2013年02月21日

身体で悟る。生涯無敗と謳われた「国井善弥」


血色のよい童顔に、鶴のような身体。

ジロリと睨まれただけで、身が竦むような威厳。

齢80を超えていたとはいえ、新陰流の「佐々木正之進」の存在感は圧倒的であった。



「相当な変わり者」

茨城県下の山中に隠棲していた正之進には、そんな風評もあった。



そこへ弟子入りしてきた「国井善弥」19歳。

明治27年(1894)、福島県に生まれた善弥は、8歳のおりから祖父について、そして厳父に家伝である「鹿島神流」を学んできた武道一筋の男。

その彼が、佐々木正之進の秘剣を習得せんと、意気揚々、門を叩いたのであった。






◎意味不明の用


入門した初日、善弥はいきなり肩透かしを喰ってしまう。

当然のように稽古を期待していたのだが、正之進にその気はまったくないようであった。



「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

師・正之進は、弟子・善弥に、意味不明の用を命じる。



はて…? 「何」とはなんだ?

住み込んだばかりの善弥に、師匠の日常生活など皆目見当がつかない。



善弥が戸惑っていると、いきなりカミナリが落ちた。

「たわけ者! それぐらいのことがわからんで、真武の修行が積めるか!」

師・正之進は吠えるように、善弥を一喝したのだった。



◎カン


「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

翌朝、しなびた頬を伸ばしながら、師匠は同じ問いを繰り返した。



さて、どうしたものか?

まごまごしていると、またカミナリが落ちてしまう。

いささか捨て鉢になった善弥は、適当に「新聞とメガネ」を師匠に持っていった。



善弥のカンは当たったのか、外れたのか?

とりあえず、この場は落着したようであった。



◎裸馬


「何に行く。お前も一緒に連れて行くから、何に、何に、何を用意しておけ」

禅問答にもならぬ師匠の不可解な命令は続く。



もしや…、鮎釣りか?

直感のままに、善弥は「釣竿と釣りエサ、そして弁当」を用意した。



ほどなくやって来た師匠は、ギョロリと大きな眼をひんむいたが、その表情は満足気にも見えた。

しかし、善弥が「よし!」と思った刹那、「たわけ者! 何はどうした?」との一喝が飛んできた。



わけが分からない。

だが、返答を躊躇すれば、また吠えられる。

「はい! 用意してあります」と善弥。完全に口からデマカセである。



たまたま馬のいななきを聞いた善弥は、馬を用意した。

だが、身支度を終えた師匠がさっさと姿を現してしまったために、「鞍」を置く余裕がなかった。

とっさに言い訳をする善弥、「先生、本日は新陰流の馬術、裸乗りの極意をご教示ください」。冷や汗をかきながらも、鞍がないのをごまかした。



ニヤリと師匠・正之進。

善弥も少しずつ、要領を得始めていた。



◎心眼


「何と何と何を、何しておけ」

師匠との推理ゲームが毎日つづくうちに、善弥は師匠のムチャぶりを完璧にこなせるようになっていた。

師匠と日常をともにしていた善弥は、師匠の立場になって「何」を推測し、それを用意することが出来るようになっていたのだ。



「人は当たり前のことしかしない」

たとえば、外出なら上着が必要かもしれないし、テーブルにつけば新聞を読むかもしれない。畢竟、人の行動は限られている。



のちに善弥は、意味不明の用によって「心眼」を試されていたことに気づく。

師匠はこう言っていた。「よいか、目に見えぬ世界を見、耳に聞こえない音を聴かずして、武道などはできもせぬ。剣の道を心がける者が、凡人なみの修行をしていて、どうして大成などできようか」。

相手の身になって「目に見えぬもの」を見ようとすると、善弥は自ずと相手の「先(せん)」が取れるようになったのだった。



◎無理難題


「そろそろ、道場に出てみるか」

その師匠の言葉に、待ってましたとばかりに小躍りする善弥。

いままで武道一筋に生きてきた善弥にとって、稽古のできない一日はたとえようもなく長かった。いつまでも続く師匠の禅問答には内心、不満が鬱屈していた。



ところが、いざ道場に入ってみると、師匠は木剣一本もたず、稽古着にすら着替えていない。

「またもや肩透かしか?」。そう善弥が思っていると、おもむろに師匠は床に白墨で一線を引いた。



「わしはこれからオマエを拳で打つ」

師匠はぶっきらぼうに言い放った。

「オマエはその白線の上に立って、素手で構えよ。一歩も動いてはならぬ」

その口調は、どんどん突き放すようである。

「なお、わしの腕をつかまずに、逆をとってみい」



「…」

善弥は無言であった。

打ちかかる腕をつかまずに、どうして相手の腕の逆がとれようか。しかも、一歩も動かずに…。



そんな困惑する善弥の顔面に、容赦なく正之進の拳は炸裂する。

一発、二発、三発…。

足を使えば善弥にもその拳はかわせたかもしれない。しかし今、武道の生命ともいうべき足を封じられている。そしてさらに相手の逆をとるなど、いかに武道を極めた人間にも不可能に思われた。



◎逃走


幾日も幾日も、善弥は打たれるばかり。

顔面は紫色に腫れ上がり、お岩さんも真っ青といったしろもの。

9日後、たまりかねた善弥は3日間の休養を願い出る。



そして休息3日目の夜、善弥は道場を逃げ出す決意を固めていた。

「こんなバカげた稽古があるものか!」



最後の夕食となるはずだった、その休息3日目の晩、師匠はモグモグと口を動かしながら、こう言った。

「そなた、ここを逃げ出そうと思っても、そりゃダメじゃぞ」

「心眼」をもつであろう師匠には、善弥の浅い肚の中などお見通しであった。



「この村をはさんで上下5駅、合わせて10駅は、どこもオマエには切符を売らぬように、はや厳重に手配をしてあるからのぉ」

師匠は美味そうに夕食を平らげた。

善弥は完全に「先」をとられていたのだ。



◎ヤケクソ


もはや観念した善弥。

翌朝はヤケクソで白墨の線上に立っていた。



相も変わらず、師匠の拳は面白いように善弥の顔面に炸裂する。

一発、二発、三発…。



「クソーーーッ!」

善弥は咆えた。

「バカもの!」

師匠は一喝して、さらなる拳を繰り出す。



しかしその時だった。

上半身をかすかに開いた善弥は、「トーーーッ!」と裂帛の気合をほとばしらせた。

その直後、鶴のような老人の身体は空を泳ぎ、鈍重な響きとともに、善弥の膝下に崩れ落ちた。



◎親指


「うむ。やっとわかったか」

足元の師匠の顔の奥には、ゆっくりと笑いがにじみ出てくる。



師匠のこの意外な言葉に、善弥は我に返った。

どうやらこの間、善弥の意識はあらぬところを彷徨っていたようだ。

師匠は起き上がりながら、相好を崩している。



「何をどうしたのか…?」

あの瞬間、師の4発目をかわすと、善弥は右手で師匠の伸びた腕をとらえ、関節を決めていたのである。

この時、善弥の右手の親指は内側に曲げられていた。つまり、親指は師匠の腕にかかっていなかった。だから、つかんだのではなく、残り4本の指で引っ掛けただけだった。



武道の立ち会いにおいて、とくに体術の場合、親指を用いて相手をつかんだりすると、そのまま逆をとられかねない。親指を制されると、その力を利用して投げられたり、自由を奪われたり…。

ゆえに日本伝来の古武術では、相手の親指をとる技法があまたとあった。



顔面をボコボコにされて、お岩さんのようになりながらも、善弥が学んだこと。

それは「親指」であったのだ。

言ってみれば、師匠・正之進は連日のごとく善弥の顔面を殴りつけながら、それだけのことを自得させようとしたのであった。






◎アメリカ vs 日本


「身体で悟らせる」

武道の悟りに近道はない。



弟子に手とり足とり、一つ一つ丁寧に教える師など、この世界には存在しなかった。すべてが体験であり、体感。そして、土壇場に追い込まれてこそ、その道は開けるのであった。

「立ち向かう 刃の下は地獄なれ 踏み込んでみよ 極意もあれ」と、鹿島神流の道歌は歌う。



のちの善弥は、「今武蔵(昭和の宮本武蔵)」とも呼ばれた「国井善弥(くにい・ぜんや)」であり、生涯無敗を誇った武道家である。

彼を語るエピソードの一つに、こんなものがある。

太平洋戦争終結後、アメリカのGHQから日本の武道家との試合の申し出があった。国と国の名誉をかけた、この一戦。そこで白羽の矢が立てられたのが国井善弥、その人であったのだ。



相手はアメリカ海兵隊の銃剣術家。

対する国井善弥は、木刀一本をもって立ち会いに臨んだ。



その試合は圧倒的であった。

善弥は相手の攻撃をすべて見切り、木刀一本ですべての動きを封じてしまったのだ。

さすがの銃剣術家も、負けを認めざるを得ない。



戦争という国と国の争いには敗れた日本。

だが、武と武、個と個の一騎打ちにおいて、ささやかな面目を躍如させたのが、この一戦であったという。






◎鹿島神流


国井善弥の鹿島神流は、「螺旋をもって発し、戻し、進む」といわれている。

先を取って相手の剣を殺し、相手の太刀筋よりも速く、先方を斬る。

「仕掛業(しかけわざ)に対して、反撃のない場合は、それがただちに決め業となり、『先先の先勝』を得られます。一方、反撃があれば、裏業に転じ、『先の先勝』を得るわけです」と、19代目・関文威氏(善弥の高弟)は語る。



