「日本人は好きだけれど、『日本という国』には好意的な印象を持っていない」
ミャンマーの「アウン・サン・スー・チー」女史は、かつてそんな目で日本を見ていた。
当時の日本という国は、スー・チー氏を不当に自宅軟禁していたミャンマーの軍事政権とパイプを保っており、欧米各国が主導する軍事政権への経済制裁にも距離を置いたままだった。
日本は日本で、ミャンマーの民主化を促すためには「軍事政権とのパイプも必要だ」という融和的なスタンスを取っており、どうしても欧米諸国のような強硬一辺倒の姿勢には抵抗があったようである。
しかし、そうした日本のある種あいまいな態度は、ミャンマーの民主化をまっしぐらに願うスー・チー氏にとって、歯痒いものであったのだろう。
90年代終わり頃、自宅軟禁下にあったスー・チー氏に、「軍事政権に民主化を促すために『国連の大使』を選定したいが、『この国籍の特使だけは相応しくない』と思うのはどの国か?」と尋ねたところ
「それは日本」と、スー・チー氏は即答したと伝わる。
◎アウン・サン将軍の娘
第二次世界大戦時、イギリスの植民地下に置かれていたビルマ(ミャンマー)は、1942年、日本軍と共闘したビルマ独立義勇軍の「アウン・サン将軍」がイギリス軍を撃退。翌年(1943)、ビルマ国の建国を果たす。
だがその後、日本の敗色濃厚と見たアウン・サン将軍は、戦局有利のイギリス側に寝返り、日本の指導下にあったビルマ国に対してクーデターを敢行。そして今度は逆に日本軍を駆逐。
しかし、その勝利後、イギリスはアウン・サン将軍との約束を反故にし、ビルマの完全独立を許そうとはしなかった。
イギリスに裏切られたアウン・サン将軍は、何を想ったか。
軍を去ったアウン・サンは、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を率い、イギリスにビルマ独立を要求し続けた。イギリスにとってのアウン・サンは、いわば厄介な反イギリス独立主義者。それゆえ、彼に反感を抱くイギリス軍将校は少なくなかった。
それでも、アウンサン率いるAFPFLは議会選挙で圧勝(202議席中196議席獲得・占有率97%)。
だが、1947年7月19日、アウンサンは暗殺者たちの凶弾に倒れる(享年32歳)。
ビルマが真の独立を果たすのは、その翌年の1948年。アウンサンの死は、まさにその直前の悲劇であった…。
この「建国の父」アウンサン将軍の末娘が、現在、ミャンマー民主化を主導する「アウン・サン・スー・チー」女史。
父が暗殺された時のスー・チー氏は、まだ2歳の幼子であった。
◎民主化運動のシンボル
物心つく頃には、すでに父を亡くしていたスー・チー氏。
それでも、その血はひときわ濃く受け継がれていた。
ミャンマーの軍事政権に対して、1988年、学生が中心に起こした反政府運動(8888民主化運動)。
この運動のさなか、スー・チー氏は50万人の市民の前で大演説をぶち上げ、一躍「民主化運動のシンボル」となる(当時43歳)。
軍と衝突した学生の死により激化した一連の民主化運動。
その成果として、1962年より26年もの長きに渡って続いていた軍事独裁政権は退陣に至る。だが、その後に勃発した軍事クーデターによって、民主化運動自体は流血とともに鎮圧された。
※軍は数千人の市民(学生・仏僧を含む)を殺害したといわれるが、軍事政権の主張によれば犠牲者は20〜30人に過ぎない。
この8888蜂起の中、スー・チー氏の政治的母体となる政党「国民民主連盟(NLD)」は結成される。
結成から2年後に行われた総選挙(1990)で、この政党は歴史的大勝を収める(485議席中392議席獲得・占有率81%)。
だが、軍事政権は権力移譲を拒絶。
国民民主連盟(NDL)の政治活動を禁止するばかりか、同党の幹部や議員らを、政治犯として多数投獄するという暴挙に出る。
スー・チー氏は自宅軟禁という軍事政権の監視下に置かれ、この状況はその後、延べ15年にも及ぶことになる。
◎自宅軟禁
「たゆまぬ努力、それが人生なのです(Life is constant endear)」
その言葉通り、スー・チー氏はいつ終わるとも知れぬ自宅軟禁下にありながら、その志を変えることはついぞなかった。
その軟禁下にあった1999年3月、スー・チー氏の夫マイケルは遠くイギリスの地で死去する。
死を悟ったマイケルは、再三ミャンマーへの入国を求めたというが、軍政は頑なにマイケルにビザを認めない。その代わり、軍政はスー・チー氏の出国を促した。
「政府はこの機に、私を国から追い出そうとしたのです。もし、私が一旦国を出てしまったら、二度と再入国は認めらないでしょう」
そう言って、スー・チー氏はミャンマー国内に留まった。そして、夫マイケルとは死に目に会うことなく生き別れた。
バリケードの築かれた自宅軟禁の館から、時おり顔を見せていたスー・チー氏の頭髪には「鮮やかな花の髪飾り」が見られた。
それは再会することなく死別した夫マイケルとかつて、誕生日に贈り合った花だったという。その美しい花を頭につけることは、彼女に許された軍政への精一杯の抵抗であった。
本来、スー・チー氏は留学先のイギリス(オックスフォード大学)で、アカデミックな人生を送るはずであった。マイケルと結婚したのも、同大学での出会いがそのキッカケだった(スー・チー氏、当時27歳)。
子供も2人もうけた。だが、故国からの一本の電話が、それまでの穏やかな生活のすべてを変えてしまった。それは母が倒れたとの知らせ。
急遽、家族をイギリスに置いたままビルマ(ミャンマー)に戻ったスー・チー氏は、あの民主化運動(8888蜂起)の鮮血を目の当たりにしてしまう。
そして、数百万人の民衆に担がれるようにして、熱弁を奮っていた。
「私は叫びました。涙が溢れてきました」
民衆を前にした彼女は、もはや妻でも母親でもなかった。人々の切に求めていた新しい政治指導者の姿だけがそこにあった。
すぐにでもイギリスに帰国しなければならなかったスー・チー氏だが、もはやその心は完全に祖国のために捨てる覚悟を決めていた。
軍の向ける銃口にも恐れを感じなかった。道の中央に毅然と立ったスー・チー氏は、軍の引き返せとの言葉を断固拒否。逆に、その銃を下ろさせた。
その後、軍によって自宅軟禁されたスー・チー氏。
「彼らは自宅の電話回線を切断しました。実際にハサミで切って、電話を持ち去ったのです」
イギリスに残した2人の息子たちは、その時12歳と16歳。夫のマイケルがその面倒を見ていた。
「自宅軟禁下での歳月は、気の遠くなるような遅さで流れました…」
そして、夫マイケルの病気から死別(1999)。
「国民と祖国に対する強い義務感」
スー・チー氏の血に流れるその想い。「建国の父」アウン・サン将軍の娘という宿命は、彼女の身を2つに切り裂いた…。
◎現実路線
ようやく、風向きが変わり始めるのは、ミャンマーの大統領が穏健派のテイン・セイン氏に代わってから。
自宅軟禁を解かれたスー・チー氏は、昨年4月の補欠選挙へ出馬。彼女の政党NLD(国民民主連盟)は、スー・チー氏を含む44人の候補者を擁立し、40人が当選するという大勝を収めた(当選率90%)。
1990年の幻の大勝から20年以上の時を経て、ついにスー・チー氏は政治の檜舞台へと立つことが叶ったのであった。
議員になって1年。清流にあったはずの彼女は今、政治の泥沼に汚れている。
本当に国を変えたいと思うのなら、理想ばかりでは現実を動かせない。民主化のシンボルから一転、彼女は「現実路線」を歩み始めている。
これまで鋭く対立していた軍に、スー・チー氏は自ら歩み寄った。先月行われたミャンマー国軍の軍事パレードに、スー・チー氏の姿があった(もちろん初めての参加)。対立する与党のパーティーにも、彼女は足を運んで協力を呼びかけた。
さらに、軍事政権下で利権を牛耳ってきた財閥にも、自ら声をかけた。ミャンマーの不動産王と呼ばれるキン・シュエ氏は、軍とともに巨万の富を築いた男で、欧米の経済制裁の対象ともなっている。その彼にも、スー・チー氏は協力要請を躊躇わなかった。
◎罵詈雑言
「スーチーさん、あんたにはガッカリだ…」
理想ばかりを見つめる人々は、議員となって豹変したようなスー・チー氏に失望した。
「希望が打ち砕かれた。あなたは政権に利用されているだけだ!」
これまでのミャンマーで、「民主化の星」であるスー・チー氏に罵声が浴びせかけられることなど、およそ考えられなかった。
しかし、今は違う。大胆と思えるほどの現実路線を歩み始めたスー・チー氏は、軍の鉱山開発ですら、今はそれを支持する。
「国のために利用されるのなら構いません」
たとえ軍の手先と罵られようが、スー・チー氏がその態度を変えることはない。
彼女は自分の美声を守ることよりも、やはり祖国の人々の生活が良くなることを望まずにはいられない。議会には多少の変化が起こせたとはいえ、まだまだ国民の生活は変わっていないのだ。
「本当の改革とは、国民の生活が変わることだと考えています。それはまだ実現できていません」
そう語る彼女は両目を見開き、あくまでも現実を見据えている。
◎絶対的な軍
高潔の女史は今、譲歩も恐れない。
たとえ自分の名が折れても、進み始めた民主化だけは後退させるわけにはいかないのだ。
「ギブアンドテイクは、100%こちらの要求を通すということではなく、相手の立場もよく理解することです。そして両者が新しい状況で、何かを得るということです」
スー・チー氏は、絶対的な権力を握る軍に対して、権力を移譲するように求めているわけではないという。
「軍として、より価値のある『役割』があるということを理解してほしいのです」
と彼女は言う。
「より名誉ある、良い役割を引き受けてほしいのです」
現在、ミャンマー議会の議席は、その4分の1が無条件で軍人に割り当てられる。そして、非常時には軍が政府の全権を掌握できる、と憲法には定められている。
憲法の改正には、4分の3以上の賛成が必要とされるため、たとえスー・チー氏の政党(NLD)が軍以外の議席をすべて占拠しようとも、軍の協力なしには、大きな改革には手を付けられないのである。
◎恐怖
「安心感というものが必要です。未知の新しい領域に足を踏み入れても大丈夫だという安心感。それは軍だけでなく、誰にも言えることです」
変化の前に必要とされるもの、それが「安心感」だとスー・チー氏は話す。
「失敗を恐れていれば、失敗すると思います」
民主化を後退させるもの、それは「恐怖」だとスー・チー氏は言う。
ミャンマー国民は今も、軍事独裁政権の復権に怯えている。未だ生活が好転しない状況下にあって、それは無理もない(国連の人間開発報告書でミャンマーは186カ国中149位の後発開発途上国)。
「一人ひとりが自らの心を恐怖から解き放ち、自由を求めない限り、国は変えられない」
これは「建国の父」アウン・サン将軍の言葉である。娘のスー・チー氏は、この言葉を自著「恐怖からの自由(Freedom from Fear)」に引用している。
軍の協力なしに国を変えられないのと同様、国民一人ひとりが変わることなしに、その生活を変えることはできない。
軍に然るべき役割があるのと同様、国民一人ひとりにも「然るべき役割」がある。それを今、スー・チー氏は国民に求めるのである。
「真の民主主義の実現はこれからです。私は自らの役割を果たしてきました。みなさん一人ひとりにも『自分の務め』を果たしてほしいのです」
◎自立
「私は国民に自立してほしいと思っています」
スー・チー氏は、そう語る。
「私や私の党に頼ることで自分の望みを叶えようとせずに、参加してほしいのです」
「人生でタダで手に入るものは何もありません。何もせず、ただ希望しているだけ、他の人がやってくれると期待するだけではダメです。自分でやらなければなりません」
穏やかな表情を湛えたままであるが、スー・チー氏の言は強い。
以前の彼女ならもっと強い。「何かに向かって努力していない者は、希望についてい話す資格はない」とまで言い切っていた。
かつて、日本が明治維新を成した時、福沢諭吉は著書「学問のススメ」にこう記していた。
「一身独立して、一国独立する」と。
諭吉が痛烈に批判したのは「お上(かみ)頼りの百姓根性」。そんな輩ばかりでは、日本は「先導する人のいない盲人の行列」に成り果ててしまうと、諭吉は危惧したのだ。
「この国民あっての、この政治。政府が悪いのではない。愚民が自分で招いた結果なのだ」と諭吉は厳しかった。
◎大統領
現在、国政の場にあるスー・チー氏に、大統領となる期待は大きい。
だが、「大統領になる自信があるとは言いたくありません」と当のスー・チー氏は言う。
「それは人々が私に投票してくれるということだから。それは国民が決めることで、私が決めることではありません」
次回のミャンマー大統領選挙は2年後(2015)。
その時、スー・チー氏は70歳になっている。
「恐らく最後のチャンスでしょう」と、スー・チー氏の側近(ウィン・テイン議員)は語る。
「時間との戦いだと思いますか?」との問いに、スーチー氏はこう答えた。
「いいえ、そうは思いません。政治の世界では2日でも長い時間です。まして2年は長いと思います」
大統領になることだけが、彼女の勝利ではない。
「ただ勝てば良いのではなく、どのように勝つかが大事」とスー・チー氏は言い続けてきた。
「信念や価値観を犠牲にして成功しても、それは本当の勝利とは言いません。それは実際、失敗です。敗北です」
スー・チー氏の考える勝利とは?
「それで信念が強まった、あるいは社会にとって良い価値観が生まれたというのであれば、それが勝利と言えるのです」
敗北と勝利は表面的に考えてはいけない、と彼女は言う。
スー・チー氏が民主化運動のシンボルと囃されてから、早25年。そのうちの実に15年が、自宅軟禁下にあった。
それでも彼女は屈しなかった。彼女の払った犠牲は多大であったかもしれない。だが、信念や価値観を犠牲にしたことは一度もなかった。
彼女は敗者とされながらも、ある意味、勝者であった。自宅軟禁下にありながら、ノーベル平和賞も受賞している(1991)。アメリカからは議会名誉黄金勲章を授与された(2008)。軟禁が解かれた後に訪れたイギリスでは、国賓として遇された。
なにより、彼女がいたからこそ、圧政下のミャンマーでも民主化の火が消えることはなかった。
◎日本観
冒頭でも述べたように、スー・チー氏の日本観は複雑である。
父アウン・サン将軍は、反イギリス闘争の中、一時的に日本に逃れていた時期もある。だが結局、日本との共闘は捨てた。
娘スー・チー氏も、自宅軟禁にあった時、軍事政権に加担し続けた日本を苦々しく思っていたかもしれない。だが、聡明な彼女は、日本の行動にも一定の理解を示していた。
「制裁に加わらなかった日本を友人と認めない、という見方もありますが、そんなことはありません」と彼女はのちに語っている。
日本は欧米各国が制裁を課したミャンマーに留まり続け、30年にわたり現地での支援を続けてきた(人道支援を含む)。
たとえばJICAによる少数民族支援、電力・水道などの整備、農村部での母子保健事業…。NGO「AMDA」による貧困生活向上のためのブタやヤギへの融資プロジェクト。
2008年のサイクロン・ナルギスが14万ともいわれる被害を出した時も、日本は他国に先駆けて被災地入り。緊急支援、復興支援に尽力している。
政治家となったスー・チー氏は、ぐっと柔軟になった。
かつて彼女は「ミャンマー」という呼称も使おうとしなかった。この国名は軍事政権が勝手に変えてしまったものだと納得せずに、「ビルマ」という呼称以外認めなかったのである。
ところが最近、「大事なことは中身であって、呼び方ではないでしょう?」と、一気に彼女は軟化していた。「日本は、日本でもジャパンでも変わらないんですから」と。
軟化してしまったスー・チー氏に落胆する声もある。
しかし、彼女の軟化は決してフニャフニャしたものとは考えられない。どちらかと言えば「柔」。芯のある柔らかさであろうし、「剛」を制しうるものでもあろう。
「民主化の星」は依然、輝きを変えることはない。
それが一時的に闇雲に隠れたように見えても、きっと変わらぬはずである。
そしてもう彼女は、勝敗を超えたところに存在しているのかもしれないのだから…。
(了)
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出典:NHK
クローズアップ現代「スー・チー氏の賭け ミャンマー民主化の現実」
時論公論「スー・チー氏来日で見えてきたもの」
韓国レベルの思考で日本のカネを
ドウにかしたいのが本音・・・
そんなスーチーの態度は目配り、口ともにデカイ。
国政の顧問兼外相ふぜいがボロでも一国の政治を
操作するなど何様?
スーチーは錯覚馬鹿女。
民進党レンポーのミャンマー版か?
お世話に成った英国に行け!