2013年01月18日

古代織「羅」。その薄い薄い織物の先に見えるもの。


幻の古代織「羅(ら)」。

1972年、それが中国の遺跡から見つかった。それは日本でも写真展が開かれたほど、世界中で話題になった「世紀の大発見」であった。



「2,100年前の奇跡 中国・長沙漢墓 写真展」

そこに展示された一枚の写真に「北村武資(きたむら・たけし)」氏は、深い感動を覚えていた。

その写真とは、棺の内張りに使われていた古代織「羅」の写真。



「羅(ら)」とは絹織物の一種であり、それは透き通るほどに薄い(甲骨文字の「羅」は「網」を意味する)。

「一張羅(いっちょうら)」という言葉には、「一着しかない一番上等な着物」という意味があるが、この言葉に「羅」の文字が使われているのは、絹織物「羅」がそれほどに上等なものだったからである。

漢代の古代中国において、「羅」は錦の服の上から羽織られ、塵除けとして使われたといい、日本では主に冠などに用いられたのだという。それらは正倉院の御物の中にも伝世されている。



◎「羅(ら)」とは


「羅」が特別上等なものとされたのは、その技法が極めて複雑、高度なものだったからでもある。

「羅」は3本以上の経糸(たていと)が左右の経糸と絡まり合いながら織られていく。普通、経糸というのは一貫してまっすぐに通されるものであるが、網のように薄く織られる「羅」にあって、経糸がまっすぐでは緯糸(よこいと)がスカスカになってしまって形を維持できない。

そのため「羅」の経糸(たていと)は、あたかも編み物のように横へ横へと隣の経糸に絡んでいきながら、その強度を保つ。だから、網のように薄くできるのである。



この薄さにより、暑い季節でも快適に着物を着ることができるようになった。

「夏の着物は暑いなどと言われるけれど、『羅』には、それを払拭する古代人の智慧が隠されているようにも思える」

似たような織物に「紗(しゃ)」というものがあるが、こちらは2本の経糸(たていと)が交差しているだけなので、その組織は「羅」に比べればよほど単純である。



しかし皮肉にも「羅」の技法の複雑さは、その歴史を途絶えさせ、その代わりに簡単に織ることができる「紗」ばかりが後世に伝わっていくことになる。

漢代の「羅」が日本に伝来したのは4世紀頃とされるが、応仁の乱(1467)を境にその技法の継承は完全に絶たれてしまう。以後の時代においては、「紗」によって代用されることがほとんどである。

ただ、伊勢神宮の式年遷宮ばかりには、どうしても「羅」が必要とされていた。そのため、喜多川平朗(きたがわ・へいろう)氏がそのためだけに「羅」を織っていたのだという。それでも、「当時の織物技術では製織は困難といわれていた」。



◎絶対服従


「それならば、私がその技法の解明に挑もう」

そう思い立ってからわずか半年、「北村武資(きたむら・たけし)」氏はものの見事に「羅」を現代に蘇らせることに成功した。

そしてその功により、北村氏は「人間国宝(重要無形文化財保持者)」に認定されることになる(1995・60歳)。



しかし、当の本人にはその功を誇ろうとする気配は全くない。

「私が人間国宝に認定されていることに人は驚かれるが、織物の町・西陣で60年以上もひたすら仕事をしていれば、それほど不思議なことでもないのかもしれない」と北村氏。

さらに意外なことに、北村氏はこんなことも口にする。「いまだに織物が好きだとか楽しいなどと思ったことはない」。



昭和10年(1935)に京都下京区に生を受けた北村氏は、戦争中に父を病死で、兄を戦死で失った。そのため母子家庭となってしまい、北村氏は一日でも早く働いて家計を助けなければならなくなってしまった。

「一番手っ取り早く収入が得られるから」

そんな理由から、北村氏は織物の世界に足を踏み入れる。当時の西陣織は京都の基幹産業であったのだ。



「奉公先の主人には、絶対服従せよ」

明治女である母にそう厳しく言いつけられた北村氏。15歳からひたすら機(はた)を織り続けることになる。

「機織りの仕事は今でいう歩合制。織れば織るほどたくさんの賃金がもらえる。休日は毎月1日と15日のみ、朝早くから夜遅くまで、体力の許す限り働いた」



◎転機


「周りの男衆は、家族を養うために働き、わずかな晩酌と、休日に映画館へ行くことだけを日々の慰めとしている」

そんな大人たちの姿を見ていた北村氏は、「自分の将来の姿がそのままそこにあるようで、耐えられなくなってしまう」。それは20歳の悩みであった。

そしてついに、5年間勤めた機屋を退職することに…。「この機屋でずっと仕事をしていてはいけない。もっと世間を知らなければ…!」。



家庭の事情で中学しか出ていなかった北村氏は、機屋を辞めて以後、懸命に新聞や雑誌のたぐいを貪り読んでいく。「何とかして知識を吸収しなければならなかった」と北村氏。

しかし、ある先輩はそんな北村氏を批判した。「おまえは世の中のことを全部肯定しているようだ。新聞に書いてあることばかりを鵜呑みにして信用してしまっている。そうではなく、何事に対しても『なぜだ?』という疑問を持たんとあかんのや」。



「これは私にとって大変な驚きだった」と北村氏。

幼い頃から、親や先生には絶対服従、逆らってはいけない、言う通りにせよと北村氏はずっと教育されてきていたのだ。

「新聞に書かれてあることを疑ってみるなど、考えたこともなかった」



◎なぜ?


