幕末、とどめようのない時代の激流の中、「会津藩」は絶望的な戦いへと追い込まれていった。
そして、新政府軍との戦火に包まれる会津若松城。
男たちばかりでなく、女も子供たちも立ち上がった会津。
「白虎隊の墓」は、自決した少年たちを弔うためのもの。そして、その墓から3kmほど離れたところには「二十一人の墓」があり、今も多くの人々が供養に訪れる。
その「二十一人の墓」は、会津戦争における女性たちの悲劇の一端を物語る。
祀られているのは、会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)の妻や娘ら21人の女性たち。2歳の幼子から77歳の老女を含む西郷一族の女たちである。
なぜ、彼女らは死なねばならなかったのか?
西郷家の女たちが皆死んだ一方、当主である西郷頼母は、明治の世まで長く生き延びる。
なぜ、頼母は生きねばならなかったのか?
◎会津の血
会津藩の西郷家というのは、初代・会津藩主「保科正之」の分家であり、代々「筆頭家老」の由緒ある家柄。
本来、会津西郷家は藩主と同じ「保科姓」を名乗ることを許されるほどの身分であったが、初代・西郷近房が養子ゆえにと固辞したとされる。その行いに感じ入った藩祖・保科正之は、西郷家に保科家の家紋(九曜紋)を用いるよう言い渡したという。
一方、最後の会津藩主となった松平容保(まつだいら・かたもり)は、美濃高須藩・高須四兄弟の一人であり、遠くは水戸徳川家に血を引くものである。
江戸という時代は、そうした血筋が重んじられる時代であったため、藩主・筆頭家老ともに徳川将軍家に近い会津藩は、幕末の動乱にあってその血に縛られていくことにもなる。
藩祖・保科正之は、3代将軍・家光の弟であり、筆頭家老・西郷家は、桶狭間の合戦以後から松平元康(のちの徳川家康)に臣従した古き家柄。
会津藩には、まるで徳川将軍家と命運をともにする運命が仕込まれていたかのようである。
そのことが明文化されているのが、藩祖・保科正之の定めた「家訓15ヶ条」。
その第一に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず」とある。
たとえ他藩が将軍家を裏切ろうとも、会津藩は幕府に一心忠勤を励むことを義務づけているのである。
そうした気風に200年以上も育てられていった会津藩士。
「武士中の武士」と称えられる一方で、「頑迷固陋(がんめいころう)」ともいわれていた。古いものを大切にしすぎて、頭が固くなっていると言われていたのでる。
そうした頑固で融通の利かない会津武士のなかでも、ひときわ頭が固かったのが家老「西郷頼母」と云われる。たとえ相手が藩主といえども容赦はなかった。
◎京都守護職
会津藩主・松平容保(かたもり)と、家老・西郷頼母(たのも)が最初に衝突するのは、「京都守護職」を拝命するか否かであった。
猛然と反対する頼母。
「火中の栗を拾うようなもの!」
「薪(たきぎ)を背負って火を消しに行くようなもの!」
「決して、引き受けてはなりませぬ!」
当時の京都は、倒幕に燃える過激な勢力の巣窟となっており、幕府要人の暗殺が相次いでいた。
その治安を守るために、幕府は「京都守護職」を設置(1862)。その重職を、「幕府忠勤第一」の会津藩に要請してきたのである。
だが、バリバリの幕府派である会津藩が都に入れば、それは頼母の言う通り「薪を負て火を救う」ようなもの。かえって火に油と思われた。
だが、頼母の進言は容れられず、藩主・容保は兵を率いて上洛。
そして案の定、都で度重なる騒乱に巻き込まれた会津藩。必死で火を消したものの、逆にのちの恨みのタネを蒔くことにもなってしまう。
一方、藩主を諌めた頼母は家老職を解かれ、蟄居を命じられる(頼母34歳)。
以後5年間、頼母は会津長浜村での幽居生活を強いられることとなる。
◎白河城
ふたたび頼母が「家老への復帰」を命ぜられるのは、徳川幕府崩壊後、新政府軍が怒涛のごとく東北地方へと進軍をはじめてからだった。
