2013年02月25日

「必ず甦る」。文明よりも文化を育んできた日本民族


「文化」と「文明」

それは明確に異なる、と園田稔(そのだ・みのる)宮司は言う。



文化というのは、英語でカルチャー(culture)。

「じつは、このcultureという言葉には、大地を耕すという意味があります。つまり文化とは、基本的に農耕文化を指し、農耕文化とは、その土地の風土、代々その土地に定住する人々が作り上げるものです」と園田宮司。

それはすなわち、「土地独特の個性」ということになる。



一方、文明というのは、英語でシビリゼーション(civilization)。

「つまり、市民(citizen)の作るもの。市民は都市(city)に集まって来た人々のことですから、文明は都市文明を指します。文明の真骨頂は、地域や文化のカベを越えて普及していくという普遍化です」と園田宮司。



なるほど、そう解釈すれば、文化は個性的(地域的)であり、文明は均一的(全体的)である。

「文化が育つのには時間がかかります。時間というフルイにかけられて残ったものが文化なのです。それに対して、文明とは、現代の携帯電話に代表されるように、普遍性(大量生産)によって一気に広まっていくのです」と園田宮司。



グローバル化とともに日本に押し寄せた近代化の波は、日本各地の独特な文化をまたたく間に押し流していった。

「どこに行っても同じような建物、同じような街づくり…。文明化によって地方色(文化)が消えて、日本中が平均化され、没個性化してしまいました」と園田宮司。







文明を推し進めてきたのは主に欧米諸国。一神教の善悪によって物事を断じる彼らは、森林を伐採し
て、そこに集落や牧場をつくってきた。

森を切り拓くことこそが、彼らの文明の象徴であり、神の力の及ぶところであった。そのため、原始のままに残された森は、神の手の及んでいない「悪魔の住むところ」と考えられていたのである。



先述したように、文明は「普遍化」を目指す。森を切り拓き、そのカベをなくそうとする。そうした力の及んだ地域こそが先進国なのであり、その文明の利器に浴さないところは未開な後進国となる。

そうした思考の結果、未開な地域には悪魔が住んでいるという「差別」が生まれることになる。先進国が「善」であり、未開国は「悪」。そういう差別である。



一方、日本民族はおおむね文化的であった。

森は森のままに残し、それはそのまま神の住まいであった。近代化以降に建てられた明治神宮でさえ、そのほとんどは森であり、その中央にお社があるだけである(ほかの世界宗教には見られない質素さ)。

日本民族にとっての山々や森林は、命の糧である水をもたらしてくれる尊い存在である。ゆえにそこに植物が繁茂していることを喜び、森の中に禁足地を作って社殿を建ててきたのである。







一般的に日本人は個性的でないと言われることが多いが、じつのところ、日本民族は文明的というよりも文化的であった。つまり、平均化よりも個性的であったのだ(その個性というのは、個々人のものではなく、風土という個性ではあるが…)

まずは森ありき。そこに風土が生まれ、人々が育まれる。そして、長い長い時間をかけて文化が育まれていく。それが長らく、この国の民族の生き方であった。



それゆえ、森に悪や未開という発想を抱くことがなく、古くからの神道には善悪という発想は薄かった。どちらが正しいか、どちらが悪いかを考える前に、どちらにも言い分があると考えたというのである。

この点、日本の神道における神と人間の関係は「相対的」といえる。このことは、一神教において「善悪」が明確に定められ、神と人間が絶対的な関係に置かれていたのとは、じつに対照的である。



鎌倉武士を律した「御成敗式目」には、神と人間の相対性が、こう書かれている。

「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳(めぐみ)によりて運を添う」

人が敬うからこそ、神の威力は高まるのであり、そのおかげで、人は恵みを得られる。日本の文化はおおむね、このような柔軟性の中に育まれてきたのである。



「東日本大震災のとき、石原都知事が『神罰』と発言しましたが、あの表現は神道的にみると適切ではないのです」と園田宮司は言う。

「人間の力ではどうにもならない自然の営みを畏怖するものの、神道ではそれを神とは言わないのです。神は自然の中に生まれますが、自然を支配する存在ではないのです」



もし、一神教的な発想で被災地を見れば、大被害を受けたカオス(混沌)を「この世の終わり」と捉えるのかもしれない。しかし、日本の神道的には、カオスに絶望することはない、と園田宮司は語る。

「たとえば日本神話で、生と死の混沌とした黄泉の国は、決して絶望の国ではないのです。それは根源の世界であり、そこから新しい生命が芽生えてくるというカオスなのです」



日本神話では、黄泉の国に行ったイザナギは、そこから戻って来て禊(みそぎ)をすることで、アマテラスやツクヨミ、スサノオなどの重要な神々が生まれてくる。

「カオスの中だからこそ、新しい命が生まれるという発想なのです。だから、カオスに絶望はしません。自然のあり方を柔軟に受け止めるのです」と園田宮司。



この点、ある東北の漁師の言葉は、じつに神道的であった。

「震災に遭って2ヶ月間は、湾の中に小魚一匹見えなかった。ところが、2ヶ月後には、かつての海よりも豊かになって甦ってきた!」

日本での自然災害は珍しくない。その大小はあれど、毎年のように暴風や洪水、地震などに襲われる。それでも、この国の民族は絶望ばかりしてきたわけではない。「必ず甦る」と心のどこかで信じてきたのである。







今年(2013)、伊勢の神宮では、20年に一度の式年遷宮(しきねんせんぐう)が行われる。土地、建物から御装束神宝にいたるまで、すべてを新しく整えて神様にお移りいただくのである。

また、時を同じくして、出雲大社も60年に一度の大遷宮を迎える。



「新しくすることで神が若返り、国も若返る、それが式年遷宮だと言われています」と園田宮司。

「人々が神様を敬うことで、神様は大いなる生命の力を発して、国が栄え、人々もまた豊かな恵みの中で栄えていくのです」

人あっての神、神あっての人。あくまで神道は、神と人とが相対的なのであった。







伊勢神宮と出雲大社、この2つの遷宮が重なるのは60年に一度。前回は1953年、第二次世界大戦の傷跡がまだ生々しい時期であった。

当時の人々は絶望していたかもしれない。だが日本はその少し前に戦後支配からの独立を果たしており、新たな生命の芽生えは感じていたはずだ。

「必ず甦る」。そう信じていた人も少なくなかっただろう。



そして今、日本という国はカオスの中にあるのかもしれない。

それでも「必ず甦る」。そう信じている人も少なくないだろう。

式年遷宮という古来よりの儀式は、そんな想いを新たにさせてくれるものである…。







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出典:致知2013年3月号
「神道、そして文化と文明」

posted by 四代目 at 04:00| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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