渡部昇一氏が、高校歴史の教科書を監修したとき、一つだけ注文をつけたそうだ。
「1951年にマッカーサーがアメリカ上院で行った証言を、どんな形でもいいから入れてほしい」と。
渡部氏のいう「マッカーサー証言」とは?
この証言をほんとんどの日本人は知らないという。
当時のマスコミは一言半句も報道しなかったし、その後もほとんどメディアに取り上げられたことがなかったからだ(あまつさえ、外交を預かる外務省の面々も知らぬと渡辺氏は苦言をていする)。
知らぬから重要でない、ということはない。
「私は、このマッカーサー証言を、日本の近代史を理解する最大のポイントだと思っている」
そう、渡辺氏は力を込めるのであった。
◎マッカーサー証言
1953年5月3日
アメリカ上院の軍事外交合同委員会
その権威ある場に、マッカーサーは立っていた。戦勝後、日本占領をになったGHQの総司令官として、彼には証言が求められていた。
日本とはいかなる国か?
そして、なぜ日本は戦争への火蓋を切ったのか?
「We closed in.(アメリカは日本を閉じ込めた) You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands.(日本の8,000万という膨大な人口が、4つの島々に閉じ込めれたことを、ご理解いただきたい)」
冒頭、マッカーサーは、こう言った。ここで彼は、日本がアメリカによって身動きできない状態にされたことを語っている。
「But they didn't have the basic materials.(だが、彼らは基本的な資源を持っていなかった) There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.(蚕を除いて、日本にはとりわけ何の資源もなかった)」
アメリカに閉じ込められた日本、その封じ込められた島々には蚕くらいしか役に立つ資源はなくなってしまったという。
「They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in Asiatic basin.(日本には綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、そのほか多くの資源が欠乏していた。それらすべてはアジア海域に存在していたのだ)」
「They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.(資源の供給を絶たれてしまうと、1,000万から1,200万人の失業者が生まれてしまう。そんな恐怖が日本にはあった)」
さあ、次の文言こそが、渡部昇一氏が力コブを込めることろである。
「Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.(したがって、日本が戦争をはじめた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」
◎侵略か? 自衛か?
かつて、日本の教科書検定では「侵略」を「進出」に書き換えさせたといって、中国や韓国は猛烈抗議をしたことがあった(1982年。のちに誤報と判明)。
だが、マッカーサーの正式な証言において、彼は日本が「侵略」のために戦争を始めたとは一言一句も語っていない。
むしろ、その真逆のことを証言している。「安全保障(security)」、要するに「自衛のため」に戦争に踏み切らざるを得なかったのだ、と。
マッカーサーが、「日本は閉じ込められたいた」ということを冒頭で言い置いたのは、あたかも最後の「必要に迫られて(dictated)」という言を強調するためでもあるかのように思える。
この「dictated」という単語に自発的な意味はない。命令されて、要求されてなど、その原因が外にあることを示唆する(ディクテイターとは、ローマ帝国の独裁官のことである)。
「老兵は死なず、ただ去るのみ(Old soldiers never die, they just fade away)」
そう言って現役を退いたマッカーサー、その引退後に「マッカーサー証言」は行われている。だが、アメリカ軍において元帥の位に引退の制度が存在しないため、彼の籍は生涯を通して現役の元帥だった。
だから、マッカーサーの証言のすべてが公式文書として記録された(ニューヨーク・タイムズ紙にも記事として掲載)。それはすなわち、アメリカ側の公式見解ということである。
日本が自衛(security)のために戦争せざるを得なかった、ということが。
