2013年04月13日

無防備なる「宮本武蔵」。その実像に迫った直木三十五


宮本武蔵は「剣の名人か否か?」

1935年、直木三十五と菊池寛は大論争を起こしている。



当時の宮本武蔵といえば、講談の世界に登場する荒唐無稽のヒーローに過ぎなかった。

食事中の塚原卜伝に襲いかかるも、鍋蓋で防がれてしまう「鍋蓋試合」。または、村人を困らせる大狒々(ひひ)を退治する「狒々退治」などなど。

その武蔵は、「講釈師、見てきたような嘘を言い」と揶揄されていた講談の世界だけに生きる人物だったのだ。



「武蔵非名人説」をとるのは直木三十五。その緻密な時代考証にはデビュー当時から定評があった。

講談の世界に徹底した時代考証を施し、史実と伝説とを峻別することで、より真実に近い歴史小説を書くことを、直木は目指していた。

以下は、その直木が史料を踏まえて「武蔵の実像」に迫った作品からである。








◎打撥の悟


村での名門、宮本無二斎の一子、弁之助。

「十二歳にしかならないが、見たところ十五、六の柄があり、力や、腕は、それにもまして、立派な一人前」



その弁之助がじっと、祭りの太鼓を打つ男の手を見ている。

「右手で打っても、どうーん。左で打っても、どうーんと、同じ音色で、強弱なく響く」

(もし、刀が左手でも、右手と同じように使えたら…)、弁之助はそんなことを思って太鼓の音を聞いていた。



家へと戻り、父・無二斎にこの事を話す弁之助。

「子供が、はははは、おもしろいが、それは二兎を追うものじゃ。両手で使うても容易でないものを、片手で、どうして使えるか」と、父はまるで相手にしてくれない。

「しかし父上、馬上では、左手に手綱をとり、右手に太刀をもち、片手打ちでござりましょう」と弁之助は食い下がる。



「馬上ではいかにも片手じゃが、それは戦場、乱軍の中のやむを得ぬ慣(なら)い。両手でも斬れぬものが、片手で、鎧を切れる筈はない」

当時の武家を「弓馬の家」と称するように、中世武士の花形は弓術と馬術。それに対して刀は、馬上では使えず、鎧を着た武士を傷つけることができないので、戦場では無用の長物とされてきた。

「馬上の大将が、片手で太刀を振るうようになれば、それは敗戦(まけいくさ)の時じゃ」と父・無二斎。



それでも弁之助は納得がいかない。

「敗戦の時に役立つ剣法なら、勝戦の時にはなお役に立ちましょう。右手の斬られでもした時には、大いに役立ちましょう」と、なおも言い募る。

「お前は子供だから、剣理がわからん。右手を斬られて、左手で戦って勝てるわけがあるか。太鼓を打つのと剣術とは、形は似ておるが、心はちがう、もっと、考えてみい」

無二斎は、剣術・十手術ともに名誉の腕で、新免伊賀守に仕えて、その姓の新免を許されていたほどの人であった。



「ちがいませぬ! 右手が無くなれば、左手を使うて、何故いけませぬ?」

「いかぬ。邪道じゃ」

「父上のお考えは、頑固すぎます」

「何?」

「私は、二刀を工夫つかまつります」

「無礼者がっ!」



そうして翌年、十三歳のとき、弁之助は播磨の僧の許へやられる事になった。

(天下に名をなす子じゃが、勇を頼みすぎる。この上は、少し文事を学ばさぬといかん)




◎高札


「試合望勝手次第可致(しあいのぞみかってしだいいたすべし)」

三木の城下には、このような挑発的な高札が掲げられ、たちまち城下の評判となっていた。

有馬流の有馬喜兵衛が竹矢来を結んで、その入口に立てた高札だった。



「さすがに、高札を立てるだけあって、中々の腕じゃ」

若い人々が出向いて試合をしたが、有馬に勝つ者は誰もいなかった。

そういう噂が、寺にあった弁之助の耳に入った。



そっと寺を抜け出し、その試合を見に行った弁之助。

(こんな腕の男が、天下の剣客など)

