2013年03月20日

「誰も見たことのない絵」を。匂いや体温までをも伝える「竹内栖鳳」の美


「鵺(ぬえ)派」

日本画の「竹内栖鳳(たけうち・せいほう)」は、若き日にそう呼ばれていたことがある。

鵺(ぬえ)というのは空想上の怪物で、顔はサル、身体はタヌキ、手脚はトラ、尻尾はヘビという、いわば「寄せ集め」の生き物。



若き栖鳳の作品が「鵺派なり」と酷評されたのは、明治25年の作品「日向ぼっこをする猫」。この作品で栖鳳は、「異なる流派の技法」を同時に取り入れてみせたのであった。

「猫は写生を重視する『円山派』、岩は力強い線を特徴とする『狩野派』、草木は淡い墨で一筆に描く『四条派』」

当時の日本画の常識はといえば、「流派ごとに描き方が決まっていた」。それを栖鳳はメチャクチャにブチ壊してみせたのであった。



「幅中三派(3つの流派)の筆意を備ふブチ壊しに曰く、これ『鵺派』なりと」

これが当時の新聞による栖鳳への評価であった。



それでも、若き栖鳳にとって、そんな批評はどこ吹く風。

「私はあえて改めようとは思わぬ。はじめは鵺派より入るのがかえって良いと思う」

そう言ってキッパリと反論。堂々と開き直る栖鳳であった。



世間の風をものともしない栖鳳。

そんな彼には野心があった。

「誰も見たことのない絵」を描きたいという野心が…。



◎円山四条派


ところで、竹内栖鳳は本当は何派だったのか?

栖鳳の師匠は幸野楳嶺。京都「円山四条派」である。



円山四条派というのは、江戸時代の「円山応挙」を祖とする流派であり、その特色は「写生の重視」にあった。

「写真のようなリアリズム」

鵺派と揶揄された栖鳳であったが、じつは生涯を通して写生を重視していた「姿勢」は、まさに円山四条派のものだったのである。ただ、彼はその姿勢を貫くために、あえて流派の垣根を越えてもみせたのであった。



栖鳳が越えてみせたのは、流派の垣根ばかりではない。国の壁をも身軽に越えてみせた。

時は明治。江戸の鎖国から解き放たれた日本には、西洋の文物が溢れかえると同時に、日本人が海を越えることも容易になっていた。

一路、ヨーロッパへ。栖鳳の翼はパリ万博の風に乗っていた。



◎ベルギーのライオン


「自分には到底真似できない…」

ダビンチの作品を眼前にした栖鳳は、思わずそう漏らしていた。



深い陰影で表された立体感のある人物像。それは日本絵画が未だ実現できていない世界であった。

平面の上に描いてあるにも関わらず、なんと立体的に見えることか。西洋の絵画は、葉っぱ一枚までもが浮き上がるような陰影をつくっている。



驚嘆しきりの中、ベルギーの動物園で見たライオンはまさに衝撃であった。

栖鳳が本物のライオンを見たのはもちろん初めて。当時の日本で獅子といえば、中国渡来の獅子(唐獅子)。屏風などに描かれたタテガミを渦巻かせたその姿は、架空の動物にすぎなかった。



本物のライオンの雄姿にすっかり魅せられてしまった栖鳳は、ベルギーでの滞在期間を3週間も延長。その間、ライオンの写生に明け暮れる。

「写生意欲のある画家が、初めて見たライオンに心動かされ、その存在感をまるごと写し取ろうという欲が生じたのは自然のことだったのだろう」

鵺(ぬえ)派で結構という栖鳳に、ベルギーのライオンは新たな流れを合流させることになった。



◎獣の匂い


「まるで、獣の匂いまでがしてくるようだ…」

栖鳳が日本に帰ってから描いたライオン、「大獅子図」。その評価は絶大であった。徹底したリアリズムによって、絵画では表現できるはずもない「体臭」までをも感じさせるというのだから…。



