2013年05月04日

大王イカの棲む世界へ…。窪寺博士の開いた扉


それは2004年のことだった。

「大王イカ」を調査する窪寺博士を撮影するために、NHKが本格的に関わりはじめた時のこと

「なんとロケを始めてから4日目にはダイオウイカの画像が撮れてしまった(NHK)」



番組スタッフは、その呆気なさに少々拍子抜けしたようでもあった。

「こんなことは、自然番組の撮影では『まずあり得ない』。みな何ヶ月も粘って、やっと番組に使えるカットを揃えるのが通常なのだ(NHK)」



しかし、その時の彼らはまだ知る由もなかった。

「その後、長きにわたり自分たちが歩むことになる苦難の道の一歩になろうとは…」






◎大王イカの長い触腕



場所は東京から南へ1,000km。小笠原の澄んだ深い海。

撮影方法は、国立科学博物館の「窪寺恒己(くぼでら・つねみ)」博士の考案した、縦縄と呼ばれる地元の深海漁を応用したもの。一本の縄に一定の間隔で仕掛けられる釣針の下端に「小型の水中記録装置(ロガー)」を潜ませた。

水中ロガーの撮影間隔は30秒。設定した水深から自動的に撮影を繰り返し、合計で600枚の写真を撮影することができる。



2004年9月30日、いつものように縦縄を引き上げてみると…、

「あれ、なんか白いものが付いてる…」

縦縄には、ブッといロープのようなものが絡み付いている。窪寺博士の目は光った。

「来たぞ! 大王イカの足、大王イカの足だ!!」



その長さ、なんと6m。超巨大イカの足で最も長い「触腕(しょくわん)」と呼ばれる足だった。

「これ、まだ生きてます。こんなに吸盤がくっつく。これ、大丈夫かな? あいたたたた…」

警戒心のひときわ強いという大王イカは、その吸盤の先までをも鋭いトゲで武装していた。最後のあがきか、そのトゲが窪寺博士の指に吸い付いたのだった。足だけになってなお…。



そしてすぐさま、水中ロガーの記録をコンピューターに読み込むと…、

「針から逃れようと格闘するダイオウイカの姿が、実に4時間半にわたって500枚以上の静止画像に収められた(NHK)」






◎世界初



その時の写真が、「生きた大王イカ」をとらえることに成功した世界初の事例であった。

「伝説の巨大イカ、ついに姿を現す!」
「Photographed for First Time!(世界で初めて撮影された!)」
「ついに科学の目でとらえられた!」

世界中が大興奮。窪寺博士の写真は、世界中を駆け巡り、タライ回しになった。



意外なことに、これほど科学が発達したはずの現代にあって、その時まで「生きた大王イカ」の画像というものが、世界中のどこにもなかった。

あったのは、大王イカの「死んだ姿」ばかり。底引き網にかかるのも、海岸に打ち上げられるのも、みな死骸。600件近くもある目撃情報のすべてがドザエモン。

というのも、大王イカはその強い警戒心により、船の推進音や底引き網の振動などを極端に嫌がるようだった。だから、あれほどの巨体でありながら、生きながら底引き網にかかるなどというブザマな姿を晒すことは皆無であったのだ。



大王イカへの関心は、じつは日本よりも世界の方がずっと強い。

「日本ではそれほど大きな話題にはならないが、海外でのダイオウイカの扱いは特別だ。『幻の怪物』『伝説の生き物』。世界中のテレビ・クルーや研究者たちが、ダイオウイカ撮影を狙っている(NHK)」

ニュージランドの海、ガラパゴスの海…、それこそ世界中の7つの海で、果敢な撮影が忍耐強く行われていた。だが、「そのどれもが、ことごとく失敗に終わっていた」。



アメリカのスミソニアン博物館には「ホルマリン漬けされた巨大なダイオウイカ」が展示されている。それを見ながら、イカ研究者クライド・ローパー博士はこんなことを言っている。