そう思った弁之助は、その高札の表へ、手習筆でぐっと一線引いて、「宮本弁之助、明日試合可致(いたすべし)」と書いた。



高札を墨で塗り潰した者がある、と聞いた有馬喜兵衛。

「これは、宮本無二斎の忰(せがれ)ではないか。無二斎の忰とあっては、悪戯として捨てておく訳にもいかぬ」

喜兵衛はすぐに弁之助のいる寺へ使いを立てて、「明日必ず参るよう」と言ってきた。




◎僧と弁之助


びっくりしたのは寺の僧だ。

「何たる事じゃ」と弁之助を正すと

「はははは、あんな腕で、矢来など結って、馬鹿らしい、わしの小指で、あしらえる」と相手にしない。



(困った奴じゃ。命のやりとりのことを、平気で、小指であしらえるなど、いかに子供とは申せ、向こう見ずにも程がある)

弁之助の気性を知る僧は、使者ともども、有馬の許へと直接うかがうこととした。



だが有馬は、「わしも、こうして諸国を武術修行しておる身として、宮本無二斎の忰に高札を塗り潰されて、黙って立ち戻ったとあっては、面目が立たぬ」と譲る気配がない。

返事のしようもない僧はただ、「何分、不具(かたわ)になどならぬように、お手柔らかに」と頼むのが精一杯であった。



翌朝、弁之助は床下の薪の中から、六尺あまりの棒を一本取り出して

「これが得物だ」と笑っている。

僧は(どこまで図太い奴か底が知れん)と思うと、「お前、どうして、そう強情か。対手は、真剣試合で日本中を歩いておる豪の者じゃ、それに…」

僧がそう言っている内に、弁之助はずんずん出て行くのであった。僧はあわてて、あとから付いて行く。




◎豪傑


もう、矢来は一杯の人に囲まれていた。

まず僧が矢来の中に入り、有馬に「万一のことがあると、無二斎に顔向けがなりませんで、拙僧を助けるとおぼし召して、なにとぞ、御手柔らかに御願いを…」

と言っているうちに、弁之助はずかずかと入り込んでくる。



「喜兵衛とは、その方か」

そう怒鳴る弁之助。

(これが十三か)

世間の十三の子供を描いていた有馬はとって、弁之助はあまりに大きかった。



「よう参った」

有馬がそう声をかけるや、弁之助は「勝負」と叫んで、有馬を打った。

「何を致す」

さっと抜き打ちに、弁之助は棒をすてると、無手(むず)と喜兵衛に組ついて



「あっ」と、人々も有馬も言う瞬間、有馬を頭上へ差し上げると、力任せに、大地へ叩きつけた。

起きも上がれずに、もがく有馬。

棒を拾った弁之助は、その背や頭を「どうだ、どうだ」と続けざまに、その生来の大力で打ちつける。



有馬は動かなくなってしまった。

頭も顔も、血塗れであった。

どっ、と上がる鬨(とき)の声。



(困った子供じゃ、この乱暴のために、命をうしなうようなことになるぞ)

僧はそう思いつつ、震えていた。




◎竹の根


ときは関ヶ原の合戦。

年十八、弁之助の幼名を改めて、武蔵と称するようになったのは、この前後からであった。



戦の始まる前、武蔵はその同僚とともに、崖の上を歩いていた。崖下は竹藪を斬ったあとで、竹の根が切っ削ぎになって、針の山のようであった。

武蔵は、「もし、この下を敵が通っておったなら、飛び降りるか」と、同輩に聞いた。

同輩は、「この下へ飛び降りて、竹で足を刺されたら、それきりではないか」と答える。



「竹の切株で命をすてるのは犬死だと申すであろうが、勇気とは、竹の切株と敵とを区別して出すべきものではない」

武蔵はにわかに気色ばんでいる。

「相手によって、勇気が出るのに手加減があるのは、真の勇気とは申さぬ。その勇気を出すには、相手と場所を選ばぬ。鬼神も避くる底の勢をもって事に当たれば、かえって危なくないものじゃ」



