2013年06月30日

真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1



「着いたところは、北海道・択捉島の単冠湾(ひとかっぷ・わん)です。11月のオホーツク海は非常に寒かったのを覚えています」

時は日米戦争の開戦直前。

空母「赤城(あかぎ)」の搭乗員・伊藤寛次は冷たい霧の中、連合艦隊の多くの艦艇が海に居並ぶ、その壮観さを眺めていた。



11月26日、全空母から搭乗員全員が集められると、飛行隊長はこう言った。

「宣戦布告と同時に、真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃する」

搭乗員たちの間には一斉に緊張感がみなぎる。



当時は日中戦争の真っ只中で、中国一国にも手を焼いている状況。だが、同盟国ドイツはすでにイギリスと戦争状態に入っており、日本もいずれ英米と戦うかもしれないという空気はあった。

「来るべき時が、いよいよ来たか」

伊藤寛次は、真珠湾攻撃に臆することはなかった。「憎っくきアメリカに一泡吹かせてやる」と心中期していた。










◎真珠湾



「12月8日、私は夜明けとともに発艦し、艦隊上空を哨戒しました」

伊藤は悔しくも、攻撃隊の名簿に自分の名前を見つけることができなかった。彼の任務は艦隊の直衛。敵の攻撃機から母艦を守るために艦隊上空を哨戒して護衛するというものだった。



「それからまもなく、第一次攻撃隊が飛び立っていきました。私は編隊に敬礼して見送りました」

作戦中、伊藤の守る母艦上空に敵機はついに現れず、彼は一度も戦うことがなかったという。



「ご存知のように、真珠湾の奇襲は完全に成功しました。史上初の『航空機だけによる艦隊攻撃』は、戦艦5隻沈没ないし着底、3隻大破。基地航空機200機以上撃破という空前の成果を挙げました」

真珠湾攻撃は日本の大勝利。29機の未帰還機と55人の犠牲しか出さなかったという。

「真珠湾攻撃が大成功に終わった直後は、乗員もわれわれ搭乗員も大変なお祭り騒ぎでした」



だが、攻撃参加したある飛行機乗りは、静かにこう言った。

「真珠湾にいたのは、戦艦ばかりでした…。いずれアメリカの空母はわれわれを襲ってきます。そのためにも、空母をやっつけておきたかったです」










◎空母



「空母」というのは、飛行機を積んだ軍艦。艦全体が「小さな飛行場」のようになっていて、飛行機が発着できる(正式名:航空母艦)。

空母は戦艦に比べて速力があり、機動性に富む。そのため、空母の部隊は「機動部隊」と呼ばれていた。



それまでの長い間、世界は「大艦巨砲主義」の時代で、海戦というものは「戦艦同士の戦いで決着がつく」と考えられていた。戦艦こそが史上最強の兵器であり、制海権を得るには強大な戦艦が是非にも必要だと考えられていたのである。

江戸時代末期、日本に開国を迫ったアメリカの黒船がそうであったし、ロシアと戦った日露戦争において、日本海海戦を制したのは日本の軍艦だった。










一方、空母の登場は第一次世界大戦の後。その頃の空母の役割は「補助的なもの」に過ぎなかった。というのも、搭載される飛行機はまだ複葉機であったため、戦艦などの大型艦を沈めることがまず不可能だったのである。

ところがその後、航空機は日進月歩の進化を遂げ、空母の戦力は一気に増大することになる。



「これを世界に証明したのが、開戦劈頭の真珠湾攻撃です。航空機の攻撃だけで戦艦を一挙に5隻も沈めてしまったのです」と伊藤は言う。

「この瞬間、何百年もの間、制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです」






◎ゼロ戦



空母の戦力を飛躍的に高めたのは、日本の開発した「ゼロ戦」という当時最新鋭の戦闘機であった。

「ゼロ戦」という名は、日本建国以来の暦である「皇紀」に由来する。

「ゼロ戦が正式採用になった皇紀2,600年の末尾のゼロをつけたのですよ」と伊藤は語る。「ちなみに、その前年の皇紀2,599年に採用になった爆撃機は九九艦上戦闘機、その2年前に採用になった攻撃機は九七艦上攻撃機です」。










ゼロ戦の正式名称は「三菱零式艦上戦闘機」。正式採用になった皇紀2,600年というのは、昭和15年、西暦1940年のことである。伊藤寛次が空母「赤城」の乗組員になったのは、その翌年春のことだったという。



「これは日本が真に世界に誇るべき戦闘機です。何より格闘性能がズバ抜けていました。それに速度が速い」

格闘性能とは旋回と宙返りの能力。ゼロ戦の回転半径はほかの戦闘機の半分以下、恐ろしく小回りのきく戦闘機だった。そして速い。おそらくは当時、世界最高速である。



本来、戦闘機において「小回り」と「スピード」は相矛盾するものであった。小回りがきく飛行機ほど遅く、スピードの速い飛行機ほど小回りがきかなかったのだ。

「しかし、ゼロ戦はこの2つを併せ持った『魔法のような戦闘機』だったのです。堀越二郎と曽根嘉年という情熱に燃える2人の若い設計者の血の滲むような努力がこれを可能にしたと言われています」と伊藤は語る。










さらにその「航続距離」もケタ違い。

「3,000kmを楽々と飛ぶのです。当時の戦闘機の航続距離はだいたい数100kmでしたから、3,000kmというのがいかに凄い数字か想像つくでしょう」

当時、ドイツ空軍の誇るメッサーシュミットでさえ、わずか40km幅のドーバー海峡の往復に燃料を食われ、イギリス上空では数分間しか戦闘できなかった。

「ゼロ戦なら、ロンドン上空で一時間以上戦うことができたでしょう。こんな仮定は馬鹿げてますが、もしドイツ空軍がゼロ戦を持っていたら、イギリスを攻め落とすことができたでしょう」と伊藤は言う。










太平洋という広大な舞台で戦うことを想定されたゼロ戦には、それほどの航続距離が必要であった。海の上での不時着はそのまま死を意味するのだから。それは広大な中国大陸上空とて同じことである。

「名馬は千里を走って千里を帰ると言いますが、ゼロ戦こそまさに名馬でしたな」と伊藤は誇る。



卓越した格闘性能、高速、そして長大な航続距離。ゼロ戦はそのすべてを兼ね備えた「無敵の戦闘機」であった。さらに驚くことは、ゼロ戦が陸上機ではなく、狭い空母の甲板で発着できる「艦上機」ということである。

それが、日本の機動部隊(空母部隊)の威力を絶大なものとしたのであった。

「当時、工業国としては欧米になるかに劣ると言われていた日本が、いきなり世界最高水準の戦闘機を作り上げたのです」と伊藤はますます誇る。










◎だまし討ち



「真珠湾では残念なことがありました…」

伊藤が悔しがるのは、日本の宣戦布告が遅れてしまったことである。

「われわれの攻撃は、宣戦布告なしの『だまし討ち』になってしまったのです」



計画段階において、真珠湾攻撃は宣戦布告と同時に行われるはずであった。だが、そうはならなかった。

「その原因というのが、前日にアメリカ大使館職員たちが送別会か何かのパーティーで夜遅くまで飲んで、そのために翌日の出勤に遅れたからだといいます」

当日、宣戦布告の暗号をタイプするのにも手間取ってしまった大使館職員。それをアメリカ国務長官に手交する前に、真珠湾攻撃が始まってしまっていたのだった。



当時のアメリカ世論は、日本との戦争に反対だったという。だが、真珠湾攻撃が「卑怯なだまし討ち」になったことにより、アメリカの世論は急転回。

「『リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)!』の掛け声とともに、一夜にして『日本撃つべし』と変わり、アメリカ陸海軍には志願者が殺到したということです」










大きな「戦略」を狂わせた真珠湾。さらに局地的な「戦術」においても、大成功とは言えない部分があった。

「それは、第三次攻撃隊を送らなかったことです」と伊藤は話す。

「我が軍はたしかにアメリカ艦隊と航空機を撃滅しましたが、ドックや石油備蓄施設、その他の重要な陸上施設を丸々無傷で残したのです」



もし、それら施設まで完全に破壊しておけば、ハワイは軍事基地としての機能を完全に失ってしまうはずだった。それはすなわち、太平洋の覇権が日本のものになるということでもあった。

「飛行隊長たちは第三次攻撃を具申しました。しかしそれは受け入れられませんでした。司令長官・南雲忠一中将は『退却』を選んだのです…」と伊藤は今更のように悔しがる。










◎太平洋制圧



南雲忠一長官率いる機動部隊(空母部隊)はその後、太平洋を席巻する。

「南はニューギニアから、西はインド洋まで、まさに縦横無尽の暴れぶりでした。『半年間は存分に暴れ回ってみせます』と山本五十六長官が語ったといわれるように、まさに無敵の戦いでした」

南雲艦隊は、空母とゼロ戦の圧倒的な力によって太平洋を制圧したのだった。



多くの敵艦隊を沈めるゼロ戦。ゼロ戦が守る日本の空母に、敵機は指一本触れることができなかったという。

「当時、ゼロ戦に勝てる戦闘機はありませんでした。格闘戦では絶対に負けなかったのです」と伊藤は言う。



「また、攻撃隊の技量も入神に近いものがありました。インド洋でイギリスの艦隊を沈めた時、急降下爆撃隊の命中率は90%近かったのです。これは急降下爆撃隊としては驚異的な数字です」

真珠湾の2日後にも、日本の航空部隊はマレー半島沖でイギリスの誇る東洋艦隊を沈めている。これは、英首相チャーチルをして「第二次世界大戦でもっともショッキングな事件だった」と言わしめた海戦である(マレー沖海戦)。

真珠湾にあった戦艦と違い、イギリスの最強戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、完全に戦闘状態にあった。それでもなお、この2つの戦艦は日本の航空機攻撃により撃沈されたのである。










「この海戦で、護衛戦闘機を持たない戦艦は『航空機の餌食』になることが証明されました。もはや日露戦争のような戦艦同士の艦隊決戦は起こり得ない。真の艦隊決戦は『空母同士』の対決となったのです」と伊藤は言う。

当時、日本の正規空母は「6隻」。対するアメリカは「5隻」。

「我々はいつの日か戦うことになるであろう『空母同士の決戦』に、腕を撫していました」と伊藤。

そして、その機会は日米開戦から半年後にやってくる。






◎空母決戦



「昭和17年(1942年)5月、ニューギニアの『ポートモレスビー攻略作戦』で、我が軍の空母とアメリカ軍の空母が正面から激突したのです」

世界海戦史上、はじめての「正規空母同士の戦い」、珊瑚海海戦。

「ちなみに今日まで、空母 vs 空母の戦いは日本とアメリカ間以外にありません」と伊藤は言う。



日本の空母は「翔鶴(しょうかく)」と「瑞鶴(ずいかく)」。

対するアメリカは「レキシントン」と「ヨークタウン」。

史上初の空母対決を制したのは日本海軍。

「この珊瑚海海戦では、我が方は『レキシントン』を沈め、『ヨークタウン』を大破せしめました。損害は『翔鶴』が中破のみで、『瑞鶴』は無傷でした」と伊藤は語る。










当時、「翔鶴」と「瑞鶴」は「五航戦(第五航空戦隊)」と呼ばれ、「搭乗員の腕がやや落ちる」と言われていた。

日本最強の技量を誇ったのは「一航戦」。伊藤の乗る空母「赤城」と同「加賀」である。それに次ぐのが「二航戦」である「飛龍」と「蒼龍」。

誇り高き一航戦と二航戦の乗組員たちは、「チョウチョウ、トンボも鳥ならば、五航戦も鳥のうち」と戯れ歌を歌いながら、腕の落ちる五航戦をからかっていたという。



ところが、珊瑚海海戦においてはその五航戦「翔鶴」と「瑞鶴」ですら、アメリカの空母部隊を圧倒したのである。

「それで珊瑚海海戦のことを聞いた私たち一航戦の搭乗員たちは、『オレたちなら、アメリカ空母を2隻とも沈めてやったのに』と口惜しがったものです」と伊藤は思い返す。

そして、五航戦の赫々たる戦果に伊藤らの気持ちは高まらざるを得ない。

「早く我々も、敵空母と一戦を交えたい!」



その機会は、思ったよりも早くやってきた。

一ヶ月後の1942年6月。

「そうです。ミッドウェー海戦です」










◎驕れる者たち



「この戦いはあまりにも有名ですね。結果は日本軍の空母4隻が一挙に沈められました」と伊藤は淡々と話す。

その4隻とは、日本海軍の誇った一航戦と二航戦の4隻。すなわち「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」すべてである。