「これまで、ダイオウイカの生きた姿を誰も見ることができていない。これは海に残された最後のミステリーだ」



そこに降って湧いた、日本発「生きた大王イカの写真(2004)」。

「その反響はむしろ海外の方が大きかった。世界中が驚愕し、大騒ぎとなり、窪寺博士に惜しみない賞賛が贈られた(NHK)」






◎生きた大王イカ



窪寺博士の快進撃は続く。

またしても縦縄に「生きた大王イカ」が引っ掛かり、今度は足ばかりでなく、その全身を海面上に引っ張り上げたのだ…!



「生きたダイオウイカの背中は、明るい赤紫色。腹側は真っ白く、輝くばかりに美しい」

なんとかイカ針から逃れようと、大王イカは太い漏斗(ろうと)から海水をこれでもかと噴射してもがき、あがく。

「大きな目が、悲しそうにこちらを見ていた」と、窪寺博士は当時を思い出す。







この時(2006)の「生きた大王イカ」は、NHKのカメラにもしっかりと収められた。またしても、世界は大騒ぎ。蜂の巣をひっくり返したかのようである。

その大反響の波は、窪寺博士をして「世界が尊敬する100人(米Newsweek誌)」にまで押し上げた(2007)。「謎の怪物」好きの欧米人たちは、大王イカをサカナに、大いに盛り上がったのである。



ところがその後、それまでの快進撃はぱったりと足を止めてしまう。

待てど暮らせど、大王イカの消息はナシのつぶて。幻の怪物は、その警戒心を一層高めたかのように、本来の住まいである深海、その闇の世界に引き籠ってしまったのだった…。






◎大王イカとマッコウクジラ



2004年、たった4日で撮れた大王イカの写真は、その時のNHKスタッフにとっては拍子抜けするほどの呆気なさだったかもしれない。

しかしそれは、それまで何十年にもわたって窪寺博士が尽力してきた末の、とっておきの結晶だったのだ。



縦縄による小型カメラでの撮影を窪寺博士が始めたのは2002年。小笠原父島沖で「第八興勇丸」の船頭、磯部康朗さんの協力のもと、調査が始められた。

空振りの毎日のなか、窪寺博士は工夫に工夫を重ねていった。より深いところへ到達できるように糸の種類や長さを変えたり、仕掛けを工夫したり…。水中カメラの性能も年々向上させていった。

イカにかける思いは40年。窪寺博士の想いはもはや執念であった。



窪寺博士がそれほどまでイカに引き込まれていったキッカケは、意外にも「マッコウクジラ」。

水深1,000mを超える深海にまで潜れる高い潜水能力をもつマッコウクジラ。その巨大な胃袋の内容物を調べてみると、その97〜98%までが、なんと「イカ類」。

イカの口にある「カラストンビ(キチン質の硬い組織)」というクチバシのような部分ばかりは、クジラの強力な胃液でも溶かすことはできない。それがクジラの胃袋の中に残っており、そのカラストンビの形状からイカの種類も割り出せる。その結果、大王イカなどの深海の巨大イカの比重が極めて高いことが判ったのだった。



つまり、深海1,000mにまで潜るマッコウクジラは、その暗闇に潜む大量の大王イカを捕食していたのである。

だが、大王イカもやられっぱなしではない。時には、その長い足でマッコウクジラの顔面をワシ掴みにして、ヘビのようにクジラを抱え込んで弱らせる。

窪寺博士は、マッコウクジラの横顔に残された「大王イカの鋭い吸盤の跡」を見て、マッコウクジラvs大王イカの死闘を夢想した。



大王イカの祖先は、かつてはもっと浅い海に生息していたと考えられている。それが、マッコウクジラに棲む場所を追われたのか、大王イカは逃げるように深海へ深海へと棲み家を下げていったようである。

その追いかけっこは、今も進化の途上にあるようで、大王イカの限界深度は、マッコウクジラの潜水限界と、ほぼ同じ深さにある。










◎大王イカのいない日々



NHKの撮影隊は追い詰められていた。2009年から3年期間ではじまった大プロジェクトは、何の成果も得られないままに、その期限を迎えようとしていた。

「肝心のダイオウイカは、まったく現れなかった。1年、2年と過ぎていき、気のせいかもしれないが、NHK内での肩身はどんどん狭くなっていくような…(スタッフ談)」

切迫する時間、そして予算にも底が見えてきていた。



寸暇を惜しんで撮影。船から下りた後は、縦縄に仕掛けられた水中カメラの、合計4時間を超える映像をチェックする。

「こうした日々を、『蟹工船』ならぬ『イカ工船』と、冗談交じりに呼んでいた(スタッフ談)」

大王イカのいない、苦しい日々。船上の孤独…。



大王イカはライトを嫌うのではと、ライトを改良した。

ダメだった。

超音波に反応するカメラを使った。

ダメだった。

カメラを極力小型にした。

ダメだった。



「8年間で520回試した。とにかく、ダイオウイカだけは現れなかった(NHK)」

地元の漁師たちは、からかった。「悲壮感が漂っているから、大王イカが寄ってこないんだ(笑)」と。

東日本大震災の大津波が太平洋上を突き進んでいた時も、撮影が行われていた。「小笠原には1mの津波が到達。港へ帰ることができなかった(NHK)」。



海の上でいくら待っていても、大王イカに会うことができない。

ならば、彼らのホーム、深海にまで追いかけていこうではないか。

窪寺博士は、マッコウクジラばりに自らが深海に潜っていくこととなった。






◎最後の賭け



乾坤一擲

「これは最後の賭けだ」

潜水艇をチャーターして、深海に潜る。残る予算のすべては、この一事に投下された。

「最後の大勝負がはじまった」



目指すは深海600〜800m。

この深度は、窪寺博士の10年間の苦労から導き出された深さである。その海域は、小笠原諸島・父島の東側。来る日も来る日も調査して集められた大王イカの手がかりは、この海域・深度に集中していた。



最後の決断は、世界の叡智を呼び寄せた。

ニュージランドから駆けつけたオーシェー博士は、世界で初めて「大王イカの子ども」を調べた実績を持つ。アメリカのウィダー博士は、深海に多く棲む発光生物の世界的権威である。

強力な助っ人は、宇宙からも現れた。それはNHKが開発した超高感度EMCCDカメラ。このカメラは、宇宙空間に浮かぶISS(国際宇宙ステーション)からの撮影用に作られたものだったが、それを深海の暗闇が写せるように改良されたのである(通常の数百倍の暗闇感度)。



その世界最高峰の調査隊のリーダーは、我らが窪寺博士。彼こそが大王イカの世界的権威であり、第一人者。その実績は他の追随を許さない。

皆を乗せた深海調査船アルシアは、一路、窪寺博士の指し示す標的の海域へと舳先を向けた。






◎トワイライト・ゾーン



「ここが大王イカの痕跡が見つかった場所だ」

父島の東15km。窪寺博士は、その場所で船を止める。

そして、最新型の潜水艇「ディープ・ローバー」へと乗り込む。その視界は340°、透明なアクリル製の球体のおかげで、ほぼ全方向が見渡せる(ガンダムに出てくる「ボール」?)。



「発射準備、完了」

「了解、発進」

窪寺博士ほか2人を乗せて、ブクブクと沈んでいく潜水艇。8トンという重量は、タンクを空気を抜くだけで一気に沈んでいく。

かの窪寺博士といえども、深海に潜って直接ダイオウイカを探すのは、これが初めて。自ずと心は高まる。

「おー、きたきたきた」



「深度200m。生命維持装置、異常なし」

この水深200mより深い海が「深海」と呼ばれる海。そして、大王イカやマッコウクジラが潜れるという深度1,000mまでが「トワイライト・ゾーン」と呼ばれる不思議な世界である。

人間の眼には、すでに真っ暗。それでもここに暮らす生き物たちは、そのことさら敏感な眼で、微かな光を感じ取っているのだという。



「今のも光ってるなぁ」

深海の暗闇にほのかな光を放つ生き物たちを眺めながら、窪寺博士は深海散歩を楽しむ。

このトワイライト・ゾーンでは、生き物の8割が発光するのだという。強く光って敵の眼をくらませるもの、仲間とコミュニケーションをはかるもの、獲物をおびき出して狩りをするもの…、光の活用法はさまざまだ。







この暗闇の深海には、人間の知の力もまだ及んでいない。水面や海底と違って、ほとんど調査が進んでいない領域なのである。

水温が10℃を切った。このトワイライト・ゾーンでは水温や酸素濃度が大きく下がる。深海でもっとも環境の変化が激しい場所でもあり、生物の適応もそう簡単ではない。個体数が限られれば食物も限られる。その生存条件は極めて過酷、競争も熾烈にならざるを得ない。

水温の低下とともに、潜水艇の透明なドームは露を帯びる。結露だ。その水滴が機械に落ちると壊れる危険もあるために、乗務員はその水滴をこまめに拭い取らなければならない。



「あっ、サメ!」

水深600m付近。突然、目の前にサメが巨体を現した。

深海性のサメ「バケアオザメ」だ。その大きな目が微かな光も逃さないというが、潜水艇の光を獲物と思ったのか、自ら近づいて来たのであった。

「ここにサメのような大きな生物がいるということは、大王イカがいてもおかしくない…」、窪寺博士は何度も近づいて来るサメを見ながら、そんなことを思っていた。










◎無人カメラ



「どうだった?」

8時間のダイブから浮上した潜水艇。その帰りを心待ちにしていた母船の研究者たちは、期待を込めて窪寺博士らを取り囲んだ。

「サメを見た。生物発光も見たよ」

窪寺博士は冷静にそう答えていたが、それを聞いた研究者たちは異様に興奮していた。ビッグ・プロジェクトの出だしは順調のようだった。



さて今度は、アメリカのウィダー博士ご自慢の「秘密兵器」の登場だ。

それは無人カメラ「メドゥーサ」。そのカメラの眼前には、青く発光する丸い装置がついている。これは深海のクラゲの光を模したものであり、まるでネオンサインのように回転しながら発光する。

この光が深海のハンター、巨大イカの本能を刺激する。獲物と勘違いして、次々に襲ってくるのだ。ウィダー博士は、カリフォルニアの深海でそれを証明していた。



30時間連続で撮影できるという無人カメラ「メドゥーサ」。

その青い光は、大王イカに届くのか?






◎オーマイガー



2日後の夕方、深海に沈めていたウィダー博士の秘密兵器は、無事戻って来た。

さっそくパソコンに接続して、記録された大量の映像データをメドゥーサに吐き出させる。



「オー・マイ・ガー!」

眼を大きく見開いたウィダー博士、驚きで口が塞がらない。白黒の映像に現れたのは、それはそれは大きな腕だった。

何事だ、と駆けつけた窪寺博士は、その映像を見て断言する。「It's must be(大王イカに間違いない)」



「Are you kidding me(からかってるんじゃないでしょうね)?」と念を押すウィダー博士。

「No. からかってなんかいないさ。この長い腕には、これだけ多くの吸盤がある。It's amazing(これは素晴らしい)」と窪寺博士。

「Wonderful!」。ウィダー博士と窪寺博士はガッチリ握手。



伝説の大王イカ。その深海で泳ぐ姿が、世界で初めて映像としてとらえられた。

驚いたことに、その後メドゥーサは何度も大王イカを記録した(3度の調査でじつに5回)。その水深は600〜800m。窪寺博士の指定したまさにその深さだった。



「オー・マイ・ガー!」

カメラを獲物と勘違いして襲いかかる大王イカ。その狩りの行動は、従来思われていたよりも、ずっと俊敏であった。

獲物を狙う大王イカは、腕を細くまとめて、水の抵抗を極力減らして静かに接近。獲物(カメラ)の直前で、その大腕を一気に開く。カメラは、大王イカの腕の間にある口の部分(カラストンビ)が開く様子までをも鮮明に映し出していた。






◎斜め下から



船の下には、確実に大王イカが泳いでいる。その確信は、調査隊を大いに勇気づけた。

残る野望はあと一つ。深海で直接、大王イカと対面することだ。

「潜水艇の中から、(大王イカを)バッと自分の眼で見るっていうのが、なんつっても一番。それができたら、ホントに今まで何十年もやってきた希望が叶うんです」と、窪寺博士は胸を膨らませる。



どうしたら、大王イカを潜水艇の前におびき出せるのか?

そのヒントは、メドゥーサがとらえてきた映像の中に隠されていた。窪寺博士が注目したのは、大王イカが接近した方向。「斜め下」である。

じつは、この斜め下という方向、窪寺博士の長年の推測を裏づけるものでもあった。



大王イカの巨大な眼は、人間のそれよりもずっと性能が良い。

直径は30cmにもなる。巨大な頭の中身は、そのほとんどがバスケットボールよりも巨大な眼球なのだ。デカイだけではなく高性能、その感度はすこぶる高い。暗闇でも見える眼だ。

しかし、その良く見える眼は、全方向を見ているわけではない、と窪寺博士は推測していた。とりわけ「斜め上」の方向が良く見える。なぜなら、大王イカの眼球の網膜を詳しく調べてみると、とりわけ感度の高い細胞が、斜め上を見るように集中していたのである。



その眼の特徴から推測される大王イカの狩りは、こうなる。

獲物を探す大王イカは、獲物の下方に位置して、斜め上を見上げている。そして、獲物がその視界に微かな影、シルエットをさらした時、大王イカは「斜め下」から一気に襲いかかる。

ならば、その習性を逆手に取ろう。その攻撃範囲にエサをプラプラさせて、大王イカをおびき出せないか。下から攻撃がくるのであれば、潜水艇に獲物の影をチラつかせながら潜ればいい。

そう思案しながら、窪寺博士の最後の作戦は決まっていた。






◎いざ出陣



「この大きなソデイカを餌にして、大王イカを待つ、そういう作戦を採りたいと思います」

窪寺博士の手にするのは、1mはあろうかという特大のソデイカ。これを餌に、潜水艇から5mほど離した位置にブラ下げる。

急遽、潜水艇のライトも変更。それは赤い波長のライト。この波長は、大王イカをはじめとする深海生物の眼には見えないのだという。これはウィダー博士の無人カメラ「メドゥーサ」に使われていたものだった。

「なんとか、大王イカを引っ張り出してみたいと思います」

窪寺博士の決意は固い。



NHKの都合ばかりでなく、小笠原の海も時がないことを知らせていた。夏が終わりに近づくと、小笠原の海は荒れる。潜水艇では潜れない日が多くなるのである。

残された時間は少ない。おそらく、今回のオトリ作戦が最後のチャンス。その成功のために、窪寺博士は、潜水艇を沈めるスピードや姿勢などの細かな調整を重ねていく。ミスは許されない。

死んでいるソデイカを、あたかも生きているように見せかけなければ、極度に用心深い大王イカは現れないかもしれない。念のために、点滅ライトも取り付けた。その微かな光が、大王イカを呼び寄せてくれるかもしれない。



いざ、出陣。目指すはトワイライト・ゾーン。

「315m通過、異常なし」

ここで白いライトが消され、赤いライトに切り替えられた。超高感度カメラが撮影できるギリギリの条件。船内の灯りもすべて消され、潜水艇はトワイライト・ゾーンの闇に溶け込んだ。






◎いよいよ



「ダメだ、近すぎる」

窪寺博士は厳しく指摘。ソデイカと潜水艇の距離が近すぎると、大王イカに警戒されてしまうかもしれない。付かず離れずの5mの距離をキープしなければならない。

「潜水艇から離してくれ」

思いのほか速い流れに、ソデイカが安定しなかった。



「600m。異常なし」

いよいよ水深600〜800m。ここからが大王イカの縄張りだ。

いつ来てもおかしくない…。



「疲れた? 先生」

潜航が始まって2時間。窪寺博士は目をこすっていた。

「眠い…」



どれ、眠気覚ましに透明ドームの結露でも拭くか…

と、そのときだった。

「あっ…! 来た!!」






◎光沢



「どこ?」

「来たぞ!!」

漆黒の暗闇の中に突如あらわれた。



10本の足を目一杯に広げた大王イカ。

オトリのソデイカを、ガブリと抱え込んだ。



「That's incredible…(信じられない)」

窪寺博士のほんの5m先には、夢にまで見た大王イカがその姿をさらしていた。

「Light please. White light please! (ライトを点けてくれ、白いライトだ!)」



ライトを点灯しても、不思議と大王イカは微動だにしなかった。あれほど頑なに身を隠していたはずの大王イカが…。

それほど空腹だったのか? 捕らえた獲物は離すまい、と。



それにしても美しい…。

「これほどまでに綺麗で、神秘的な生きものがいるものだろうか…」

ライトアップされた大王イカは、その赤紫色の身体を光に輝かせていた。



浜辺に打ち上げられる大王イカの死骸は、決まってブクブク膨れたツヤのない白色をしているものだった。だが、「生きて泳いでいる大王イカ」はまったく違う。

まるで極上の錦を羽織っているかのように、その身体を金属のごとく輝かせている。深海での大王イカが、これほどの金属光沢を放つとは、窪寺博士も想像すらしていなかった。2006年に海上で見た大王イカとはまるで異なる。

大王イカの皮膚細胞は虹色素胞をもつというが、それが金属にも似た美しい光沢を放っていた。

「これが、大王イカの本来の姿なのか…」






◎眼



「あの眼…。見てよ、あの眼。あぁ…」

生物界最大級のその巨大な眼は、静かに、そしてジッと潜水艇を見つめている。

大王イカは動物には珍しく「白目」の部分を持っている。表情豊かなその眼は、何かを語りかけているかのようでもある。



かつて「伝説上の大王イカ」は、魔物として人々を震え上がらせてきた。「巨大な身体で、船を丸ごと引きずり込む」。そんなふうに船乗りたちは恐れてきたのだった。

しかし、目の前にいる大王イカは、ずっと知的な存在のように思われた。その深くも繊細な眼差しは、なにかを哀しむようでもあり、人間を慈しむようでもあった。



「まばたきしたぞ」

なんと大きなまばたきか…。



「It's sinking(沈んでいるぞ)」

その一言に、狭い潜水艇内には緊張が走った。

大王イカは獲物を抱えたまま、グングンと沈んでいる。



「重すぎる…」

潜水艇も大王イカを追って潜り続けるよりほかない。

まるで挑むかのような大王イカ。深い深い闇の中に、潜水艇はズリズリと引きずり込まれていく。大王イカの意のままに…。






◎He's leaving



沈み続ける大王イカは、眼の横にある漏斗(ろうと)と呼ばれる筒から、ジェット水流のように海水を吹き出している。これが強い推進力を生むのである。

獲物を持ち去ろうとしているのだろうか。

深海という獲物の少ない環境にあっては、食らいついたら食べ尽くすのが、生きる作法なのかもしれない。



「800m。大王イカとともに沈降中」

潜水艇の限界深度は1,000m。まだまだ大王イカは沈んでいく。

「883m」

限界は近づく。このままではマズイ。水深が1,000mともなると、その水圧は地上の気圧の100倍にもなる。カップラーメンの容器が潰れるだけでは済まない。金属バットがペチャンコになるほどなのだ。



安全のため、潜航速度を抑えた、その時…

「He's leaving…(あ、離れていく…)」

獲物からフッと離れた大王イカ。そのまま自分たちの棲む暗闇の世界へと帰っていった…。

「…go away… (行ってしまった…)」



「Giant squid has just left. (大王イカはたった今、去った)」

無線で海上に知らせる。そして、大王イカのいなくなった暗闇の中、窪寺博士は腕時計を光らせて時間を確認する。その瞬間、止まっていた「現実の時間」が再び動き出した。



23分。

大王イカととも過ごした時間。

短くも深い時間…。










◎一番幸せな男



夢か、と錯覚してしまうような時間だった。

深海の大王イカが、カメラに記録された23分間。

窪寺博士の積年の想いが結実した23分間。

「それは小笠原の海が、ほんの少しだけ、私たち人間に深淵なる世界を見せてくれたのかもしれない」



母船で待つ人々は、窪寺博士の成功を水中無線で知っていた。

それにしても、ノイズの中から聞こえてきた「ダイオウイカの撮影を開始した」という報告には、船上の誰もが耳を疑い、顔を見合わせたものだった。



潜水艇は、その狭い艇内に未だ大王イカの余韻を残したまま、海面を目指して浮上していた。

水深が浅まるにつれ、暗闇だった世界はどんどんと明るさを増していく。

そして無事に水上へドームの頭を出すと、そこは眩しすぎるほどの「人間の世界」だった。



すでに甲板に集まっていた仲間たちは、船のそこかしこから祝福の拍手を送っていた。

潜水艇のハッチを開けて、歓声と嬌声に応える窪寺博士。力強くガッツポーズ…!。笑顔は心の底から湧き上がる。



「彼はこの世で一番幸せな男ね。この栄光は彼にこそふさわしいわ!」

ウィダー博士は、窪寺博士の快挙を本当に喜んでいた。

「おめでとう! 長い道のりだったね」






◎未だ知らず



深海生物探査の歴史は1930年代にまで遡る。これまでに無人・有人を含め、さまざまな深海探査艇が海に潜ったが、大王イカの撮影には誰もが挑み、そして敗れ去っていた。

「これほどまでに鮮明に撮れることは、二度とないんじゃないか。あれほど警戒心の強い生きものが、明るいライトの前で23分間その場にとどまった。本当に奇跡だ」

窪寺博士と10年間、苦労を共にしたNHKの河野カメラマンは、のちにそう語っている。



世界中の海で、何としても撮影できなかった大王イカ。

その大王イカが、小笠原という日本の海に、カメラのまえに降臨した。



「人知れぬ試行錯誤も、どこかで誰かが見てくれているものなのか」

あの大王イカは、窪寺博士の前だからこそ現れてくれたのか?



文明が発達した人間社会に暮らしていると、まだまだ「未知の世界」があるなどとは思わなくなってしまう。

だが、大王イカの棲む深海、その世界のことを、われわれ人間はまだ何も知らない。海の9割を占めるのが、その深海だ。

あの大王イカの深い眼差しは、そんなことを教えてくれていたのだろうか。



というよりも、われわれ人間は何を知っているのであろうか。

今まで、どれほどのことを知り得たのであろうか。それはむしろ、ケシ粒ほどの小ささに過ぎないのではあるまいか。



だが、ケシ粒で大いに結構。

その外側には、挑む余地がふんだんに残されている、ということだ。



「知る喜び」、それは何モノにも代えがたい。

窪寺博士を包んだ歓喜が、まさにそれだったではないか…!

He's gotta be over the moon!






(了)






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出典:NHKスペシャル
「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」

posted by 四代目 at 19:24| Comment(0) | 自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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