「織機はなぜ、こういう構造になっているのか?」

今まで疑問に思わなかったことを疑問に思ってみると、「次から次へと新たな疑問が生じ、織物に対する関心が果てしなく広がっていくように感じた」。

そして、「疑問と知識をもった上で機を織るのと、何も考えずに言われた通りに織っているのとでは、得るものがまるで違ってきていた」。



さらには、「自分の意識が変化してくれば、同じように一日働いていても、他の職人のする仕事とは明らかな差が生じてくる」。

もはや北村氏の将来は、「わずかな晩酌と休日の映画ばかりを日々の慰めとする男衆」のそれとは異なり始めていた。

必然的に技術が上がり、同時に収入も上がり始め、やがて西陣の機屋や職人仲間の間でもウワサが広がり始める。「うちで仕事をしないか」、そう声を掛けられることも少なくなくなった。



一時は機織りに絶望した北村氏であったが、結局、彼の生きる道はここにしかなかった。

「この織物の中にしか、生きて、道を拓いていく術はなく、ひたすらそれを追求していく他なかった」と北村氏は振り返る。

だからこそ、織物に対して「好きだとか楽しいなどと思ったことはない」と北村氏は言うのであり、「仕事との戦い、生活との戦いがずっと続いている」と人間国宝に認定されても感じ続けているのでもあろう。



◎創作


「創作とは何なのか?」

ある日の北村氏は、そんなことを大真面目に考えてみたことがあったという。

その結論はといえば、「他の誰かの作品や何かにヒントを得てつくったものは、本当の創作とは言えない」というじつに厳しいものだった。



「まったくのオリジナル、つまり無から有を生み出さなければ、創作にはなり得ない」

そう思い極めた北村氏は、その言に恥じぬよう「今までにない織物」を生み出し始める。

その成果が、日本工芸会会長賞(伝統工芸日本染織展)の受賞(当時30歳)であり、以後、毎年のように賞をとっていくこととなる。



「次はもっといいものを、それまでにないものを…!」

そんな気負いが、賞を取るごとに募っていく。



「しかし、今までにない作品ができることなど、本当は人生の中で一、二度あるかないかである」

そう北村氏が言うように、作品の文様やデザインはたちまち息切れしてしまい、5年ほどした頃には「完全に行き詰まってしまった」…。



◎出会い



そんなドン詰まりの中であった。

北村氏が、古代織「羅(ら)」と出会ったのは(当時37歳)。



「そもそも、織物は何のためにできたのか?」

古代の風に触れた北村氏は、そんな原始的な疑問に立ち返っていた。



「原始時代、人類は寒さを凌ぐために動物たちの皮を剥ぎ、それを繋ぎ合わせて身につけたり、洞穴の中に敷いたりしていた」

それから少し時代が経ると、「ツルやワラを組み合わせて筵(むしろ)のようにし、繊維状のものを布面状にこしらえる」

道具も変わっていったことだろう。「最初は手で編んでいたのが、効率よく作業をするために道具を発案し、さらにその機能性を高めていった」



「経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を、どのように組織すれば『羅』ができあがるのか?」

北村氏の思考法は、技術の成り立ちには必ず「必然性」があるという点に立脚しており、織物には必ず「原理原則」があるはずだとの確信が自分の中にあった。



それでも、古代織「羅」を再現するには「数年はかかるだろう」と北村氏は覚悟を決めていた。45年もの経験をもってしても、羅の組織は複雑極まりないものに見えたのだ。

ところが実際に取り組んでみると、「わずか半年ほど」で羅が織り上がってしまう。



「羅」は2100年も前の技術とはいえ、そこには一貫した経糸(たていと)のような原理原則が貫かれており、北村氏が確信していた通りに、そこには必然性があった。

一見、複雑怪奇に見える羅の組織であったが、その経糸(たていと)の絡まり合いは決して混沌としたものではなく、じつに整然としたものだったのだ。



◎自己改革


「丹念に観察していくことが、創作の基本ではなかろうか」

「羅」を現代に蘇らせた北村氏は、そんな考えに至っていた。無から有を生み出すばかりが創作ではなく、有をつぶさに観察し、見過ごしていたものを再発見することもまた創作ではなかろうか、と彼は言う。



北村氏は決して古代の研究者ではない。「毎日、機場に上がって作業をしている人間」である。

研究者のように文献だけで知識を得ているわけではなく、実際に機場に座り、手を動かしている。だからこそ考え及ぶところもあり、それは「現場の発想」とも呼べる彼独特の独自性であり、かつ主体性であった。