「戦後になって、ミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で呼んで知りました。すべては『わが軍の驕り』にあったようです」と伊藤は言う。



真珠湾の時はあれほど秘された情報も、ミッドウェーではアメリカ軍に「筒抜け」であった。日本軍の暗号が解読されていたのである。

珊瑚海海戦の勝利もあって、日本海軍には楽勝気分が蔓延。

ある司令が「ミッドウェーで敵空母がやって来たらどうする?」と尋ねたところ、航空甲参謀の源田実は「鎧袖一触です」と答えたという。鎧の袖が触れただけで、一撃で敵を打ち負かすというのである。



ミッドウェー島には、日本軍の暗号を知ったアメリカ軍が手ぐすね引いて待ち伏せしていたというが、それは日本軍の望むところでもあった。

「もともとミッドウェー島の攻略作戦は、アメリカの空母をおびき出して撃滅する目的が含まれており、逆に言えば、まんまとアメリカ空母がやって来たというわけです」と伊藤は言う。

驕れる日本軍は後手後手に回っており、ハワイ沖にアメリカ空母の出撃を知らせる潜水艦部隊を配置してのは、すでに米空母がハワイを出た後だったという。



「あの日はまさに海軍にとって、いや日本にとって最悪の日でした。もちろん、それ以上に酷い敗北はその後何度も繰り返されました。しかし、すべてはあのミッドウェーから始まったのです」と伊藤は語気を強める。










◎索敵



「空母同士の戦いは『索敵』で決まります」と伊藤は言う。

「索敵」とは、敵を探し出すこと。

「広い太平洋上、敵よりも一秒でも早く発見し、攻撃をかける。それこそが空母の戦いです」



海戦史上初の空母決戦となった「珊瑚海海戦」においても、「索敵」が勝敗を分けたともいわれる。

空母「翔鶴」の偵察機は敵空母を発見した時、その燃料はギリギリだったという。即座に敵空母の位置を知らせた後、その偵察機は帰路につく。

だが、発進した味方の攻撃部隊の姿を空に見つけると、偵察機は急遽反転。味方攻撃隊を確実に敵空母まで誘導したのだという。



もちろん、その偵察機に燃料はもうなかった。すなわち、自分たちはもう生きては帰れない。

「その偵察機の機長は菅野兼蔵という人です。同機の操縦員は後藤継男、電信員は岸田清治郎でした。3人は味方攻撃隊の必勝を願って、自らの命を捨てたのです」と、伊藤は涙ながらに話す。

彼ら3人の死を、攻撃隊は決して無駄にはしなかった。その索敵と誘導のおかげで、珊瑚海海戦は日本軍の大勝利に終わったのである。



そして今回、ミッドウェーにおいては彼ら五航戦よりも更に強い「一航戦」と「二航戦」が出撃している。

「負けるはずはないと思うのは当然でしょう」と伊藤は言う。

ちなみに、「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦はミッドウェーには参加していない。「瑞鶴」などは無傷だったにも関わらず。



一方のアメリカ、珊瑚海海戦の大敗で大破していた「ヨークタウン」を、わずか3日間の応急修理をもってミッドウェー海戦に参加させていた。艦内に多数の修理工員を乗せたままで。

「われわれはアメリカ人というものは『陽気なだけの根性のないヤンキーたち』と思っていましたが、そうではなかったのです。彼らにはガッツというものがありました」と伊藤は語る。

驕れる日本に対し、アメリカはあくまで必死であった。満身創痍の米空母「ヨークタウン」のハルゼー提督は、「たとえ沈められてもミッドウェーに参加させる」と意気込んで来ていたのだ。










◎魚雷と爆弾



「待機所で休んでいた時、突然、攻撃機の魚雷を陸上用爆弾に換装が始まったのです」と伊藤は言う。

攻撃機の魚雷は敵空母を叩くため。だが、索敵状況から周辺にアメリカ空母はいないと判断され、急遽、ミッドウェー島の陸上攻撃にターゲットが切り替えられた。そのための換装、陸上用爆弾への付け替えだった。

「今にして思えば、これが第一の油断です」と伊藤は振り返る。



魚雷を爆弾に付け替えるのは大仕事。「靴を履き替えるようにはいかない」と伊藤は言う。

「リフトで一機ずつ攻撃機を格納庫に降ろして、そこで魚雷を外し、爆弾に付け替え、再びリフトで飛行甲板まで上げるという作業の繰り返しです。飛行機は数十機もあります」

しかも、モノは魚雷と爆弾。おろそかには扱えない。雷装から爆装へのすべての換装が終わるのに、2時間以上もかかったという。



皮肉にも、索敵機が敵空母を発見するのは、その換装を終えた直後であった。

「いよいよ来たか!」と伊藤は身構える。

ところが、飛行甲板上の攻撃機には陸上攻撃用の爆弾が付けられてしまっているではないか。

「何という、間の悪いことでしょう!」



ふたたび、艦船攻撃用の魚雷への雷装を命じる「南雲忠一」司令長官。

ミッドウェー作戦の最大の目的は、アメリカ空母をおびき寄せ、一気に殲滅することにあった。アメリカ軍を空母なきものとしてしまえれば、太平洋に敵がいなくなるのと同じことであった。

「そのためにも、一撃で米空母を葬り去ることができる雷撃、つまり魚雷による攻撃は絶対に必要だったのです」と伊藤は話す。



なんと、南雲中将は「兵法としては最も慎むべき戦法」である「二方面作戦」を行なってしまっていた。

最大の目的はアメリカ空母の殲滅になりながら、ミッドウェー島の爆撃をも欲張ってしまっていたのである。










◎敵機!



一斉に爆弾から魚雷への転換を始める全空母。

「私はヤキモキしながら、その作業を見ていました。何しろ、敵機動部隊がわずか200カイリ(約370km)先にいるのです」と伊藤は焦る。

「先ほどの換装がなければ、とっくに攻撃隊を発進できたのに…!」と歯噛みしながら。



焦るほどに遅々として進まぬ魚雷換装。

そのジリジリと苛立つ中、「敵機!」と叫ぶ声が響く。

「見ると、左舷前方に10数機の敵の編隊が飛んでくるではありませんか! 敵は雷撃機です」

雷撃機とは魚雷を抱いた飛行機で、一発でも魚雷を受けたら空母にとって致命傷となる。



「全身に緊張と恐怖が走りました」と甲板上の伊藤。

そして祈った。「頼むぞ! 直衛機!」。



空母上空を哨戒していた直衛機は、世界最強のゼロ戦部隊。そのゼロ戦が、迫る雷撃機の群れに猟犬のように襲いかかる。

雷撃機は瞬く間に火を噴き、海へと落ちていく。わずか数分で、敵雷撃機は全機撃墜された。

「あまりの素晴らしさ、鮮やかさに、思わず甲板の整備員からも拍手が起ったほどです」と伊藤は言う。



「右舷!」

ふたたび襲うアメリカの雷撃機8機。だが、ゼロ戦は苦もなくそれらを墜としていく。後方の空母「加賀」を襲った雷撃機も同様、ゼロ戦にバタバタと墜とされていく。

「私は改めてゼロ戦の威力を見ました。いや、ゼロ戦の操縦桿を握った男たちの凄さを見ました。まさに彼らは一騎当千の強者でした」と伊藤は語る。

その2時間ほどの間、40機以上の雷撃機が空母に襲い来たが、ほぼ全機がゼロ戦により撃ち落とされ、魚雷は一発も空母には当たらなかったという。










◎ゼロ



「ドッグファイト」とアメリカ軍が呼ぶのは、空の格闘戦。互いの戦闘機が相手の後方につこうとグルグル回りながら戦う巴戦。その空戦能力において、ゼロ戦の能力は抜群であった。

