ミカンといえば「三ヶ日(みっかび)」。
静岡県の三ヶ日町は、それほどに名高いブランド力を誇る。
そのブランドを支えるのが「JAみっかび」という地域農協。三ヶ日ミカンの年間出荷量は3万1,000トン、額にして77億円。同農協の農畜産物の売り上げの8割超をミカンが占めるため、JAみっかびは「ミカン専門」といっても過言ではない。
この全国的に有名な「三ヶ日みかん」に支えられたJAみっかびの財務体質はじつに健全。ここ30年ほどは毎年、組合員に総額数千万年単位の配当を行なっている。
「毎年、組合員に配当できる全国でもマレな農協」、それが「JAみっかび」なのである。
◎守られなかった三ヶ日
今は飛ぶ鳥をも落とすJAみっかび。
しかし意外なことに、その戦後の歴史は「破綻」から始まった。
昭和26年、貯払い停止に追い込まれた三ヶ日農協は、事実上の経営破綻。その原因は、元・宮内庁務めをしていた組合長の放漫経営によるものだった。
そもそも、三ヶ日町という地域は国の農業政策から「守られていなかった」。
日本政府の守る農業というのは、とどのつまり「米」である。ところが残念なことに、三ヶ日町ではその山がちな地形ゆえにコメ栽培には不向きであった。
管内の耕地面積およそ2,000haの水田の割合は、全体の7%強に過ぎない。つまり、三ヶ日町における9割以上のほとんどの農地は、「国の保護の対象にならなかった」。
◎再起
破綻から3年後、三ヶ日農協は何とか業務を再開することとなる。
しかし、農家からの信頼は「失墜」している。皆、農協を通さずに出荷を行うようになってしまっていたため、農協に集まるのは「Bクラス品」ばかり…。
1960年には、三ヶ日町みかん出荷組合をつくってミカン販売の強化に乗り出すものの、生産者の加入率は12%という低さであった。
しかも、一度破綻を経験していた三ヶ日農協への「監視の目」は厳しく、経営者も二度と失敗できない。それゆえ、その経営意識は高まらざるを得ない。コメをほとんど持たない三ヶ日農協は国の支援も当てにすることができないのだ。
「自らの存在意義を、自らの行動と結果で示すしかない」
この苦境を脱っせんと、三ヶ日みかんは「東京」へと飛び出すことに。
東京進出は勝算などない中での試行錯誤であった。ところが幸いにも、東京市場で三ヶ日みかんは「高評価」を受けた。そして、それが「全国区」への道のりの始まりともなった。
◎岐路
着々とブランド名が高まっていった三ヶ日みかん。
しかし、日本経済のバブルが弾け飛んだ時に、その名は「消滅の危機」に立たされる。
「合併問題」
バブル崩壊以降、浜松市とその周辺15農協は、組織の生き残りをかけた規模拡大、つまり合併を図ることにした。その15農協の中には当然、三ヶ日農協も含まれていた。
一時は話がまとまりかけていた合併交渉。しかし、三ヶ日管内の農家からは「『三ヶ日みかん』というブランドが消滅してしまう」との懸念の声が高まり、結局は合併を断念。
最終的に、三ヶ日農協は「単独農協」として一匹狼の道を歩む決断を下す。
「浜松市と周辺14農協の合併で誕生した新農協に参加しなかったのは、『JAみっかび』だけだった」
こうして、JAみっかびは国にも守られず、地域にも守られず、ただひたすら「三ヶ日みかん」というブランドのみに、その存続を託す道を選んだのである。
◎効率化
合併を断った1990年代、折しもウルグアイ・ラウンド関連の対策予算が6兆円以上計上されていた(1994〜2001)。
その予算を使って、JAみっかびは徹底した「機械化」を図ることにする。
「好景気で単価の高いミカンを拡大した園地で、効率的に生産して儲けるには機械化が不可欠でした」と後藤善一氏は振り返る(JAみっかび代表専務理事)。
傾斜のきついミカン園の農道を整備し、消毒用のスピードスプレーヤーだけでなく、大型の土木作業機も、農道からすべての畝に入っていけるようにした(農道作業方式)。
その結果、収穫を除くすべての作業が「機械化」された。
「今やスピードスプレーヤー(消毒)、ユンボ(土木作業)、フォークリフト(出荷)は、大型農家にとって『3種の神器』と呼ばれるほどに普及しています」と後藤氏。
各農家の機械化による「省力化」。その初期投資は決して小さなものではなかった。だが、そのおかげで農家の「集約化」が図られ、専業農家の平均面積は3〜5haと大規模に拡大。
「ミカン農家は減っても、園地面積は減らなかった」
◎東洋一の選果場
農家から共同の選果場に集められたミカンは、一個一個の糖度と酸度が光センサーで測られ、大きさや品等別に箱詰めされて出荷される。
この「光センサー式の選果システム」は2001年、JAみっかびが28億円の投資を行なって導入したものであり、今年はさらに8億円が投じられて、腐敗果を選別するセンサーがより精度の高い最新式に交換された。
「この選果場は、東洋一の処理能力を誇ります」と後藤専務理事も自慢げだ。
バーコード管理によるトレーサビリティも完備されており、2001年からカナダへの輸出も開始されている。
◎有能な歴代トップ
破綻から生まれた「三ヶ日みかん」というブランド。そして、その名を守るために合併の誘いも断った一匹狼「JAみっかび」。
その経営を担うトップ2人(組合長と専務)は代々、「専業農家の成功した農業経営者」から選抜されている。というのも、かつての破綻という苦い経験は、その放漫経営にあった。それゆえ、経営トップを「名誉職的」に選ぶことをJAみっかびは決して好まないのである。
現在のトップは後藤善一(ごとう・ぜんいち)氏。3年前からJAみっかびの代表専務理事を務めている。
8haという広大なミカン園を所有する後藤氏は、年間2,000トン以上もの三ヶ日みかんを出荷する域内有数のミカン農家。その年商は5,000万円を超える。
今でこそ後藤氏はJAみっかびの先頭に立つものの、元々はむしろ農協とは「あまり関わりたくなかった」。
なぜなら、父親が苦しい時代の農協組合長を務めていた時代を知っており、「家族が苦労する姿」を目の当たりにして後藤氏は育ってきたからだった。
「合併の前後は周囲の風当たりも強くて大変でした。だから最初は関わりたくなかったのです」と後藤氏。
それでも後藤氏がJAみっかびの要職を引き受けたのは、2005年に三ヶ日町が浜松市の一部として市町村合併されたことにより、三ヶ日みかんの浮沈が地域全体の生活に影響するようになったためだった。
「周囲から何を言われても構わない。次の世代のために、地域を支える三ヶ日みかんの未来のために役に立ちたいと思い、代表専務理事に就くことにしました」と後藤氏。
◎危機感
経営感覚の鋭い後藤氏の目で見てみると、現在のJAみっかび、そして三ヶ日みかんというブランド名とて決して安泰ではない。
JA職員の多くは60年前の経営破綻の危機感をすっかり忘れてしまっており、「いざとなれば誰かが尻拭いしてくれる」という意識が抜け切らないのだという。
「本来、JAみっかびがすべきことは助けてもらうことではありません。むしろ地域産業を主導する役割が求められているのです」と後藤氏。
今までのJAみっかびが歩んできたのは、守られてきた道ではない。むしろ「守られなかった歴史」である。いつ消え去るか分からないという危機感こそが、三ヶ日みかんをして時代の先を行かせてきたのであった。
機械化を促進するための農道生産方式や、最新鋭の品質管理システム、こうした徹底した差別化が今の三ヶ日みかんのブランド名を支えている。
しかし、これらの差別要因は「ハードに負う部分が大きい」ために、競争が本格化すれば「あっという間に他の産地に真似されてしまう」という恐れがある。
「しかも、三ヶ日町には園地を拡大できる余地が少ない。そのため、三ヶ日ブランドで供給できるミカンの生産量には自ずと限界があるのです」
「このままでは、組織・人・事業が『ゆでガエル』になってしまう」、そんな危機感を後藤氏は感じずにはいられない。
◎次なる一歩
「ミカンを含めた『何か』を売る」
それが後藤氏の描く次なる青写真である。
たとえば「三ヶ日みかんハイボール」。これはサントリーのウイスキーをベースに、三ヶ日みかんシュースをソーダ水で割ったもの。
「サントリーとの強力なメディア戦略により、資金を使わずにマスコミ露出が増えました」と後藤氏。

「ミカンの皮」までもが戦略の道具となる。
「むきお君」は、ミカンの皮をウサギや馬などの動物の形に剥きあげていく。もともとは小学館の児童書のキャラであった「むきお君」に、後藤氏はさっそくのタイアップを実行。小中学校などにミカンと剥き方レシピを配布して、その普及活動に尽力している。
また、「オフィスみかん」というのも新たな取り組みである。
都心のオフィスなどでは、小腹の空いたサラリーマンやOL向けに業者が「お菓子」などを置いていき、食べた分だけ集金するビジネスが伸びている。
そのお菓子を、よりヘルシーな「みかん」に代えたもの、それが「オフィスみかん」。会社のオフィスでミカンを食べるシチュエーションを創り上げることが、その目的である。
◎外へ
三ヶ日みかんという「限られた資源」。
その枠組みの中ばかりに安住していては、またたく間に干上がってしまう恐れがある。
「座して死するわけにはいかない…」
三ヶ日町の活路は、つねに「外」にあった。守られずとも、合併せずとも名を高めることができたのは、外へ外へとその手を広げていったからだった。
そして今、三ヶ日みかんは「ミカンという枠」のみならず「農業という枠」までをも超えて羽ばたこうとしている。
そんな「JAみっかび」は、閉鎖的な日本農業界にあって異彩を放つ。
なぜ、JAみっかびが「毎年、組合員に数千万単位で配当できる全国でもマレな農協」なのか?
そこには、明らかな理由があったのだ…。

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出典:農業経営者2012年6月号
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