新政府軍の掲げる大義名分は「朝敵討伐」。
会津藩は天皇をお守りするために京都守護職に就いたはずだったが、都でのイザコザの末、いつの間にか「朝敵の汚名」を着せられていたのであった。
新政府軍はその朝敵の藩主・松平容保の首を差し出せというのだから、まったく穏やかではない。頑迷固陋な会津武士たちが激昂するのも無理はなかった。
だが、その殺気立った中にあってなお、家老・西郷頼母ばかりは「恭順降伏」を訴えた。しかし、その頼母の声は主戦派たちの叫び声にかき消されてしまう。
「義をもって倒るるとも、不義をもって生きず」
いわれのない朝敵の汚名を着せられたまま生きるより、義を貫いて倒れたほうがよい。それが会津藩の総意となった。
ならばと、自らが白河総督として頼母は出陣。東北地方の玄関口であり喉元でもある「白河城(小峰城)」の守りに就いた。
白河城に集結したのは会津兵ばかりでなく、新撰組や奥羽越列藩同盟の兵も含め2,500。この城の墨守は、東北地方全体の命運を左右するほどに重いものだった。
対する新政府軍は、伊地知正治(薩摩藩)率いるわずか700。数は旧幕府軍の3分の1以下。だが、彼らは最新の洋式銃を携えていた。
結果は、会津ら旧幕府軍の惨敗。城は新政府軍の手に落ちた。
焦った会津軍は白河城奪還のため7度も城を攻め立てるも、まるで刃が立たない。
白河城を巡る攻防激戦は100日間にも及び、この間、同盟軍の死者は927人を数えた。その一方、新政府軍の死者は113人にとどまる。武器、戦略の差は歴然であった。
◎籠城
喉元たる白河城を失った会津は、糧道を抑えられ日干しにされてしまう。武器や弾薬なども入らい。さらに悪いことには、この敗戦を機に、後ろ盾となっていた奥羽越列藩同盟はモロモロと崩れはじめる。
敗戦の責を問われたのは、白河総督たる家老・西郷頼母。登城差し止め、蟄居処分を受けることになった。
そうこうするうち、新政府軍はついに会津若松城下へと迫り来る。
アームストロング砲をぶっ放しながら進軍する新政府軍。町は次々と焼け野原に変わっていく。
大混乱に陥った会津の民。ガンガンと打ち鳴らされる半鐘とともに、われ先にと若松城へと殺到。老若男女合わせて5,000人ほどが詰めかけた。
蟄居していた西郷頼母も、居ても立ってもいられず、あえて禁を犯して登城する。
その頼母の背を見送る妻・千重子(34歳)。彼女をはじめとする西郷家の女たちは、城へは行かぬことと心に決めていた。
「幼子を伴い、かえって繋累とならんことを恐る」と会津戊辰戦史にはある。
西郷家の女たちは、城に入り足手まといとなることを恐れたのであった。
すでに会津への糧道は絶たれ、5,000人以上にも膨れ上がった籠城者たちに食わせるだけの食糧は城中にもうなかった…。
◎死出の支度
頼母の妻・千重子は上級藩士の家柄で武士の娘、しかも「武士中の武士」会津武士の教えをその身に染み込ませて育っていた。「強い意志をもった気品ある女性であった」と伝わる。
西郷家に嫁いできたのは千重子24歳の時。以後、6人の子供たちを次々と授かった。母・千重子は、子供たちには「会津の教え」である「忠孝礼儀」を重んじるよう諭し、娘たちにも凛とした気概を育んでいったという。
そうした武士の女の決意は固かった。
自害、である。
屋敷に残ったのは、妻・千重子のほか、娘5人をはじめとする一族21人。頼母の母と祖母、妹たちもそこにいた。
死出の支度をはじめる千重子。
娘らにも、死装束の縫いつけを手伝わせる。
「幼き子の、おのれと肌着の襟袖つける(栖雲記)」
頼母の長女・細布子(たいこ)16歳、次女・瀑布子(たきこ)13歳は、「辞世の歌」を詠む。
「手をとりて ともに行きなばまよはじよ(次女・瀑布子)」
「いざたどらまし 死出の山みち(長女・細布子)」
家族が一緒ならば、道に迷うこともなく、あの世へと行くことができるはず。それが姉妹2人の遺した最期の願いだった。
◎自害
しんと静まりかえった邸内。
城下の喧騒が遠くに聞こえる。
その一室に居並ぶ、白装束の女たち21人。
2歳の末娘・季子は母・千重子の腕の中で、無邪気にも戯れる。
三女の田鶴子(8歳)は分かっていたかもしれないが、四女の常盤(4歳)はどうか。
皆で水杯を上げたあと、白装束は次々と血に染まっていった。
母・千重子は決然と三女・田鶴子を刺し、驚き泣き叫ぶ四女・常磐をも「汝も武士の子ぞ」と刺す。そして泣く泣く2歳の季子も…。
心を鬼とした千恵子、自らを刺すことは、むしろ救いにも感じられたかもしれない…。
武士の血を貫いた千重子は、こう辞世を詠んでいる。
「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
弱々しき女の身は、あたかも風に揺れるばかりの細い竹のよう。だが、決してたわむことのない節もある。
西郷一族の女たち21人。
彼女らは、会津女として藩に殉ずる気概を、ここに示したのであった。
◎追放
城に入った頼母もまた、討ち死にする覚悟を決めていた。
だが、その城内、死を覚悟した者たちばかりではなかった。
「和を唱ふる者あり(会津戊辰戦史)」
新政府軍によるあまりに激しい猛攻に怯み、重臣たちの中からも講和降伏の声が上がっていたのである。
「いまさら何を申すか!」
頼母は、その弱腰に激怒した。
「この期に及んで降伏すれば、会津の名は地に堕ち、恥を晒すだけじゃ!」
もとは「恭順降伏派」だった頼母、ここでは一転、「強硬な主戦派」となっていた。おそらく妻らの死を知っていたであろう頼母、もはや一歩も退けるものではなかった。
だが、落城を目前とした状況にあって、頼母の強硬姿勢は降伏派の重臣らにとっては疎ましいだけであった。一説によれば、頼母は藩主・松平容保への切腹を迫ったと云われる。
この後、煙たがられた頼母は城を追われる。越後口への使者として城から出され、さらには刺客が差し向けられた。
刺客の命を受けたのは、大沼城之介と芹沢生太郎。だが、両名は暗殺の命令をきかず、「西郷を見失った」と報告したという。
そのおよそ一月後、会津藩は降伏。
徹底抗戦した会津藩の犠牲は、女性や老人、子供らも含め3,000人にも及んだという。
◎生をぬすむ
城を追われた頼母は、長男・吉十郎11歳と一緒であった。
妻・千重子は、長男・吉十郎ばかりには、城に入って父上とともに戦うよう命じていたのであった。
以後、頼母は息子とともに旧幕府軍に合流。米沢から仙台を経て、函館の五稜郭に入る。
当然、そこに死に花を散らせる覚悟を決めていた親子であったが、幸にも不幸にも、最後まで生き延びてしまう。
以後、館林藩に幽閉された頼母。死にきれなかった自責の念を、当時の漢詩に残している。
「呼鳴全家粉黛生死節伯也碌々僅偸生」
ああ全家の粉黛(女性たち)ともに節(みさお)に死し
伯は碌々としてわずかに生をぬすむ
母や妻、娘たちは道理(節)を守って死んでいったというのに、自分は盗むように細々と生き延びてしまった。
だが、生き残ってしまった今、頼母には成すべきことがあった。
「ただ願わくは、豚犬の少しく事を成さんことを」
「豚犬」とは会津から一緒に逃れてきた長男・吉十郎のことである。頼母の唯一の願いは、この長男を無事成長させ、名門・西郷家の血統を守ることにあった。
きっと亡き妻も、それを望んでいただろうと思われた。
◎長女・細布子
会津戦争が終わってから、頼母は人伝えに妻娘らの最期を聞いていた。
当時の土佐藩士・中島信行(のちの衆議院初代議長)は、その様子をこう残している。
「自分等は一挙して会津城を攻め落さうといふので、城門の前に押し寄せた所が、其の所に大きな屋敷があった。しきりに鉄砲を打ち込んでみたが、人の居る様子がない。それから打ち方を止めて内に入って、長い廊下を通って奥座敷に行ってみると、婦人達が見事に自刃していた」
「その内の16〜17歳のあでやかな女子が未だ死に切らないで足音を聞いて起きかへった」
この話を聞いた頼母は、その歳の様子から、それは長女・細布子(たいこ)であろうと思った。