「見ろ」

と叫ぶと、武蔵は針の山のごとき竹藪へと舞い飛んだ。

無数の切株の上へ降りた武蔵。もちろん、その足を竹で傷つけた。



だが、平気な顔の武蔵。また崖の上へと登ってきた。

「対手によって、勇気を少し出したり多く出したり、恐れたり、怯じたり、それはことごとく、対手というものによって、己が動かされるからじゃ」

その強情さには、人々も舌を捲いた。




◎狭間の槍


富来の城を攻めた時、その城の狭間(はざま)の一つの一本の槍が、なかなか巧みで、そこへ近づく者がおらず、どうにも攻めあぐねていた。

そこで武蔵、「あの槍、取って来てみよう」。



そう言って、その狭間へ迫ると、己の脚を狭間へと無遠慮に押しつけた。

もちろん槍は、武蔵の脚を貫いた。

武蔵はそれを貫かせておいて、ますます脚を狭間へと押し当てる。



「えいっ!」と叫ぶ。

すると、槍の柄はポキンと折れてしまった。



その力の強さ、その乱暴さ。人々は、その不死身のような武蔵の無茶さに、呆れてしまった。

当の武蔵は、笑いながら馬糞を傷口へと押し込むのであった。




◎吉岡一門


京で、吉岡兄弟が武蔵へ試合を申し込んできた。

吉岡にとっても、家の興亡にかかわる大事。門人たちは弓矢でも武蔵を討ち取ろうと、幾十人も集まっていた。



それを知る武蔵は、唯一人、夜の明けぬ内から、先に約束の場所へと赴くこととした。

その途上、ふと見かけた八幡の社。

(武運を祈ろう)

その神前へと額づいた。



(なにとぞ、この試合に加護あらせ給え…)

祈りつつ、武蔵はハッとした。

(神は頼むべきものではない。己に頼むべきものが無いゆえに神に頼むのは、兵家としては大いなる恥辱だ…!)

武蔵は冷や汗を感じつつ、社前を去った。



一足早く、一乗下り松の間に休んでいた武蔵。

やがて、ワイワイとした声が近づいて来る。

「いつも武蔵は、試合の時刻に遅れてくるからのう」、近づく声はそう言っていた。



「今日はそれを利用して、十分に兵を伏せて、引っくるんで…」

賑やかな声がそう言い終わらぬうちに、武蔵は「待ちかねたり!」と大喝。又七郎を斬ってしまった。

又七郎は吉岡兄、清十郎の子。それを門人たちは押し立ててきていたのだ。



武蔵の勢に、雪崩れ立った門人たち。

遠矢を少し射かけたまま、退却してしまった。




◎佐々木小次郎


佐々木小次郎と武蔵との、船島(巌流島)の試合。

あらかじめ小次郎の刀の長さを聞いておいた武蔵は、それよりも長い木刀をつくって出かけた。

技倆伯仲と見て、得物の長い方が勝つと考えたのであった。



わざわざ時刻をうんと遅らせて行った武蔵。

ジリジリとした小次郎は、その心の平静をまず破られていた。

後世、わざと遅れて行くことは卑怯とされる。しかし、それをただちに怒るのは、肚のできていない証拠でもあった。名人は、対手が何をしようと心を乱さぬものである。



「この勝負は、わしの勝ちじゃ」

と声をかける武蔵。

「何と申す」

と小次郎は答える。



「勝つ気なら、鞘(さや)は捨てぬぞ」

試合の始まる前、小次郎は刀の鞘を捨てていた。



この時、武蔵は二十九歳。

「二天記」によれば、武蔵は一撃で小次郎を絶命させたことになっている。

「肥後沼田家記」によれば、小次郎は武蔵の一撃で気絶。息を吹き返したところを、武蔵の弟子に殺されたとなっている。



◎宮本伊織


武蔵は一生、妻を娶らなかった。

ゆえに子が無かった。

しかし養子はある。その一人が宮本伊織(いおり)である。



武者修行をしながら、武蔵が出羽国正法寺ケ原へ行った時のこと。

子供がドジョウをとっていた。

「少し分けてくれぬか」

武蔵がそう言うと、子供は「あげる」と桶ぐるみ差し出した。



「そうはいらぬ」

武蔵が少しだけ手拭いに包もうとすると

「旅の人がくれと言うのに、物惜しんでも仕方がない」と、その全部を子供はくれた。



その夜。

宿のない武蔵は、ようよう見えた灯に近づいて行った。

すると、そこには昼間ドジョウをくれた子供が一人いた。



その奇遇を喜ぶ武蔵であったが、子供はというと「ここには食事もないし、おれ一人だから」と宿を断る。

それでも武蔵は「どんな所でも、一夜、泊まれさえすればそれで良いから」と押し入った。



その真夜中。

寝ている武蔵の耳に、刃を研ぐ音が聞こえてくる。

(はて…)

