「世の中、こんなに不条理に満ちているのに、なんで皆んな、それにもっと反応しないんだ? なんで不条理がないかのように、日々暮らしているんだ?」
映画監督・大島渚さんの遺品である大量の創作ノートを整理しながら、息子である武さんは、そんな父親の声を改めて聞いていた。
「その不条理を皆んなが忘れそうになっているから、それを喚起する。そういう気持ちがあったんじゃないかと思います」
息子・武さんは、父親の「怒り」をそんな風に表現した。
映画監督・大島渚、享年80歳。今年(2013)1月没。
おかしいと思えば、人目を憚らずに「怒り」を顕(あらわ)にしていた大島監督。テレビ番組などでも、周りを気にせずに「怒り」を爆発させることが珍しくなかった。
彼の深奥から沸き上がってきた、その「怒り」とは?
◎おかしいものは、おかしい
6歳にして父親を亡くした大島渚監督。その後に移り住んだ母親の故郷・京都で、「生まれた時から差別され、苦しむ人たちがいる」という現実に言葉を失う。
そして、多感な12歳の時、日本の終戦を体験する。大人や国に対して「強烈な怒り」を初めて感じたのは、その時だった、と大島監督は自著「失って、得る。」に綴る。
「『今に神風が吹いてきて、日本は必ず勝つ』と断言した同じ口で、軍部の愚かさを罵る。吐き気がした」
京大時代は、京大天皇事件や荒神橋事件など、学生運動に怒りを燃やし、卒業後は27歳で監督デビュー。自らの映画作品に社会への怒りを投影させていく。
「差別される人、制度のはざまで抑圧される人々を積極的に主人公として描いた大島監督。異端、反逆児、ときには政治的と評されました(NHKクローズアップ現代)」
社会の歪みと真正面から向き合い、「おかしいものにはおかしい」と怒りをぶつける。彼は自らの怒りをもって、社会の問題に鋭く斬り込んでいったのだった。
◎「少年」
代表作「少年(1969)」において描き出されたのは、「懸命に生きようとするほど、犯罪の深みに陥っていく不条理さ」。
「傷痍軍人で左手がパーで、おまけに糖尿病で。車にはねられるにゃ、ちょどええ身体やわ」
後妻の母親は、父親をそう罵る。「少年」の家族の仕事は、走っている車にわざと飛び込んで、示談金を得るという「当たり屋」。少年みずからも車に当たりにいく。
実際に起きた事件をモチーフにしたというこの作品には、「犯罪を強いられる少年」の哀切が描かれている。
「死のう…。僕が死んだらええんだ…」
◎「愛のコリーダ」
映画監督として、国際的名声を不動のものとしたのは「愛のコリーダ(L'Empire des sens)」という作品だった(1976)。
しかしこの作品は、男女の性愛をあまりに描写しすぎたために、日本では「わいせつ罪」にあたるとして起訴されることとなる。
「外国では認められる表現が、なぜ日本では『わいせつ』とされるのか!?」
そう不条理を感じた大島監督は、5年にわたる裁判を闘い抜く。
結果は勝訴。
「表現は社会通念に合わせて変わっていくべきだ」という大島監督の主張が認められた。
裁判を共に闘った弁護士・内田剛弘さんは、こう語る。
「やっぱり現在、この社会の中に存在する不条理なものに対して、怒りをもって闘っていく。そういうことなしには、社会の進歩はないんだ、と」
◎テレビ
次なる作品「愛の亡霊(1978)」で、カンヌ映画祭・監督賞を受賞する大島監督であるが、逆にこの頃から、日本人の空気が監督から次第に離れていってしまう。
時は高度経済成長。豊かになった日本に大島監督の「怒り」は、見向きされなくなってしまっていた。
「ふとある日、気付いてしまったらば、世の中が付いてきていない」
大島監督のもとで助監督を務めていた崔洋一(さい・よういち)さんは、当時をそう振り返る。
「大島渚における、政治の季節は終わった、と」
以後、大島監督はテレビ・タレントのようになってしまう。
「あんまり下らない番組には、出なくていいんじゃないの?」
そんな息子の苦言に、監督は
「お前…、テレビの仕事断って、次こなくなったらどうするの?」と真顔で答えたという。
当時の監督の日記には、こうある。
「困迷。メモのみ。くさる。」
精神のバランスが崩れていく。
「このところ躁鬱病」
◎「戦場のメリークリスマス」
闇の中にあった大島監督が踏み出した次なる一歩は、「大衆路線」という道だった。
映画「戦場のメリークリスマス(1983)」で起用されたのは、知名度はあるが俳優としては素人の人々。たとえばデヴィッド・ボウイ(ロック・ミュージシャン)、坂本龍一(音楽家)、ビートたけし(お笑い)など。
