2013年01月12日

大悪党にして大忠臣「楠木正成」。その大いなる誤解とは?


「ひと昔前なら、『楠木正成(くすのき・まさしげ)』の名を知らない日本人はいなかった(黒鉄ヒロシ)」

ところが戦後、その楠木正成は「大いなる誤解」によって、日本人の歴史から半ば消されてゆくこととなる。

「その名には紗(しゃ)がかけられ、輪郭は朧気(おぼろげ)となった…」



その大いなる誤解とは、戦前の「軍国教育」である。

楠木正成は軍国の英雄に祭り上げられたという理由から、戦後の日本を支配したアメリカ(GHQ)からたいそう煙たがられてしまったのであった。



◎修身


昭和20年(1945)12月31日、GHQは日本政府に「修身、日本歴史および地理に関する件」という司令を出し、日本の戦後教育から「修身・日本歴史・地理」の授業を停止。それらすべての教科書を回収して、製紙の原料としてしまう。

歴史と地理の授業は、のちにGHQの承認を得て再開されるも、「修身」の授業ばかりはこの時以来、現在に至るまで復活することはなかった(代わりに「道徳」の授業が開始されることになる)。



「修身」の授業とは何か?

戦前教育を受けたある人は、こう答える。「君に忠、親に孝」。

そして、その象徴ともいうべき人物、それが「楠木正成(くすのき・まさしげ)」だと言うのである。



戦前の日本で「国民の鑑(かがみ)」にされたという楠木正成。

しかし、「その楠木正成を、GHQは『教えてはならない人物』の筆頭に挙げ、戦後の日本教育から抹殺しました(松浦光修)」

なぜかといえば、第二次世界大戦における日本国民の「国に尽くして戦う姿勢」があまりにも壮絶であり、それがアメリカを大いに苦しめたためであった。



「ここまで献身的に国に尽くす民族は見たことがない…」。日本と直接戦火を交えたアメリカはそれを痛感し、そして大いに恐れた。

「公に尽くす精神を根絶やしにするためには、どうしたらいいのか?」

戦後の日本が二度とアメリカに刃向かえないようにする対策、その一つが「君に忠、親に孝」を教えていた「修身」の授業の停止であり、その象徴たる「楠木正成」という人物の抹殺であった…。







◎彗星



楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉時代末期の1331年(元弘元年)9月。そして、その姿を消すのが、わずか4年半後の1336年(建武三年)5月。

「彗星のように現れ、彗星のように散華した」



700年前の楠木正成は、この極めて短い期間で日本人の心に「忘れえぬ印象」を残し、そして潔く去っていったのである。

「楠木正成は、美しく生きることを教えてくれる。覚悟と潔さをイメージさせてくれる。楠木正成の名と、その行動とを、知ると知らないとでは、男子のその後に差が生じる、のではなかろうか(黒鉄ヒロシ)」



鎌倉幕府は、楠木正成の登場により滅んだといっても過言ではない。倒幕を志した後醍醐天皇と楠木正成が出会うことによって、鎌倉幕府は倒れたのだ。それは全くの劣勢からの大逆転であった。

「小をもって大を制す」

楠木正成は天才的な軍略家であり、何倍、時には何十倍という敵を軽々とあしらってみせたのである。

「まことに賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」



しかし、彼の名を不朽のものとしたのは、その軍略ではない。むしろ、完全な負け戦と分かっていながら「忠」を尽くして死んでみせた、その姿であった。

「楠木正成は見事に生き、見事に死んでみせた」

それが武士道の根底ともなった姿であり、近代以降に讃えられた「楠公(なんこう)精神」であった。




鎌倉の時代を開いた立役者が源義経という英雄であったとすると、楠木正成はその好一対をなす、鎌倉の時代を閉じた人物ということになる。

「源義経と並んで人気随一を誇ったのが、楠木正成」

日本人の愛してやまないこの両英雄は、期せずして鎌倉という時代を挟んだ両端に位置しているのである。そして両雄ともに、運命的な「悲運の死」によって、その生の輝きを一層に増すのであった…。



◎英傑か? 阿呆か?


「よほどの英傑か、さもなくば、よほどの阿呆」

後醍醐天皇は当時圧倒的に優勢だった鎌倉幕府に正面切ってケンカを売った。ろくな供も連れずに京都の内裏を逐電して笠置山に立て籠もったのだ。



当然、そんな至弱の後醍醐天皇に味方するものなど誰もいない。

武家が政権を握って以降、朝廷の権威は下り坂を転がり落ちるばかり。「天皇がいなくて困るというなら、木像でも作っておくか、金属で鋳たものでも安置しておけば充分」。そんなことが公言される時代であった。



ところが楠木正成ばかりは、阿呆か英傑かわからぬ後醍醐天皇の元に馳せ参じた(正成37歳)。

「この時、公然と鎌倉幕府に反旗を翻したのは、天下に楠木正成ただ一人」

圧倒的に強大な幕府軍の重囲に陥っていた後醍醐天皇の籠る笠置山。そこに颯爽と現れた楠木正成。彼はこう言い放った。

「御心やすく、この正成に鎌倉の追討を御命じあれ。必ず勝ちまする。たとえ鎌倉に百戦百敗しようとも、天に隠れ地に潜って、『最後の勝ち』を収めてご覧に入れまする」



◎赤坂城


楠木正成が挙兵したのは「現在その場所も特定しがたいほどの小城」、赤坂城。

この粗末な山城に殺到した幕府軍は嘲笑った。「こんな急ごしらえの城など、片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。一日でも持ちこたえくれねば恩賞にも預かれぬ」。



数万を数える幕府軍に対して、正成軍はわずか500。しかもその大半が普段農民の地侍であり、兜もなければ、上半身が裸の者もいる始末。

一方の鎌倉の関東武士たちは重装備の甲冑に身を包み、大弓と大矢を後生大事に抱え込んでいる。しかし、山岳地帯にある正成の赤坂城において、先祖伝来の大鎧は重いばかり。また、大弓と大矢は石つぶてよりも役に立たなかった。そして何より、関東武士得意の馬は、山岳戦において何の用もなさなかった。



楠木正成は「関東の流儀」に従うこともなければ、卑怯をもモノともしない。鎌倉武士の挑む一騎打ちには一切応じず、奇略奇策でもってその返礼としたのだ。

たとえば、鎌倉武士が城の塀をよじ登れば、その塀は脆くも崩れ去り、大軍はその下敷きになってしまう。なんと塀が二重にこしらえてあり、外側の塀があらかじめ崩れるように設計されてあったのだ。

城壁から熱湯を降らすことなど生ぬるい。時には糞尿までが降ってくる。常道や格式にとらわれない正成の戦術は、鎌倉武士が「悪党」と蔑むそれそのままであった。







◎本領


一日も持たぬであろうとバカにされた赤坂城は、なんと1ヶ月の長きにわたり持ちこたえる。

しかし、後醍醐天皇が捕らえられたとの急報が正成のもとにもたらされるや、正成はあっさりと城に火を放ち、その姿をくらましてしまう。それ以後、楠木正成の行方は杳として知れなくなる。

伝統的に物事を考える鎌倉方は、正成は「炎の中で自刃した」と勝手に考えた。関東武士たちの頭には「土くれ一握りに至るまで地頭のもの」という考えがこびりついており、土地や城を失ってしまえば「なすすべもない」としか思えなかったのだ。



ところが地元の有力土豪たる楠木正成の本領は、土地や城に根ざすものではなかった。彼にとって土地は一所懸命(本領の田畑がすべて)ではなく、地域の交易がその本領であった。

辰砂(水銀の原料)を扱っていた楠木家は、もとは修験道の家柄。金剛山をはじめとする葛城山系にあって、山に生きる人々であった。その頭領たる正成は寺社衆徒でもある鉱山師。

その交易による彼の縄張りは、播磨(兵庫)から摂津・和泉・河内(大阪)、紀伊(和歌山)、大和(奈良)に至る広大なものであった。



すなわち、正成にとって赤坂城という小城を失ったことは些事に過ぎぬことであったのである。

「幕府が正成の本当の恐ろしさを知るのは、これからだった」



◎天下に主なし


後世、楠木正成は「忠臣の鑑」とされることになるわけだが、じつは寺社宗徒たる彼らは「天下に主なし」を誇りとする一族であった。彼らにとっての主とは「神仏」に他ならぬのである。

それがなぜ、後醍醐天皇に忠節を誓うことになったのか?



事の起こりにおいて正成が後醍醐天皇の元に馳せ参じたのは、ひとえに鎌倉幕府の横暴に業を煮やしたためであったのだろう。正成らが独占していた地域交易の領分を、鎌倉幕府が徐々に侵し始めていたのである。

一方、なぜ後醍醐天皇が無謀にも鎌倉幕府に反旗を翻したかといえば、自らの血統の正当性が危うくなってきたからであった。鎌倉幕府の推す血統は持明院統であったが、後醍醐天皇はそれとは異なる大覚寺統。いずれは廃される宿命にあった。

すなわち、後醍醐天皇と楠木正成は当初、君臣の絆があったというよりは、お互いの利害が一致していた呉越同舟にすぎないものであった。



「天下に主なし」を旗印とする楠木勢にとっての弱みは、まとまりに欠けることであった。彼らは誰の助けもえられない山中で命を賭けて生きる、強烈な個人主義集団であって、「生きるも死ぬも本人の自由という中世独特の流儀(自力救済)」が身に染みている。

