テントウ虫が歩いている。
そのテントウ虫は、横断歩道のように「縞々(しましま)」になった光と影の上を歩いている。
ところが不思議なことに、当のテントウ虫には、足元の縞々が「見えていない」のだそうな。
このテントウ虫は目が悪いのか?
そうではない。彼の自慢はむしろ、「目の良さ」なのだ。
では、なぜ足元の光と影が見えていないのか?
この「奇妙な現象」、これこそが「量子力学」の世界である。
◎干渉縞
テントウ虫の横切っている横断歩道のような縞々は、量子力学でいう「干渉縞(かんしょうじま)」。干渉縞というのは、縦長の2つの穴を通過した光がつくり出す縞々(しましま)のことである。
縦長の2つの穴(ダブル・スリット)を通過した光は、なぜか縞々に映る。
もし穴が一つならば当然、縞々にはならない。すべての光は同じ所を通るので、穴の先でぶつかり合わない(干渉しない)からだ。
ところが、光が通る穴が2つの場合、穴を出た先で光同士がぶつかり合う(干渉する)。すると、ぶつかり合って打ち消される光と、意気投合して明るさを増す光の2種類の光が現出する。
実際、一つの穴(シングル・スリット)を通った光よりも、2つの穴(ダブル・スリット)を通った光の方が2倍以上明るくなる(場合によっては4倍以上)。逆に、光が打ち消し合ってできる暗い影は、シングル・スリットの時よりもずっと暗くなる。
たとえば水面にできる波紋は、その波が打ち消し合えばその上下動は収まっていき、波の山同士(もしくは谷同士)が重なり合えば、その波はますます大きくなる。
上記の干渉縞の実験が示唆することは、光にはこうした波紋のような「波の性質」があるということである。
もし光に波の性質がないのだとしたら、下駄の歯で開けたような2つの縦長の穴を通ったときに「干渉縞」が現れるはずはない。干渉縞が現れるのは、光の波の山と山(もしくは谷と谷)が重なり合って強まり、山と谷が重なり合って打ち消し合うからである。
◎粒と波
「光とは『粒』なのか? それとも『波』なのか?」
およそ100年ほど前(1803年)、イギリスの物理学者ヤング(Thomas Young)が上記の干渉縞の実験を行なって以来、「粒」だと思われていた光が実は「波」でもあることが示された。
では、光は「粒」なのか、「波」なのかと問われれれば、現在の物理学者たちはこう答える。「粒でもあり、波でもある」と。
この時点で、一般人の頭は大混乱に陥る。そして、「どっちかに決めてくれ」と懇願するはずだ。しかし残念ながら、どちらかには決められない。光は粒子と波、「どっちも」なのである(こうした光の二面性をボーアは「相補性」と呼んだ)。
何度実験を繰り返しても、光は粒子と波の「どっちも」という結論に落ち着いてしまう。いやむしろ、実験を繰り返すほどにその事実は確固たるものとなっていく。
さらに悪いことには、手を変え品を変えて実験を繰り返せば繰り返すほど、「さらなる不思議」がドンドンと生まれてきてしまう。
時に光はタイムマシーンに乗って「時をさかのぼる」ようにも見えたり、光同士が「テレパシー」で連絡を取り合っているように見えたりもする。そんな量子力学の世界は、「風変わりな景色」ばかりである。
◎矛盾
もし壁に2つの扉があるとしよう。人間ならば当然、どちらか一つの扉しか通れない。ところが、光ならば両方の扉を同時に通れる。たとえ光が「一粒」しかなかったとしても。
「?」。一粒の光は一回扉を通った後に、もう一回戻って違う扉を通り直すのか? それとも、両方の扉を同時に通り抜けられるほどに巨大化してスリ抜けていくのか?
ノーベル賞を受賞した朝永振一郎氏は、光のこの奇妙な挙動を「光子の裁判」という物語に仕立てあげた。
不法侵入の容疑で起訴された「波乃光子」。彼女は「私は2つの窓の両方をいっしょに通って室内に入ったのです」と主張する。光子がどちらの窓を通るか見張るのは警察官の役割だが、実地検証によって光子の「奇妙な主張」が正しいことが証明される。
なぜ、一粒の光が両方の扉(もしくは窓)を同時に通り抜けられるのか?
