作った神様である。

それ以前の世界はというと、天も地もまだしっかり固まりきらず、トロトロとクラゲのように浮かんでいただけだった。その油が浮いたようなトロトロを一振りの矛でかき混ぜた二神。その矛をさっと引き上げると、ポタポタと刃先のしずくが滴り落ちる。それらのしずくが固まると淡路島になり四国の島となり、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡とできていく。そして一番しまいにトカゲの形をした一番大きな本州をつくるのである。

淡路島から数えれば本州は8番目の島、それで日本は「大八島国(おおやしまぐに)」と呼ばれるようになる。



イザナギとイザナミの夫婦神は日本の島ばかりでなく、風の神、海の神、山の神、川の神、火の神といわゆる八百万の神々を日本列島に生んでいく。だが、妻イザナミは火の神を生んだが最後、大火傷を負って死んでしまう。

妻の死をたいそう嘆き悲しんだのは夫イザナギ。妻イザナミを死に追いやった火の神を一刀のもとに斬り殺してしまう。そして一路、妻の去った黄泉の国へと迎えに行く。だが不幸にも、黄泉の国の火を通した食べ物を食べてしまった妻の姿は、もはやこの世のものとは思えぬほどにおぞましい。その恐ろしさのあまり、夫イザナギは一目散に黄泉の国から遁げ帰る。

何とか逃げおおせたイザナギは黄泉の国の穢れを祓おうと、清らかな川で身をすすぐ。すると不思議なことに、衣や冠、腕輪などを清めるたびに新しい神々が次々と生まれてくる。そして左目を洗った時に「天照大御神(アマテラス)」が誕生するのである。










◎神々の乱



神話のこの部分を当時の時代になぞらえれば、トロトロとクラゲのような世界はまだ国家として形をなさず、白村江の戦いで敗れてしまった日本。その日本に国家の体裁をほどこしたイザナギは天武天皇。

だが国内は、八百万の神が乱立するように各地の豪族が勝手気ままにバラバラに存在していた。そして、その一人「火の神」はイザナギを激怒させる災いを巻き起こす。その災神は壬申の乱で対立した「大友皇子」だったかもしれない。

そして黄泉の国にまで失った妻を探しにいったイザナギは、そこで8人の雷神、1,500人の悪鬼の軍勢らに追い立てられる。それは妻イザナミが変じた怪異な容貌が元になった混乱だが、それは肉親同士で皇位継承を争うことになった「壬申の乱」を模したものともいわれる。



そうした内乱を経てイザナギは美しい川で身を清め、新たな神々を生み出すわけだが、それは一新した国家体制であったかのもしれない。

壬申の乱の後、天武天皇はそれまで有力豪族らが占めていた大臣の制度を廃止。代わって、皇族や皇親らが政務を司るシステムを構築する。のちに持統天皇となる妻もその一人であり、古事記神話では左目から生まれることになる新しい神アマテラスのような存在であった。

すなわち天武天皇は対外的な国難から最悪の内乱を経て、独裁的なまでに中央集権化を推し進めたのである。だが、それゆえに新たな反体制分子、いわゆる新たな神々をも生むことになる。






◎権威



最も厄介な神は、姉アマテラスを散々に困らせる乱暴な弟「スサノオ」である。彼はイザナギの「鼻」から生まれた攻撃的な神であり、日本列島の支配を任された神でもある。また、出雲で「八岐の大蛇(やまたのおろち)」を退治するのもこのスサノオであり、アマテラスが岩屋戸の中に一時身を隠すことになるのも、彼の仕業である。

ところでアマテラスという女神は、古事記の中で権力を行使することがついぞない。むしろ、力がないかのように人間的な弱々しさを露呈するばかり。それはまるで、天武天皇という強大な権力の跡を継いだ妻である女帝・持統天皇のようであり、スサノオは彼女を困らせる反対勢力のようにも受け取れる。



それでもアマテラスという存在がなければ世界は成り立たなかった。それを示すのが、天の岩屋戸神話。それはスサノオの狼藉に対するアマテラス無言の抵抗。

力がないと思われたアマテラスにも、いざ隠れられてしまうと、「世界にはあらゆる邪神の騒ぐ声が夏の蝿のように満ち、あらゆる禍が一斉に発生した」のである。

たとえ持統天皇が強い権力を持たずといえど、前代・天武天皇によって確立された「権威」ばかりはすでに、日本という国体を保持する上で欠くべからざるものとなっていたのであった。古事記の記すのは、日本という国の「権力」と「権威」は別々に存在するということである。その象徴がアマテラスであり、彼女には力はないが、明らかな権威があった。そして権力の方は有能な官僚らが握った。






