2013年04月07日

絶対他力の「棟方志功」。足跡は消えてこそ…。


青森の刀鍛冶、15人兄弟の第6子。

祖母の経文を子守唄代わりに育ったという「棟方志功(むなかた・しこう)」。

いつしか「般若心経」を諳んじていた。



小学校時代のアダ名は「セカイイチ」。

なんの世界一かは分からぬが、分からぬままに世界一になってやると息巻いていたという。



◎凧絵


図画の成績は丙(へい)と冴えなかったが、とにかく絵を描くのが大好きで、ことに凧絵(たこえ)には夢中になった。

「ワの凧だきゃ、イツバン(一番)であった」

志功の描く凧絵は「曽我五郎」と決まっていた。キッと口を結んで、ハッタと敵を睨みつける曽我五郎である。



「シコ(志功)、絵コ描いてけろ」

同級生は、紙をもってやって来る。絵の具などないから墨一色。

その曽我五郎が空高く舞い上がる。



一枚描けば、新しい紙を一枚もらえる。もらった紙はすぐさま、また墨で埋め尽くされる。

どれほどの数を描いたものか? 最晩年の記録映画には、恐ろしいほど速い筆さばきで凧絵を描く志功の姿が残っている。

「筆の運びの圧倒的な速さと確かさに、子供時代に培われた『職人の腕』を見る(石井頼子)」

紙がなければ、地べたに這いつくばって、指で地面に描いていたという。



◎絵キチ


小学5年生のとき、学校の近くに陸軍の複葉機が不時着した。

それを見に行こうと走った志功は、田んぼに落ちた。



田んぼの泥から、ふと顔を上げると、目の前には清楚なオモダカの花が揺れている。

その美しさに魅せられた時、何の世界一か分からなかったセカイイチは、「絵描き」のそれに決まったようだった。



毎日毎日の写生。

ゴッホの「ひまわり」を見れば、「ゴッホになる!」と叫ぶ。

そして油絵に夢中になった。



狂ったように描き続ける志功を、「絵キチ」と蔑む人もいたという。

しかし、そんな声など、夢の中の志功には聞こえない。

ひたすらに青森を描き続ける日々。それが東京に出るまで、21歳までの志功であった。



◎疑問


ところで、志功は「極度の弱視」であった。

写真や映像でお馴染みの志功は、分厚いメガネ、それを板木や紙にくっつけるほど近づけて背中を丸めた、あの姿である。テレビを見るのにも双眼鏡が必要だった。

囲炉裏の煤(すす)で眼を病んでしまっていたのだ。



だが棟方志功にとって、そんな「見えない眼」はハンディではなかった、と令孫の石井頼子さんは言う。

その眼は「見たいものだけを、カメラのように脳裏に焼き付ける『便利な眼』」であったという。







さて、意気揚々と上京した志功。

そこで待っていたのは、挫折に次ぐ挫折。

公募展には3年間、ことごとく落選した。



「帝展に入選するまで、親が死んでも故郷の土を踏まない」

そう固く誓っていた志功にとっては、苦悶ばかりが悶々と鬱積するばかり。

「ゴッホになる」と盲進していた油絵に「疑問」を感じ始めたのは、この頃だった。



◎版画


目蓋に積もったチリを払ってくれたのは、川上澄生の「初夏の風」。

それが、終生の友となる「版画」への傾倒のはじまりでもあった。



29歳のとき(昭和7年)、志功の版画「亀田長谷川邸の裏庭」が国画会奨励賞を受賞、ボストン美術館の買い入れ作品となった。

翌年、雑誌等で特集を組まれるようにもなった棟方志功。版画界での知名度が一躍高まった。昭和10年(32歳)には「万朶譜」が認められて国画会会友ともなる。



「白と黒の絶対比」

そこに美の秘訣がある、と志功は版画を追求するうちに悟ったのだという。



◎大和し美し


「こんな馬鹿でかい作品はとても展示できない」

そう会場から苦言を呈されたのは、「大和(やまと)し美(うるわ)し」と題された、横幅8mにも及ぶ版画の大絵巻。20枚の作品が連なっていた。



この作品は、詩人・佐藤一英(いちえい)の「大和し美し」に心動かされ、20枚を一挙に彫り上げたという大作。そのため、絵の数よりも「文字で埋め尽くされた」というべき壁画のようなもの。

それは倭建命(やまとたけるのみこと)の一代記であった。



「20枚で一つの作品だ」

馬鹿でかいと言われても、一歩も譲らぬ志功。

その応酬が続くところに、たまたま通りかかったのが「柳宗悦(やなぎ・むねよし)」。柳は一目見て、志功の作品にのぼせ上がってしまった。この場で、日本民藝館の買い入れ作品に、と即決された。



◎柳宗悦


それまで独学独自の歩みを続けてきた志功にとって、柳宗悦は「生まれて初めて師匠と呼べる人」であったという。

柳が着目する美は、民衆の用いる「日常品」。無名の職人たちが作ったそれら日常品を、柳は「民藝」と名付けて尊んだのであった。



教育熱心な柳は、「野人」ともいうべき志功に、「華厳経なら誰、維摩経なら誰」と最高の教養をもつ人々を与えていく。

志功もまた、乾いた砂のごとく、それらを吸収。そして新たな作品となって、それらは具現化していった。



◎板画


志功が版画を「板画(はんが)」と表記するようになったのは、その頃からであった(39歳)。

「板から生まれる板による画」

その言葉には、板の生まれた性質、板の命を大事にしなければならない、との想いが込められていた。



驚いても、オドロキキレナイ

喜んでも、ヨロコビキレナイ

悲しんでも、カナシミキレナイ

愛しても、アイシキレナイ

ソレガ板画デス

(棟方志功)