こうした自分の利益しか念頭にないバラバラな集団をまとめるには、「よほど強力で分かりやすい旗印」が正成には必要だった。

そしてそれは鎌倉幕府ではなく、「この日本には天皇しかいない」と正成は考え至ったのであった。



◎ゲリラ戦


もとは「悪党」、それが「忠臣」に転じた楠木正成。

しかし、最期の湊川の戦いに至るまでの彼の戦闘は、どちらかというと悪党というに相応しいゲリラ戦ばかりである。



炎上した赤坂城から姿をくらました正成は、京を中心として神出鬼没な小戦を展開。彼が最も多用したのは「囮(おとり)」を巧みに操る戦法であった。

たとえば摂津の天王寺を占拠した後に、正成は謎の撤退をする。すると幕府軍はもぬけの殻となった天王寺をなんなく占領。

天王寺を出てその郊外に陣取った正成軍は、夜通し無数のかがり火を焚いて幕府軍を威圧する。今にも総攻撃を仕掛けるぞと脅しをかけたのである。しかし、正成は一向に攻めない。この無言の威圧は4日に渡って続けられ、ついに幕府軍は精根の疲れが極みに達して天王寺を撤退してしまう。

じつは無数のかがり火、それは兵によるものではなく、付近の農民5,000人が掲げていたものだった。



また、渡辺橋の戦いでは300の兵を囮(おとり)として用い、京の幕府軍(六波羅軍)5,000を油断させ、無防備のままに橋を渡らせる。

兵法の鉄則によれば「川はできる限り敵と離れたところで渡れ」となるのだが、幕府軍は正成の本隊が潜んでいるとはつゆ知らずに、目先の300が全兵力だと勘違いしてしまったのである。



幕府全軍が渡辺橋を渡りきったところで、ようやく姿を現した正成本隊は、別働隊によってまんまと橋を破壊。大軍を袋のネズミとしてしまう。

退路を絶たれた幕府軍は大いに動揺し、もはや戦闘どころではない。こうして、幕府の大軍は正成の寡勢によって包囲殲滅されてしまうのである。



◎千早城


「河内の悪党が生きていた!」

亡霊のようなゲリラ戦を展開していた楠木正成が堂々と姿を現した千早城。かつて落城した赤坂城にほど近いこの城もやはり「あまりにも粗末」。



それでも赤坂城で痛い目に遭っている幕府軍は、この小城に総勢80万騎という大軍を送り込む(太平記には80万騎とあるが、実数は2万騎ほどではなかったか。それにしても大軍である)。

対する楠木軍は悲しいほどに少ない。「わずか千人足らぬ小勢にて、誰を頼み、いつを待つともなきに…(太平記)」。

後醍醐天皇は隠岐の島に流されたままであり、正成はまさに孤立無援であった。



この千早城に再び、正成の奇略は炸裂する。

鎌倉武士の誇りと伝統である「一番乗り」を目指して城壁に取りついた武士たちは、頭上から降ってきた丸太と岩石によって、面白いように谷間へと転落していく。

「死者の実検をさせたところ、12人の書記が二昼夜ほど筆を休めず書き続けて、ようやく記録に至ったというから、6,000〜7,000人という軍記の記す戦死者数も、あながち誇張とは言えない」



岩石や丸太のみならず、幕府軍の頭上に降り注ぐのは「熱湯や糞尿」。

「なんたる卑怯な! かつて例(ためし)なき恥知らずな戦法ぞ!」

そんな罵詈雑言を浴びても、「河内の悪党」は涼しい顔のまま。逆に鎌倉武士の誇りである「定紋入りの旗と陣幕」を奪って、「恥を知る武士ならば、取り戻しに来たれ」と挑発する。その挑発にのった誇り高き武士たちは、まんまと正成の奇策の餌食となるばかり。



◎囮(おとり)


「何としても千早城は陥ちない」

そうこうするうちに、周辺の野伏や豪族たちが幕府軍の背後を襲い始める。「鎌倉弱し」と見た豪族たちは、いっせいに正成に味方し始めたのであった。



「この戦はわれらの勝ちぞ!」

正成はその涼しい顔をパッと明るくした。近隣の農民たちの助力も得られた正成は、その力を借りて徹底的に幕府軍の糧道(食糧補給路)を断つことに成功。

3ヶ月も経つと、山中の幕府軍は飢餓に陥り、数百人単位で撤退する部隊も続出。戦線は総崩れとなってしまった。



じつはこの戦において、正成の籠る「千早城そのもの」が壮大な囮(おとり)であった。

幕府軍がこの小城も落とせぬことを天下に知らしめることで、「幕府軍、恐るるに足らず」を世に示したのである。



もともと個人の利益で動く各地の豪族たちは、一斉に倒幕の旗を掲げはじめる。

そして、ついには幕府内部からも離反者が現れる。それが京都の六波羅を落とした「足利尊氏」であり、鎌倉を陥とした「新田義貞」であった。

ここに至り、140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡したのである。それは、楠木正成が歴史に名を現してから3年も経たぬ出来事であった(正成40歳)。