◎国譲り



アマテラスという権威の元には、知恵の神「思金神(おもいかねのかみ)」や怪力無双の神「手力男命(たぢからおのみこと)」、そして出雲に国譲りを迫る「建御雷神(たけみかずちのかみ)」らが集っていた。

一方、弟スサノオが任せられたはずの地上世界は、勢いの強い神たちがてんでに暴れ回っており、事実上「出雲」を中心とした勢力が支配するものとなっていた。そしてその主は「大国主神(おおくにぬしのかみ)」という神であった。

アマテラスのいる天界からは、幾度か使者が出雲に遣わされるものの、彼らは帰って来なかったり懐柔されたりと全く意のままにはなってくれない。



そこで白羽の矢が立ったのが「建御雷神(たけみかずちのかみ)」。彼は、最後まで地上で抵抗していた「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と力比べをして、「信濃の諏訪湖」へと建御名方神を封じてしまう。

それを受けて、出雲の大国主神は地上の国を天界に譲ることになる(国譲り)。



現実世界では果たして、どのような熾烈な戦いが「国譲り神話」の陰に隠されているかは想像の域をでない。だが、いまも出雲や諏訪に独自の根強い信仰が残ることから考えても、それが万事スムーズに進んだとは考えにくい。古事記においても、何度も使者が派遣され(あるいは軍勢だったかもしれない)、2度3度とそれは失敗しているのである。

だが古事記は正確な現実を記すというよりも、国としての「理想」を示すという側面が強い。この点、「国譲り」は国の中央集権化にとっては理想の形であった。血を流さずに、それは話し合いで成されたことになっているのである。

さらに、その中央集権化は「公地公民」という割と緩やかなものであった。とりあえず「税と兵」を一本化できれば、それで他国による侵略の脅威はひとまず凌げたのである。具体的には「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という戸籍の成立によって、土地と人民が国家のものであるとされ、一定量の税と兵は中央政権に確保されたのである(690)。






◎軟化



国家改造という大望は、独裁的だった天武天皇の時代から、より穏便に反対勢力との融和を図ろうとする妻・持統天皇へと受け継がれたわけだが、天武天皇が半ば改革を強行したのに対して、妻・持統天皇は新制度を緩やかに旧体制にも戻している。

たとえば、天武天皇が廃止した大臣制度は持統天皇の時代に復活している。また、最大勢力であった出雲に対しては他地方では廃止された「国造(くにのみやつこ)」という特権が温存されることになる。



持統天皇の治世はいわば、アマテラスが他の有能な神々の意見を聴きながら国を治めたようなものである。

古事記の後の歴史書「日本書紀」は持統天皇をこう評する。「天皇は広い度量のお人柄であった。『まろやかな心』で国母の徳をお持ちであった」と。

アマテラスを囲んでいた有能な神々は、いわば持統天皇を補佐した「官僚たち」。それは藤原不比等らであり、持統天皇の権威の下、実際の権力は彼ら官僚が握っていたのである。



その融和的な持統天皇の跡を継ぐのは「文武天皇」。若干15歳、史上最若の天皇の誕生である。じつは天武天皇の指名していた皇太子は「草壁皇子」。だが彼は若くして夭折。その代わりに、まだ年端もいかぬ彼の息子・軽皇子が文武天皇となったのである。

これは全くの異例。当時、天皇になる資格の一つに「30歳」という年齢が数えられていた。ところが、持統天皇はその禁を破り、文武天皇を即位させたのである。

なぜか?

それは、壬申の乱のような大乱をふたたび繰り返してはならない、という国母としての切なる想いであった。






◎血統



女帝・持統天皇が生まれたのは、大化の改新の年(645)。それは父である天智天皇の成した大改革。その後、身をもって体験した骨肉の内乱「壬申の乱」。夫である天武天皇はその反乱者。この乱は反乱者が勝利するという類例の少ない形で幕を引いたわけだが、そもそも「大乱の因」は何だったのか?

それを持統天皇は「実力や能力による皇位継承」と見た。力のあった天武天皇は良しとしても、もし皇位継承のたびに「天皇にふさわしいか否か」を問うていたのでは、そのたびに乱が起きてしまう。ならば、実力能力の判定を捨て、それを「血縁」に依ろうではないかと持統天皇は考えたのである。



その結果が、15歳という史上最年少「文武天皇」の誕生であった。それは要らぬ乱を避けるための苦慮でもあった。

だが、それを世上に納得させるには少々工夫が必要だった。そこで登場するのが「天孫降臨」、アマテラスの地上世界を「瓊々杵命(ににぎのみこと)」に任せる古事記の名場面である。

