2013年02月15日

武術の残すタネとは? 天野敏(太気拳)


「武術の問題は『素質』だというのか?」

それじゃあ、身もフタもない。

稽古以前に強さが決まってしまっているのであれば、弱いヤツは弱いまま、強いヤツがより強くなるばかり。面白くも何ともない。



「それよりも、弱いヤツがどうやったら強いヤツに勝てるのか、ってほうが魅力的じゃないか?」

そう問いかけるのは、太気拳の「天野敏(あまの・さとし)」氏。

「あるがままでしょうがない…、わけがない!」



天野氏の出発点は、技とか以前の問題。

「技の稽古? そんなの後回し!」

「素質」というのは稽古以前の問題。それで強さが決まるというのなら、それを変えてやろうじゃないか。みんなが「生まれついての問題」だと信じ込んでいる、その「素質」というヤツを…。



◎素質


「生まれつき素質に恵まれているヤツなんて、ほんの一握りだ。そうじゃないヤツの方が圧倒的で、私もその一人だったんだ」

天野氏は30年前、その「素質のカベ」に突き当たってしまい、閉塞感と限界を感じていた。



「そもそも、素質って何だ?」

運動神経が良いということだろうか。

「運動神経なんて神経は、身体中どこを探してもない。じゃあ、いったい何を指して言うんだろう?」



運動神経が良いということを具体的に言うのならば、反応が速かったり、動きにバネがあったり、筋力があったり、判断が冷静だったり…。

「いろいろ細かく言えばキリがないだろうけど、まずはこの4つあたりがすぐに思い浮かぶ。つまり『反応速度(反射神経)』『バネ(身体能力)』『膂力』『判断力』。これが素質の内訳ってことだ」と天野氏。



◎稽古


では、素質のないヤツは、どこから稽古を始めればよいのか?

「ここからだ」と天野氏は言う。

ここからって、どこからだ?

「つまり、素質を手に入れるところからだ。普通は技とかを稽古するけど、そんなのは後回しにして構わない。運動神経のないヤツがいくら技の稽古をしたってタカが知れている」と天野氏。



天野氏は素質を先天的なものだとは思っていない。

「先天的だ、と思い込んでいるものを『後天的に手に入れる』。あるがままでしょうがない、と思い込んでいるものを『変えていく』。これこそが『稽古』ってわけだ」



30年前に「素質のカベ」に突き当たってしまった天野氏は、そう信じて稽古を続けてきたのだという。

「限界だとか閉塞感、もうオレはこんなもんだ、っていうカベは、実はこの素質にある。カベが破れないっていうのは、大体これが原因だ」



◎武術の墓場


当時、「素質のカベ」にぶつかっていた天野氏を導いたのは「澤井健一(さわい・けんいち)」氏。彼は太気拳の創始者であり、「拳聖」とも称される人物。

太気拳というのは、中国武術である「意拳」の流れを汲むものであり、戦後の1947年に中国から帰国した澤井健一氏によって日本で創始された武術である。







澤井氏は、師匠であった王向斎の教えを厳守し、道場を持たなかった。ゆえに稽古は屋外、明治神宮で行われていた。

「澤井先生が太気拳を教えていた昔の神宮には、ずいぶんと色んな人が来たよ」と、天野氏は昔を振り返る。「その中には、いろんな武術の段を持っていたり、何年も修行したって人も多かった」。



「そんな強いヤツらが、なんで来たんだろう?」

そんなことを考えていた天野氏は、ふと何かに似ていることに気づく。

「あぁ、宗教か。救いを求めたけれども救済を得られなかったヤツらが、今度はコッチに来てみる。ここでもダメなら、次はアッチと、いろいろ顔を出す」



太気拳には「禅」という側面があり、そこに救いを求めるものも少なくない。

「いろんな稽古をしても思ったようになれなくて、それで神宮に来る。禅を教わる。禅を組めば何とかなるんじゃないか、と」

そうした人々の中では、武術と信仰がゴッチャになっている。

「禅を組んでいれば、なぜか『ご利益』があって、いつか何かの拍子に突然強くなる、なんてね」



「神宮は『武術の墓場』みたいだ」

天野氏は冗談まじりに、太気拳の稽古が行われる神宮を、そう揶揄したりもしていた。



◎勘違い


拳聖・澤井先生が稽古をしていた神宮の森には、多くの者が集い、また去っていった。

そこでの「稽古の意味」に気づく者もいれば、気づかぬ者もいた。



神宮の森の樹々は、そのすべてを見届けていたのであろう。

その樹々の下で禅を組む人の中には、強さという「ご利益」を求める人もいた。

しかし果たして、「樹はご利益を求めてそこに立っているものであろうか?」



「いくら禅を組んだって、勘違いしてたんじゃ何にもならない」と天野氏。

いくら技の稽古をしても、素質を変えなければ何にもならないのと同様、いくら禅を組んだって、「人まかせ(神だのみ?)」じゃあ、どうにもならない。



◎名人


「名人というのは、だいたい身体が小さいもんだ」

拳聖・澤井先生は生前、そんなことを言っていたという。

「この言葉こそが武術の本質を突いている」と天野氏。「つまり、太気拳に限らず、多くの武術の稽古はそういうもんなんだ。技の習得という形を通じて、それ以前のもの(素質)を作り上げようとしているんだ」。