◎人心


「幕府の滅亡、それは果たして正成の思惑通りであったのか?」

少なくとも、正成の言う「最後の勝ち」ではない。幕府の滅亡はその過程に過ぎない。きっと正成の目は、もっと遠い先を見ていたはずである。



千早城を頑強に守り抜いた正成には、地域の農民のみならず、各地の土豪たちが大いになびいた。ゆえに人心は鎌倉を離れ、新しい時代の到来を歓迎したのである。

しかし残念ながら、後醍醐天皇のもたらした天皇親政という新しい時代は、正成の見る遠い未来とは様相を異にしていた。



まずその恩賞は不平等であり、公家を厚遇し、武家を冷遇するものであった。

「後醍醐天皇による建武の新政は『徳』に欠けていた。朝廷はおろか、武士も庶民もひっくるめた全ての人々を混乱に陥れていた」

そのため人心は天皇を離れ、足利尊氏という人物に集約されていくことになるのである。



それでも楠木正成は京都の地にて、後醍醐天皇に刃向かった足利尊氏の軍勢を見事に追い払う。

ところが、その赫々たる戦果の中、正成の目は悲しい光景を見ていた。九州に落ち延びていく尊氏軍に、天皇方からまで多くの武士がその後を追っていったのであった。

「ここまで尊氏が慕われているとは…」



◎忠


人心の離反を目の当たりにした正成は、戦場から戻ってすぐに朝廷へと向かう。

「どうか、尊氏と和睦して下さい…」

正成は涙ながらに後醍醐天皇に、そう訴える。



悪の元凶である尊氏をようやく攻め落としたというのに、なぜ勝った我々から和睦を申し出なければいけないのか?

後醍醐天皇はじめ公家連中は、正成の悲痛なる言をまったく理解できない。

「不思議なことを申すものよ」と正成は嘲笑されるばかり…。



もし楠木正成が並の悪党に過ぎぬのであれば、この時点で朝廷を見限ったはずである。

当時の武士の間には「降参半分の法」という暗黙の了解があり、自分の所領の半分を放棄すれば、敵方に降伏することも是とされていたのである。

ところが正成は、あくまでも天皇方で戦うことを選んだ。



正成の理想は、足利尊氏と後醍醐天皇が和睦して、武家と公家の調和のとれた国にすることだったのかもしれない。

しかし、その両立はどうやら叶いそうにない。ならば武家を中心とすればよいのか、それとも天皇を中心に据えたらよいのか?

正成は後者(天皇)を選択したのである。



「修身」という概念は、中国古典の「大学」に見られるもので、修身の後には「斉家(せいか)」「治国」「平天下」と続く。

自らの身を修めること(修身)が、家が斉(とと)のうこと(斉家)、そして国が治まること(ちこく)、最終的には天下の平和(平天下)につながるというのである。



正成が天皇を選んだのは、消極的な選択だったのかもしれない。

しかしそれでも、彼はその道が「平天下」につながることを期待していたのであろう。

結果的には天皇に殉ずることとなる楠木正成。だが、忠臣としての彼は「平天下の途上」にあったにすぎない。彼の遠い目の先に見据えていたのは「平天下」。アメリカが「大いなる誤解」をしたのはこの点であったのだろう。



◎守るに難く、攻めるに易い


以後、楠木正成の人生は悲哀に覆われてゆく。

それはまるで、源義経がその後半生を哀しみの中に生きていったように…。



足利尊氏との和睦が叶わぬと悟った正成は、どうしても足利尊氏を叩き潰さなければならなくなった。そしてそれは、軍略の才にあふれた正成にとっては、さほどの難題ではなかった。

たとえば、京という土地は「守るに難く、攻めるに易い」。この京を囮として足利軍を誘い込むことも可能である。「ひとまず朝廷を京から比叡山へと退かせ、尊氏を洛中へと引き込み、糧道を立った上で一挙に殲滅する」。そんな策を正成は練っていた。



これはかつて、足利尊氏を京から追い落とした戦術と似たものであった。

一度は尊氏に奪われた京に猛攻をかけた楠木正成は、足利軍を一気に桂川の西へと潰走させて京の奪回に成功する。しかしその後、正成は勝ちに乗じることなく新田義貞に即時の撤兵を進言し、不気味な撤退を開始。京洛はふたたび足利軍の占拠することとなる。



その翌日、正成は京の市中に虚報をバラまく。新田義貞と楠木正成が討ち死にしたというニセ情報である。これら大将連中が討ち死にしたというのなら、謎の撤退にも説明がつく。足利勢の不安も解消されたというわけだ。