金地に描かれたそのライオンは、まるで呼吸しているかのようであり、そよ風が吹けば一本一本の毛がなびきそうである。

髪の毛よりも細そうな一本一本の毛には、日本画の「毛描き」という手法が用いられていた。それは、西洋の油絵の筆では到底表現できない繊細さ、そして柔らかさであった。



西洋の陰影を巧みに取り入れ、そしてさらに西洋絵画の表現できない世界を、日本画の筆で見事に表現してみせた栖鳳。

このライオン(獅子)の絵が、京都の栖鳳を「日本の栖鳳」へと押し上げることになった。



「西の栖鳳、東の大観」

そこまで高く持ち上げられた竹内栖鳳。

「大獅子図」を描いた時の栖鳳は、まだ30代の後半。すでに彼は「誰も見たことのない絵」を描いてみせたのであった。



◎八百屋の猫


「ははァ、徽宗皇帝の猫がいるぞ」

ある秋の日の昼下がり、沼津(静岡)をブラついていた栖鳳は、一匹の猫に目が止まった。



それは八百屋の飼っている猫であったが、栖鳳はその猫に中国の皇帝、徽宗を見ていた。

徽宗皇帝は12世紀の北宋、水滸伝の時代を生きた人物である。彼は皇帝のかたわら、「花鳥画の名手」とも讃えられており、その作品の中には猫を描いたものも伝わっている。

何気ない八百屋の猫は、栖鳳にとって徽宗の猫に見えたらしい。



連日のように八百屋に通い詰め、ひたすら猫の写生を続けたという栖鳳。

それだけでは気が収まらず、ついには八百屋と直談判。猫を京都に連れ帰るということになった。

京都の自宅で、日夜身の回りを徘徊させながら、猫の描写に勤しんだという栖鳳。そこには「猫の気持ち」までをも写し取ってやろうという気迫がこもっていた。



◎班猫


そして完成する「班猫(はんびょう)」という作品。

写し取られたのは、しなやかな身体を振り返らせる何気ない一瞬。凛とした碧色の目には、まるで人格が宿っているかのようであり、ややもすると、人語をも話し出しそうでさえある。

生活をともにしていた猫なだけに、それは単なるリアルさを超えて、見事その性格までもが描きこまれているかのよう。ある人は、「体温までが伝わってくる」と評する。



ちなみに、この猫には写真が残っている。写真とはいえ、それは大正期のカメラで撮られたものである。その画質は拙く、映された猫はどこか冴えない。

一方、栖鳳の描いた絵画の方は、造形としてリアルなだけではなしに、その猫の妖艶な魅力までをも伝えている。写真の猫ならば飼いたいとは思わないかもしれないが、栖鳳の猫ならば話は別だろう。



ところで、徽宗皇帝の猫というのは?

その残された絵を見てみると、確かに栖鳳の猫に「柄(がら)」が似ている。しかし、その表現はだいぶ異なるようだ。

徽宗皇帝の猫は、舌をペロリとだして自分の手を舐めている、どこか愛嬌のある猫である。それに対して栖鳳の猫は、透き通るような静けさの中に座して気品に満ちている。







◎未完のカモメ


「海に飛んでいるのを見物しただけじゃあ、役に立たん。是非とも生け捕りにしなくては」

そう言って栖鳳は、地元の子どもたちを手伝わせ、海岸でカモメを生け捕る罠をこしらえた。



エサをつけた板を海に流し、カモメがかかるのを今か今かと待つ栖鳳。

首尾よく、3羽のカモメの生け捕りに成功する。

それら3羽は栖鳳の自宅へと連れ去られ、庭の檻(おり)にと入れられた。そして、観察の毎日が始まった。



そこまでして描いたカモメ。その作品が「船と鷗」。3羽のカモメがエサを求めて、小船に舞い降りようとする瞬間である。

「?」

小船は描かれているが、肝心のカモメは?



じつは、これは「未完」に終わった作品である。カモメは「輪郭のみ」を描いたところで、筆が止まってしまっている。

これを未完に終わらせたのは、じつに栖鳳らしい。というのも、栖鳳が描きたかったリアリティとは「ありのまま」ということ。生け捕られ檻に入れられたカモメは、もはや自然のカモメではなかった。

「栖鳳が絵の中に生け捕りたかったのは、もっとも自然な姿であったのだ」



檻の中のカモメは、形ばかりのカモメであり、魂を失っていた。

贅沢なエサを与えられたカモメたちは、もはやその美しさを失っていたのである(栖鳳の実家は有名な料理屋だった)。



◎裸婦と天女


未完の作品としては、「天女舞楽図」というものもある。

これは東本願寺に依頼を受けた、巨大な天井画。タタミ15畳もの絵が3枚である。



動物画を得意としていた栖鳳にとって、天女という「人物画」は珍しい。生涯に出品した人物画はたった3点しかない。

さらに栖鳳には苦い思い出もある。祇園の舞妓を描いた作品が、洋画家・鹿子木孟郎に「散々の不出来」とすっかり叩きのめされたのであった。







そんな過去もあってか、天女にかける栖鳳の鼻息は荒かった。

当時、裸婦モデルというのは珍しかったそうだが、栖鳳はそれを東京から京都に連れてきた。しかも、お寺の境内の中にアトリエを建てさせ、そこに連れ込んだのである。

まさか、伝統と格式に満ちた東本願寺に、裸の女性が…。「とんでもないというか、途轍もないというか…」。

「今までにない宗教画」、そんな思いがそこまで強烈であったのだ。



◎飛ぶ裸婦


その製作手法も奇想天外である。

天女というからには空を飛んでいる。できれば、裸婦モデルにも天を飛んでもらいたい。

そこで思いついたのが、天井に巨大な鏡を吊り下げるという手法。これならば、畳の上に寝転んだ裸婦が天井の鏡に映り、あたかも飛んでいるように見えるではないか…!



そうして完成した大下絵。

人体の生理的・物理的正確さを確かなものとするために、まずは身体の線を緻密に描き、あとから衣を纏(まと)わせた。栖鳳は、天女の本質を女性の裸からつかみ取ろうとしたのである。



ところが無念、栖鳳の天女は空を舞うことがついぞなかった。

キャンバスとなるはずだった天井からは、木材のヤニが染み出すなどして、その制作は断念せざるを得なくなってしまったのである。



天女にあと一歩と迫りながらも、ついに描くことは叶わなかった。

その後数年、栖鳳の夢には天女が舞い続けていたという…。



◎抜け雀


最後に、栖鳳が生涯をかけて描きたいと願った「雀(すずめ)」の話を。

それは、知恩院の宝物「抜け雀」。



ふすまに描かれたそのスズメ、じつはもうそこに姿はない。

長い歳月を経て、輪郭だけになってしまっている。かつて雀がいたであろうその場所は、日焼けのあとのように残されているばかり。

それを人々は囃し立てた。「ここから雀が飛び出したのだ」と。



自分の雀も、絵画から抜け出るくらいの真実に迫りたい。

そう希った栖鳳は、幾枚も幾枚も雀を描いていたという。



しかしそれは叶わなかった。栖鳳はこんな言葉を残している。

「私の雀は未だ、画面から飛び出したことは聞かない。やはり古人のほうが私よりも上手なわけである」



◎写実の先


「写実」という観点だけからみれば、栖鳳は古人よりも上手であったかもしれない。

それを言うならば、現代の高性能カメラのほうが「上手」ということにもなる。



しかし、栖鳳のいう上手というのは、写実にばかり留まるものではなかった。

いったんは絵の中に生け捕りにはするものの、それが抜け出るほどの魂を欲したのだ。

そのためならば、鵺(ぬえ)でも何でもよかった。それは手段に過ぎぬのだから…。



栖鳳の見ていた写実の先には何があったのか?

その獅子は何を言わんとし、あの猫は何を語りかけてくるのか?



飛ぶことのなかったカモメに天女。

竹内栖鳳は今、どんな世界を飛んでいるのだろう。

まだ誰も見たことのない絵でも、見ているのであろうか…。







(了)



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出典:NHK日本美術館
「日本画に革命を起こした男 竹内栖鳳」
posted by 四代目 at 05:58| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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