多くの先人たちも、「素質のカベ」にぶつかった。それは体格や身体能力、才能のカベでもあった。

「なんでこんな小さな身体に産んだんだ…」と、親を恨んだ人も中にはいたかもしれない。



しかし、それにもめげずにカベを乗り越えようとした先人たちも確かにいた。そして、実際に乗り越えた人たちもいた。

「その乗り越えた方法が、稽古となって残っているわけだ」と天野氏。



身体が小さくとも、名人と呼ばれるまでになった先人たちの「苦労の結晶」。それこそが稽古であり、技以前のもの(素質)を作り上げる体系なのである。

「名人というのは、だいたい身体が小さいもんだ」

これはじつに、意味深い言葉である。



◎芽


「禅を組むってのを勘違いしてれば、いくら組んでも大した結果を出せないのと同じで、技とか体力という観点からしか稽古を見ることができないと、身体能力の限界で終わってしまう」と天野氏。

本来、素質(身体能力)の限界を打ち破るはずの稽古が、その限界で留まってしまうのであれば本末転倒であろう。



「オレって、運動神経ないから…」

これほど悲しい言葉もない。この言葉の先にあるのは、弱い者は弱いまま、強いヤツがより強くという身もフタもない世界ばかりである。



「じゃあ、そうならないためにはどうする?」

動作のノロい奴はそれを機敏に。膂力のないヤツは力強く。反応のトロい奴は素早く。

「先天的と思い込まれている素質を、後天的に身につける。素質って言われるものを稽古で作り上げていく」、それが武術の稽古だと天野氏は言う。



素質と言われるものは、ある意味、自分に元から備わっているものである。運動神経が良いと言われる奴らは、それが早い段階から芽吹いている。一方、運動神経がないという奴らは、それがまだ芽吹いていないだけだ。

「太気拳ってのは、眠っている芽を揺り動かして、芽を出させる。そんなものだ」と天野氏は言う。「素質があるというのは何のことはない、自分に元から備わっていたものが芽吹いただけだ、ってことに気づくだろう」。



◎花と実


ひとたび素質が芽吹けば、それはいずれ花を咲かせる。それは「強さ」という花かもしれない。

しかし悲しいかな、花というものは、時とともに萎れて散り落ちる。花はまた、若さの象徴でもある。

「散らない花なんてない。だから問題は、花の時期が終わって『実』をつけるかどうかだ」と天野氏。



世の中には、花が咲いても実がならないなんて植物もたくさんある。たとえば、お花見の代表格「染井吉野(そめいよしの)」という美しい桜の花もそうだ。

こんな古歌もある。「ななへやへ 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき(兼明親王)」

八重咲きの山吹は花が咲いても実がならない。その花が艶(あで)やかな分、実りがないのは余計に儚(はかな)い、と兼明親王は嘆く。



実がならなければ、種もできない。それを西行はこう詠んだ。

「散る花を 惜しむ心や留まりて また来ん春の 種のなるべき(西行)」

種ができてこそ、次代に花の美しさが引き継がれていくのであるから…。



◎静中に動


「実って何だ? 武術で実るってのは、何が実るんだ?」

天野氏は、そう問いかける。

「生まれついての素質なんてのは、言ってみれば『花』だ。花を咲かせた後には、何が実るんだ?」



天野氏は、この問いとともに「禅」を組んできた。

「いったい今まで何時間立っていたのか見当もつかない(立禅)」と天野氏。



「なんで禅を組むのか?」

この問いへの天野氏の答えは明白だ。

「静中に動をみる。これに尽きる」

静中に動を見て、その動の力を感じ、発展の予感の中に居る。これが天野氏の禅を組む理由だ。



「よく樹を抱くように禅を組む、って言われる。本当にそうだ。禅を組んでいると、まるで樹を抱えているような気分になる」と天野氏。

そして静中に動が満ちてくると、その樹をへし折れる気がしてくるという。そう感じた時だ。考えることもやることも、そして出来ること全てが違ってくるのは。







◎自らの湧き上がる力


「身体の深奥から力が満ちてくる気分だ…」

背中がゾクッと震えて、肌が粟立つ。そして身体の奥から何かが湧き上がってくる。

「こうなって初めて判る。何が判るって? 武術の大元はこの気分だ。技もなにも、すべてがこの上に積み重なるんだ」と天野氏。「いや、判るってのはちょっと違うかもしれない。身をもって感じるんだ…!」。



その力を感じた時、それを感じない人間とは全てが違ってしまう。

「ここが武術の出発点で、禅を組んではじめて、この出発点に立てたということだ」

一時は「素質のカベ」に阻まれていた天野氏であったが、禅を組むことでようやく、その出発点に立つことができたのだという。



「武術の技なんてのは所詮、何の役にも立たない。でも、自らの湧き上がる力で自らを鼓舞する。これは『生きていく力』だ」と天野氏。

時が経てば人生は終わる。それは花のように…。

「でも、その最後の最後まで生き抜こうとする気力。それを与えてくれるのは『身体の奥からの力』だ。これを自らのものにしなけりゃ、武術をやった甲斐がない」



◎動


もし、自らの奥底から湧き上がる力の上に立っていないのならば、それはタネを残さぬ花のように儚(はかな)いものなのかもしれない。

そしてきっと、いつかはこの出発点に戻らざるを得なくもなるのだろう。



素質が芽吹いていないのにも気づかずに、ただ技の練習ばかりをしていては、いつか全てをフリダシに戻されてしまうかもしれない。

それはまるで、「神だのみ」のままに禅を組むようなものだろう。

勘違いしたままでは、虚しさだけが募るばかりだ。



神宮の森の樹々は、動かず物言わぬ。

ただただ、自らに湧き上がる力によって立ち続けている。

静かなるその様にはきっと、途方もないほどの「動」が秘められているはずだ…!







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出典:月刊「秘伝」2013年2月号
「禅が拓く新しい世界 天野敏」

posted by 四代目 at 08:06| Comment(0) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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