さらに同日夜、正成は京の北の大原・鞍馬方面へ無数のタイマツを囮(おとり)として向かわせ、あたかも夜逃げの集団落去かと見せかける。すると案の定、足利尊氏は「大将を討たれた敵勢が落ちていく」と勘違いして軍を一斉に動かした。

この時である。手薄となった洛中の足利軍を正成が急襲したのは!「密かに進出していた官軍勢は、一斉に京洛に雪崩れ込む。洛中に残る足利軍は周章狼狽、抗戦らしい抗戦もできず、先を争って遁走した」。



新田義貞と楠木正成が死んだという虚報を信じた足利軍。「人相の似た首2つ」を獄門にかけ、「新田義貞」「楠木正成」の名札をつけておいた。ところがその両首の側には、その後、それを皮肉るこんな落書が付け足されていた。

「これは『にた』首なり。『まさしげ』にも書ける虚事(そらごと)かな」

「にた(似た)」は新田、「まさしげ」が正成にかけてあることは言うまでもない。痛烈な諷刺である。



◎覚悟


なるほど、後醍醐天皇から人心は離れたとはいえ、楠木正成の必勝の策はまだまだ尽きたわけではなかった。

しかし、折り目正しい公家連中にとって、悪党たる正成の戦略は「奇策」にしか思えない。そんな姑息な戦略を受け入れるわけにはいかない。王たる者は正々堂々、王道を歩まなければ気が済まないのである。ましてや、後醍醐天皇を一時的にしろ叡山に移すなど、もってのほかである。

「尊氏を京に入れてはならぬ。入る前に討て」

それが楠木正成に与えられた朝廷の命であった。



「それは無理だろう…」

かつて尊氏を京から追い落とした時には、奥州から北畠顕家の大軍が援軍に来ていた。しかし、その絶大な武力は現在、京にいない。また唯一の頼みである新田義貞は、播州で反旗を翻した赤松則村の籠る白旗城に釘付けにされてしまって軍を動かせない。

一方、九州にまで逃げ込んでいた足利尊氏の軍は「膨張に膨張を重ね、あれよという間に肥大していた」。光厳上皇からの院宣(いんぜん)という大義名分を得た尊氏の元には、西国の武士が次々と集まり、今や数万という大軍に膨れ上がっていたのである。



「されば、死ぬよりほかに道はなかろう」

それが、最期の地となる湊川へと向かう正成の結論であった。



◎桜井の別れ


「今、何と申されました?」

父・楠木正成の言葉に、息子の正行(まさつら)は耳を疑った。湊川へと向かう行軍の途上である桜井(さくらい)にて、父・正成は息子・正行に「帰れ」と言ったのである。



「合点がなりませぬ!」

驀進する尊氏を邀撃(ようげき)することに命をかけようとしていた正行(まさつら)、まさかここで帰るわけにはいかない。

「父子ともに、名誉の死を遂げようではありませぬか!」



「ならぬっ! わしが自ら討死におもむくのは、わが死をもって、この度の新政の徳なきことを帝に知らしめ申し上げんためである」

正成は息子・正行に説きはじめる。

「さらにまた、わしが討死すれば、帝の御為(おんため)に命を捨つる者ありと、天下万民の知るところともなろう。これぞ悪党正成、最期の奇策に他ならぬ」



「わかりませぬ! なぜ、それがしに死を許されぬのですか?」

正行(まさつら)は、年端もゆかぬ子のように泣きじゃくる。



「いずれの親が、子に死を無理強いしようか…」

正成はホロリとつぶやく…。

「子は親の生き様、死に様を見つめ、おのが行く末を見極め、さらなる高みを目指さねばならぬ。そなたの行く末は、そなたが考えよ。わしの戦いぶりを見て、そなたが決めよ」



翌朝の五月雨の中、父・正成は湊川へと進発して行った。

そして、息子・正行はその後ろ姿を見送るより他になかった。

正成が引き連れて行った手勢はわずか700。息子・正行には2,000の大軍を残しての死出の旅立ちであった…。



◎湊川の戦い


「最期の戦いの場とするには、またとなき風光明媚さではないか」

湊川で新田義貞と合流した楠木正成は、その光景に素直に感じ入っていた。



しかし、その明媚な光景には続々と不穏の影が姿を現し始める。

海の向こうには、九州や四国から続々と参戦してきた軍船が大海原を埋め尽くす。その最大の水軍を編んでいるのは言わずもがな、足利尊氏その人。陸路には、尊氏の弟・直義(ただよし)の率いる数万の大軍。

新田・楠木の両軍は、陸海からの挟み撃ちに晒されつつあった。



「退くか…」

海から後ろに回ろうとする水軍を認めると、正成はつぶやいた。すると新田義貞は腰を上げて、後方への撤退を開始する。数倍する陸海の大軍を前に、新田義貞の本軍はいとも簡単に退避してしまうこととなる。

その後に残されたのは楠木正成の手勢700ばかり。その小さな軍は、会下山という小さな山(標高80m)に取り残された格好だ。



「上等っ!」

正成はいかにも嬉しそうに嗤った。

そして、後醍醐天皇から賜った菊水をあしらった陣幕を小山に張り巡らせると、「正成、これにあり!」と、眼前の大軍に堂々と威風を示した。

もはや楠木勢は、新田義貞の本隊を逃がすための囮(おとり)となっていたのである。



◎吶喊(とっかん)


「あぁ、足かけ6年…。あまりにも短い月日じゃが、妙にあの頃が懐かしい…」

正成は隣の弟・正季(まさすえ)に、そう話し始める。

「隠岐の島よりお戻りになられた帝をお迎えに参上したのも、この兵庫の津であった。ここで最期の戦いができるというは、なんとも奇縁」



「さて、最期に足利勢を縮み上がらせて見せようか…」

そう独りごちた正成は、やがて吶喊(とっかん)を開始する。

凄まじい…。足利軍を北へ逐い、南へ攘(はら)う楠木軍。敵はクモの子を散らすように逃げ惑う。尊氏の弟・直義の本軍を守っていた赤松則村の手勢は、ものの見事に中央を突破されてしまう。



吶喊に次ぐ吶喊。猛吶喊。

鬼神をも縮み上がらせる正成の吶喊(とっかん)は、じつに16度にも及んだ。この阿修羅のごとき吶喊は、700年ののちまでも兵庫一帯に語り継がれることとなる。



「弟を死なすな!」

新田軍を追おうと上陸していた尊氏の軍勢も反転、700という楠木の小勢に足利全軍3万がかかりっきりにならざるを得ない。

「ついに討たれるか」

2万の大軍に守られていたはずの足利直義(ただよし)も戦慄。死をも覚悟する。それはまるで、圧倒的優勢にあったはずの徳川家康が、大阪の陣において真田幸村の吶喊を受けて背を向けた時のようであった。

しかし幸いにも直義は守られた。最後の最後、薬師寺十郎次郎という武士の活躍により、辛うじて直義を脱出させることに成功したのであった。



◎七生報国


「もはや、これまでか…」

直義の首は冥土のみやげにならなかった。

そして、己の率いる兵力はもはや73騎…。



その屈強なる73騎は、湊川の民家に駒を寄せる。

「思うてみれば、朝に戦(いくさ)が始まり、夕の今となるまで、ただの一度も憩うことがなかった」



民家の中、正成は弟・正季(まさすえ)に、静かにこう語り始める。

「人は、最期の一念により、極楽へ参るか地獄へ参るかが決まるという。十界に別れた世界のうち、人は仏界を除いた残りの九界へと参るそうな」

その九界とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩。



「おぬしの行きたいところは何処じゃ?」

正成は弟・正季に問う。

「知れたこと。七回生まれ変わっても人間として生まれ、敵を滅ぼしたいと存じまする」と弟・正季。



「罪業深き悪念ぞ…」

正成はやや寂しげに瞳を落とした…。

その後まもなくであった。一族郎党の自決を看取った楠木兄弟が、お互いを刺し違えて斃れ伏すのは…。



◎教えてはならない人物


なぜ、七回生まれ変わって国に尽くすという「七生報国」の逸話が後世に残ったのか?

楠木兄弟とともにいた73騎は皆死んだはず。それでも、この壮絶なまでの忠国精神は「楠公精神」として近代以降、第二次世界大戦までの軍国主義にも連なっていく。

そして、それをアメリカは恐れたのであった。だからこそ、「教えてはならない人物」の筆頭に楠木正成(くすのき・まさしげ)が掲げられたのでもあった。



しかし、楠木正成の生き様、死に様を見つめれば、それは「大いなる誤解」であることは容易に理解できる。

きっと正成の「最後の勝ち」は、足利直義のクビを取ることでもなければ、足利尊氏のクビを取ることでもなかったはずだ。修身、斉家、治国、平天下へと続く和平への道のりだったはずである。

七回生まれ変わったとしても、それは決して復讐のためではなかったはずだ。楠木正成は「最後の勝ち」のために大悪党となることをも厭わなかった人物なのである。




「時に主(あるじ)の名誉を守るため、その命を頂戴することすらある」

平天下のためならば、楠木正成はそれをも成していたかもしれない。

明治期に「武士道」を記した新渡戸稲造は、「忠」よりも「義」を上位とした。主(あるじ)に忠であることは大切なことであるが、それよりも大事なことは「主が道を誤ったときに諌めること」である。それは「義の心」から生まれるものだと新渡戸稲造は言う。



