「自己」とは、どこにいるのか?
それは本当に「自分の身体の中」に収まっているのだろうか?
それはもしかしたら、「錯覚」なのでは?
「体外離脱」
つまり自分の身体を離れて、自分を外から見ているような感覚には、どのような説明がつくのだろう?
「人間について、これまで想像もつかなかった謎解きが今、始まりつつある」
◎リアル?
スウェーデンの神経科学者「エアソン(Henrik Ehrsson)」の研究室では、「体外離脱の実験」が日常茶飯事のように行われている。
エアソンの目標は、「人間が自分の身体の中にいると感じる『自己意識』の仕組みを解明すること」である。
「私は自分の身体の後方2〜3mに浮いているように感じていた」
被験者の一人は語り始める。
「すると、一本のナイフが自分の身体に向かってくるではないか! 思わず私はそのナイフをよけようとしていた。自分がその肉体から離れているにもかかわらず…」
近くのノートパソコンには、その被験者が瞬間的に恐怖を感じたことを示す鋭い波形が、グラフに描かれていた。
それは、被験者の指に取り付けられていた電極が、反射的に皮膚からドッと出た汗を検知したからだった。
それほど、その感覚は「リアル」だったのだ。
断っておくが、この被験者は魂の進んだスピリチュアルな人物ではない。ごく一般的な人物だ。そんな普通の人物が「体外離脱」というスピリチュアルな体験をしているのは、「サイエンスの力」によるものである。
「エアソンは『錯覚を利用して』、人々の自己意識を探り、拡張し、移動させる」
実験に用いられたのは、一台のビデオカメラとゴーグル、それと2本の棒だけだ(ついでに被験者を脅かしたナイフも)。
◎錯覚
まず、被験者はビデオカメラの映像が眼前に映し出されるゴーグルを装着する。
映像元となるビデオカメラは、被験者の後方に位置しており、被験者の「後ろ姿」を撮影している。つまり、このビデオカメラの位置が、体外離脱した被験者の見る視点となる(被験者の装着したゴーグルには「自分の後ろ姿」が見えている)。
錯覚の仕掛け人たるエアソンは、両方の手に一本ずつ棒を持って、「片手に持った棒で被験者の胸元を軽く突き、それと同じタイミングで、もう片方の手に持った棒をカメラに向かって突く」。
当然、被験者は胸を突かれた棒を感じる。ところが、目の前のゴーグルの映像には「自分の後ろ姿」が見えている。
「あれっ? 自分の後ろ姿を見ている自分に、明らかな感覚があるぞ…」
このチグハグな感覚によって、「自分の本物の身体は、自分が見ている身体の背後に浮かんでいるのだと、鮮明に感じるようになる」。まるで後方に体外離脱してしまったかのように…。
「10秒足らずで、私は自分が実際の身体から離れて、その数メートル後ろに浮かんでいるように感じ始めた(被験者談)」
エアソンが作り出す錯覚は体外離脱だけではない。
彼はこれまでに、「ほかの人との身体の交換、3本目の腕の獲得、人形サイズへの縮小や巨大化」といった錯覚を誘発することに成功している。
「ほかの神経科学者たちは、我々のことを『かなり怪しい』と思っている」とエアソンは心地よげに笑う。
◎不確かな自己意識
「自分の身体を所有しているという感覚」は、われわれの心に深く根付いている。
そのため、この感覚を「改めて考え直そう」などという人は滅多にいない。過去の科学者や哲学者たちも、それは疑う余地のない当然のものだとしてきた。
かの哲学者デカルトは、「この世界で確信できるものがあるとすれば、それは『自分の手が自分の手である』ということだけだ」と言った。
しかし、エアソンが作り出す錯覚は、「視覚と触覚をものの10秒ほど欺くだけで、その確信をいとも簡単に突き崩してしまう」。目の前のラバーバンドを「自分の手」と思わせることなど、朝飯前だ。
エアソンは言う、「自己意識というものは、人間に元から組み込まれていて変化したりしないものだと思われてきた。ところが、それは全く違っていた。『自己意識はあっという間に変化する』」。