2つの細長い穴(ダブル・スリット)目がけて、光を一粒ずつ発射していっても必ず「干渉縞」は現れる。光は一粒ずつ充分な時間差をもって発射されているのだから、「光子は他の光子と干渉しているのではない」。一粒の光子が「自分自身と干渉している」のである。
「一粒の不可分な光子が、あたかも『波』のように広がって、同時に2つのスリットを通り抜け、左右の波が互いに干渉し合う」
現実世界では「ありえない現象」、そして「矛盾」。量子力学の世界では、それらが平然と行われている。
「しかもそれは巨大加速器の中といった遠い世界の出来事ではなく、ごく普通の実験室で、机の上に組み立てられた装置で物理学者たちが見ている現象なのだ」
◎だまし討ち
光子の振る舞いがあまりにも度を越しているので、それに対する物理学者たちも「風変わり」にならざるを得ない。
「今から行う実験を、光子に察知されないようにする」。そんなことを言い出す物理学者は完全に「あぶない人」だ。
しかし、光子は測定してしまうと「粒」にしかならない。だから実験を察知されないように工夫して、なんとか「波」としての光子を捉えようと物理学者たちは必死なのである。
物理学界の重鎮ホイーラー(John A. Wheeler)は、実験を始めてしまった後、「大慌てで実験装置を変える」という「光子のだまし討ち」を提案した(遅延選択実験)。
「いわば光子にフェイントをかけて、その素性を暴いてやろうというアイディアである」
ある時は「粒子」として、またある時は「波動」として振る舞う光子。このままでは、光は「観測者によって変化する何か」でしかない。いったい「測定されていない時の光子」はどうしているのか? それを知るための「だまし討ち」である。
◎だまされない
ホイーラーは思考実験として、この「だまし討ち」を提案したわけだが、2007年、フランス科学研究センターのジャック(Vincent Jacques)とアスペ(Alain Aspect)らのグループは、「ほぼこの通りの実験」を実施した。
その結果は?
「光子は決してだまされなかった」。測定方法を「あと出しジャンケン」のようにしてみても、物理学者が光子に勝つことはできなかった。
この実験で用いられたのは、「偏光板」という角度によって光の透過率の変わる板であったが、それをどう組み合わせても、どうしても光子を騙すことはできなかった。
たとえば偏光板を90°に傾けた時に光の透過率はゼロになる。すると干渉縞はすっかり消えてしまう。しかし、その途中に45°の偏光板を「あと出し」で加えると、なぜか干渉縞は復活してしまうのだ!
いったん90°の偏光板で完全に遮られたはずの干渉縞が、45°の偏光板によって「掘り起こされたように現れてくる」。光の波は90°の偏光板によって完全に消されてしまうはずなのに…。
◎出処
「いったい、光子の『運命』はいつ決まるのか?」
どうやら、細長い穴(スリット)を通った時ではない。その後に偏光板を置けば、その干渉縞は出たり消えたりするのであるから。
「実験のやり方次第で光の挙動が変化するという『不気味さ』は依然変わらず、謎は解けないままだった…」
そんな中、米メリーランド大学のキム(Yoon-Ho Kim)らの行った実験は、「ダブル・スリット実験の最高峰」とも呼ばれるものだった。
彼らは偏光板の代わりに「ビーム・スプリッター」と呼ばれる半透明の鏡をその実験に用いた。従来の偏光板を使う実験はいわば、「光子を乱暴に扱う実験」。それに対して、ビーム・スプリッターを用いる実験は「光子そのものに測定器は接触しない」という丁重なものだ。
2つの光源から左右同時に発射される対になった2つの光子。その片方はビーム・スプリッターに当たらずに測定器の中に飛び込み、もう一方の光子だけがビーム・スプリッターで50%の確率で一回、もしくは2回反射してから測定器で観測される。
ここで重要なのは、光子がビーム・スプリッターで2回反射すると、その「出処がわからなくなる」ということである。反射して光子の進路が変わるのは「偶然(50%の確率)」。そして、2回反射すると2つの光源のうちのどちらから来たのか分からなくなってしまう。
この最高峰の実験の結果でも、やはり「光と影(干渉縞)」は現れた。ここで面白いのは、その縞が現れるのは「光子の出処が分からなくなった時だけ」だということである。
たとえば、ビーム・スプリッターで一度も反射しなかった光子は、その出処が明らかである。この時に、光は干渉縞をつくることがない。1回だけ反射した光子も同様、その出処が追跡できるために、しましまは生じない。
ところが2回反射すると、その光子はどこから来たかが分からなくなる。その時だけなのである。光が「波としての性質」である干渉縞をつくるのは。
◎因果
ビーム・スプリッターによる実験が示唆することは、「原因と結果」の不思議である。
光子の出処が明白であれば、光子は縞々をつくらない。つまり、波としての性質を表さない。言い換えれば、原因と結果の因果関係が明白である時には、光は「粒」でしかない。
逆に、光子がどこから来たのか分からない時、光は「波」として振る舞う。そして同時に「粒」でもある。
原因と結果、粒と波。
原因が分かっているのであれば光は「粒」となり、それが分からぬ時に光は「波」ともなる。
冒頭のテントウ虫が自らの足元の光と影(干渉縞)に気づかぬのは、このためである。