湊川に殉じた楠木正成は、帝が誤った道を歩んでいることを死をもって示した。

いうなれば、正成は帝に殉じたというよりも、己の「義」に殉じたのでもあった。







◎正行(まさつら)と正儀(まさのり)


桜井で分かれた正成の息子・正行(まさつら)。

父の生き様・死に様を見つめた彼は、最期まで帝に命を尽くす道を選ぶ。その様はまるで「楠木正成が蘇ったかのよう」であり、父・正成同様、正行は寡兵をもってよく大軍を破った。



しかし最期は、幕府軍の圧倒的な大軍の前に敗れ去ることとなる。

父の守りきった千早城に籠って抗戦しようとした正行であったが、戦を知らぬ南朝の公家たちはそれを許さなかった。まるで正成が京洛を囮にすることを許されなかったように…。そして、正行が死を覚悟して臨んだ四條畷の戦い、それは正成の湊川の戦いそのものであった…。

力一歩及ばず、悲しくも弟・正時と刺し違えて果てた正行。父・正成がその弟・正季と刺し違えて死んだ姿がそこに重なる…。



小楠公とも呼ばれた正行(まさつら)は徹底的に南朝に尽くし、そして果てた。それが正行の「義」であった。

それとは対照的に、三男の正儀(まさのり)は南北に分かれてしまった朝廷の和平の推進に、己の義を見ていた。正儀は「ただ取っては取られての繰り返し」に無益さを感じていたのである。

正儀の軍略の見事さは、時に父や兄をも上回るのであったとまで言われるのだが、正儀のあえて戦いよりも和平の道を選んだのである。



しかし残念ながら当時、南北和平の機は熟していなかった。北朝との和平交渉はことごとく失敗。戦の無益さ同様、和平の性急さも痛感せざるを得なかった…。

結果的に正儀(まさのり)は南朝とともに朽ち果てることを選び、楠木家は南朝の衰微と命運をともにすることとなる…。



◎遠い先


はたして、楠木正成の見ていた「遠い先」には何があったのか?

天才的な軍略を駆使したのは、何のためであったのか?



息子2人、正行(まさつら)と正儀(まさのり)の出した答えは、それぞれに異なっていた。

徹底抗戦を貫いた正行、そして、和平への道を模索した正儀。



父・正成(まさしげ)は、足利軍との壮絶な戦いの中にあってなお、その和睦をも視野に入れていた。

戦えば勝つ。しかし、勝つことにどれほどの意味があるのか? 勝った先には何があるのか?

最期に正成は「あえて負ける道」を選んだ。そして、それが彼の名を不朽のものとすることにも繋がった。



日本という国家が現在一枚岩でいられるのは、天皇を中心とした体勢が曲がりなりにもうまく機能しているからでもあろう。それは2,000年以上も続く日本の伝統的スタイルでもある。

700年前の正成も、それが最良の道であると思い至り、それに忠であることが彼の見ていた「遠い先」につながるものと信じていた。この点、彼の慧眼に間違いはなかった。

しかしその過程において、やはり戦(いくさ)は避け難きものであり、その後の時代においても戦火が止むことはついぞなかった。



◎楠流兵法


「戦わざれば亡国必至。戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国に委ねるは身も心も民族永遠の亡国である」

「だが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われら子孫はかならず、再起三起するであろう」

これは第二次世界大戦時、海軍大将だった永野修身が遺した言葉である。



ややもすると「七生報国」の精神は復讐的、破壊的にも誤解されてしまう。誤解が生まれるのは、この精神に「戦闘を厭わぬ精神」が宿されているためであろう。

しかし、この精神の善たる部分は「平天下」を見ていることである。その途上にある戦いは護るべきものを護る戦いに違いない。



楠木正成が護ろうとしたもの、そして後世に示そうとしたものは、きっとその天才的な軍略ではなかったのだろう。

実際、現在残されている「楠流兵法書(河陽兵庫之記・楠正成一巻之書・南木武経)」には、「戦術をむさぼり習うこと」をその「下(げ)」としている。



「上」とされるのは、「心性を悟り、庶民を親愛すること」。

「智謀・戦術の妙道」を学ぶのは、「正心修身」をしっかり行なってからだと言うのである。



つまり楠木正成にとっての戦闘は、その枝葉末節に過ぎない。

その核たる思想は、人間の「人となり」に置かれているのである。







◎消されてなお…


歴史上、楠木正成は何度も消されようとされてきた。この大悪党はそれほどに誤解を生みやすいのである。しかし、消されても消されても、楠木正成の名が掻き消されることは現在までついぞなかった。

「敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

楠木正成を葬った室町幕府の側に立った歴史書「梅松論」でさえ、その功を認めざるを得ない。しかし、正統とされた北朝にとって、南朝に殉じた楠木正成は朝敵でしかなかった。