◎東條英機
これはまったく皮肉なことだった。
日本をつぶさに見て、そして日本を去ったマッカーサーは、結局、東京裁判でA旧戦犯と裁いた東條英機と同じ証言をすることになったのだから。
「勝者の裁き」と揶揄される東京裁判にあって、敗者である東條英機は頑なであった。
「この戦争は侵略戦争ではなく『自衛戦争』であり、国際法に違反しない」
その主張を一貫して曲げなかった。
だが悲しいかな、この東京裁判自体が国際法に則ったものではなかった。
「国際法にも何にも拠らず、マッカーサーの一存で行い、マッカーサー条例なるものに基づいていた(渡部昇一)」
法に則り理路整然としていた東條英機。自己弁護は一切行わず、敗戦の責任は自らが負うと明言していた。
「開戦の責任は自分にのみある」
その言った東條英機は、戦争責任を追求されていた昭和天皇を守るために必死であった。
1948年11月12日、判決は下った。
「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ人と一般人を殺害した罪」
東條英機、絞首刑
そして12月23日、死刑執行。
この日が、当時の皇太子、今の天皇の誕生日であったことは偶然か…
浄土真宗に深く帰依していたという東條英機。
「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と相手の仏縁を念じ、絞首台に進んで立ったという。
「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」
◎中国と韓国
死んだ老兵に、死ななかった老兵。
東條英機にマッカーサー。
「自衛」という一点で、奇しくも邂逅した両者。
だが、現在の日本の教科書に、その記載は一切ない。
渡部昇一氏が唯一の注文として切望していた「マッカーサー証言」はキレイに削除されていた。
しっかりした歴史観と歴史認識をもっていた教科書執筆者たちは、渡辺氏の注文を受け入れてくれていた。だが、教科書の検定官が難癖をつけた。「マッカーサー証言を削らなければ、検定は通せない」と。
ここに見られるのは、日米関係への配慮ではなく、中国・韓国への気回しである。
かつて、教科書の「侵略」の文字が消されたと中韓が騒いだとき、時の首相・鈴木善幸氏には、中国を訪問する予定が入っていた。
このままではいかんと、時の官房長官・宮沢喜一氏は、教科書作成にあたっては近隣諸国(主に中韓)の国民感情に配慮するという趣旨の談話を発表。
それが、いわゆる「近隣諸国条項」。
日本の歴史教科書の編集権を、中国人や韓国人に委ねるというものである。
すなわちこの時、日本は教科書づくりの主体性を放棄したのであった。
このときの消極的な姿勢は、今の内閣にもそのまま受け継がれており、近隣諸国条項には手が触れられていない。
ゆえに、日本の教科書における歴史観には、つねに近隣諸国(主に中韓)のバイアス(歪み)がかかり続けているのである。
アメリカの公式見解であるマッカーサー証言すら容れられないのであれば、従軍慰安婦などはタブー中のタブーとならざるを得ない。そこに歴史学者の入るスキなどない。
◎日本国憲法
それは日本国憲法しかり。ここにも日本の主体性は見られない。
「いまの日本国憲法は、国民の安全から生存さえも、諸国を信頼して委ねるという前文は、独立国の憲法としては実に奇妙である」と渡辺氏は言う。
「なぜなら、いま憲法といわれているものは憲法ではなく、占領基本法というのが正確だからだ(同氏)」
「平和憲法」という美名の裏には、日本の武装解除という現実的な目的があった。独立国家ならばどの国もがもつ当然の権利「戦争」、その爪を占領下の日本からは剥がす必要があった。
アメリカが占領統治を円滑に行うために定めた法。それが、いま日本国憲法と呼ばれるものである。つまり、それは「付け焼刃」のようなものであった。
あるアメリカの研究者が明らかにしたところによると、日本国憲法の前文は、米国憲法をはじめ、ゲティスバーグ演説(リンカーン)、独立宣言などを「糊とハサミでつないだものに過ぎない」という。
それも致し方ない。占領下で国家主権のなかった日本に、憲法制定など認められようもなかった。
国立公文書館には、当時の日本国憲法の原本が残されているが、それは一国の憲法とは思えないほどに哀れなものである。
天皇の御璽の押された紙は、まるでワラ半紙。昔の小学校で配られるプリントのようにくすんだ色で、しかも裏が透けるほどに薄い。
さらに、筆で清書されずに、ワープロ文字を両面印刷しただけの憲法条文がホッチキスで止められている。そこに格式はまったく感じられない。
一方、それまでの憲法であった「明治憲法(大日本帝国憲法)」の原本は、畏れ多くもじつに格調高い。
一文字一文字、丁寧に記された条文は、じつに美しい。当然、用いられた紙も然るべき上等なものである。
臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
睦仁 御璽
明治二十二年二月十一日
内閣総理大臣伯爵 黒田清隆
枢密院議長伯爵 伊藤博文
外務大臣伯爵 大隈重信
海軍大臣伯爵 西郷従道
農商務大臣伯爵 井上馨
司法大臣伯爵 山田顕義
大蔵大臣兼内務大臣伯爵 松方正義
陸軍大臣伯爵 大山巌
文部大臣子爵 森有礼
逓信大臣子爵 榎本武揚
大日本帝国憲法
第一章 天皇
第一條 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總覽(木偏)シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第五條 天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立(次ページヘ)
◎明治憲法
人によっては、明治憲法の復活を声高に叫ぶ人もいる。
それは極論だとはいえ、明治憲法というものを知ることは有益である。その中には、先人たちの智慧が結晶している。
頼りにならない徳川幕府をひっくり返し、「王政復古の大号令」を成した明治維新。
「王政復古」というのは、2,600年前の神武天皇の理想にまで戻すという壮大なる発想。260年程度の幕府など物の数ではなかった。
だが、明治新政府にはまだ、憲法がなかった。
自由民権運動により、日増しに高まる憲法議論。明治十四年の政変(大隈重信)を経て、ようやく明治政府は明治22年に憲法を制定することを国民に約束する。
そして動いた伊藤博文。ドイツに向かった。時の政府は大隈のいうイギリス型よりも、ドイツ型のほうが相応しいと考えたのだった。
外に範を求める一方、井上毅(こわし)は日本の歴史を遡っていった。それこそ、古事記・日本書紀、日本創世の2,600年の昔にまで時を戻して。
外の伊藤に、内の井上。
その折衝には、折り合わぬ部分も出てくる。
だが結果的には、井上の日本の伝統のほうが優先され、明治憲法は作られていくことになる。
◎天壌無窮の神勅
日本書紀には「天壌無窮の神勅(しんちょく)」という一文がある。
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就きて治らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、まさに『天壤と窮まりなかるべし』」
「天壌(てんじょう)」とは「天地」のこと、「無窮(むきゅう)」とは「極まりがないこと」。
すなわち「天壌無窮」とは、「天地の尽きぬさま」を表しており、それはそのまま皇孫(天皇家)の繁栄に重ねられているのである。
「神勅(しんちょく)」とは、神の命令、具体的には天照大御神(アマテラス)が、その孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、高天原から日本へと送り出す時に出された命令のことである。
「(日本に)就きて治らせ」というのが、その神勅である。
「治らす(しらす)」というのは、その読み通り「知る」がその語源であり、それは統治するというよりも、民の心を知ることに主点が置かれている。
明治憲法では最終的に「統治ス」との表現に落ち着くことになるのだが、井上毅が最後の最後まで「治ス」という表現にこだわっていた因はここにある。
「天壌無窮の神勅」以来、天照大御神の子孫である天皇家は、天下の民が困窮しないようにする義務を負った。
そして、それは神武天皇以来、万世一系125代に渡り、現在にもつながる日本の背骨となっている。
この神勅のもと、国民はみな「臣」。内閣総理大臣もまた「臣」。これは現行の日本国憲法でも変わらず、総理大臣の任命は今でも天皇が行うこととなっている。
かつて井上毅が、日本の歴史・伝統を明治憲法に織り込もうとしたのは、その思考こそが日本という国を支える背骨に他ならぬ、と考えたからである。
だから「万世一系」という表現にもこだわった。ドイツ人の法律顧問、ロスフェラーに異議を唱えられ、「開闢以来一系」にしろと言われても、井上は頑として譲らなかった。
◎万世一系
日本の「万世一系」という思想は、南北朝時代の「神皇正統記(北畠親房著)」により強化された。
「大日本は、神の國なり。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝えたまふ。我が國のみ此の事あり。異朝には其の類なし」
「継体違わずして唯一種ましますこと、天竺にもその類なし」
日本以外の中国、インドなど近隣の偉大な国々でさえ、一つの朝廷が続くというためしがなかった。
絶対的だった秦の始皇帝は「万世無窮」という勅語を発したが、そのわずか15年後に崩壊している。中国もインドも、「一種を定むることなし。乱世になるままに、力をもって国を争う」。それが常であった。
民間から皇帝が出ることもあれば、夷狄に国を支配されることもあった中国。臣下が皇帝を弑することさえあった。
「乱の甚だしさ、云うに足らざるものをや」
ところが、日本ばかりは天皇家一系が脈々とつながっていた(たとえ幾多の乱を経ようとも)。
「唯わが国のみ、天地開けし始より今の世の今日に至るまで、日嗣を受けたもふこと邪ならず。余国に異なるべきいはれなり」
そして、北畠親房はこう言う。
「根元を知らざれば、みだりがはしき端とも成りぬべし」
日本には天皇家という背骨に連なる、天照大御神という根元があるからこそ、国は栄えることができているのだ、と言うのである。
すなわち、万世一系、そのことが2,600年の繁栄の根っこであると、北畠親房は言っている(当時は1,900年ほどの歴史だったが)。
この考えは、江戸時代、水戸学の祖といわれる会沢正志斎が著した「新論」の中にも同様に見られるもので、それは明治維新を成した幕末の志士たちに多大なる影響を与えた思想でもある。
◎背骨
明治憲法には、井上毅らによってそうした背骨が埋め込まれた。
憲法制定にあたっては、枢密院会議というものが何度も開かれ、毎回火花を散らす大激戦が繰り広げられたことが議事録からも読み取れる。だが結局、古事記・日本書紀に端を発する「天壌無窮の神勅」、そして「万世一系」という思想は認められたのであった。
その第一章、第一條がまさにそれである。
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
明治天皇は、枢密院会議の席に座り、じっと耳を傾けておられたという。
その審議の途中、明治天皇は親王が亡くなられたという知らせを受けたことがあった。
それでも、明治天皇は会議を中断させることはなかったという。かほどに、明治天皇が新憲法にかける想いは強かったのである。
そのビリビリとした緊張感は、現在に残された大日本帝国憲法の原本にも、いまだ色褪せずに残されている。
芸術の域にある美しき筆文字で綴られたその原本を前にしては、日本人の頭は垂れざるを得ない。そして、姿勢を正さざるを得ない。
◎GHQ
ところが戦後、この誇り高き明治憲法は、アメリカの占領軍GHQによって無下にも一蹴された。
「悪の元凶」、軍国主義の源であると断罪されたのである。
そして即席で作られた新憲法、いわゆる「日本国憲法」。
そこには、日本の背骨が抜き取られた上で、アメリカの理想が上書きされていた。武力という筋肉も与えられぬままに。
アメリカの理想には、必ず武力が必要とされる。いわば、その理想は武力に裏打ちされているのである。
だが、2,600年の日本の歴史において、武力は盛者必衰、諸行無常の一因にしかなってこなかった。第二次世界大戦で日本軍が敗れたことも、またその一つ。
絶対的な武力を必要とするアメリカの理想。一方、日本の古来より受け継いできた理念は、確かな背骨を正すことにあった。
だが敗戦国に口はない。
武力という筋肉なきまま、事実上背骨を抜かれ、理想ばかりを手渡された日本。ワラ半紙にプリントされた新憲法を。
それを戦後60年以上、日本国民は健気にも守り続けている。当時の憲法制定に携わったアメリカ人が「まだ、あれを守っていたのか?」と驚くほどに。
◎改憲論
日本国憲法に掲げられた理想は、じつに素晴らしい。
もし、それが武力なしにでも成されるのであれば。
だが、どうしてもより現実的な人々には、それが空論に映ってしまう。
どうやら現今の世界には、まだまだヤクザ者たちが蠢いているようである。そこに丸腰で立ち入るのは、よほどの勇か、世を知らぬだけの匹夫の勇。
ゆえに議論も必要だ、と言う。
しかし、それは国内外から、あらん限りの野次を招き寄せる。
もし、2,600年来の日本の国体である天皇制を正そうとすれば、軍国主義への逆戻りと叱責を受ける。
また、靖国神社を参ろうとすれば、中韓が黙っちゃいない。そこには東條英機らA級戦犯が祀られているではないか!
盛者必衰の理を知るはずの日本人は、武力の儚さも知っている。
たとえ今、どんなにアメリカが強大であろうとも、それは1,000年の業とは思えない。たとえ次に中国が立とうとも、かの国の歴史ほど脆いものはない。
武力よりも大切なものはあるはずだ、そんな想いは日本人の心に深い。
戦後の日本を見たアメリカは、東京裁判で日本を「悪」と断じ、その悪の根源を日本の歴史に見た。忠臣・楠木正成に、そして天皇に。
ゆえに万世一系の天皇家を廃そうとした。だが、命をかけても東條英機は、その矢面に立った。そして死んだ。
辛くも天皇制は守られたが、その意気を示していた憲法ばかりは失った。
世界の見る目は、いまだ日本を第二次世界大戦の中に閉じ込めている。
古の日本に戻ろうとする動きは、すべて左翼思想(軍国主義)だと警戒されてしまう。2,600年の深すぎる教えは、その底が理解されうべくもない。
現・安倍首相の一挙手一投足は、そうした監視を常に受けているようなものである。その改憲への動きは、取りも直さず軍国主義の復活だと信じられている。
◎神話
「神話を教えなくなった民族は、100年続かない」
これは、世界中の民族の歴史をつぶさに研究した歴史学者、アーノルド・トインビーの言葉である。
不幸にも、日本民族が子どもたちに神話を教えなくなってから60年以上が経つ。戦後のアメリカが、占領下の日本で日本書紀や天皇などの建国神話を「危険思想」として教えることを禁じてから、ずっとである。
さらに、日本は歴史の教科書の記述の一部を、中国や韓国に委ねたままでもあり、その主体性はいまだない(近隣諸国条項)。
これは世界でも稀有の例である。自国の建国の歴史を教えない国など、世界にほとんどない。ましてや、他国の干渉を甘受する国など。
だが、そうした考えは、すべて「危険だ」と退けられてしまうのが、今の日本の世界における立ち位置である。
日本の歴史は1945年にプッツリと切断され、その根っこのないままに、新たな時代を築くことを強いられているかのようである。
◎大和魂
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
これは、幕末に処刑された吉田松陰の辞世の句である。
処刑を前に、彼は目をつむり、「神勅、相違なければ日本は未だ亡びず」と静かにつぶやいたという。
「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」
こうした吉田松陰の言葉は、とらえようによっては「危険な香り」も漂ってくる。だが、彼の留め置こうとした大和魂とは、もっとずっと底の深いものであったろう。
剣を抜くのは、いつか収めるためであろう。
だが、第二次世界大戦の日本は、たとえ「自衛のため(by security)」に剣を抜いたとはいえ、その収める鞘を失っていた。
ゆえに、完全に追い詰められてしまった日本は、窮鼠のごとく歯を剥き出すしかなかった。
それは危険極まりない。その牙を抜こうとしたアメリカにも、理は十分にある。それは中韓しかり。
だが、戦時の日本は、大和魂の一端が棘(とげ)のように飛び出てしまったものに過ぎず、その本質ではなかっただろう。吉田松陰があれほど苛烈であったのもまた、その本懐を守るためのものであったのだろう。
もし米中韓、そして日本にもそれぞれに理があるのならば、いたずらにスケープゴート(生け贄)を求めることには何の益もない。ただ、問題を表面的にしてしまうだけである。
◎洞
そして、時は流れた。
世代は大きく入れ替わった。
大和魂がどうなったのかは、定かではない。
これからの未来を見通そうとした時、その目を遠くへ馳せれば馳せるほど、それと同じくらい古い歴史も見ておかなければならない。
1,000年先を想うのであれば、1,000年の過去も必要となる。歴史は大樹の根っこのようなものであり、まだ見ぬこれからの枝葉は、地中の根冠以上には茂らない。もし、それ以上に茂るのであれば、その枝先は枯れるばかりである。
戦後の日本が、その幹の一部を枯らしてしまっているとしたら、それは大樹の洞(うろ)となる。
1,000年の樹木は、たとえ幹の芯を枯らしたとしても、その周りに新たな樹皮を重ねながら成長を続けていく。その結果、中心部分が洞窟のようにポッカリと空いたようになる。それが洞(うろ)である。
そしてこの洞は、森の生物・生命のゆりかごとなる。その内に小動物や小鳥たちを匿うのである。
もし、現代の日本という幹に空洞が空いているのならば、それも良し。
生命力のある限り、その洞を覆うように幹はますます太くなろう。
長い歴史をもつ大樹ほど、まことに見事な洞を持つものである。
朽ちた幹とて、決して無駄にはならない。
それは一旦は地中に没すも、いずれは再び、新たな幹を通って空へと向かうのだから…!
(了)
関連記事:
稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。
「マッカーサー宣言」に見る第二次世界大戦。日本は凶悪な侵略国家だったのか?
大悪党にして大忠臣「楠木正成」。その大いなる誤解とは?
出典:致知2013年6月号
「歴史の教訓 渡部昇一」