2013年07月08日

桜花と、ある飛行機乗りの最期。[永遠の0より]5



カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4からの「つづき」






大学生までが徴兵されるようになったのは、昭和18年(1943)頃からであった。

昭和18年といえば、日本軍がガダルカナル島の戦いに敗れ、山本五十六長官が戦死した年である。








当時の大学生というのは非常に少数のエリート。100人に一人が大学に行けるか行けないかの時代であった。ゆえに、そうしたエリートまで軍隊に送られることはそれまで考えられなかった。

だがその年、昭和18年(1943)は違った。全国の大学が空っぽになるほど大量の大学生が軍隊へと送られていった。その数10万を超えるともいわれる。

そして、この年よりいよいよ「国民皆兵の時代」に入ろうとしていた。






◎予備学生



「運命は皮肉なものだと思います。カミカゼ特攻隊の多くは、この年の学生たちから選ばれたのです」

そう語るのは、自身が予備学生だったという岡部昌男。予備学生というのは「大学出身の士官」のことである。



当時の大学生たちは頭が優秀だったゆえに、その多くが海軍の「飛行学生」とされた。

なぜかというと、飛行機の操縦というのは車の運転のように簡単なものではなく、操縦以前に覚えなければならないことも膨大にある。つまり、難解な試験をくぐり抜けた大学生たちの「豊富な知識と高い知性」が必要とされたのである。

「この点、大学生たちは手っ取り早く飛行機乗りに仕立て上げるのに『格好の素材』だったのです。そして私たちは『速成の特攻用パイロット』として作られていったのです」と岡部は言う。



第二次世界大戦、カミカゼ特攻らで命を失った人々の数は4,400人以上。

その半分近くが、そうした予備学生出身のパイロットだったという。






◎宮部教官



「飛行訓練は過酷でした。2〜3年はかかる訓練を一年足らずでやらなければならないのです。とにかく軍としても一刻でも早く飛べるようにして、特攻で使えるようにしなくてはいけませんでしたから」と岡部は話す。

「私たちは空戦のやり方も爆撃のやり方も教えられませんでした。そんなものを教えても全くの無駄だからでしょう。私たちはただ爆弾を抱いて、敵艦にぶつかるだけなのですから」



岡部を教えた教官の名は「宮部久蔵」といった。彼がやってきたのは昭和20年(1945)、終戦の年の初めの頃だった。

「第一印象はハッキリ覚えています」と岡部。「全身に異様な空気を漂わせていました。死線を超えたという凄みがありました」。

聞くところによると、宮部という教官は真珠湾攻撃にも参加した歴戦の凄腕パイロットで、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島など、すべての激戦地の空を生き抜いてきた男だという。



だが、宮部教官が戦地風を吹かせることはまずなかった。

「華々しい話や手柄話はまったく言わない人でした。そして、私たちにはいつも丁寧な言葉で話す人でした」と岡部は言う。

当時、教官が怒鳴る蹴るは当たり前だったというが、宮部教官は学生たちに大きな声を上げることすら一度もなかったという。



だが、その静けさとは裏腹に、学生への評価は極めて厳しかった。

宮部教官は、よほどの腕がないと学生に「合格点」を与えない。いつも「不可」ばかりをつけるのだった。ゆえに、予備学生たちからの評判はすこぶる悪い。

ある学生はこう愚痴っていた。「戦地帰りの目から見れば、オレたちなどまだまだヒヨッコと言いたいのだろう。ありゃあ、戦地風を吹かすよりもタチが悪いぜ」






◎不可



宮部という教官が来てからというもの、ガクッと学生たちの訓練ペースが落ちた。宮部教官は頑として学生たちに「不可」をつけ続けたからだ。

それに焦りを感じたのは学生たちよりも、むしろ海軍の方だった。即席のパイロットが大量に必要なのである。そのため、上官の命令により宮部による採点は禁じられ、以後宮部は訓練のみに専念することとなった。

実技には厳しい目をもつ宮部だが、たまに「上手くなりました」と学生に言うことがあった。だが、その時の彼は露骨に嫌そうだった。



ある時、イヤイヤ褒められた岡部は宮部教官に問い質した。「本当は下手くそと思ってるんですか?」と。

すると宮部はこう答えた。「正直に言いますと、岡部学生の操縦は全然ダメだと思っています。わたくしは戦場で、多くの若いパイロットが十分な訓練を積めないままに実戦に投入されてきたのを見てきました。そして、彼らのほとんどは初陣で戦死しました」

宮部は続ける。「私は飛行隊長にもそのことを言いました。しかし分かってもらえませんでした。逆に、もっと合格点をつけるように言われました。とにかく今はパイロットが足りない。だから一人でも多くのパイロットが欲しい、と」



宮部は自分の教え子たちが上達していく様を、悲しそうな目で見ていた。

「上手くなった者から、戦地へやられます…」と宮部はつぶやく。

「わたしにとっての訓練は、生き残るための訓練でした。しかし皆さんは違います。ただ死ぬためだけに訓練させられているのです。それなら、ずっと下手なままがいい…」






◎人間爆弾



岡部には、生涯忘れらない訓練があった。

「私は80年生きていますが、後にも先にもあれほど恐ろしい体験をしたことはありません」と彼は言う。



それは「桜花(おうか)」という特攻兵器の操縦訓練だった。

「桜花は人間が操縦するロケット爆弾です。飛行機ではありません。本当に爆弾なのです」と岡部は言う。

「桜花」は自力で飛び立つこともできず、また着陸することもできない。ただ、爆撃機にブラ下げられて飛び、敵艦の上に落とされるだけだった。



ならば、何の訓練がいるのか?

「高空から凄まじい速度で落下し、地上付近で水平飛行する訓練です」と岡部は言う。

爆撃機の下にコバンザメのように付けられ、敵艦上空まで運ばれたという人間爆弾「桜花」。落とされた後は、パイロットが誘導して敵に体当たりを食らわせる。

つまり、落とされたら最後、パイロットは死ぬしかない。桜花というその名の通り、散るしかない運命だったのである。まったく「桜花」はかくも「非人間的な兵器」であった。



その「落とされるだけの訓練」で、多くの学生たちが命を落としたという。

「多くの者が着地に失敗して亡くなりました」と岡部は言う。「水平飛行ができずに地面に激突する機体。滑走路を大幅に超えて土手に激突する機体。着陸用のソリが滑走路との摩擦で炎上する機体…」










◎落下訓練



「私もやりました」と岡部。「本当にあの訓練は恐ろしさを通り越したものでした。あの恐怖は忘れられません」

まずは爆撃機「一式陸攻」に乗って上空へと向かう。そして、上空で一式陸攻の床を開き、下に吊るされている「桜花」に飛び移らなければならない。猛烈な風圧に吹き飛ばされそうになりながら。

「もちろん命綱などありません。もしこの時に落ちれば、命はありません」と岡部は言う。



「しかしその時の恐怖さえ、落下する時の恐ろしさに比べたら何ほどのものでもありません」と岡部。

母機である一式陸攻から切り離された「桜花」は、自然落下のモノ凄い勢いで300mくらい落ちていく(時速1,000km以上)。

「そのマイナスG(加速度)は強烈で、頭に体中の血が昇り、口から内臓が飛び出しそうな感じになります。気を失いそうになるのを必死でこらえ、渾身の力を込めて操縦桿を引き、機体を立て直して目標に向かって滑空します。そして地面ギリギリでさらに引き起こし、今度は水平飛行に移るのです」と岡部は話す。



猛スピードで落下していく時のマイナスG、そして水平飛行に移った時の「これまた想像を絶するほどのG(水平時最高速度およそ時速650km)」。

「そのGで、目の前が真っ暗になりました。あやうく失神するところでした」と岡部は言う。「おそらく訓練で亡くなった友人たちは、その時、失神してしまったのかもしれません…」。

車輪もなしに下部に取り付けられたソリだけで着地した時の衝撃も凄まじかったという。まるで体ごと地面に叩きつけられるように。






◎野中五郎



桜花を吊って運ぶ爆撃機は「一式陸攻」。この一式陸攻はアメリカ軍に「ワンタッチ・ライター」と馬鹿にされるほど、一発で撃墜しやすかった。かの山本五十六長官が撃ち落とされたのもこの機である。

岡部は説明する。「桜花一機の重量は2トン近くあります。一式陸攻が桜花を吊るして飛べば、スピードはまったく出ず、まさに撃ち落としてくれといわんばかりの状態になります」と。

つまり、桜花が特攻する時、一式陸攻の乗員7人を含めた「最低でも8人」が同時に犠牲になったのである。



自ら飛行できない桜花を敵艦上空に運ぶため、一式陸攻は敵艦30kmにまで近づかなければならない。その間、一式陸攻は敵戦闘機の攻撃にさらされる。

「桜花を抱いた一式陸攻が艦隊30kmまで近づけるということは万に一つもありません。桜花を考えた人たちは航空戦の実態も知らない人だったのでしょう…」と、岡部は悔しそうに言う。



万に一つも成功しない特攻「桜花」。

最初の出撃命令は昭和20年(1945)3月。現場の指揮官であった野中五郎は猛烈に反対した。だが上官に強行を強いられ、野中は部下の代わりに自らが桜花に乗り込み出撃。

そして、その時に出撃した一式陸攻18機、桜花15機は全滅。ゼロ戦の護衛すらろくに付けられていなかった。



死んだ野中の口癖は「野郎ども、いっちょやってやろうじゃねぇか」。

そんな親分肌の野中は、部下だけをこの作戦に行かせるのが忍びなく自らがその無謀な任務を買って出た。野中の部隊は「野中一家」と呼ばれるほどに、部下たちは野中に大事にされていたのである。



「野中少佐は自分の命を捨てて、上層部に『馬鹿な作戦』だということを教えようとしたのかもしれません」と岡部は言う。

だが、「野中一家」が全滅したにも関わらず、その後も「桜花」を積んだ神雷部隊は何度となく出撃を命じられていく。そして当然ながら、そのほとんどが敵艦の上に達することもできず、母機である一式陸攻とともに撃墜されたという。

「桜花の戦死者は150人以上。桜花を中心とした神雷部隊の戦死者は800人以上です」と岡部は言う。純粋な特攻兵器として「桜花」は世界唯一の存在といわれ、終戦までに755機が製造されている。










◎ BAKA-BOMB



「私が桜花の訓練をした神ノ池基地は今、桜花公園という公園になっているそうです」と岡部は言う。「そこに桜花も陳列してあるとか…。しかし私は二度と桜花を見たくありません」。

思い起こしたくもなかった桜花の記憶。だが、皮肉にも岡部はその桜花をかつての敵国アメリカで目にしてしまう。

「スミソニアン博物館で偶然目にしたのです。桜花は天井から吊るされていました。あまりの小ささに驚いたのを覚えています」と岡部は言う。



「そしてそれ以上に衝撃的だったのは、そこに付けられていた名前です。何と書かれていたかわかりますか?」

「バカボムです。BAKA-BOMB、すなわちバカ爆弾です。私は息子夫婦が隣にいるにも関わらず、声を上げて泣きました。悔しくて、情けなくて…!」



いくら泣いても岡部の涙は止まらなかった。

「BAKAとはそのものズバリだったのです。特攻作戦そのものが、狂った軍隊の考えた史上最大の『バカ作戦』だったのです」

「そんなバカ作戦で死んでいった戦友たちが…、ただただ…、哀れで、哀れで…。涙が止まらなかったのです」

そのことを思い出すたびに涙が止まらなくなるという岡部は、80歳の顔をクシャクシャにしてボロボロと涙をこぼすのであった。








特攻作戦を提案したのは大西瀧治郎といわれている。

だが、彼の提案は昭和19年(1944)10月。純然たる特攻兵器「桜花」の開発の後である。新兵器の開発は軍の方針なしにできるものではないことから、彼はスケープゴートにされたのではないかという説もある。

それでも「特攻の父」大西瀧治郎は、終戦の日に切腹して死んだ。彼は死ぬまで言い訳はしなかったと云われている。










◎志願



すべての飛行訓練を終えた夜、岡部には「一枚の紙」が渡された。

そこには「特攻隊に志願するか」という質問が書かれていた。



岡部はその時の心境をこう語る。

「私は予備学生として入隊した時から『死ぬ覚悟』はできていました。ただそれはあくまで命を賭けて戦った結果としての死でした。『必ず死ぬ』と決まった特攻に志願すること、その衝撃は自分の覚悟をはるかに超えるものでした」

一晩かかり、ようやく明け方近く、岡部は「志願します」という項目に丸印を書き入れた。

「名前を書く時に、文字が震えないように気をつけたのを覚えています」と岡部は言う。



しかし、何人かの飛行学生は「志願しない」と書いたらしい。だが、そうした学生たちは個別に上官に呼ばれ、最終的には皆、志願すると書かされたという。

結局、「志願する」と書いても、「志願しない」と書いても同じだったのである。



時は大戦最末期、沖縄戦では日本海軍の「虎の子」であった戦艦「大和」までが特攻まがいの作戦に駆り出されていた。

「『大和』の出撃は絶望的なものでした。沖縄の海岸に乗りあげて『陸上砲台』としてアメリカ軍を砲撃するという荒唐無稽な作戦のために出撃させられたのです。つまり『大和』もまた特攻だったのです」と岡部は言う。

当然、そんなことは出来得るはずもなかった。戦艦「大和」はその沖合いで海の藻屑と消えるのである。乗組員3,300人とともに。










◎生への執念



「連合艦隊の誇りとも言うべき『大和』でさえ特攻で捨ててしまう作戦をする軍が、予備学生を使い捨てることに躊躇するはずもありません」と岡部は言う。

「あの時代に選択の余地はありませんでした。軍部は特攻隊を志願しない者を決して許さなかったでしょう」



そんな諦めの空気の中でのことだった。岡部が宮部教官のウワサを聞いたのは。

「噂だが、宮部教官はフィリピン島で特攻を拒否したらしい」

それは、岡部にとってトンでもない驚きだった。ほとんど命令だった特攻を志願しないどころ、拒否するとは!



ほどなく、宮部は九州へと移ることになる。

その去り際、宮部教官は急に恐ろしい顔になって、こう言ったという。

「わたくしは絶対に死にません!」

それは、本音を微塵も見せることを許されぬ時代にあって、凄まじいまでの生への執念であった。






◎別人



だが無常にも宮部は行った先の九州で、カミカゼ特攻隊に選ばれることになる。

この大戦末期、宮部のような熟練パイロットが選ばれることは異例のことであった。しかも、あれほどまでに生に執着していた男が…。



特攻隊に並ぶ宮部の顔は、まるで別人のようであったと人は語る。

「なんというか…、半ば死人の顔だった。頬はこけ、無精ヒゲが生え、血走った目だけが異様に光っていた」

いつもは品のいい宮部が、無精ヒゲをそのままにしておくことなど以前はなかった。ましてや、全身から殺気をほとばしらせている今の姿は、まるで異形の者のようであった。



末期の水杯を交わした後、宮部を含む特攻隊員たちはゼロ戦へと向かって行く。

意外なことに、宮部の乗ったゼロ戦は最新の「五二型」ではなかった。ずっと古い「二一型」。真珠湾の頃のポンコツである。

どこに、なぜそんな古いゼロ戦が残っていたのか?