もともと、天孫降臨の大役を任せられたのは「忍穂耳命(おしほみみのみこと)」。だが彼は土壇場でその大役を生まれたばかりの息子「瓊々杵命(ににぎのみこと)」に譲るのである。それはあたかも、予定されていた草壁皇子の思わぬ夭折によって、期せずして幼少の軽王子が新天皇となったかのように。



神話による「血統相続」の正当化。

それを古事記に織り交ぜたのは、「力に左右されない天皇制」を確固たるものにしたいという持統天皇の想い。そこには、力による争いに苦しめられてきた女性の悲哀が秘められていた。

持統天皇はさらに、異例にも存命中に文武天皇に譲位。権威を孫に譲ったあと、自らは最大の業績となる「大宝律令」の制定・施行に尽力。乏しくなっていた命の火を燃やすことになる。彼女が崩御するのは大宝律令制定のわずか2年後のことであった(703)。



律令国家、今でいう法治国家としての日本の礎は、持統天皇の大宝律令にはじまる。その成立には、持統天皇の権威の下で力をふるった藤原不比等ら有能な官僚たちが欠かせなかった。

万世一系の家系を世に認めさせたのもまた持統天皇。さらに、古事記に日本の国と民族の歴史、そして理想を明記したのもこの天皇であった。






◎やまと魂



だが、持統天皇が崩御すると、年若い文武天皇のもと、国はふたたび唐風になびきはじめることになる。

何より、権力を手中にしていた藤原不比等が、唐風の若き旗頭となっていた。彼には幸いなことに、権威である天皇はまだ若年。政治は不比等の意のままであり、ゆえに日本の唐風化は一気に進むこととなったのだった。

壬申の乱以降、停止されていた「遣唐使」は30年ぶりに復活(702)。持統天皇崩御後は、藤原京よりもさらに唐風の都「平城京」への計画が進められた。



そうした唐風化は日本の国際化にとっては必要なものであった。だが、それを苦々しげに眺める人も少なからずいた。その一人が文武天皇の跡を継ぐことになる「元明天皇」。文武天皇の母である。

若干15歳で即位した文武天皇は、その治世わずか10年足らずという儚さ(707)。若くして息子を失った母・元明天皇は、その失意のままに皇位を継承。うなだれたままに不比等らの平城京遷都を受け入れる。

「王侯大臣の言うことには拒否することができない…」



唐風官僚の勢いは今や、天武・持統朝の国風化を巻き戻さんと意気盛ん。そうして完成した平城京は、国風化を愛する人々の目には「唐かぶれの象徴」にしか映らなかった。

そんな中、元明天皇はその抑えられた大和魂を一心「古事記」に込めた。彼女が古事記の記述をあくまで「やまと言葉」にこだわったのは、そのためだと云われている。当時、正式な文章は「漢文」と相場が決まっていた。そこをあえて、元明天皇は国風の気概を「やまと言葉」に託したのである。

ちなみに、そうして生まれた万葉仮名という文字は、のちに日本独自の文字「かな」を生み出すことになる。



元明天皇は、その生涯を古事記の完成(712)に託したといっても過言ではない。元明天皇もまた持統天皇をならって生存中に皇位を譲ることになるのだが、それは古事記完成からわずか3年後のことであった(715)。

その譲位の際の詔には、周囲の力に苦しめられていただろう元明天皇の、その素直な気持ちが表れていた。

「次第に若さも衰え、政事にも倦んだ。さまざまな関わりを捨て、履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい。風や雲のようなとらわれない世界に身を任せたい」

女帝・元明天皇はその生涯、夫には早く死なれ、そしてまた息子にも先に旅立たれ、その治世も官僚らの思うまま。まことに疲れ多き人生であったかと思われる。






◎太安万侶



そんな元明天皇にとって乾坤一擲となった古事記。

その筆を執ったのは「太安万侶(おおのやすまろ)」という人である。

この人の父は「多品治(おおのほむじ)」といい、かの壬申の乱の折り、圧倒的劣勢であった大海人皇子(天武天皇)に真っ先に味方し、不破の道(美濃)を封鎖。東海道から東山道にかけての兵力を一手に集めたと云われている。



平城京の都華やかなりし時、その唐風文化の影で、太安万侶は黙々と古事記を書き記していた。その姿は、かつて劣勢でありながらも未来の姿を大海人皇子に見た父・多品治の生き写しであった。

そして父同様、太安万侶の古事記という功績もまた、日本の歴史に大きな楔を打ち込むことになるのである。



だが、その道のりは気が遠くなるほどに遠かった。

乾坤一擲の古事記の完成後、わずか8年にして新たな歴史書「日本書紀」にその神話を上塗りされたのである。

その日本書紀は、古事記に面と向かって対抗するかのように仕立て上げられている。古事記が「やまと言葉」で記されたのに対して、日本書紀は全文「漢文」。つまり外国語で書かれた日本の歴史であり、唐の風が色濃い仕上がりであった。






