朝7時
オランダの農場主「フランク・ファン・クレーフェ」さんは、作業着で畑に…、ではなくスーツ姿でオフィスへと向かう。
オフィスに置かれたパソコンには、広大な農場すべての管理情報が一元的に集約化されている。その画面一つで、栽培に必要なすべての情報を把握することができるのだ。
ハウスの温度や湿度、二酸化炭素の濃度や地中の温度など、およそ500項目以上のデータを確認していくクレーフェさん。重要なデータはグラフ化されて示されており、理想的なラインに沿っているかどうかは一目瞭然。
「よし、これで仕事は終わりだ。さあ、帰ろう」
農場のすべてが順調に稼働していることを確認し終えたクレーフェさん。もう一日の仕事が終わってしまったようだ。
あとはコンピューターたちが、勝手に農作物を自動制御してくれる。ハウスなどの農業設備はすべて「IT化」されているのである。
たとえば、土の代わりに使われているのはビニールに包まれた「人口繊維」であり、そこには細いチューブで水や肥料などが常時、適量だけ注がれるようになっている(栽培に使用される水はすべて殺菌されている)。
ハウスの通路に這わせたビニールの管からは「二酸化炭素」を自動で散布。ハウス内のCO2濃度は、光合成が最も活発化するという「外気の2倍以上」に常に自動でコントロールされている。
「ITを使って、生育環境を自動でコントロールできるようになって、自分の『理想通りの栽培』ができるようになったんだ」
農場主クレーフェさんは、満足気に微笑む。
◎スマート・アグリ
いわゆる「スマート・アグリ(Smart Agriculture)」。
オランダは、この「IT技術をつかった農業」において抜群の先進国である。
農場主クレーフェさんのハウスは、オランダの北ホラント州に位置する。
この地域には「アグリポート7」と呼ばれる一大農業地帯があり、縦7km・横2kmの広大な敷地(1,400ha)に巨大なハウス群が工場のようにひしめき合っている。
このアグリポート7には、トマトやパプリカを栽培する企業10社が名を連ねており、クレーフェさんもその一人である。ちなみに、オランダにはこうした計画的な巨大農業地帯が他にも5ヶ所あるという。
農作物の管理をコンピューター化することにより、少ない人手でも、とんでもなく広い面積が管理できるようになった。
たとえばクレーフェさんの管理する農地面積は「54.5ha」であるが、これは日本の平均的な農家(1.8ha)の「30倍以上」である。
「まさしく『農業の革命』だよ。もう農業はITなしでは考えられない」
そう言うクレーフェさん、昨年の売り上げは46億円に達している。
これまでの設備投資には100億円以上かかっているというが、好調の波に乗ってさらに資金を投入。さらなる規模拡大に乗り出しているという。
「うちのトマトの需要は、まだまだ伸びるよ。ハウスをもっと建設しなくては」と、クレーフェさんはノリノリである。
◎世界2位のオランダ
IT技術による「農業革命」の起こったオランダでは、その「輸出額」が世界第2位にまで急浮上した。
世界第1位は言わずと知れた「アメリカ」だが、オランダはこの超大国の後ろにピタリとつけているのである。
数字を見てみると、アメリカの農業輸出額は1,188億ドル(約11兆8,800億円)に対して、オランダのそれは773億ドル(約7兆7,300億円)。
アメリカの国土面積はオランダの「約230倍」。しかし農業輸出額はオランダの「1.5倍」に過ぎない。すなわち、超効率的なオランダ農業は、アメリカより「150倍」優れているということになる(単位面積あたりの単純計算)。
どれほどオランダの面積が小さいかといえば、日本の「九州」くらいの大きさしかない。オランダの国土面積は日本と比べても「10分の1」である。
人口も少ない。日本の約1億2,700万人に対して、オランダは約1,670万人。農家の人口は日本の「20分の1」。
それなのに、農業の稼ぎは圧倒的にオランダに軍配が上がる。先の輸出額で比べれば、オランダは日本のじつに「24倍」の稼ぎを上げている(日本は3,200億円で世界51位)。
オランダは農地も少ない。人口も少ない。
それなのに、日本はもとより、かの超大国アメリカよりも土地利用がうまい。
たとえば、クレーフェさんのハウスは6m以上の高さがあり、日本の平均的なハウスのおよそ2倍の高さ。面積あたりの収穫量は日本の3倍になるという。
それに加えた「スマート・アグリ(IT農業)」。人手も減らせれば、栽培ミスを最小限に抑え、成長の速度や出荷のタイミングも、市況に応じて最適化することが可能となる。
◎農家と政府
いまや世界の最先端をいくオランダの農業であるが、クレーフェさんが子供の頃はそうではなかった。