当時のアメリカ軍の書類には、飛行中に任務遂行をやめて避退してよい場合として「ゼロに遭遇した時」と書かれていたほどだったという。



「ゼロ・ファイターは本当に恐ろしかった」と、ある連合軍パイロットは言う。

「ゼロは信じられないほど素早かった。まさに鬼火。ゼロとは空戦をしてはならないという命令が出されていた」

「オレたちは、ゼロに乗っている奴は『人間ではない』と思っていたよ。悪魔か、さもなれければ戦うマシーンだと思っていた。ゼロというのは『何もないという意味』じゃないか。なんと気味悪いネーミングかと思ったよ」



そんなゼロ戦の守る空母に、アメリカ軍の雷撃機は「飛んで火に入る夏の虫」。

通常、巨体で動きの遅い雷撃機は護衛として素早い戦闘機を伴うものだが、ミッドウェーで最初に襲ってきた雷撃機の群れは、そうした戦闘機を連れていなかった。それでは、まるで「番犬のいない羊の群れ」である。

それを、ゼロ戦は面白いように撃ち落としたのだった。



なぜこの時、アメリカの爆撃機は護衛を伴っていなかったのか?

それは決死の作戦だった。じつは彼らは囮(おとり)だったのである。






◎悪魔



ゼロ戦が空母上空の雷撃機をあしらっている最中も、空母の格納庫では「必死の換装」が続いていた。2時間かかってもまだ終わっていなかった。

そして、戦後になって「運命の5分間」といわれる悲劇が起こってしまう。



「その時です…! 見張り員の悲鳴のような叫びを聞いたのは」と伊藤は語る。

空には、急転直下、急降下する爆撃機が4機見える。

「もうだめだ…」

伊藤は絶望的な思いで、その悪魔のような爆撃機を見た。そして、スローモーションのように、爆撃機から爆弾が離れる様を見つめていた。



「4つの爆弾がゆっくりと笑うように降りかかって来ました。空気を切り裂くその音はまさしく『悪魔の笑い声』のようでした。おそらく、私たちの油断と驕りを嗤っていたのでしょう」と伊藤は振り返る。

続く大轟音。そして大爆発。

甲板上の伊藤は、チリように爆風に吹き飛ばされ、艦橋に叩きつけられる。その時に爆風に目をやられた伊藤は、その後飛行機乗りとしての道を絶たれることになる。



なかば気を失った中で、火に包まれた甲板がぼんやり見える。換装を終えていた飛行機が次々と燃え上がっている。コントロールを失った飛行機同士がぶつかり合い、あるものは海へと落ちる。もう滅茶苦茶である。

飛んだ火は格納庫の爆弾にも引火し、下からも大爆発の連鎖が始まる。巨大な艦をグラグラと揺らすほどの衝撃が立て続けに起こる。

右舷後方に目をやると、日本の誇る一航戦「加賀」も燃えているではないか! はるか後方にも、もう一つの巨大な火柱が見える。

「3隻の空母が、一瞬にしてやられたのです」と伊藤は言う。










◎断末魔



艦を燃やす炎は凄まじい。数10mにもなり、その煙は数100mにも達する。

その凄まじい熱は、甲板上の伊藤の靴を焼くほどで、うっかり手すりにでも触ろうものなら大ヤケドだった。

「我々は後甲板に閉じ込められたような状況で、どうしていいかわからず、呆然としているだけでした」と伊藤は言う。



その時、海上には司令部の幕僚たちの退艦する姿があった。

「内火艇に南雲長官以下、多くの士官が乗って艦を離れて行きました。私たちはそれを見てガックリきました。司令部が見捨てた『赤城』。もうおしまいだ、と」

しばらくして、伊藤は駆逐艦のタッカーに拾われ、燃え上がる空母「赤城」を後にする。



「私はタッカーから後ろを振り返って、『赤城』を眺めました。世の中にこれほどの炎があるのかと思われるほどの巨大な火の海に包まれていました。その熱は凄まじく、100m以上離れていてもその熱波を感じました」と伊藤は語る。