その基本の構えが「無構(むがまえ)」、別名を「音無(おとなし)の構え」ともいう。

「赤子の心のごとく、無我無念にして…」

赤子が頭を叩かれようとする時に示す動作、それが神授の業となる。

「赤子が示す防御法と攻撃法を見習うべし」、人為の知恵が介在しないその業こそが、鹿島神流の業における太刀の操作原理になるのだという。



ちなみに、この鹿島神流というのは源義経が奉納した「天狗書」がその元になっているのだとか…。






◎真似び


「弟子というものは、師のなさることは何でも真似び(学び)、そしてやらなければならんものだ」

合気道の開祖「植芝盛平(うえしば・もりへい)」は、そう述べている。彼には数多くの弟子がいたが、この達人は弟子中の弟子、内弟子には稽古をつけるということをしていない。






盛平の内弟子、「塩田剛三(しおだ・ごうぞう)」もまた、「生ける伝説」と呼ばれた人物であるが、彼は師匠と真剣をもって立ち会ったことがあった。

「どないしたん、塩田はん。わしはこっちゃでぇ」

弟子・剛三の必死の斬り込みをサラリとかわす師・盛平。



京・鞍馬の山中は深い闇におおわれていた。

その漆黒の中、師・盛平は凄みのある笑みを浮べている。



改めて斬り込む弟子・剛三。

闇に白刃が光るや、逆に剛三の眼前には師の切っ先がピタリと止められた。

「いわゆる剣風というのでしょうか。剣でさえぎられた空気が、薄気味悪く私の頭にフワッと乗っかってくる感じで…(塩田剛三著・合気道人生)」






◎死


「塩田はん、いくでぇ」

闇夜の中、師・盛平は太刀を大きく振りかぶった。



「斬られる…!」

そう思った刹那、剛三の額の白鉢巻はハラリと落ちた。



「あと数センチ斬り下げられていたら、自分は間違いなく死んでいたでしょう」

のちに剛三はそう語る。なにせ、相手は日本一の武道家である。



この時、不思議なことに剛三は「死の甘美さ」を感じていた。

「死が身近に、そして楽しいものでもあるかのようにも感じられたのです」と、剛三はかすかに笑った。

のちに剛三は知る、「生死の境を超えたこと」を…。



「死への恐怖心が去った時、はじめて高次の世界は拓ける」

これが弟子中の弟子のみが体得しうる、師の悟りであったのだ…。










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出典:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]
「名人・達人たちの内弟子体験 加来耕三」
posted by 四代目 at 06:09| Comment(1) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
塩田剛三が偽物であることは、もはや常識であると思っていましたが。
まさか大兄が信奉者であったとは、とても残念に思います。 かの人は佐川幸義師ね稽古を見、それを弟子と示し合わせて演舞に仕立て上げたというのが真相なのです。
とてもとても、合気などと呼べる代物ではありません。
決定的とは言えませんが、その傍証となる映像があります。 それは、ロバート ケネディが来日したおり、彼の屈強なガードマンと対峙したときのものです。
佐川師なら立ち会って「さあ、どっからでもかかってらっしゃい。」とおっしゃるはずです。
そもそも柔道を嘉納治五郎が柔術からきりはなしたのも、合気などという数万人にひとりしか身につけられないものを排除し、誰にでも参加できるスポーツ とするためだったのでしょう。
ですから西郷四郎や三船久蔵を快く思っていなかったといわれています。
植芝盛平が武田惣角のもとを離れ、嘉納と同じように合気道を始めたのはのはなぜか。
答えは簡単です、合気(の真髄)を習得できなかったから。
だからといって植芝盛平をさげすんでいるわけではありません。
世間から認知される武道のジャンルを作り上げたことは、尊敬に値することだと思っています。
いろいろと書いてきましたが、言いたいことはただひとつ、インチキを礼賛するのだけはやめていただきたい、それにつきます。
失礼がありましたらひらにご容赦を。
読み直して最後ひとこと、武術、武道ともにそれぞれに良いところ、尊重すべきところがある、そう考えていることを申し添えて終わりにしたいと思います。

Posted by もも at 2013年03月08日 01:18
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