◎他力


「棟方は個性的だ、とよく言われますが、反対に僕は個性を無くしてしまおうと常に努力しているんですよ」

天才肌と見なされがちな志功は、「自我を排した他力による作品」を理想としていた。それは民藝思想から学んだところも大きかった。



「自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんと無力なものか。自分から生まれたものほど小さいものはない」

「人間の解っているくらいの思いつきなんて、小さいものだと思います」

こうした言葉に、志功の想いは詰まっていた。



「板画は他力の在り方から生まれる」、そう志功は語るのであった。

「願うことではなく、願われる仕事。そんな欲でない欲を持ちたいものです」



◎画室


戦争をはさみ、志功は真宗大国の富山へと疎開する。浄土真宗の教える「他力の世界」を深く理解できるのではないかとも思っていたという。

「念仏を唱えるように、板画が自然に湧いていくる」

そうした境地を、志功は望んだ。



何百回と下絵を重ね、手が勝手に動くまでに下準備を重ねた上で、板に向かう。

「そこから一気呵成、無心になって息つく間もなく彫り上げる(石井頼子)」



画室に人が入ることを好まなかったという棟方志功。

しかし、子ども時分の石井頼子さんは、ひょいひょいとその画室に入って行ったという。志功もまさか、孫を叱るわけにはいかなかった。

それでも、子ども心に「何か神聖なもの」を感じさせる志功の画室。いつしかそこに一線を感じ、廊下から覗き見るようになる。



画室の片隅に座って、板に分厚いメガネがくっつけんばかりに制作に打ち込む祖父・棟方志功。

リズミカルに板木を彫る音、小気味よく板木を回す音、そして志功の鼻息と唸り声。静かで激しい、だが喜びに満ちた祖父の姿がそこにはあった。



ねぶた囃子を鼻歌に歌いながら板を彫る映像も残るが、それは視聴者向けのパフォーマンスだった、と石井さんは言う。

「息を詰めて彫る、という真剣勝負の時に、鼻歌が出ることはありませんでした」







◎足跡


昭和18年頃からか、志功の作品には「柵(さく)」という文字が付けられるようになる(40歳頃〜)。

それを志功は、こう説明する。

「柵は、四国の巡礼の方々が寺々を廻られる時、首に下げる廻札。あの意味なのです。一つ一つ自分の願いと信念をその寺へ納めていくという願掛けの印札。それがこの柵の本心なのです」



お遍路さんが一枚一枚、お札をお寺に納めるように、志功もまた一点一点の作品を生涯の道標として納めていく。

それら一つ一つの作品が、志功の足跡であった。



「僕のは一つ一つが足跡に過ぎないんですよ。ちょうど僕らが雪の上を歩くと足跡がつくように、僕の仕事もあれなんです」

「人から人の手に移って、最後には名前がなくなる。擦り切れてしまって棟方がなくなるところに、はじめて棟方板画が生きたということになるんだ、と僕は信じているんですよ」



その仕事は、そこまで行かないと完成しない。

それでも「完成への無限の憧憬」は、彼の足跡の中に込められている。

「完成とは、作品のなかの僕がなくなることなんです」







◎カラリ


昭和20年、終戦。

東京は大空襲によって焦土と化していた。

棟方一家は富山に疎開していたために難を逃れたが、東京の自宅は全焼。それまでに作った板木と作品はほとんどが灰となり、土に帰った。



親友に宛てた志功の手紙には、こう綴ってあった。

「家財も大半灰になりましたが、カラリとした気持ちでこれからの仕業(しごと)を進展させます」



「カラリ」となった志功は、アメリカとヨーロッパを旅し、作風にダイナミックさと荒々しさを加味する。

次々と巨大な作品に挑戦する志功。大阪万博で日本民藝館を飾ったのは、世界最大級の大板版画「大世界の柵」。高さ1.8m、横幅27m。かつて「馬鹿でかい」と煙たがられた「大和し美し」より、3倍以上も巨大であった。



晩年の志功には、「東海道五十三次」や「奥の細道」など先人たちの足跡をたどりながら、「日本中を板画で結ぶ」という壮大な野望があったという。

しかし、昭和49年に渡米先で倒れた志功。

帰国後に入院、翌年に帰らぬ人となった…(享年72歳)。



◎ 花深きところ行跡なし


「ワの凧だきゃ、イツバン(一番)であった」

そんな自負をもっていた「セカイイチ」の少年は、青森を飛び出し、日本を飛び出して、自らの「柵」を世界に広げていった。

地べたにしゃがみ込んで無我夢中に絵を描いていた少年は、そのまま大きくなって「世界のムナカタ」となったのだった。



晩年、志功は中国画のある画賛に「我が意を得たり!」と、歓喜雀躍したという。

「花深きところ行跡なし(花深所無行跡)」

足跡の上に舞い落ちる美しい花びら。それらが足跡を覆い消していく。



その足跡が花びらに消えるころ、自分はもうずっとその先を歩いている。

「絵キチ」は今頃、どこまで歩いていっているのであろう…?

空でも舞っているのであろうか…、曽我五郎の睨む凧に乗って…!







(了)



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出典:致知2013年5月号
「祖父・棟方志功が歩いた道 石井頼子」
posted by 四代目 at 06:38| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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