当時、ビートたけしと坂本龍一は、「オレの演技もひどいけど、坂本の演技もひどいよなぁ」と語り合い、2人でこっそりフィルムを盗んで焼いてしまおうと冗談を言っていたという。
また、大島監督は俳優を激しく怒ることでも有名であったから、「怒られたら一緒にやめよう」と2人で約束をしていたとか。それを監督は知ってか知らずか、坂本龍一やビートたけしの代わりに、周りの相手役や助監督らが叱られていたというエピソードも。
それでも、演技者の素質を見抜く才能に稀有なものがあったという大島監督。当時は一お笑い芸人に過ぎなかったビートたけしを「彼以外には考えられない」として本気で大抜擢したのだという。
当のビートたけしは「自分の演技がひどすぎる」と滅入っていたようだが、共演者たちは「たけしに全部持っていかれた」と、その圧倒的な存在感に歯噛みしていたという。
舞台は第二次世界大戦。日本統治下に置かれていたジャワ島の捕虜収容所。
戦闘シーンは一切なく、描かれたのは、上官の命令で捕虜に対して厳しく対処しなければならない戦争の不条理さであった。
◎少女たち
「戦争のメリークリスマス」は、思わぬ人々の心を打った。
それは「10代の少女たち」であった。監督は著書「失って、得る。」にこう記す。
「僕が『戦場のメリークリスマス』を作ったとき、テーマを教えてくれたのは女性。それも少女と呼ぶべきような若い人達からの手紙だった。僕は、彼女達のやわらかな感性に感動した。ああ、そうだったのか、と膝を打った」
当時、手紙を送った和田育子さんは、こう語る。
「みんな心の中ではすごく寄り添いたいと思っているのに、何かがあって寄り添えなくって、それがすごくもどかしい。でも、皆んな必死なんだなっていうところに、すごく感動しました」
当時、中学生だった和田さんは、引っ込み思案で他の人と打ち解けることができない自分の姿を、「戦場のメリークリスマス」の登場人物たちに重ね合わせていたのだという。
「どんな評論家が書いて下さるより、彼女たちの手紙が嬉しかったんでしょうね」
監督の妻・小山明子さんは、そう偲ぶ。
監督の表現は変わった。それでも、その本来の姿は変わることがなかった。その本質を、少女たちの繊細な心は敏感に感じ取ってくれていた。
◎殺気
原点に立ち返った大島監督。
10年ぶりに映画を作ろう、と立ち上がった矢先であった。
渡航先のロンドン・ヒースロー空港で脳梗塞で倒れた。
それでも3年余のリハビリを経て、メガホンをとった。
映画「御法度(1999)」
舞台は幕末の新撰組。そこに込められた想いは「バブル崩壊後に活力を失った日本で、『おかしいことはおかしい』と声を上げずに、人々が守りに入っていくことへの危機感」だった。
「今の世の中に絶対的に不足しているものがあるとしたら、それは殺気だ」
怒りを新たにした大島監督は、そう力を込める。
「僕が表現したかったのは、この世の中にぶつかっていく男達の切迫した姿。殺気なんだ」
◎火
「人間がどこかへ行くということは、そこに安住するためではない。そこがダメであることを確かめて、闘うために行くんだ」
この文言は、怒りをもって闘っていた大島監督が、当時の若者に送った手紙の中にあったものである。
自由とは与えられるものなのか、それとも掴み取らなければならぬものなのか。それを大島監督は若者に問うた。そして「闘え」と断言した。
監督の「怒り」は否定ではない、とその若者はとらえた。
「闘っていいのか…、よしやろう…!」
その思いは、理屈ではなかったという。確かな意味は分からぬが、焚きつけられた。大島監督の怒りは、その着火剤だった。
焚きつけられたのは、樋口尚文という映画監督。
「大島さんのDNAを受け継ぐような映画を作りたいと思い、一本の映画を監督した次第です」と樋口さんは語る。
大島監督の怒りは、「細やかだ」と樋口さんは言う。
大島監督は、たとえ小さな物語でも大切にする。大きな世の中があっさり力で押し潰してしまうような弱く小さな物語。
「それでも、小さな物語っていうのは間違っていないんだ。おまえがそれを正しいと思うのは間違ってないんだ」
大島監督は、その小さな肩をもつ。そして、一緒に怒ってくれる。それは、確かな未来へ向かおうとする強烈な意思表示でもあった。
葬儀の場、「戦場のメリークリスマス」で共に仕事をした坂本龍一氏は、監督の死をこう惜しんだ。
「あなたのように、社会を厳しく叱る人間がいなくなり、日本は少しつまらない国になったのかもしれません…」
戒名は「大喝無量居士」。
享年80歳。
(了)
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出典:NHKクローズアップ現代
「君は怒るオトナを知っているか 映画監督・大島渚」