用心をした武蔵。試みに大きく欠伸(あくび)をしてみて、さりげなく子供の様子を窺おうとする。



「お侍は、顔つきに似ず、臆病だのう」

子供はそう言って、笑った。

「わしが、この刀でお侍を殺そうとしたって、こんな小腕で何ができる」



「では、何のために刃を研ぐのか」

「父が昨日亡くなったので、うしろの山の母の墓へ葬ろうとおもうけど、わし一人では持てんで、死体を切って運ぶつもりだ」

武蔵はそれを聞いて、感じ入った。



翌朝、己と二人で死体を運び、この子供を連れて戻った。

この子供が、宮本伊織である。



のちに小倉の小笠原家に仕え、四千五百石の家老にまで昇進する伊織。現在にまで残っている宮本武蔵の碑を建てるのも、この人である。

また、例の寛永御前試合の時に、荒木又右衛門と勝負して、相打ちだった宮本八五郎というのも、この人である。




◎武蔵の妙技


青木丈左衛門という人が

「是非、お教え願いたい」と言ってきた。



「真の兵法とは」

と言って武蔵は、小姓の前髪の結び目に、一粒の飯粒をくっつけさせた。

「それへ立て」

飯粒をつけた小姓を立たせておいて、武蔵は大刀を抜く。



「とう」

上段から斬り下ろした武蔵。

人々が、ハッとすると、前髪の結び目の飯粒は二つに切れていて、前髪の元結(もとゆい)は無事であった。



「あっ」と人々が驚くと

三度まで、武蔵はそれをやってのけた。

その二つになった飯粒を青木に見せて、「どうじゃ、これくらいの腕でも、なかなか、勝利はむつかしい」と武蔵は言った。



それから、武蔵の門で精進したという青木丈左衛門。

のちに名を青木鉄人と改め、「鉄人二刀流」を江戸で開いたのは、この人であった。



また別の時。寺尾孫之丞との試合の折りも、武蔵は同じような手練を示している。

寺尾が受けるはずみ、武蔵の勢い込めた木刀の力で、寺尾の木刀が二つに折れてしまった。

人々は(やられた)と、寺尾の頭の砕けたのを想像した。



その時、その勢の烈しい武蔵の木刀は、寺尾の額のところでピタっと止まっており、少しの傷さえつかなかった。

その妙技に、見ている人々は感じ入らざるを得なかった。

武蔵の「五輪書」を相伝されたのは、この寺尾であり、武蔵の死後、二天一流を世に伝えたのも、この人だった。








◎吉川英治


現在、宮本武蔵といえば誰もが、「剣の修業を通して、人間としても成長した求道的な人物」を思い浮かべる。

じつはそのイメージ、吉川英治が小説「宮本武蔵」で作り上げたものであり、わずか70〜80年ほどの歴史しかない。







武蔵非名人説をとった直木三十五に対して、吉川英治は武蔵を擁護した(読売新聞の座談会)。

ゆえに、直木は「傲岸不遜で容赦のない態度」で、吉川を叩いたという。

その直木に反論するため吉川が世に問うたのが、かの名著「宮本武蔵」であり、それが世の人々の膾炙するところとなったのであった。



いわば、吉川英治に名作を書かせたのが、直木三十五であったのかもしれない。

しかし残念ながら、直木は、吉川英治の「宮本武蔵」の連載が始まる前年に亡くなっている。



◎二刀流


宮本武蔵といえば、二刀流である。

だが直木は、それを否定する。

「すなわち、二刀で平常稽古しておいて、片手でも使えるようにと、武蔵は心掛けたので、実際の時には、武蔵といえども二刀を使って勝負はしていない」

「維新当時、あれだけの剣客がいても、一人として、二刀なんぞは使っていない。それが本当で、講釈師がやたらに、宮本に二刀を使わすのは、ことごとくデタラメである」



この点、吉川英治も否定はしない。

「後世の浅薄な撃剣屋がその型の派手を見て、その精神を解さず、技巧だけを伝えた」と書き、武蔵が二刀で戦ったとする解釈を批判している。

なるほど、この両雄はお互いにしのぎを削り合って、宮本武蔵像を彫り上げていったかのようである。認めるところは認めながら。



デタラメだった講談の世界で膨らみきっていた武蔵像。

それもそのはず、実際の武蔵の経歴は、昔も今もよく分かっていない。あるのは、時代時代の創りだすイメージばかり。



肖像画に残る武蔵は、二刀をもった両手をダラリと下げている。

これは二天一流の無構(むがまえ)。相手を誘うように無防備に見せているのだと云う。

そんな武蔵に、誰しもが誘い出されるのであろうか。その実像がよく分からぬおかげで、今も昔も、自由に斬り込むことが許されているかのようである。



鎧を着けたまま葬られたという宮本武蔵。

どこから斬り込まれても、その心を動かすことはないのかもしれない…。







(了)




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出典:「二天一流 宮本武蔵」直木三十五
posted by 四代目 at 07:04| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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