◎ツー



爆音とともに空に飛び立った宮部の古いゼロ戦。

その後は、通信室に届くモールス信号だけがその便りであった。

トン・ツーの打電のうち、「ト」の連続が「敵戦闘機見ユ」、そしていよいよ敵空母への突入の際は「ツー」の超長符が打たれる。それは「ワレ、タダイマ突入ス」の合図である。



「私はその『ツー』の音を聞くと、背筋が凍ります」と、かつての通信員であった大西は言う。

「その音はパイロットたちが今まさに命を懸けて突入している印なのです。彼らは体当たりの瞬間まで電鍵を押し続けるのです。しかも、電信機は右側にあるため、それを打つには左手に操縦桿を持ち替えなければなりません。今まさに死のうとする極限状態にありながら、彼らは最期まで任務に忠実であろうとしたのです…」

そして、その「ツー」の音が消えた時、パイロットの命も消えているのであった…。



だが、最後の「ツー」の合図が押せない無念のカミカゼが何機もあった。

それは、アメリカ空母に近づく前に撃ち落とされてしまうからだった。悲しくも、敵空母にまでたどり着けるカミカゼはほとんどいなかったのである。



そしてついに宮部機からも信号が入った。

「ト、ト、ト、ト」

どうやら敵を見つけたようであった。だが、いかに宮部が凄腕のパイロットであろうと、ポンコツの二一型ゼロ戦で敵艦にまで至ることができるかは確かなことではなかった。

この沖縄戦で2,000機以上の「ト」の打電が打たれてきたが、最後の突入信号である「ツー」にまで変わるのを大西が聞いたのは数えるほどしかなかった。



「その成功率のあまりの低さに暗澹とした気持ちになっていました」と大西は当時を思い返す。

アメリカ軍は新開発の優れたレーダー、そして敵機に当たらずとも爆発する「近接信管(マジック・ヒューズ)」という新型砲弾に完璧に守られていた。その鉄壁の防御の前に、命を懸かけたゼロ戦はゲームのように撃ち落とされていたのである。

かつてマリアナ沖海戦において、ゼロ戦を落とすのは「七面鳥撃ち」と嘲(あざけ)られるほどに容易なものであったらしいが、ここ沖縄戦に至ってはハエが叩き落されるようにカミカゼは海に散っていた。










◎悪魔



だが、宮部が操縦桿を握ったゼロ戦ばかりは違った。その機体の古さなど関係なかった。むしろ二一型は宮部が真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナルと運命をともにしてきた愛馬のようなものだった。

宮部機はアメリカ空母に「真後ろ」から迫っていた。しかも、近接信管を搭載した砲弾が誤作動を起こす「海面スレスレ」を。

まさかのゼロ戦接近にアメリカ砲兵らは取り乱し、しゃにむに砲を撃ちまくる。だが、一発も当たらない。自慢の近接信管は海面で電波を反射して、すぐに爆発を起こしてしまうのだった。



「悪魔だ…!」

それは人間業とは思えなかった。何千発もの対空砲火がまったく当たらないのである。その一機のゼロ戦の機敏さに。

「今までのカミカゼとは違う! 奴は本物だ! 本物のエース・パイロットだ!」

それまでに来たカミカゼは皆、素人が乗っているとしか思えないような挙動しか見せなかった。だが、この古いゼロ戦ばかりは全く違う。相当な熟練パイロット、撃墜王が乗っているとしか考えられなかった。



意表を突かれた砲兵たちは、誰もその鋭い動きについていけない。

「速い! 速すぎる!」



アメリカ兵たちがこのゼロ戦の異様さに気づいた時にはもう遅かった。

その悪魔のようなゼロ戦は、最後の最後で火を噴きながらも急上昇。

空母の真上から、鷹のように獲物をとらえていた。



その時、通信室には「ツー」の信号が鳴り響く。

宮部機、突入ス…













宮部久蔵 昭和20年(1945)8月

南西諸島沖にて永眠。26歳。

それは終戦の、わずか数日前のことだった…






(完)












関連記事:

真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1

ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2

カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍のレーダー [永遠の0より]3

カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4から



出典:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹

posted by 四代目 at 04:14| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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