◎本居宣長



日本書紀ができると、日本の歴史はそれが正史となった。

ゆえに、古事記は歴史の表舞台からは消されてしまう。天皇家の家訓のような物語として古事記は残ったものの、その存在はおおよそ「公的」とは言い難く、「無視された歴史書」と成り果てるのである。



その虫の食ったような古事記を、装いも新たに世に問うたのは江戸時代の国学者「本居宣長」。彼が生涯を賭して記した「古事記伝」はその魂である。

その心は、かつての持統・元明、両女帝が「やまと」を愛した熱い想い以上に熱かった。本居宣長が再発火させた大和魂はのちに幕末の志士たちにも飛び火し、明治維新を起こすことにもつながる。








作家・長部日出雄氏は「本居宣長がもし古事記を読み解いていなかったら、消えてなくなっていたでしょう。やっぱり読むのが難しかったんですよ。ものすごく難しい」と言う。本居宣長をしても、古事記の注釈書を書き上げるのにじつに35年の歳月がかかっていたのである。

それでも土俵際で古事記は残った。

まるで奇跡のように、その神話は日本に残されることとなったのである。






◎日本人



古事記に込められた「日本」という国風への想い。争いに倦んだ果てにあった「平和」への希求。

その最初の登場人物となる神々は人間臭く相争い、そしてどうしようもない。とくに男たちの争いは釣り針一本にはじまることもあるしょうもなさである。その争いに巻き込まれる女性たちはその流れに翻弄され、そして時に命を落とす。

それは、古事記に関わった2人の女帝のみた世の浅ましさ、儚さだったのだろうか。アマテラスという皇祖神を女性とし、あえて無力としたのはそんな現実の投影、いやささやかな抵抗だったのかもしれない。



もしこの書によって天皇の権威を知らしめようとするならば、もっと万能な神々が登場してもよかったのかもしれない。だが、古事記に現れる神々は皆、人間の弱い心を持っている。誰一人として全能の神はいない。

むしろ清らかな心をもつ神ほど弱い。必ずといっていいほど誰かの助けが必要である。たとえば、出雲の大国主神は白いウサギに助けられる(因幡の白兎)。初代・神武天皇も一度は死んだようになるが、天から剣を遣わされ三本足のカラス(八咫烏)に助けられる。

強い神に限ってどうしようもない。八岐の大蛇を倒すほどのスサノオは宮殿でウンコをひり散らすのである。



そんな欠点だらけの神様たちの悲喜劇が、古事記であり天皇家の歴史であるわけだが、それがやはり日本的な感性であるのかもしれない。われわれは絶対的な一人の神様を必要としたわけではなく、むしろ色々な考え、能力をもった神様を必要としてきたのである。

アマテラスという神様は「水田と機織り」の神。すなわち農耕神、弥生時代の神様の象徴でもある。そして、その前の時代である縄文の神様はアマテラス以前、イザナギ・イザナミをさかのぼって描かれている。

神が神を生んでいくという古事記の話は、昔の時代を否定するものではない。むしろ前の時代があったからこそ今があるという発想が根底にある。この点、王朝交代のたびに前王朝を殲滅してしまうような中国の歴史とは大きく異なる。



日本の歴史上、女帝というのは10指に足らぬほどしか存在していないが、その内の2人(持統・元明)が古事記に関与している点は興味深い。

彼女らの受け入れる力があってこそ、古事記は懐の深いものとなったと思える。神も仏も受け入れる。漢字もやまと言葉も、縄文も弥生も。歴史書だって古事記と日本書紀、2つともあっていい。

まるで日本は「二本」、なんでもかんでも二本立て。その国の中心は決して一つではない。2つも3つも中心がある楕円のような国家であり、中心を増やそうと思えばいくらでも増やせる。多極というよりも多中心。日本の歴史で極に走ることは稀である。



日本人とは何か?

それを問う時、今の時代にも古事記の出す答えは的を得ているような気がする。

1,300年を経てなお色褪せない何かが、そこには描かれている…













(了)






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出典:NHK・BS歴史観
「古事記 国家統一の物語」
posted by 四代目 at 19:00| Comment(2) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 こういうところまで米国、英国、ドイツのエージェントがいるのか。いずれにしても日本力を支える日立安来の特殊鋼は不滅でしょう。
Posted by 島根県民 at 2016年09月16日 18:54
 まあ名古屋の特殊鋼流通の集まりでも、大同さんの品質バラツキ問題はよく話題になるが、日立金属材は精度、再現性が良好で非の打ちどころがないという話はよく聞きますね。
Posted by 金山松江 at 2016年11月14日 18:57
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