2013年05月18日

ビョルンソン「鷲の巣」を読む



その小村は、フィヨルドが形づくったのであろうか。

四囲をはるかな崖に取り囲まれ、「ヨハネ祭(中夏)の頃でさえ、もう午後5時には、日の光は谷の中に差して来ない」。

村人たちは、まるで谷底に住むかのようであった。



その閉ざされた村を貫く、一筋の広い川。

その流れに乗って、最初の人間がこの村へ来たのだと云う。名はエンドレ。現在の村の住民たちは、その子孫。村はエンドレゴオルと呼ばれている。

川の向こうには、湖が見えていた。






◎鷲の巣



おおむね平和であったこの村の、一つの懸念は

「山の岩角に懸かっている『鷲(わし)の巣』」だった。

「鷲は村の上を飛び翔って、時には子羊を、また時には子ヤギを襲った。一度などは、小さな子供をさらって行ったこともあった」



鷲がその巣を岩角に懸けているうちは、安心がならない。

村で人が2人寄ると、すぐに鷲の巣の話になる。「いつ鷲が戻って来たか。どこを襲って損害を与えたか」

けれども、一人として、その巣に届いたものはなかった。






◎言い伝え



ただ、こんな言い伝えが村人の間にはあった。

「昔、その巣に届いて、滅茶苦茶に壊した2人の兄弟があったそうだ」

村の英雄伝説である。



村の若い青年たちは、子供の時分から山や木に登る練習を積んでいた。

「いつかはあの鷲の巣に届いて、昔話の兄弟たちのように、巣を打ち壊せるようになろう」

とりわけ角力(すもう)をとって、その若い身を鍛えていた。鷲が飛び回る、そのはるか下の方で。






◎ライフ



ライフという青年は、ひときわ立派なナリをしていた。

彼は村の始祖エンドレの子孫ではなく、髪が縮れ、眼が細く、女が好きで、巫山戯(ふざけ)てばかりいた。



「鷲の巣に、よじ登って見せるぞ!」

彼はもう子供の頃から、そう村中に言いふらしていた。

そんなライフに、村の年寄りたちは眉をしかめる。「そんなことを声高に言うのは、感心できない」と。



だが、年寄りたちが苦言を呈するほど、ライフはのぼせ上がった。

そして、早くも「岩角への登攀」を企てた。まだ熟さぬその身心で。



「老人たちは、やめた方がよいと言い、若い者たちは、やるがよいと言った」

だが、ライフの耳は、どの声も聞いていないようであった。

「彼はただ、自分の望みにだけ耳を傾けた」






◎はじまり



それは初夏、晴れた日曜の午前であった。

多くの村人たちが、懸崖(けんがい)の下に集った。



鷲のメスが巣を離れるのを待ち構えていたライフ。

いよいよ、ひとっ跳びに一本の松の木に跳びついて、足をブラブラさせた。

地上数mの高さにそびえ立っていた松の木。どうやら、この木は岩の裂け目から生え出しているようである。その裂け目をたどって行けば、鷲の巣の元へと導いてくれそうであった。



コロコロコロ…

小さな石が、ライフの足元から転がり落ちる。



その音より他は、深い静寂。下で待つ村人たちは息を飲む。

遠くの川の流れだけが、淙々と音を立てている。



懸崖はだんだんと険しさを増していく。

「長いこと彼は片手で下がって、足でもって足がかりを探していて、よそを見ることができない」

女たちは、もう顔を背けていた。「もしライフの両親が生きていたら、こんな危ないことはしなかっただろうに…」と言い合いながら。






◎許嫁



「彼はどうやらして、堅い足場を見つけて、またもや登りだした」

滑る。砂利や土塊が転がり落ちる。

「けれども、すぐにまた、しっかりと取り付く」



下で固唾を呑む村人たちは、「お互いがハラハラしているその息遣いが、はっきりと聞き取れた」。

すると、突然

「ライフ! ライフ! なんだって、あんたはこんな事をするのよ!」

いきなりの甲高い叫び声が、人々の静寂を破った。集まっている人々は、みな声の方を振り向いた。



それまで一人寂しく座っていたその娘、いまは岩の上にすっくと立っている。

この娘はもう子供の時分から、ライフと許嫁になっていた。彼女もまた、村人たちとは血縁になかった。



「降りてちょうだい、ライフ! 私、あんたを愛してるわ。そんなところに登ったって、何の徳もありゃしないわ!」

その声に、ライフは思案している様子であった。

それが1、2秒。

とまた、登り出した。






◎凶い前兆



ほどなく、彼は疲れだした。

崖に取り付いたまま、さいさい休むようになっていた。



また一つの小石が、転がり落ちてきた。

それはもう、「凶い前兆(まえぶれ)」のように感じられた。



村人たちもすでに、崖の途中で小さくなっている彼を、目の端から退けていた。

ただあの娘ばかりは、毅然と岩の上に棒立ちに、しっかと上の方を見上げていた。その手を固く握りしめ。



なにかを探っていたライフの手は、突然はずれた。

と、素早くライフは別な手で、なにかを掴もうとした。

が、それもまた外れてしまった。



「ライフ!」

そのすべてを、娘ははっきりと認めていた。

娘の心奥からの叫びは、懸崖を越して高らかに響き渡る。



村人たちも、その声に合わせるように

「あっ、すべった!」

皆は叫んだ。そして、一斉にそむけていた目を上に向けた。






◎善いことだ…



ライフは本当にすべっていた。

砂や石、砂利などがザラザラと、一緒に崩れ落ちる。



彼はすべった

落ちた

止まらない



恐ろしいほどの速さになった。

もんどり打って、転がり落ちていく。



村人たちは、もう見ていられない。ふたたび顔を背けた。

彼らが聞いたのは、音だけだった。

間もなく響いた、なにか重たい塊のようなものが、湿った土にドシリと落ちた、その音を。



娘は、岩の上に倒れた。

「ライフはめちゃめちゃに、見分けもつかぬようになって、そこに転がっていた」

誰も彼を正視する勇気がもてない。



ライフを一番そそのかしていた若者たちなどは、一番頼りにならなかった。誰一人として落ちたライフに手を貸そうとはせず、ただ遠巻きにするばかりであった。

そこで、年寄りたちが出なければならなかった。



「これは馬鹿げたことだった…」

一番の長老はそう言いながら、物体と化していたライフの方へと手を伸ばした。

「けれども…」

彼は言い足した。

「それも善いことだ。誰にも届かれない、あんな高いところに、なにかが懸かっているということは…」













(了)






関連記事:

中島敦「名人伝」を読む

ブレにブレた鴨長明。「方丈記」に至る道

不運を断ち切った小説家。宮本輝



出典:「鷲の巣」ビョルンソン(ノルウェー)
posted by 四代目 at 06:09| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: