私は私を「形」でしゃべる
形はジッとしている歌
飛んでいながらジッとしている鳥
陶芸家「河井寛次郎(かわい・かんじろう)」は語る。
「私はどんなものの中にもいる。
こんなものの中にもいたのか。あんなものの中にもいたのか。
この世は自分を探しに来たところ。この世は自分を見に来たところ」
◎グランプリ作品
河井寛次郎67歳の時の貴重な映像。
人間国宝や文化勲章を頑なに固辞した寛次郎にしては、珍しいインタビュー映像である。それは、彼の作品「白地草花絵扁壺」がイタリア・ミラノのトリエンナーレ国際陶磁展でグランプリを受賞した時のものだった。
「先生、このたびはおめでとうございます。今回の作品は、展覧会のためにお作りになったものですか?」
そう口火を切った記者に、寛次郎は首を横に振る。
「いえいえ。これはねぇ、作っていたやつを友人がワシに黙って出品されたんですよ。それだけの話なんですよ」
なんと、友人が持っていた作品が勝手に出品され、それがグランプリを獲得してしまったのだという。
「だいたい私はね、国際場裏にね、モノを競うってなことに興味を持たないんですよ。だいたいねぇ、賞与ってもんが仮にもらえるもんとしたら、それはモノがもらうんであって、私個人がもらうもんじゃないと思うんですよ」
寛次郎はあくまで淡々としており、記者が期待したであろう受賞の喜びなどは、そこになかった。
◎釉薬(くすり)の河井
河井寛次郎は明治23年、島根県安来(やすぎ)に生まれ落ちる。寛次郎を陶芸へと導いたのも、その故郷・出雲。
町外れには皿山と呼ばれる場所があった。それは農家の人たちが農作業の合間に生活用の器を焼いていた窯場であった。
寛次郎は、幼少期をこう記す。
「子供たちは始終、皿山へ遊びに行ったので、いつのまにか目だけは誰をも『ひととおりの陶工』に作り上げた」
なかでも、轆轤(ろくろ)の仕事は子供たちを一番に引きつけた。
「ものが生まれるとは、このことであった。土の中から、きりきり回る中から、『形』は湧いて出てきた」
地元の中学(松江中学)を卒業後、寛次郎は上京。
東京高等工業学校の窯業科で、窯の作り方から陶芸に必要な技術を徹底的に学ぶ。とりわけ没頭したのが、「釉薬(ゆうやく)」の研究。のちに「釉薬(くすり)の河井」と異名をとるまでになる。
釉薬の中で最も難しいといわれるのが「辰砂(しんしゃ)」。銅の発するその赤を寛次郎は自在に操ることができた。夕焼けの空にも似た茜色。焼き物のルーツでもある中国の陶磁器を、寛次郎は次々と再現してみせた。
◎絶賛と酷評
大正10年、初めての展覧会(第一回創作陶磁展)において、寛次郎には最大の賛辞が送られた。
「天才は彗星のごとく現れる」
その代表作が「青瓷鱔血文桃注」。寛次郎32歳の時の作品で、中国で不老長寿の果物とされる「桃」をかたどった水差しだった。自在に操られた辰砂の絶妙なグラデーションは、桃の水々しさまで感じさせると絶賛された。
しかし、柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、その絶賛された水差しを酷評した。
「しょせん、模倣にすぎない」
柳の見出していた美は、古典の模倣にはなかった。それは「素朴で飾らない日用品」の中にこそあった(用の美)。
「いっぺんに殴りつけられる気がした」
寛次郎は目が醒める。
「今までの自分の仕事は、衣装の勉強であり、お化粧の勉強であった…」
◎用の美
その後、3年もの間、寛次郎は作品の発表を中断。
その迷いの末、寛次郎はやがて「用の美」に希望を見い出す。名も無き陶工の作った「実用の美」のなんと美しきことか…。
「たいした形じゃないか」
寛次郎は、かなりのスピードで走っていた自動車に急停車させると、陶器が累々と積んである店の前で、「それ」を手にとった。
それは「釣鐘火鉢」という実用品で、中に炭を入れ、船上の漁師が手を温めるものだった。
その時、寛次郎と共にあった「多々納弘光(ただの・ひろみつ)」さんは、当時をこう回想する。
「先生は、これを手になさって『たいした形じゃないか』とおっしゃいました。そして、『これは、出雲人の造形の血が結晶したような美しい形だと思う』とおっしゃいましてねぇ」
多々納(ただの)さんは、寛次郎に陶芸の指導を受けた一人。現在も「出西窯(しゅっさいがま)」という窯場を営んでいる。
「先生は、こうもおっしゃいました。『これ(釣鐘火鉢)をなぁ、作った人を探すとすれば、用の美なんだ』と。『用こそが形づくった根源だ』と」
◎無名
「用の美」に打ち震えた寛次郎はその後、自分の作品に名前を入れることさえ、やめてしまう。寛次郎はその転機を、のちにこう語っている。
「有名は無名に勝てないということの発見でした」
彼は、仕事には2つあるということを考えていた。それは「美を追っかける仕事」と「美に追っかけられる仕事」。有名が美を「追っかける」のだとすれば、無名は美に「追っかけられる」のだ、と。
若い頃は極めて科学的なことまで勉強して、技巧を磨いていった寛次郎。
しかし、いくら模倣を繰り返しても「本物は越えられない」という大きな壁に、行く手を阻まれた。
それでも世間は、河井寛次郎という名前をチヤホヤする。それは寛次郎のやりたい仕事ではなかった。
「小さな己を超えたところに、本当の仕事はある」
そうした考えに至った寛次郎。自らの名前を捨てた。
「あとからちゃんと、美がくっついて来るではないか」と。
◎登り窯
「今日は柿のタネだね」
孫の鷺珠江(さぎ・たまえ)さんが子供の頃、寛次郎は彼女によくそう声をかけていたという。
時には「メロンのタネだね」とも寛次郎爺は言う。その真意は子供心に分からない。ただ、柿のタネの方が大きく黒々として元気そうなイメージではあった。
寛次郎は、言葉を形づくることにかけても、いつも印象的だった。
珠江(たまえ)さんの大好きだった遊び場は、寛次郎の仕事場である「登り窯」。8室もある巨大なそれは隠れんぼに最適であり、落ちている陶器の破片は宝物のようだった。
しかし、いったんその窯に火が入ると、そこはガラリと「聖域」に変わった。
子供心にも「あ、今はダメなんだ」と感じさせたという。寛次郎は生涯、全部の作品をその自宅の窯で焼いたのだという。
陶芸の仕事は、半分は窯まかせ。
陶器を形づくるのは寛次郎の仕事だが、そのあとは窯に委ねるより他にない。窯の中の火が、作品に命を噴き込むのであった。
◎戦争
しかし、その命ともいえる「窯の火」が消えた時代もあった。
太平洋戦争。その灯火管制により、登り窯に火を入れることが禁じられたのだった。
「暮らしが仕事。仕事が暮らし」
そう言っていた寛次郎は仕事が大好きだった。こんな歌もある。
「仕事が仕事をしています。仕事は毎日元気です。出来ない事のない仕事。どんな事でも仕事はします。いやな事でも進んでします。進む事しか知らない仕事。びっくりするほど力出す…(仕事のうた)」
ちなみにこの歌は、出西窯の多々納(ただの)さんが寛次郎の指導を受けて以来、60年間毎朝、仕事場で歌われているものでもある。
そして迎えた終戦の日。
寛次郎8月15日の日記には、こうある。
「万事休す。出直し。泣いていいのか、笑っていいのか、怒っていいのか、体の置き場なし」
まさに絶望の思いが綴られている。
ところが翌日(8月16日)、寛次郎はガラリと生まれ変わる。
「来たれよ、来たれ。仕事はこれからなり。新しき希望燃えるなり」
また仕事ができるという喜びは、あっという間に寛次郎を希望に燃え上がらせたのだった。
◎新しい自分
寛次郎の新しい仕事が始まった。
「新しい自分が見たいのだ。仕事する」
自由奔放な発想から生まれたという、渦が巻く大皿「黄釉泥刷毛目鉢」。それはある時、絵付けに失敗して土を拭ったときに現れた偶然の渦模様だった。
不思議なことに、寛次郎の作品は年を重ねるほどに、若さを増していく。若い頃の中国古典のほうが逆に、ずっと老成した雅さがあるのだ。
まさか宇宙人のような作品を老年に生み出すとは…。70歳を超えた作品の中には、壺なのか何なのかも分からない、子供の落書きのような現代アートに見えるものまでがある。
「こんなものの中にもいたのか。あんなものの中にもいたのか」
この世は自分を探しに来たところ、と歌っていた寛次郎。老いてますます視野が広がり、あらゆるところに「自分」を見つけはじめていた。
◎土管
「たいした形じゃないか」
寛次郎は「水道の土管」にも目を輝かせる。寛次郎に連れられて工事現場へ行った多々納(ただの)さんは、その曲がった土管(L字管)を見せられる。
「土の中に埋まって、働き者の土管っていうもの。みんな美しいんだよなぁ」
寛次郎は土管に感心しきりであったという。その後、寛次郎はL字土管のような壷をいくつも作り出す。
