「茶の湯」に没頭した戦国武将たち。
その中でも、とりわけ「豊臣秀吉」はその道に遊んだ人物だった。
秀吉の建てた大阪城や名護屋城(肥前)などを見ると、そのほとんどに「山里丸」という茶室群がつくられている。秀吉は招く人に合わせて茶室を替えるほど、そのもてなしにこだわっていたという。
では、もし天皇をもてなすのならば、どんな茶室がふさわしいか?
秀吉の出した答えは「黄金の茶室」であった。天井から壁まで、全面に金箔が貼られ、三畳の茶室はまばゆいばかり。茶道具までが金尽くしである。
なんとも奇抜であり、黄金太閤そのままではないか。
秀吉がこの黄金の茶室を初めて使ったのは1585年、御所の中で天皇をもてなす茶会を開いた時だった。
「御所の中?」
そう、じつはこの黄金の茶室、「組み立て式」であり、どこへでも自在に設置することが可能であったのだ。
この茶室は「キンキラキンの成金の象徴」か?
いやいや、そのまばゆいばかりの光の影には、秀吉の周到なる計算が隠されていた。
その影は、明るい照明の光を落としたときに、ようやく姿を現す。
◎幽玄
考えても見れば、秀吉の生きた桃山時代に室内を照らしたのは「菜種油で灯したわずかな光」。決して現代の生活のような煌々とした光などではない。
光をぐっと抑えた中で見る黄金の茶室は、まったく別の趣きを見せてくる。黄金は濃い陰影を湛えながら、ずっと深い奥行きを醸し出す。
「能楽でいわれるところの幽玄…」
茶道家の木村宗慎(そうしん)さんは、そう口にした。
農民あがりというイメージの強い秀吉であるが、その実、自ら能を舞うなど能楽にも精通しており、秀吉は奥深い美を解する素養も兼ね備えた人物であった、と木村さんは考える。
ほのかな灯りに照らし出された黄金の茶室、「影が複雑に入り組んで、金とも赤とも黒ともつかない色がそこら中に立ち籠める」。
「ここがもう今、この国で一番格の高い座席である、ということを雄弁に物語る空間ではないでしょうか」
幽玄な茶室に身を浸した木村さんは、そんな感動に包まれている。
「それと面白いのは、茶道具の見え方が全然変わりますね」
明るいところでは気づかなかった茶道具の繊細さが、ほのかな菜種油の灯りによって浮かび上がってくる。
「木槌の跡とか、槌目に至るまで、人の息遣いや物を作った人の想いといった細かな細工の一つ一つにまで目が行きます」と木村さん。
幽玄な灯りは、茶道具の微妙な表情までも見る者に伝えるのであった。
◎豪奢と幽玄
黄金の茶室そのものは、まさに豪奢。
しかれど、その内には幽玄さも秘められている。
「だから、豪奢と幽玄というものが見事に一致したのが、この茶室の美学だったんじゃないかと考えますね」と、古美術鑑定家の中島誠之介さんは語る。
秀吉の繊細な心遣いを伝える作品に、「黄金天目茶碗」というものも伝わっている。
これは京都の醍醐寺の僧・義演に秀吉が贈ったものであるが、その茶碗は金色燦然、「純金の塊」かとも思わせる茶碗である。
だが、その茶碗を持ち上げてみると、その軽さに驚かされる。なんと普通の茶碗の半分の重さしかないのであるから(135g)。
じつは器の芯は「木」で出来ているのだ。その木の芯を金屬の板で内と外から挟み込み、金メッキを施したと考えられている。
もし、その器が純金であったなら、茶の熱さをそのまま持つ手に伝えてしまう。
だが、その芯が木で出来ているために、熱いお茶を入れても茶碗はあまり熱くならない。
「光り輝く黄金の茶碗には、秀吉の思いやりの心が隠されていたのです」
◎利休
茶の湯といえば「千利休(せんのりきゅう)」。彼は、秀吉とまったく同じ時代を生きた人物である。秀吉が尾張の農民の出だったのに対して、利休は堺の商人の家に生まれ、10代から茶の湯を学んでいた。
生まれも育ちもまったく異なる秀吉と利休、奇しくものちに二人は、その運命を絡まらせていくことになる。
派手好みであった秀吉に対し、利休は「何気なさ」に美を見ていた。
たとえば、茶会で花を生ける花入れ。利休の愛した名品に「顔回(がんかい)」というものがあるが、それは利休が修験者からもらい受けた「ヒョウタンの器」の上半分をザックリと切り落としたものだった。
「この切り口は生々しいねぇ。ザクザクザクって、現実感があるよね」と中島さん(古美術鑑定家)。
当時珍重されていた花入れといえば、中国青磁の端正な作品が主であった。
ところが利休は、そんな高価なものばかりではなく、そこら辺に転がっているような器物の中にも美を見出していたのである。
「南蛮芋頭水指(なんばん・いもがしら・みずさし)」という水差しもそうだ。それは東南アジアなどで穀物の保存に使われていた日用品にすぎない。それを利休はあえて、茶室の美のなかに取り込んだのであった。
「何を見ても、茶道具として使えるかどうか、ということを利休は考えていた。そして、それが自分の美意識に適うかどうかっていうのが、全身を包んでいたんじゃないですかね」と中島さんは言う。
◎秀吉と利休
秀吉の天下統一の総仕上げとなった、関東・北条家の小田原征伐。
この戦陣の中でも茶会をやろうと、秀吉は茶道具の名品から青磁の花入れに至るまで、みな長持ちで京都から持ってきていた。
そして当然のように「茶会をやるぞ」と張り切っていた秀吉は、それを利休に命じる。
「わかりました」と素直に応じた利休は、裏山に入ると竹をポーンと伐ってきて、そこに花を生けた。
茶室に入って、その無造作な竹の花入れを目にした秀吉は「カッ」となる。
「なぜ、わざわざ京都から持ってきた、あの青磁の名品を使わぬのか?」
ところが、秀吉の口からこの言葉は出て来なかった。その代わりに、「良いな…」と言わざるを得なかった。それは、秀吉の心根にこびりついていたコンプレックスがそう言わせたのであった。
それほど美意識の異なっていた秀吉と利休。
利休は、秀吉の黄金の茶室や茶道具を揶揄するかのように、土くれの手捏ねの茶碗をわざわざ陶工に作らせたりもしている。
この両者の決裂はいわば明白であった。そして、ついに癇癪玉を爆発させる秀吉は、利休に切腹を命じることになる…。
◎庶民性
根っからの茶人であった利休とは対照的に、秀吉はむしろ「庶民的」であった。
たとえば、秀吉が北野天満宮(京都)で茶会をやった時などは、「鍋一つあればよい。茶を立てたい者は誰でも来たれ」と前代未聞の大茶会を開いたのだ(1587)。
身分は問わない。町人でも公家でも参加してよい。みな思い思いの茶席(唐傘一つから立派な東屋まで)で、思い思いの茶会を楽しんだのである。
現在にいたる日本の茶道を考えた時、秀吉の庶民性はその底辺を大きく広げることに貢献している。
「もし、秀吉がいなかったならば、茶道というものは今のように国民文化として、そして教養としてお茶の稽古をするようなものは生まれなかったかもしれません。それは秀吉の庶民性ですよ」と中島さん(古美術鑑定家)は語る。
黄金の茶室にしても然り。その注目度たるや、今でさえ国境を虚しいものにするほどだ。
もし茶道というものが、自然に溶けこんで埋没してしまいそうなくらいに「わび・さび」ていたら、現代の茶道はまったく違った姿を見せていたかもしれない。
◎皮肉
ここで皮肉に思うのは、利休自身もそうした「庶民性」に惹かれていたことである。
それは、利休の愛したヒョウタンを輪切りにしただけの花入れや、土そのままのような茶碗が雄弁に物語っている。
ただ秀吉と利休では、表現の方法が極端に違っていたのである。
それが歴史の不幸といえば不幸であるが、両者が同じものを真逆の方向から表現してくれていたおかげで、茶道はその道をぐっと大きなものにすることができたとも考えられる。
たんなる茶、されど茶。
そのほのかな渋みが、人を惹きつける。
それは、二人の歴史もまた然り…。
(了)
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出典:NHK 日曜美術館
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