クレーフェさんが農業を始めた頃もまだIT化はされておらず、彼もハウスの中で働く普通の農場主に過ぎなかった。
転機が訪れたのは、クレーフェさんが農業をはじめて3年目のこと(1985)。EC(EU欧州連合の前身)に、農業大国スペインとポルトガルの加盟が決まったことだった。
「オランダには両国の安い農産物が大量に押し寄せた。だから『海外に負けない競争力』を身につけること、それが生き残る条件になったんだ」とクレーフェさんは語る。
日本にたとえれば、TPP(環太平洋連携)の締結により、アメリカなどの農業大国から安い農産物が雨アラレと降ってくるようなものだろう(現在・未締結)。
一時は破綻の淵に立たされたクレーフェさんだったが、頭を抱えて試行錯誤を繰り返した結果、当時注目されはじめていた「IT技術の農業への応用」へとたどり着く。
そして、大枚はたいたIT化への大決断が、クレーフェさんに大逆転をもたらしたのであった。
崖っぷちに立たされた農家が独自にはじめたスマート・アグリ。オランダの農業革命は、こうした農家主導で展開されていったのだった。
3年前からは、オランダ政府も農業を「産業」としてとらえはじめ、当時の農業省を「経済省」に統合。農業技術の支援などの後押しをするようになった。
「オランダ農業の発展にとって重要だったのは、技術革新が『国から農家に押し付けられたものではない』ということです」と、経済省の農業政策部長ロナルド・ラペレ氏は述べる。
すなわち、農業IT化の当初、オランダの農家は国の保護を受けることができなかった(クレーフェさんが費やした100億円の設備投資も、民間の金融機関から資金を調達しなければならなかったという)。
その事実は、同国の農業体質を極めて強固に生まれ変わらせた反面、IT化の波に乗れなかった多くの農家を脱落させることにもつながった。
過去10年間で、オランダの農家の方々は次々と淘汰されていき、ついには「半減」してしまったという。
◎日本
オランダの農業は、グローバル化という荒波にさらされることにより、痛みは伴ったものの一皮むけることができた。
では、同様の先進国、日本の農業はどうなのだろう?
NHK「時論公論」で示された「農業所得」は少々衝撃的だった。
コメ農家 平均年収48万円
果樹農家 同172万円
露地野菜 同195万円
ちなみに日本のサラリーマンの平均年収は409万円(2011)である。
農家のなかでも最も収入が低い「コメ農家」。
政府からの補助金などを受け取ってなお、月収にして4万円にしかなっていない。ちなみにサラリーマンは、その「8.5倍」の収入を得ている。
いわゆる「所得格差」が大きく広がっている状態である。安倍現政権は「農家の所得倍増」を唱えているが、倍になってもその格差は4倍以上である。
安倍政権が掲げる「攻めの農業」は、第一に「農地の拡大」、第二に「付加価値の増大」、そして結果的に「輸出の拡大」を目指す。
第一の「農地拡大」というのは、現状、各農家の農地が散り散りと「飛び地」になっているため、それを主力農家に集約しようと意図するものである。現在、主力大規模農家の抱える農地は、日本の全農地のうちの5割程度に過ぎないが、それを8割にまで高める算段だ。
第二の「付加価値」というのは、IT化という意味ではなく「6次産業化」。もともと1次産業である農家に、2次産業である「加工」、3次産業である「販売」も手がけさせ、合計「6次(1 + 2 + 3)」の働きをさせようと促すものである。
すなわち、先のオランダの例とはまったく対照的に、日本は「国家主導」で農業改革を行おうという目論見である。そのためには農地の基盤整備コストや融資コストら、数兆円に上る資金が投入される可能性がある。
「膨大なコスト」と「強制力」
これが安倍政権による「農家の所得倍増」計画には求められる。
◎中国
次は一転、「中国」を見てみよう。
こちらはオランダ・日本らの先進国とは風景を異にする「途上国」である。
中国の戸籍は「都市戸籍」と「農村戸籍」に分かれており、中国の人口13億人のうち、都市戸籍を持つ人が4億人(約30%)、農村戸籍は9億人(約70%)といわれている。
近年、中国経済は奇跡的な成長を遂げ、日本を飛び越して一躍世界第2位の経済大国へとのし上がったわけだが、その恩恵を受けたのは主に都市戸籍の人々4億人でしかない。国民の7割を占める農村戸籍の人々は、圧倒的に貧しいままに留めおかれたままである。
つまり、中国経済は一部が上へ上へと伸長する中で、大多数の下がまったくついて来なかったのだ。そしてそれが「所得格差」の根源となった。
開発途上国における経済発展とは、単純に「農業主体の社会」から「工業やサービスが主体の社会」へと移り変わることを意味する。オランダでも日本でも、そうした歩みを経て先進国となったのだ。
だとすると、経済の発展が「農業の発展」に結びつかないのは、ある意味当然のことである。歩みの遅い農業を発展させることよりも、工業・サービスを充実させたほうがずっと近道なのである。
となると、困るのは農業だ。国が発展すればするほど、確実に置いてけぼりを食らうシステムになっているのだから。
案の定、中国の農村戸籍の人々は置いていかれた。だから、中国では農業部門と非農業部門の「格差」がグングンと急速に広がっているのである。
◎票と農村
同様のことが、高度経済成長期の日本でも起っていた。
だが幸いにも、日本政府は中国政府よりも農民たちに優しかった。日本政府は都市で稼いだおカネを「地方交付税」として農村に回し、また農業に対して「多額の補助金」を支払い、かつムダとも思える「公共事業」を地方で数多く展開したのである。
日本政府が農村地域に寛大であったのは、それはコメを生産すると同時に、「票」の成る票田であったからだ。農家への補助金の多寡は、得票率のそれとも直結していたのである。
ちなみに2006年に発足した「第一次安倍内閣」は、すべての農家を保護するやり方から、一定の規模以上の農家を支援する、いわゆる「戦後農政の大転換」を断行した。
しかし、それが「農村の反発」を生んで、自民党が政権を失うキッカケにもなってしまう。これは日本の政治と農業がいかに深く関わり合っているかを示す好例である。
一方の中国政府には「票」が必要ない。この国は選挙というものを依然として嫌うようである。
それゆえに、悠々と農民たちを切り捨てることができた。日本のように、都市で稼いだおカネを、農村に配る動機を中国の政治家たちは持ち合わせなかった。農村にカネを回すよりも、都市部の経済発展にそれを向けたほうがずっと効率的だったのだ。
いわゆる「先に富める者から富め」ということだ。
だが、さすがの中国も最近はそうも言っていられない。あまりに無残な格差に、国民たちも暴れ出す。ゆえに、中国政府は「農民工の給料引き上げ」などに踏み切らざるを得なかった。
その結果、中国経済は減速を余儀なくされた。農民工の月給は数年前まで1万円ほどだったというが、現在は3万円程度にまで大きく急上昇。その負担増によって、移り気な外資などは、より人件費の安いバングラディシュなどに工場を移すことになっていったのだ。
◎中進国の罠
中国で起きていることは、経済学で「中進国の罠(わな)」と呼ばれている現象である。
途上国の経済発展にともなって、労働者の賃金は上昇せざるを得ない。だが皮肉にも、それが経済発展の足カセとなって、先進国らの資金はより人件費の安い途上国へと流れ出てしまう。
その結果、ある程度経済が発展したところで、その成長が頓挫してしまう。これが「ワナ」にはまった状態である。
アルゼンチン然り、メキシコ然り、ブラジル然り。「中進国の罠」にはまった途上国は皆、先進国への階段を登れずに立ち止まってしまっている。
貧しい農家を豊かにすることにも失敗し、社会の格差は広がるばかり。だから足カセが外せずに、上へは登れない。
では、どうすれば、その「ワナ」から抜け出せるのか?
それは技術革新などによって、より「人に頼らない方向」に向かうしかない。工場には人が少ない方がいいし、農地にだってそうだろう。いわゆる「機械化」であり「IT化」である。
◎韓国
罠を上手く抜け出した好例は「韓国」である。
たとえば農業においても、韓国はオランダ直伝の「スマート・アグリ」を展開。パプリカ栽培においては「大輸出国」へと変貌を遂げた。
じつはオランダが世界に輸出しているのは農作物だけではない。その生産システムである「スマート・アグリ」ごと、海外へ輸出しているのである。
その教えを請うた韓国は、見事に第2のオランダを目指しての歩みを進めている。またヨーロッパ圏内でも、ドイツなどはオランダに次ぐ世界第3位の農業輸出国となっている(667億ドル・6兆6,700億円)。
オランダはさらに賢いことに、「スマート・アグリ」を他国に提供することで、自国にも利益をもたらすような仕組みを作り上げている。
たとえば韓国での栽培データは、オランダ本国に返ってくるようになっている。それはシステムを輸出した世界中あらゆる国の栽培データも同様である。
そうしたビッグ・データを研究開発に活かすことで、オランダのスマート・アグリにはますます磨きがかかってくる。どのような環境において、どのような栽培が理想的なのか、その最適化が巧みになっていくのである。
そうしたノウハウが積み重なることにより、オランダという寒い環境のみならず、南の国の環境にも適した栽培プログラムを構築することもできるようになる。すると、それがさらなる競争力強化にもつながるという好スパイラルである。
◎オランダ病
先進国たる日本は、確かに「中進国の罠」から抜け出し、発展の歩みを進めてきた。
