「何を揉めているんだ?」
とある落語会のチケット売り場、大学生と思しき男が何やら揉めている。
話を聞けば、その大学生は「どうしても落語が見たい」のだそうな。ところが、チケットはすでに完売。それでも彼は執拗に食い下がり、粘っていたのであった。
「そんなに見たいのか? それならボクの席をあげるよ」
この気前の良い男性は、この落語会を主宰していたテレビ局の者で、自分のチケットを快くその大学生に譲ったのであった。
この時の大学生は、のちに落語評論家、そして料理評論家ともなる「山本益博(やまもと・ますひろ)」氏の若かりし頃。大学の入学祝いに頂いた歌舞伎のチケットを手に、国立劇場へと喜び勇んで来ていた時の話である。
ところが、歌舞伎を見に来たはずの山本氏、なぜか隣りの小劇場でやっている「落語」に惹かれてしまう。
「歌舞伎は明日でもやっている。しかし、その落語会は今日しかやっていない…」
歌舞伎のチケットをくれた親戚のおばさんには申し訳ないと思いながら、山本氏の足は落語会へと向いていた。ところが、落語のチケットはすでに完売。そこで冒頭の揉め事へと相成ったわけである。
◎別次元の高みにいる人
「それが、戦後落語の名人の一人と称される『八代目・桂文楽(かつら・ぶんらく)』の落語を聴く最初の機会だった」
桂文楽の落語を聴き、感動に打ち震える山本氏。「私はその高座に一回で魅了されてしまった」。
もともと浅草の下町育ちの山本氏は、他の人の落語を何度も聴いていた。
それでも桂文楽の落語は別格だった。「私が知っている落語の世界とは『まったく別次元の高みにいる人』だと感じた」。
この鮮烈な体験をもって、山本氏の「卒論のテーマ」は定まった。桂文楽その人である。
「この人がなぜ、こんなにも芸に一所懸命なのか?」
山本氏は大学の4年間で徹底的に追求すると心に決めた。それは折しも、大学に入学したその日の晩のことであった。
◎ひとり黙々と…
「テメぇ、こんな時代に落語なんか聴いてるザマじゃねえっ!」
時は大学紛争、真っ盛り。落語に熱を上げていた山本氏は、学生運動をやっている連中から吊し上げを食らった。
「しかし私は学生運動などに目もくれず、毎日のように寄席(よせ)に足を運び、桂文楽を追いかける落語漬けの日々を送っていた」と山本氏は淡々と振り返る。
昭和23年生まれの山本氏は「いわゆる団塊の世代」。
「そういう塊の中にあって、没個性に陥ってしまうのは耐えられないことだった」と山本氏。
山本氏の評論活動の原点には、「人と同じことをしたくない」という想いがあった。六畳一間の自宅の一室、それが山本氏の落語研究所であり、ひとり黙々と研究を続けるのであった。
◎松永先生
その後、親の転勤で家族が札幌へと転居してしまうと、山本氏の落語研究所は下宿先へと場を移す。そして、その下宿先は幸運にも、詩人であり評論家でもあった「松永伍一(まつなが・ごいち)」先生の自宅であった。
「君かい? 山本くんは」
偶然ばったり、玄関先で出会った松永先生。「夜遅くまで勉強大変だね」と話しかけてくれた。
「いや、じつは今日、学校をサボって落語を聴いていました」と山本氏。
「えっ?! 落語きくの? どこで?」。興味津々の松永先生。「新宿の末広亭です。立川談志の大工調べがすごく良かったです」と答える山本氏。
「じゃあ、何か感想を書いてごらんよ」と松永先生。それが先生による指導の始まりとなった。
さっそく提出した原稿は「赤字だらけ」になって返ってきた。
「見たままのことしか書いていない。その時、談志という人はどんな思いでやっているか。そこを見られなかったら人間は描けないよ」と手厳しい指摘。
書いては直され、また書いては直される…。文章の書き方のみならず、ものの見方や考え方まで山本氏は松永先生にみっちり指導を受ける。
「今こうして、私が評論活動をさせていただけているのは、松永先生のご指導のタマモノである」と山本氏は感謝の念をにじませる。
◎卒論
「これは…、一冊の本にするくらいに中身が良い」
山本氏の卒論に、国文学の教授は思わず唸った。
山本氏が卒論を書き上げたのは昭和46年12月11日。
「折しもその翌日、桂文楽は亡くなった」
卒論のテーマが決まったのは、桂文楽の落語を聴いた入学式の晩のこと。そして、卒論を書き上げたその翌日に桂文楽は亡くなった。
「私の大学四年間はまさに、桂文楽に始まり、桂文楽に終わったといえる」と山本氏は感慨深げに述懐する。そして、この卒論「桂文楽の世界」はそのまま、「さよなら名人芸 桂文楽の世界」という一冊の本として出版されることになる(山本益博26歳)。
桂文楽は最晩年、「大仏餅」という演目の高座で、ある登場人物の名前を忘れて絶句してしまう。
「あたくしは、芝片門前に住まいおりまして…」
本来このあと、「神谷幸右衛門…」という台詞が続くはずであったが、それがどうしても文楽の口からは出て来なかった。
「申し訳ありません。台詞を忘れてしまいました…」
そう言って、深々と頭を下げる桂文楽。
「もう一度…、…勉強し直してまいります」
そのまま高座を降りてしまう桂文楽。それ以後、彼が高座へ上がることは二度となく、この四ヶ月後に他界してしまう(享年79歳)。
◎芸
「完璧主義」
この言葉が桂文楽には相応しい。
「名前を忘れてしまったところで話を進められないわけではない。だが、それだけ徹底した完璧主義者だったのだ」と山本氏は桂文楽を讃える。