かの哲学者デカルトは、「われ思う、ゆえに我あり」と言った。自己という存在を疑ったデカルトは、その疑う自分がいるからこそ、自己は存在するのだと言ったのだ。
でも逆に、「そう思ってしまうからこそ、自己は閉じ込められてしまうのではないか?」
身体の感覚(触覚)だけに身を任せてしまうと、自己がどこにいるのか分からなくなってしまう。エアソンの体外離脱の実験は、そんなことを言っている。
◎身体錯覚
「自分の意識は、どこにあるんだろうか?」
大学生だった頃のエアソンは、そんなことを夢想していた。長く退屈な講義の最中に…。
「もしも自分がその辺に、フワフワと浮いていて、自分の身体を見ることができたら…?」
医学を勉強していたはずのエアソンは、そんな疑問に取り憑かれてか、いつの間にか医師になるのをやめていた。
彼がより強い興味を掻き立てられたのは「身体錯覚」だった。
たとえばアリストテレスは、人差し指と中指を交差させて鼻に触れると、人によっては「鼻が2つあるような感覚(錯覚)を生じる」ことを発見している。
「自分でやってみたら、本当にそうなった」とエアソン。「奇妙でシュールな経験だった…!」。
錯覚というと、一般的なのは「目の錯覚(錯視)」である。目(視覚)はいともアッサリ騙される。「だまし絵」などでも簡単に。その研究も幾多とある。
「でも、身体錯覚の研究は多くないんだ」とエアソン。
エアソンが研究したかったのは、「『身体の所有感覚』がどのくらい容易に歪められるか」ということであった。
◎身体の所有感覚
エアソンが「身体の所有感覚」を見事に歪めてみせたのは2007年。
「被験者に『自分の身体から離脱した』と信じさせることに成功した」
この驚くべき実験は、世界中でニュースになった。エアソンはヘッドフォンやカメラ、作り物の身体の一部を利用して、被験者の身体感覚を欺いてみせたのだ(前述の実験)。
その一年後、エアソンは「被験者に『マネキンの身体』が自分の身体であると信じさせることに成功した」。さらには、「マネキンの身体から元の自分の身体を見つめさせ、元の自分と握手させることにも成功した」。
続いて2011年、エアソンは「被験者が『小さなビーバー人形の中に入り込んだ』と信じさせることに成功した」。
米国立衛生研究所(NIH)の神経学者ハレットは、エアソンの生み出す身体錯覚を実際に体験してみて舌を巻いた。「この錯覚は非常に強烈であり、信じられないほど速やかに生じる」。
自分の身体を「所有している」という感覚は、はたして錯覚だったのか。
この身体は自分のものではなかったのか?
エアソンが奇抜な実験を成功させるたびに、古来より疑われることのなかった「身体の所有感覚」に疑問が突きつけられていく…。
◎胡蝶の夢
中国の荘子(荘周)は、自分が「蝶(ちょう)」になる夢を見ていた。
「夢の中での私は、嬉々として胡蝶になりきっていた。心ゆくばかりにヒラヒラと…」
夢の中で胡蝶となっていた荘子にとって、自分が荘子であることなどは思いもよらぬことだった。ところが、目が覚めるや自分が自分であることにハタと気づかされる。
「ハッと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか…!」
目が覚めてなお荘子(荘周)は、「自分は実は胡蝶であり、荘周だと思っている自分が夢なのか」と混乱する。
「いずれが本当の自分か、自分には分からない…」
そして荘子は、この夢の話をこう締めくくる。
「荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし、主体としての自分には変わりがない」
この説話にたとえれば、エアソンは被験者たちに「胡蝶の夢」を見せているかのような身体錯覚を引き起こさせる。
そして、「身体の所有感覚」に疑問を生じさせる。「胡蝶が自分か? はたまた自分が夢か?」
自己という主体はもしかしたら、一時的に今の身体に宿っているだけなのか?
だとしたら、「本当の自分」とは…?