「創作というのは、自己改革の繰り返しである」

人は自分が苦労して積み上げてきた技法や立場を後生大事に守って、そこに固執してしまいがちである。しかし、「それでは新しい、思い切った挑戦はできない」と北村氏は語る。

「一度、自分自身を潰してご破算にし、原点に立ち返って考えてみる。そして、一から組み立てていく謙虚さが求められる」

北村氏は「羅」の復元を通じて、このことを痛感していた。



◎示唆


「羅」の組織は、じつに示唆的である。

羅の組織にあっては、織物の骨子とでもいうべき経糸(たていと)が一見、原理原則を貫いていないかのように見える。それぞれの経糸は左右の経糸と絡まり合いながら、右へ左へととどまるところを知らぬのだ。

それに対して、普通の織物の経糸は上から下まで一貫して、左右にブレることは全くない。その組織は単純明快であり、そこには何の疑問も生じ得ない。



「羅」の経糸は、一貫していないように見えて一貫している。その経糸は置かれた位置に固執することはなく、まるで自己改革を繰り返すかのようにアッチコッチへと目くるめく立ち位置を変えていく。この経糸の動きによって、羅は究極の薄さを追求することが可能となる。

一方、まっすぐに貫かれた経糸の織物では、薄くすることはまず不可能。薄くするほどに、緯糸(よこいと)がユルユルに動いてしまう。それは、縦に貫かれる糸(経糸)が「まっすぐ過ぎる」という結果である。経糸がまっすぐ過ぎるために、皮肉にも緯糸(よこいと)同士がお互いを締め付け合わなければならなくなってしまうのだ。



もし社会が、まっすぐ過ぎる理想(経糸)ばかりを追い求めるとしたら、そこに疑問の余地は少なくなってしまうだろう。そして、その経糸がまっすぐ過ぎるために、その社会に生きる緯糸(よこいと)たる人々は、お互いを締め付け合わなければ、お互いを支えられなくなってしまうかもしれない。

では逆に、時代を貫く経糸(たていと)が時に応じて柔軟に位置を変えていったらどうなるか?

その社会はきっと「羅」のように、緯糸同士が弛く薄く、より自由度の高いものとなるのかもしれない。



◎まっすぐ過ぎ


創作を「無から有を生み出すもの」のみに限定してしまっていた若き日の北村氏は、あっという間に行き詰まってしまっていた。それは経糸(たていと)たる発想があまりにも「まっすぐ過ぎた」ためであったのかもしれない。

それと同様、新聞に書かれてあることを鵜呑みにしていた20歳の北村氏も「まっすぐ過ぎた」のであろう。



「疑問」というのは、そのまっすぐ過ぎる経糸を捻(ねじ)れさせてくれる。

かつて絶対服従とされたまっすぐの経糸に疑問を感じた北村氏は、その後の人生の紆余曲折において、まるで「羅」の経糸のように発想を転換させていくこととなる。

だからこそ、北村氏は「羅」の組織に用いられていた「見えない原理原則」にも、手を動かすことによって気づくことができたのであろう。



もし、研究者のように頭だけで「見えない原理原則」を追い求めていたのなら、「羅」は一生復元できなかったかもしれない。「現場」という緯糸(よこいと)は、机の上で解明できるほどに単純なものでは決してない。

机の上ではまっすぐに引ける線も、現場でまっすぐに引けるとは限らない。



◎社会という織物


社会も織物同様、時代という経糸(たていと)に、刹那を生きる人々が緯糸(よこいと)を織り成して構成されている。

もし理想や信念といった経糸が「まっすぐ過ぎる」と、緯糸たる人々はそれに苦しめられることにもなりかねない。現場の線がまっすぐに引けるとは限らないのだから。



北村氏は、自分の弟子たちに「私のような道を歩んで欲しいと決して言わない」。

「自分に合った道、自分に合った手立てを見つけ、最後には一人で考えて、自分の道を拓いていかなければならない」と北村氏は語る。



はたして、まっすぐに生きていける人などいるのだろうか?

お釈迦様とて、その経糸は曲がっていったのではなかったか。それでも、そこに貫かれた原理原則たるものはまっすぐと貫かれていたのだろう。しかし残念ながら、そのまっすぐさは決して目には見えぬものである。



北村氏は「手を動かす」ことで、「羅」に隠された原理原則を感じ取ることができた。

われわれの人生もまた然り。頭で考えるような線は描けない。その場、その場で「合った道」、「合った手立て」を見つけながら進んでいくより他にない。そして、その曲がった道程の中に「見えない原理原則」を感じていくのだろう。



「羅」の経糸の複雑さは、緯糸の少なさに通じていた。

逆に、経糸のシンプルさは、緯糸の多さに通ずる。



社会における経糸とは? そして緯糸とは?

透き通るように薄い「羅」。そんな優美な社会もまた魅力的であろう。



古代中国・漢の時代、そこに生きていた人々は何を思ったか。

そして、「羅」の隙間に何を見た?







出典:致知2013年2月号
「幻の古代織はかくて蘇った 北村武資」
posted by 四代目 at 04:05| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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