細布子は不覚にも急所を刺し誤ったらしく、死ぬに死にきれずにいたのである。
中島は続ける。「この時はもう眼もくらんで見えなかったらしく、かすかな声で『敵か味方か』と言った」。
息も絶え絶えの細布子を憐れに思った中島は、わざと「味方だ」と答える。
すると安堵したかのような細布子。懐を探り、そっと懐剣を中島に差し出した。
「それではこれにて命を止めてくれいといふことであった」と中島は語る。
「自分は見るに見かねたから、涙を振って首を斬って外に出た…」
その話を静かに聞いていた頼母は、頭を垂れ、ただただ中島の介錯に感謝していたという。
「厚意を謝するのみ」と頼母の自叙伝「栖雲記」にはある。
細布子が中島に差し出した懐剣には、西郷家が藩祖・保科正之に許された紋章「九曜紋」があったという。
◎流浪
頼母が館林藩の幽閉を説かれるのは明治3年(1870)。頼母は41歳になっていた。
だが、もう帰るべき故郷はない。会津藩は事実上解体されており、かつての会津藩士たちは斗南藩(青森)のほか、全国ほうぼうに離散していた。
必然、頼母と息子・吉十郎も、各地を転々と放浪せざるを得なかった。
その消息は定かならずも、最初に足跡をとどめたのは伊豆半島、現在の静岡県松崎町だったようである。
その小さな町の私塾で、頼母は歴史や漢学を教え、なんとか糊口をしのいでいたという。それでも生活はカツカツであり、大切にしていた書籍(孝義録)を借金の方に手放したとも伝わる。
もはや頼母には、会津という大藩の筆頭家老という面影はどこにもなかった。
伊豆に来て3年、頼母はふたたびその地を失う。
明治新政府が公立の小学校を定めたことにより、私塾が閉鎖を命じられたのである。
またしても近代化の波に弾き出された頼母。これを機に伊豆を去る。
その後、頼母は磐城国(福島)の神社の宮司となった(当時45歳)。
だがその3年後、西南戦争に加担したという疑いで職を失ってしまう。
じつは会津西郷家は、薩摩の西郷隆盛の家とその元を一にしていた。ともに「菊池氏」の流れを汲むと考えられ、それゆえに、頼母には「西郷隆盛と気脈を通じているのではないか」との疑いがかけられたのだという。
◎カタツムリ
果てもなく続く放浪の旅。
その苦境の中、頼母は唯一の生きる理由であった「長男・吉十郎」までをも失ってしまう。
病にかかり亡くなった吉十郎。まだ22歳の若さであった。
「只ひとり残れる子を失い 心の中 実にせん方なき(栖雲記)」
ついに、頼母はたった一人になってしまった(頼母50歳)。
詮方なき頼母は、カタツムリに自身の心情を映す。
うらやまし
角をかくしつ
又のべつ
心のままに
身をも隠しつ
角を自由に出し入れできるカタツムリは、その身を殻の中に隠すこともできる。その様を頼母は羨んだ。
できれば自分も隠れたい、死んでしまいたいとも思ったであろうか。
それでも生きた。
長男を失った直後に撮られた頼母の写真が今に残るが、そのアゴヒゲを伸ばしに伸ばした様子は、まるで全てを捨て去ったかのような虚心の表情をしている。
◎運命
日光で、かつての藩主・松平容保と顔を合わせたのは奇縁であった。
容保は日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜となり、容保の補佐役となったのだ。
幕末の動乱期、なにかと衝突し合った両者。頼母の方が5歳年上で、その血も徳川家に近かった。それゆえに、その確執も噂されるが、大権現「徳川家康」の前ではどうだったであろう。
昔語りをしたかは知らぬが、以後、頼母の運命は巻き戻されるかのように、会津へと引き寄せられていく。
頼母は59歳の時に、現在の福島県伊達市にある「岩代霊山神社」の宮司となった。
その神社の境内には「姿三四郎」の姿があった。伝説の投げ技「山嵐」などで有名な柔道家・姿三四郎は、頼母の養子「西郷四郎」であるという。
西郷頼母は、会津藩に代々伝わっていた「大東流合気柔術」を2人の男に直伝したと伝わる。一人は養子・西郷四郎であり、彼はのちに嘉納治五郎に師事し「柔道」修行に励むことになる。もう一人は武田惣角であり、彼の弟子であった植芝盛平はのちに「合気道」を大成させることになる。
いわば、会津武士の魂の一部は、柔道と合気道の中に今も受け継がれているのである。
長男・吉十郎を失い、一時は生きる目的を失ってしまった西郷頼母であったが、頼母が生きたことが日本の武道の継承にもつながっていた。
もし、そのか細い糸が絶たれていたとしたら、会津の魂は武道の中に入り込むことがなかったかもしれない。
◎二十一人の墓
会津を離れ30年、頼母は70歳にして帰郷を果たす。
会津・善龍寺を訪れると、そこには「二十一人の墓」が建っていた。
伝え聞いていた、西郷一族21人の女たちが眠る墓である。
その21人の亡骸を埋葬したのは、一人の少女であったという。
頼母の姪・登世子は当時16歳。会津戦争が終わったあとに西郷屋敷を訪れた登世子は愕然とする。あの広大な邸宅が、すべて焼け落ちていたのである。
かつて筆頭家老・西郷家の大邸宅は、会津若松城の真正面に位置し、その屋敷面積は2,400坪という会津藩士の中でも異例の広さであった。
だが、それはもう灰燼に帰していた。
自決した女たちの遺骨さえ、野ざらしのままであった。
その惨状に心を痛めた登世子。泣く泣く灰の中から遺骨を拾い集めたという。
寺に行く途中、背に負った籠の中、遺骨が擦れ合って「かたかた、かたかた」と小さな音をしきりに立てる。
「『かたかた、かたかた』と小さい音が、自分に何かを語りかけてくるようでもあった」と、登世子は回想録に記す。
現在、その「二十一人の墓」のある善龍寺には、妻・千重子が詠んだ「なよ竹」の歌碑も建てられている。
そして、その脇には小さく「西郷頼母の墓」がある。
頼母の墓石には、自分の号「保科八握髯翁」の名とともに、妻・千重子の名も並んで刻まれている。
当時、夫婦の名を並んで刻むのは大変に珍しいことだったという。
74歳まで生きた西郷頼母。
長い漂泊の果てにふたたび帰ってきた故郷・会津。
いまは静かに、妻・千重子とともに眠っている。
酸っぱいばかりと思われた頼母の人生。
それがその最期に、ほんのりとだが、甘みを帯びるのであった…
(了)
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日本の心を世界に示した「柴五郎」。絶望的な籠城の果てに…。
出典:NHK歴史秘話ヒストリア
「妻たちの会津戦争 反骨の家老・西郷頼母と家族の悲劇」
戊辰戦争後、武田惣角の生家に同居した藩主護衛役の御供番が柔術を教え、気を自在に操る隣村の易者から合気の理論を学び、惣角が合気を創始した証拠が出てきました。
残された謎は西郷四郎の実子説で、研究家は頼母と志田家の妻説、後妻きみは四郎と撮った写真がない、離婚したのは実母でないからか、三留やすは霊山に墓があるが素性が不明。
私は会津人ですが先祖は武士ではない。四民平等の明治維新、近代化に最後まで抵抗したのが会津藩の悲劇になった。
西郷頼母は時代の先を読む能力があって、少年時代を江戸で過ごし、学問に優れていた。でも身長が140センチ、武術は苦手で劣等感を持っていた。このアンバランスがへんくつと言われた。
どこの藩も世襲制、養子の藩主が多く飾り物にすぎない。家老の言うことを聞いていればよいものです。問題があれば家老が切腹して責任をとるのが武士道で、殿様が切腹した戦国時代とは違うところ。
容保公は高須4兄妹がいて、孝明天皇に信頼され気が大きくなったのかもしれません。でも、戊辰戦争では実兄の尾張藩・紀州藩は会津を攻めにきたわけで、徳川には見放されてしまいました。
明治になって、西郷頼母の最大の功績は、日光東照宮で、「晃山叢書」全11巻の日光山編纂事業を成し遂げ、今年公開された。どういうわけか誰も書いてないという不思議さがあります。歴史人物は良い点、悪い点を併記して評価すべきなのでしょうが、そうした作品は少ないように思われます。