◎視覚と触覚
脳の教科書によれば、人間は身体の位置を、皮膚や筋肉からの信号(感覚)によって知覚している。
「脳は休むことなく、これら感覚器官から情報を収集して、自己意識を組み立てている(固有感覚)」
それゆえ、これら感覚器官の「内側」、つまり身体内部に自分はいるのだと感じることになる(身体の所有感覚)。
ところが、この堅固なはずの感覚(身体の所有感覚)を、エアソンはいとも容易(たやす)く欺いてみせた。
視覚の錯覚(錯視)と肉体からの信号(触覚)を混ぜこぜにすることによって、自己がどこにいるのか分からなくしてしまったのだ。
時には自分の後方数メートル、時にはマネキン人形の中、時には小さなビーバー人形の中…、いったい「本当の自分はどこにいるのだ?」。
面白いことに、こうした錯覚に惑わされない人々も存在する。たとえば、ダンサーや音楽家など「視覚に頼らずとも、自分の身体の位置を正確に把握できる人々」だ。
エアソンの考えるところでは、身体錯覚が起こるのは「視覚と触覚が結びついた時」である。
ただ、その2つの感覚を結びつけるものが何であるのかは、いまだに「ミッシングリンク」。エアソンは「多感覚ニューロン」の働きによって生じているとの仮設をもってはいるが…。
◎未来
エアソンの示す「自己所有感覚の錯覚」は、スピリチュアルな人々を怒らせる。
「私の体外離脱は、断じて勘違い(錯覚)などではない!」
その一方で、将来的な希望も含んでいる。
たとえば、「人々がロボットなどの全く異なる身体を制御することを容易にする」。
「この錯覚を利用すれば、ロボットやアバターの緻密な操縦が可能になるはずだ。ロボットを操縦する人は、ゴーグルを用いてロボットの視点からモノを見て、ロボットの手に組み込まれたセンサーとつながったグローブで操縦できる」
その際、「新しい身体のサイズ」は重要ではない。
「外科医は患者の体内で極小のロボットを制御できるだろう。逆に、巨大なロボットに壊れた石油掘削装置を修理させたり、原子力発電所を解体させたりもできるはずだ」
そんな未来を夢想するエアソンの顔には、自然と笑みがこぼれる。
エアソンの予測によれば、人間と機械との間で100ミリ秒以内の信号のやりとりが出来れば、「完全な身体錯覚」が生じることになる。
その時、自分は自分でなくなる。そして、アバターの世界は現実となる。
◎2人の自分
「脳は、さまざまな感覚器官からの情報をいかに統合しているのか?」
エアソンはその仕組みの解明に忙しい。
「たとえばそれは、本質的に統計的なのかもしれない。脳は自分の手を、絶対座標で把握しているのではなく、『ここにある可能性が高い』と判断しているのかもしれない」とエアソンは考える。
その可能性の隙間には、錯覚の入り込む余地がある。
「その場合、脳を欺いて、この身体もあの身体も、とちらも同じくらい自分のものであるようだと思わせることができるかもしれない」とエアソンは微笑む。
もしそれが可能ならば、自己を2分割して「2つの身体」の中に同時に存在させることも夢ではない。自分の身体を所有しているということだけが錯覚ではなく、自己が一つであると感じていることまでが、じつは錯覚なのかもしれないのだから…。
エアソンの考えを聞けば聞くほど、自己というものの存在が危うくなっていく。
はたして「本当の自分」など、存在するのかどうか…。それは自分であり、自分でないのか…。
いったい、今こうして考えている「自分」は、じつは錯覚の世界の住人なのか?
しかし逆に、エアソンは自己の定義を拡大したとも解釈できる。
今までの自己意識は、自分の肉体の中だけに限定的に存在するものとされてきた。それに対してエアソンは、自己意識が自分の身体内だけに限定されるものではないということを、繰り返し示唆している。
それはつまり、自己の解放でもあろう。
もしかしたら、ドラマや小説の世界に感情移入している時、本当の自分は本当にその主人公のところにいるのかもしれない…。
たとえそれが錯覚だとしても、どうしたら錯覚でないと断言できようか(ホッペタでもつねってみようか? ただし、その手はラバーバンドかもしれないが…)。
荘士の胡蝶は、一体どこへ飛んでいく?
「あやふやな自己」
胡蝶の行く末はまだ、誰も知らない…。
「われ思う、ゆえに我なし」
それもまた錯覚か…?
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出典:日経サイエンス2012年4月号
「身体の錯覚を自由に操る科学者」