それでも「赤城」は沈まなかった。魚雷を受けたわけではなく、爆弾を受けだだけだったため、沈むことはなかったのである。

「だが、それはかえって断末魔の苦しみが長引く地獄のように見えました。鉄が真っ赤になり、ドロドロと溶けています。黒煙はもう上空1kmにも達していました」



同じような黒煙は、もう2つ。

「加賀」と「蒼龍」である。










◎捨て身



空母「赤城」のゼロ戦は、魚雷への換装をせずに、爆弾のままでも飛び立ってアメリカ空母を叩けばよかったのかもしれない、と伊藤は言う。

現に「赤城」ほか2隻は爆弾でやられたのだ。



この点、アメリカ軍はあきらかに必死であった。

護衛機もなしでやって来た重く遅い雷撃機。それは自殺行為であったが、ゼロ戦の目を低空に引き寄せることには成功した。

「赤城」を沈めることになる急降下爆撃機は、そのはるか上空の間隙を突いて襲ってきたのである。



だが、これも結果論だったと伊藤は言う。

「後に知ったことですが、アメリカ軍は日本の空母部隊を発見した時、とにかく一刻も早く攻撃しようと、戦闘機の配備が間に合わなかったにも関わらず、準備の整った爆撃機から順次送り込んだというのです」と伊藤は話す。

日本の空母を発見したアメリカ軍は、取るものもとりあえず大慌てで爆撃機を送って寄こしたのだという。護衛機も付けずに。



空母同士の戦いを制するのは「索敵」。それは一刻一秒を争う。それをアメリカ軍は実直に実行したのである。

一方、2時間以上も時間のかかる魚雷への換装にこだわっていた日本軍の負けは、この時点で必然であった。爆弾のままでも敵空母に打撃を与えることはできたのに。



「私は、この時のアメリカ軍の雷撃機の搭乗員たちの気持ちを考えると胸が熱くなります」と伊藤は言う。

彼らは「ゼロの怖さ」を百も承知していた。そして、護衛機をつけずに雷撃機が飛ぶということがどういうことかも。

その気持ちは、珊瑚海海戦で燃料切れを承知で味方を誘導した日本の偵察機も同様であったろう。



「アメリカ軍雷撃隊のその捨て身の攻撃が、空母を守るゼロ戦を低空に集め、急降下爆撃機の攻撃を成功に導いたのです」と伊藤は言う。

「自分たちはまず生きて帰れないだろう、と覚悟したに違いありません。にもかかわらず彼らは出撃したのです」










◎最期の華



日本の空母4隻が沈んだミッドウェー海戦。

アメリカ側の損害は「ヨークタウン」1隻。これは珊瑚海海戦で大破し、ボロボロの状態で参戦した空母だった。

日本の空母3隻があえなく燃えた後、猛将・山口多聞率いる「飛龍」ばかりは孤軍奮闘。敵の3隻の空母と渡り合い、そして「ヨークタウン」と刺し違えて沈んだのだった。



この山口多聞少将は、南雲忠一中将の「雷装変換」に激しく反対。ただちに攻撃隊を発進させることを進言した人物だった。

さらに言えば、真珠湾の時も「第三次攻撃隊」を送り、ハワイ基地を機能不全に陥れることを強く具申した人物でもあった。



この山口多聞少将、奮戦した「飛龍」とともに運命をともにする。

その搭乗員も然り。他3隻の搭乗員の多数が救助されたのに対して、最後まで戦い続けた「飛龍」の搭乗員のほとんどが亡くなっている。










一説には、ミッドウェー海戦でゼロ戦の操縦桿を握る一騎当千の猛者どもを含めた「熟練搭乗員」が多数失われ、それが日本軍の最大の痛手だったと言われている。

だが伊藤はそれを否定する。

「それは正しくありません。熟練搭乗員が大量に失われたのは、その年の秋から始まる『ガダルカナルの戦い』においてです」と。













(つづく)

→ ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2






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出典:「永遠の0 (講談社文庫)」百田尚樹




posted by 四代目 at 11:13| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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