戦後の作品は、じつにエネルギッシュ。
肉体は老いてゆけども、生命力は益々ほとばしる。
寛次郎は、目にするあらゆるものに共鳴してゆく。
◎顔
「恐れ多いけれども、ここに今上天皇(昭和天皇)さまの顔によく似て見えてしょうがないんだ」
向こうから走ってくるオート三輪車のフロントを見て、寛次郎は多々納さんにそう話しかける。
「前燈の目を見張り、泥よけの鼻を突き出し、前輪の首を振りながら…」
寛次郎は、モノが「人の顔をしたがっている」、「自分を人に似せたがっている」と記している(もう一つの顔)。
汽車の車両をつなぐ連結器も「人の顔」に見えた。新聞に載っていたというその写真を、寛次郎は切り抜き、わざわざ額に入れて部屋に飾った。今も河井寛次郎記念館には、それが残る。
「美の正体。ありとあらゆる物と事の中から見付け出した喜び」
寛次郎は、機械を否定しなかった。手作りだけが良いという狭い了見に囚われず、そこに美を見つければ、素直に喜んでいたのだ。
寛次郎は書斎の床の間に「香移し」の壺を置いていたが、それは使うためではなく、その形がUFOのようで面白かったからという理由からだったという。
◎木彫
「私は木の中にいる。一度も見たことのない私がたくさんいる」
寛次郎は晩年、木彫にも惚れ込んだ。
炎に半分ゆだねる陶芸と違い、木彫は頭のイメージそのままが形になる。その面白さに没頭したのであった。
ノミを振るったのは仏師・松久宗琳(まつひさ・そうりん)。寛次郎のイメージそのままの木彫を掘りあげた。
仏師・松久宗琳の手はそのまま、河井寛次郎の手であった。宗琳が少しでも自分の色を入れようとすると、寛次郎にすぐ見抜かれたという。
木の中の寛次郎は「出してくれ」とせがむ。
「私はそれを掘り出したい。出してやりたい」
掘り出された寛次郎は、摩訶不思議な形ばかりをしていた。童話の世界から飛び出したオモチャのようでもあった。
しかし、その姿はついに「あの形」へと至る。
◎球体
両手の間に大切に温められている、木彫のその形。
それは、「まん丸の球体」であった。
陶芸の作品にも球体が現れる。
「作ってみてから考えたね。これは油断できないぞ。油断すると手の上の玉が落ちる」
天を指した人差し指に、まん丸の球がちょこんと乗っかっていた。
すべてが削ぎ落とされた後に残ったのは、「球体のみ」が存在する世界。
生誕120年を期に行われた調査では、「鉄釉球体」というコレクター所蔵の埋もれていた作品が発見された。
直径10cmほどの球体。茶色のまだらな釉薬が放つ輝きは、地球の大陸のようにも見えてくる。
◎石
「石の中にいる」という寛次郎もまた、まん丸だった。
出雲の友人からは「石灯籠」を送りたいという申し出があったが、寛次郎は「まん丸の石」を所望した。
その希望の石を手にして寛次郎は、その喜びを友に綴る。
「丸石 毎日 大元気 益々丸い」
庭に置いたその重い丸石を、寛次郎は自分で押して転がして、時々置き場所を変えては楽しんでいたという。
「雪の日の丸石 美し美し」
年を重ねるごとに若返っていったかのような寛次郎。ついにはその根源たる卵のような球体へと帰っていった…。
◎自他
「自分の好きなものを、自分で作ってみようというのが、私の仕事です」
寛次郎は著書「機械は新しい肉体」に、そう記す。
「そういう際に表現される『ぎりぎりの自分』が、同時に他人のものだというのが自分の信念です。ぎりぎりの我に到達した時に初めて、『ぎりぎりの他』にも到達します」
そして、こう締める。
「自他のない世界が、本当の仕事の世界です」
有名から無名へ。「自他合一」、どうやらそれが寛次郎の目指すところであった。
どれほど自分の技法を尽くしても、陶芸はある時点から窯にお任せするしかない。自然の大いなる他力を借りずに、仕事はできない。
自力と他力。そのギリギリのところに、寛次郎は立ち続けていたのであった。
「私は私を形でしゃべる。
土でしゃべる。
火でしゃべる。
木や石や鉄などでもしゃべる」
「立ち止まって、その声を聞く。
こんなものの中にもいたのか。
あんなものの中にもいたのか」
(了)
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出典:NHK日曜美術館
「宇宙の器 器の宇宙 陶芸家・河井寛次郎」