その小村は、フィヨルドが形づくったのであろうか。
四囲をはるかな崖に取り囲まれ、「ヨハネ祭(中夏)の頃でさえ、もう午後5時には、日の光は谷の中に差して来ない」。
村人たちは、まるで谷底に住むかのようであった。
その閉ざされた村を貫く、一筋の広い川。
その流れに乗って、最初の人間がこの村へ来たのだと云う。名はエンドレ。現在の村の住民たちは、その子孫。村はエンドレゴオルと呼ばれている。
川の向こうには、湖が見えていた。
◎鷲の巣
おおむね平和であったこの村の、一つの懸念は
「山の岩角に懸かっている『鷲(わし)の巣』」だった。
「鷲は村の上を飛び翔って、時には子羊を、また時には子ヤギを襲った。一度などは、小さな子供をさらって行ったこともあった」
鷲がその巣を岩角に懸けているうちは、安心がならない。
村で人が2人寄ると、すぐに鷲の巣の話になる。「いつ鷲が戻って来たか。どこを襲って損害を与えたか」
けれども、一人として、その巣に届いたものはなかった。
◎言い伝え
ただ、こんな言い伝えが村人の間にはあった。
「昔、その巣に届いて、滅茶苦茶に壊した2人の兄弟があったそうだ」
村の英雄伝説である。
村の若い青年たちは、子供の時分から山や木に登る練習を積んでいた。
「いつかはあの鷲の巣に届いて、昔話の兄弟たちのように、巣を打ち壊せるようになろう」
とりわけ角力(すもう)をとって、その若い身を鍛えていた。鷲が飛び回る、そのはるか下の方で。
◎ライフ
ライフという青年は、ひときわ立派なナリをしていた。
彼は村の始祖エンドレの子孫ではなく、髪が縮れ、眼が細く、女が好きで、巫山戯(ふざけ)てばかりいた。
「鷲の巣に、よじ登って見せるぞ!」
彼はもう子供の頃から、そう村中に言いふらしていた。
そんなライフに、村の年寄りたちは眉をしかめる。「そんなことを声高に言うのは、感心できない」と。
だが、年寄りたちが苦言を呈するほど、ライフはのぼせ上がった。
そして、早くも「岩角への登攀」を企てた。まだ熟さぬその身心で。
「老人たちは、やめた方がよいと言い、若い者たちは、やるがよいと言った」
だが、ライフの耳は、どの声も聞いていないようであった。
「彼はただ、自分の望みにだけ耳を傾けた」
◎はじまり
それは初夏、晴れた日曜の午前であった。
多くの村人たちが、懸崖(けんがい)の下に集った。
鷲のメスが巣を離れるのを待ち構えていたライフ。
いよいよ、ひとっ跳びに一本の松の木に跳びついて、足をブラブラさせた。
地上数mの高さにそびえ立っていた松の木。どうやら、この木は岩の裂け目から生え出しているようである。その裂け目をたどって行けば、鷲の巣の元へと導いてくれそうであった。
コロコロコロ…
小さな石が、ライフの足元から転がり落ちる。
その音より他は、深い静寂。下で待つ村人たちは息を飲む。
遠くの川の流れだけが、淙々と音を立てている。
懸崖はだんだんと険しさを増していく。
「長いこと彼は片手で下がって、足でもって足がかりを探していて、よそを見ることができない」
女たちは、もう顔を背けていた。「もしライフの両親が生きていたら、こんな危ないことはしなかっただろうに…」と言い合いながら。
◎許嫁
「彼はどうやらして、堅い足場を見つけて、またもや登りだした」
滑る。砂利や土塊が転がり落ちる。
「けれども、すぐにまた、しっかりと取り付く」
下で固唾を呑む村人たちは、「お互いがハラハラしているその息遣いが、はっきりと聞き取れた」。
すると、突然
「ライフ! ライフ! なんだって、あんたはこんな事をするのよ!」
いきなりの甲高い叫び声が、人々の静寂を破った。集まっている人々は、みな声の方を振り向いた。
それまで一人寂しく座っていたその娘、いまは岩の上にすっくと立っている。
この娘はもう子供の時分から、ライフと許嫁になっていた。彼女もまた、村人たちとは血縁になかった。
「降りてちょうだい、ライフ! 私、あんたを愛してるわ。そんなところに登ったって、何の徳もありゃしないわ!」
その声に、ライフは思案している様子であった。
それが1、2秒。
とまた、登り出した。
◎凶い前兆
ほどなく、彼は疲れだした。
崖に取り付いたまま、さいさい休むようになっていた。
また一つの小石が、転がり落ちてきた。
それはもう、「凶い前兆(まえぶれ)」のように感じられた。
村人たちもすでに、崖の途中で小さくなっている彼を、目の端から退けていた。
ただあの娘ばかりは、毅然と岩の上に棒立ちに、しっかと上の方を見上げていた。その手を固く握りしめ。
なにかを探っていたライフの手は、突然はずれた。
と、素早くライフは別な手で、なにかを掴もうとした。
が、それもまた外れてしまった。
「ライフ!」
そのすべてを、娘ははっきりと認めていた。
娘の心奥からの叫びは、懸崖を越して高らかに響き渡る。
村人たちも、その声に合わせるように
「あっ、すべった!」
皆は叫んだ。そして、一斉にそむけていた目を上に向けた。
◎善いことだ…
ライフは本当にすべっていた。
砂や石、砂利などがザラザラと、一緒に崩れ落ちる。
彼はすべった
落ちた
止まらない
恐ろしいほどの速さになった。
もんどり打って、転がり落ちていく。
村人たちは、もう見ていられない。ふたたび顔を背けた。
彼らが聞いたのは、音だけだった。
間もなく響いた、なにか重たい塊のようなものが、湿った土にドシリと落ちた、その音を。
娘は、岩の上に倒れた。
「ライフはめちゃめちゃに、見分けもつかぬようになって、そこに転がっていた」
誰も彼を正視する勇気がもてない。
ライフを一番そそのかしていた若者たちなどは、一番頼りにならなかった。誰一人として落ちたライフに手を貸そうとはせず、ただ遠巻きにするばかりであった。
そこで、年寄りたちが出なければならなかった。
「これは馬鹿げたことだった…」
一番の長老はそう言いながら、物体と化していたライフの方へと手を伸ばした。
「けれども…」
彼は言い足した。
「それも善いことだ。誰にも届かれない、あんな高いところに、なにかが懸かっているということは…」
(了)
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出典:「鷲の巣