天井を見上げるテントウ虫は、その光が2つの穴のうちのどちらを通ってきたかが「分かっている」。だから「一様に明るい光」を見る。ところが、床にまで届いた光はもはや、どちらの穴を通って来たか「分からない」。だから光の波としての特徴である干渉縞(光と影)を生じるのである。
しましまを見るか見ないかの違いは、光がどこから来たか分かっているか分かっていないか、つまり原因が明らかか不明かという違いに帰結することになる。
◎矛盾
なるほど、光には「二面性(粒と波)」があり、それは原因と結果(因果関係)と相関し合っているのか…。
思えば、こうした二面性(矛盾)は現実世界にも幾多と存在する。スポーツで言えば、個人プレーとチームプレー。企業で言えば、個人と法人。社会で言えば、個人と集団。国で言えば、国民一人ひとりと国家全体…。
個人が全体の中に埋没してしまう時、その因果関係は希薄となる。そのためであろうか、個人=全体という図式が成り立たなくなるとき、あたかも「波」のようなウネリを生ずるのは…。
光が矛盾した二面性を見せるのは、原因が分からなくなった時。それを社会一般に当てはめれば、全体の中で個人が特定されなくなった時。
たとえばインターネットの世界などでは、こうした匿名性が一般的であるのかもしれない。もしくは独裁国家などでは、一個人というのはあえて無視されるのかもしれない。きっとそうした時なのであろう、幾多の矛盾、そして不思議が世に現れることになるのは…。
◎二元論
光の二面性は「二元論」にも通ずるように思う。二元論というのは、暑いがあるから寒いがある、高いがあるから低いがあるという相対性である。
しかし仏教の世界などでは、こうした二元論(二面性)は幻想だと切って捨てられる。「色即是空」「空即是色」などと言われるように、それら2つは元々は一つであると宗教家たちは教えてくれる。
江戸の剣豪・柳生宗矩は「活人剣」と言って、日本刀を人を殺す「殺人剣」からの転換を訴えた。だが沢庵和尚は、「活人剣」であれ「殺人剣」であれ、それは「一剣」に収束すると静かに言った。
2つの細長い穴(スリット)に光を通すという物理学の実験は、元々は一つの光の間に「影」を挟み込み、一つの光をあえて2つに分光する実験である。
これは一元論の光をあえて2つに分けて、二元論の世界を映し出すようなものであろう。スクリーンに映し出される光と影は、もともとは生じるはずのなかったものである。
しかし、ひとたび光と影が生じ、さらにその因果関係(原因と結果)が分からなくなった時に、世の「矛盾」は生じる。そして人々は混乱する。たとえ般若心経が「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」と言ったとしても、ひとたび2つに分かれた光の本質を理解することは極めて困難なこととならざるを得ない。
◎矛盾の先
それでも、天井を見上げるテントウ虫はその本質に気がついている。
このテントウ虫が光と影の縞々(二元論)ではなく「均一な光(一元論)」を感ずることができるのは、2つの穴を通る光をそれぞれ認識しているからである。
逆に、光と影の縞々が見えてしまうのは、その光の出処が分からなくなってしまった時である。
「テントウ虫の目に捉えられた光は床には当たらないし、床に当たった光はテントウ虫の目には入らない」
つまり、テントウ虫の目に入る光と、床にまで届く光は「まったくの別物」なのである。だからここに「矛盾」は生じない。
「矛盾というのは、一つの現象が異なる現象に見えること」
この点、テントウ虫と床は「別々の現象」を捉えているのである。
ただここで重要なのは、テントウ虫の目が「充分に良い」ことである。
ここで言う「目が良い」とは、2つの細長い穴を通ってくる光を同時に識別できることである。「テントウ虫の目のレンズ径は、最低でも干渉縞の幅よりも大きくなければならない」。
もし、そのテントウ虫の目が悪ければ、光の出処は分からない。すると、その悪い目には均一であるはずの光が縞々に写ってしまう。それは矛盾を生じさせる二元論の世界である。
◎トリック
「ルビンの壺」というトリックアートは、向かい合った2人の横顔のシルエット(影)の絵である。ところが、2つの横顔の間に目を凝らすと、それは「壺」にしか見えなくなる。
「しかし壺と顔が同時に見えることはない」
壺を見ようとすれば横顔は消え、逆に横顔を見ようとすれば壺は消えてしまうのだ。
Source: kathrynvercillo.hubpages.com via Suzi on Pinterest
これが我々の認識能力の限界なのでもあろう。
もし壺と横顔が同時に見えるのであれば、われわれは世の矛盾に苛まれることはないのかもしれない。
もしかしたら「目の良いテントウ虫」ならば、壺と横顔が同時に見られるのかもしれないが…。
光は「粒か波か」?
この問いはじつに深淵であり、その答えは出ているようで出ていない。
ただ、壺と横顔が同時に存在することを理解し、そこにトリックが潜んでいることを知っていれば、多少はその深淵を覗き見たことになるのかもしれない…。
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出典:日経 サイエンス 2012年 03月号
「光子の逆説」