桂文楽は最晩年、「高座で失敗した場合に、お客さまに謝る謝り方」まで毎日稽古していたという。
戦後の落語における名人には、「5代目古今亭志ん生」という人もおり、桂文楽と並び称されていた。だがこの2人、じつに対照的であり、志ん生が「八方破れな芸風」で知られていたのに対して、桂文楽は「細部まで徹底的に緻密に作りこむ、寸分もゆるがせにしない完璧主義」に定評があった。
桂文楽の演じた演目の種類は決して多くはない。それは、非常に限られた演目だけを研ぎ澄ましていくというのが彼の主義であったのだ。
「あたしのネタは、すべて十八番(おはこ)」
そう桂文楽は言っていた。
「芸にすべてを打ち込んだ人。その生き様に強く惹かれた」と山本氏は語る。
「悲しいと思ったら、それが芸ですよ。悔しいと思ったら、それが芸ですよ」。こんな名言を桂文楽は残している。
桂文楽の若い頃からの売り物であった「明烏」、この噺の中には登場人物が「甘納豆」を食べる場面が出てくるのだが、その芸の巧みさに釣られたお客さまは、どうしても甘納豆が食べたくなってしまう。「明烏を寄席で高座にかけると、売店で売られていた甘納豆が売り切れた」、こんなエピソードがあるほどである。
「文楽が亡くなったのは、自分の芸が崩れたことで、生きる意味を失ってしまったからだろう」と山本氏は語る。
「お後がよろしいようで」
これもまた桂文楽の名言である。
◎一万時間
「一万時間の法則」
マルコム・グラッドウェルの「天才」という本の中に、その話は出てくる。
「スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツ、ビートルズといった成功者たちは皆、若い頃に寝る間も惜しんで一つのことに打ち込み、その総時間が『一万時間を超えた人』だという」
一日8時間を、一年間(365日)続ければ2,920時間。これが一万時間に達するには、およそ3年半。
「脇目もふらず、一つのことに徹する」
桂文楽の芸も、そうであろう。「完璧」を追求した彼ならば尚更である。
のちに評論家として大成する山本益博氏であるが、その原点は彼の言う通り、大学時代の4年間を桂文楽一筋に捧げたことにあった。
「青二才だった私の精一杯を懸けて仕上げた作品」
それが大学4年間、一万時間の結晶たる卒論「桂文楽の世界」であり、著書「さよなら名人芸 桂文楽の世界」であったのだ。
◎場数
「今日という日を、昨日の続きだと思っている人はいないだろうか?」
山本氏は、そう問いかける。
「私は決してそうは思わない。今日の自分は、昨日の自分とは違う、そんな気概を持っている」と山本氏。
「場数(ばかず)」
自分を磨いてきたのは「場数しかない」と山本氏は言う。桂文楽の死後も、山本氏は各界の完璧主義者たちを追いかけ続けた。
そして彼は、日本に「料理評論家」という職業を確立していくことになる。
「相変わらず、お馴染みのお笑いを申し上げることにいたします…」
桂文楽による黒門町の語り出しは、毎回ほとんど同じ。究極のワンパターン。しかしそれは、苦心に苦心を重ね、練りに練り上げたフレーズ。
「高座百遍と云うか、決して同じ高座はやらずに高座に上がるたびに噺に工夫を凝らし続けた志ん生とは逆に、噺を完成させるまでは決して高座に掛けず、噺を練り尽くしたのが桂文楽」
桂文楽の黒門町は、毎回同じに聴こえるだろうか?
確かにフレーズは同じかもしれない。だが、「昨日の黒門町と、今日の黒門町は違うのかもしれない」。
一万時間を経るたびに、そのフレーズは違った響きをまとっていったことだろう。
◎鍛錬
競馬のジョッキー「武豊(たけ・ゆたか)」は、まだ売り出し中の若手だった頃、こんなことを言っていた。
「実戦を一万回経験したとき、今までは見えなかったものが、きっと見えてくる気がするんです」
彼にとっても、今日という日は単なる昨日の続きではないのかもしれない。
「鍛錬(たんれん)」という言葉の語源は、剣豪・宮本武蔵の「五輪書(ごりんのしょ)」にあるという。
「千日の稽古をもって『鍛』とし、万日の稽古をもって『錬』とす」
日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」という3条件を追求するのであるが、切れるためと曲がらないためには硬くなくてはならない。しかし、折れないためには逆に鋼は柔らかくなくてはならない。
この点、鍛錬の「鍛」は硬さを鍛(きた)えるものであり、「錬」は柔らかさを醸成するためのものである。
桂文楽の落語は、高座に上がる時には十分に鍛えられたものだったのだろう(鍛)。
そして、その鍛え上げられた「お馴染みのお笑い」は、高座という場数によって錬られていったのかもしれない(錬)。
「昨日と今日は同じであったか?」
同じに見えても、それは同じとは限らない…。
「明日は今日と同じであろうか?」
桂文楽ならば、なんと答えるか。
「いやいや、べけんや、べけんやですな」
そんな風に、スルリとかわされてしまうのかもしれない…。
お後がよろしいようで。
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出典:致知2012年2月号
「一万時間をただ一つにかける 山本益博」