だが、日本の農業がその「ワナ」から抜け出せているかというと、そこには疑問が残る。農家と非農家の所得格差はずいぶんと開いてしまっており、国民の税金を補助金としても、その溝が埋まるべくもない。
日本の農業は「機械化」は進んだかもしれない。だがオランダ農業のような「IT化」は進んでいない。
じつは日本の農業、オランダよりも早くIT化に目をつけていたともいう。その歴史はオランダよりも古いというのだ。
だが、日本の肥沃な土壌、そして優れた栽培技術がそれをさほど必要としなかった。むしろ「経験とカン」の方が尊ばれたのであった。
消費者としての日本国民も、完全な施設栽培のものよりは「太陽を燦々と浴びて土で育った農作物」を好んできた。そして、1億人以上いる多大な人口が、日本の農業を国内だけに安住させてしまったのである。
一方、オランダの農業は国内だけに居座るわけにはいかなかった。
国土も狭ければ、人口も少ない。それは韓国も同様であった。だから、両国ともに海外へと打って出るしか生き残りの道がなかった。
しかし、海外依存が高まれば、それはそれでリスクも背負い込むことになる。
いわゆる「オランダ病」というもので、輸出依存の強すぎる国は、自国通貨の為替レートの上昇によって、一気に産業が暗転してしまうことがある。
かつて、オランダが欧州における天然ガスの大産出国であり、かのオイルショック時(1970年代)には、膨大な富を自国にもたらした。だがそれは同時に、自国通貨ギルダー高に直結し、そのあとオランダ経済は急速に悪化したのである。
いずれにせよ、「内外のバランス感覚」は世界の荒海の中で安定を保つには、必須の要素であるようだ。
日本という国も、高齢化により思考が内向的になる中にあって、外へ向かう姿勢が必要とされてきている。
どうやら「守りの農業」ばかりでは、罠の中に暮らすことになってしまいそうだ。上から降ってくる補助金にも限度があるだろう。
◎攻め
「攻め」の動きは、小さいながら日本にも起こっている。
たとえば、岩佐大輝さん(35歳)はIT企業の経営を行いながら、2年前に「農業法人」株式会社GRAを設立。イチゴのIT施設栽培に挑んでいる。
彼の選んだ地は、東日本大震災で被災した宮城県南部の山元町。5億円を投下して構えた巨大ないちごハウスには、至るところにIT技術が散りばめられている。
「セグウェイ」という立ち乗りの自動二輪車で、ハウス内を見回る岩佐さん。
「二酸化炭素が足りないとセンサーが判断すれば、二酸化炭素が出てきますし、寒かったら暖房を足します」と話す。
すると日差しが強くなったからか、「ガーー」と天窓が自動で開きはじめる。
お爺ちゃんがイチゴ農家だったという岩佐さんは、震災後のイチゴ農家の光景のあまりの惨状に多大なるショックを受けたという。
「こんなに被害を受けて、何も残らないじゃないか…」
足元の惨状を見て岩佐さんが見据えたのは「世界」だった。
「世界で勝てる農業を作らないと、10年もしないで継続不可能になってしまう…!」
そう決意した岩佐さんは、被災地での成功事例を示そうとすると同時に、インドにも進出。巨大なイチゴの植物工場の建設を始めた。
「インドで流通しているのは、酸っぱくて美味しさが劣る『四季なりイチゴ』ですが、日本のイチゴと同じ価格です。需要は高い上、マーケットは巨大です」
もし被災地からグローバル企業が出たら、「世界で戦える」という刺激が日本の農家に与えられるのでは、と岩佐さんは考えている。
セグウェイに乗った岩佐さんは、つやつやのイチゴを採ってきた。
「光ってますよね。これは糖度20を超えてますよ。砂糖みたい」
それはIT化の結晶でもある。
「農家の匠の技をITプログラムに詰め込みました。ITで細かく管理することによって、いわゆる美味しさや味は磨かれると思います」
そのブランド名「ミガキイチゴ」には、そうした想いが込められている。
「ダイヤモンドだって、最初は石コロじゃないですか」
そう言うと、岩佐さんのセグウェイは広く明るいハウスの向こうへと消えていった。
(了)
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出典:
NHKクローズアップ現代「農業革命”スマート・アグリ”」
NHK時論公論「成長戦略 実現できるか 農家の所得倍増」
JBpress「『農民国家』中国の限界」
「匠の技とITの融合 〜復興を超えた想像への道〜 岩佐大輝」
この記事の人に会ってみたいです。岩佐大輝さん「農業法人」株式会社。私は現在は上海在、4月4日〜16日迄日本に一時帰国します。ご紹介していただけないでしょうか?
よろしくお願いします。http://jp.eastday.com/node2/home/xw/jj/userobject1ai84268.html