正成が朝敵の赦免を受けるのは、その死後から200年以上も経った頃。正親町天皇の勅免を受けてからである(1559)。

正成が大悪党の朝敵から「大忠臣」とされるのは、江戸時代の水戸学における尊皇の史家たちが歴史を洗い直してのちのこと。その筆頭・水戸光圀は、湊川の正成の墓に「嗚呼、忠臣楠公之墓」と刻んで、正成の忠臣ぶりを世に示す。

ここまで来てようやく、湊川の畑の片隅で荒廃していた正成の墓は、堂々とその忠義を認められることとなるのである。墓碑に「嗚呼」という気持ちを込めた水戸光圀の想いはいかほどであったのだろう。



室町時代の軍記「太平記」は、正成をこう評する。

「命をかけて善道を守るは、古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」

ここに明らにされているように、正成が帝に忠を尽くし、命をかけてお諌め申し上げたのは、その「善道」を護るためであったのだろう。



ゆえに正成は消されても消されても、かならず蘇る。大いなる誤解を受けてなお、蘇る。

七回生まれ変わるどころか、幾十、幾百となく蘇るのだろう。

そして、ついに正成が完全に忘れ去られ、二度と蘇らなくなった時、それはきっと本当に「平天下」の成った時なのかもしれない…。







関連記事:
日露を戦った英傑二人「秋山兄弟」。酒と炒り豆と…

「非武の島」、沖縄。グアムとの数奇な共通点。

争い、そして和する。「角館」に残された古き日本の絶妙な間合い。



出典:
歴史街道2012年10月号「楠木正成」
致知2013年2月号「楠木正成の生き方が教えるもの」
posted by 四代目 at 06:43| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
記事を拝見し、南北朝時代のことをよく考察しておられるようだが、やはり戦後的価値観に基づくものであると言わざるを得ない。まずその内容に違和感を感じたのはGHQが大楠公という人物を誤解しているという点。もしそうであるとすれば、それそのものだけを教育禁止にすればよいはず。しかし実情は修身教育全般に及び、即ち日本人の根幹に関わる思想、物語、自己犠牲の精神やもっといえば大和魂、武士道そのものをほふり去ることが目的であったはず。昭和の一時期「軍国主義」なる物が大楠公を利用したかのような記述はまさしく占領軍にとって都合の良い歴史観であると断じざるを得ず、本質から目を背けることになるのではないか。貴殿の仰る「平天下」なる物は、理想主義者である支那人儒者の受け売り思想。大楠公は決して左様な外来者などではなく、生粋の大和民族であろうと思われる。その様な絵空事を信念とする人物が「七生報国」などという言葉を後世に残すはずがなかろう。この言葉の真意はやはりいつ何時も万世一系の皇室に対して悲しいかな弓を引く愚かな朝敵が現れるとも限らず、都度、それを成敗せんと欲す気構えであろう。それなくしてどうして自国=皇室をお守りすることが出来るのか。貴殿のように戦は虚しく勝敗は無意味的な考えは極めて危険ではないか。勝負は時の運。勝ち戦にも、負け戦にも共に意味を見いだすのが日本人であったのが、戦後GHQの洗脳により敗者は罪人であると規定され、悠久の連続性を誇る我が民族が、幾度と無く国家を滅ぼし都度敗者を罪人扱いし皆殺しにしてきたアングロサクソン人やシナ人の精神レベルに貶める暴挙。何たる野蛮思想であろうか。重要な点なので繰り返すが戦いには全て意味があり、勝者のみが、また敗者のみが正義ではない。相対化も絶対化もすることなく個別かつ客観的に検証すべきである。この場合、足利尊氏はやはり朝敵である。その後の足利家の兄弟争い義満及び室町幕府の皇室をないがしろにする傲慢不遜、応仁の乱から戦国時代に至る国の混乱、その元を作った尊氏と後醍醐帝からの恩賞が少ないからとそれに付き従った欲惚け侍のいったいどこを評価しろというのか。畏くも建武中興を成し遂げあそばされ、明治維新の思想的拠り所にご寄与なされた、後醍醐帝を恐れ多くも「阿呆」とは一体全体何事か。その言、速やかに取り消し願いたい。最後に先の大戦に散っていった我々の祖父、曾祖父の世代が心の拠り所としていたのは決して尊氏ではない。その点にも「七生報国」が時空を飛び越え生きた証拠ではないか。「軍国主義」とは日本独自の物なのか。他の国、とりわけ米英仏支蘇にはその様な主義は一切無かったというのか?戦争遂行のためには女子供も兵士として動員、捕虜を虐待、虐殺し味方が退却せぬよう戦車のハッチを溶接、督戦隊を配置して射殺、占領地で強姦略奪放火、挙げ句に都市を絨毯爆撃し核兵器を投下、民主自由主義が聞いてあきれる。
Posted by ミミック at 2017年08月30日 06:25
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: