2012年12月20日

仮説に優ってきた「事実」。女子マラソンの歴史


「女性がマラソンを走るのは、生理学的にみても難しい…」

少なくとも今から50年前(1960年代)までは、そう思われていた。「偏見」というカベ。かつての女性ランナーたちの前には、そのカベが大きく立ち塞がっていた。



そんな折り、「ただの通行人」の女性がそのカベをあっさりとブチ破る。

1966年のボストン・マラソンに出場した「ギブ」というアメリカ人女性が、3時間21分40秒というタイムで走り切ったのである。しかし、この記録は「同時刻に走ったただの通行人のもの」とされたため、公式に認められることはなかった。

「それでも、彼女が偏見を打ち破るキッカケとなったんです(山本正彦・東京工芸大学)」



1970年代に入ると、「ひとりの小柄な日本人女性」に注目が集まる。

1974年のボストン・マラソンを2時間47分11秒というコース新記録で制した「ゴーマン美智子」である。体重は40kg、ランニング歴5年にすぎない38歳であった。

その後も、この小柄な日本人は次々と記録を更新。「もはや、女性にとってマラソンは克服できない距離ではない」と認められるようになっていく。時代は折しも、アメリカでウーマンリブ(女性解放)の風が吹いていた。



そして、1984年のロサンゼルス・オリンピック。女子マラソンが初めて「正式種目」となった。

金メダルはアメリカのベノイト(2時間24分52秒)。日本人選手は、佐々木七恵が19位、新鋭の増田明美は「途中(16km付近)でレースを棄権して涙を呑んだ…」。



その涙のシーンを、小学生だった「高橋尚子(たかはし・なおこ)」がテレビで見ていた。当然、当時の彼女は自分の「歩む先」にマラソンがあるとは考えてはいなかった。ましてや、日本人初の金メダルを手にすることになるなどとも…。

「マラソン選手というのは、凄まじい距離を走ってタイムを競う鉄人というか、『テレビの中の出来事』だと思っていたので…」と高橋は振り返る。



その頃はまだ、日本人女性のマラソン選手は少数であり、記録も低調だった。世界のトップが記録を21分台にまで伸ばす一方で、日本人女性は30分のカベを切ることもおぼつかなかった。

そのカベを一気に打ち破るのは「有森裕子」。1992年のバルセロナ・オリンピックでエゴロワ(ロシア)とデッドヒートを繰り広げた有森は、日本人初のメダル「銀メダル」を手にすることになる。



その頃になると、のちの金メダリスト「高橋尚子」にとってもマラソンは他人ごとではなくなっていた。

「テレビの世界だったものが、グッと身近に感じられました。有森さんの時はとにかく嬉しくて…」

有森と高橋は、会社の寮で隣の部屋に住む「お隣さん」であった。そして、それが高橋の自慢でもあった。



有森の強さの秘密は、その「並外れた練習量」にあったという。高校時代に確たる実績もなかった有森であるが、入社を断られたリクルートの陸上部の門を「努力では誰にも負けません!」と強引に押し開いたのであった。

その強い信念を買った小出監督。当時はまだ効果があるかどうかも疑わしかった「高地トレーニング」などを積極的に取り入れて、有森を世界レベルにまで鍛え上げた。

有森はバルセロナ五輪でも銀メダルを獲得。二大会連続のメダルという快挙を成し遂げることとなる。





そしてその系譜は高橋尚子に受け継がれ、彼女が女子マラソン初の金メダルを日本にもたらす。それは2000年のシドニー・オリンピックでの偉業であった。

日本のみならず世界をアッと言わせた高橋。翌年のベルリン・マラソンでは女子選手で初めて2時間20分のカベを破ってみせた。



その圧倒的な強さの根底にあったのは、「やってきた練習量は誰よりも多い」という揺るぎない自信。

他の選手が40kmの練習を1本とか2本しかやっていない中、高橋は15本くらいやっていた。「多い時は、4日間で3本走ったこともありました」と高橋。

「ここまでするとケガをするかもしれない。でも、しないと世界では戦えない。そういうギリギリのところで必ず、守りに入らない選択をしてきたという自負はありますね」



金メダルを獲ることになるシドニー五輪の直前、高橋は高地トレーニングの高度を3,500mにまで上げる決断をする。

当時の常識では標高2,300m前後が適切と言われていたのだから、高橋の決断はまったく「非常識」なものであった。それでも高橋は初心を貫き、すべてを賭けたのだった。

「失敗する怖さよりもむしろ、どれだけ可能性を広げられるか楽しみでした」と高橋は当時の心境を笑顔で話す。





この高橋に続いた「野口みずき」は2004年のアテネ五輪で、日本人による2大会連続金メダルを成し遂げる。

このオリンピックでは土佐礼子が5位、坂本直子が7位。「2大会連続の金メダルというだけでなく、日本の女子マラソンは『代表3人の総合的なレベル』という点でも世界の最高峰に君臨していた」。



しかしこの後、日本人選手は一気に世界から引き離される。

2大会連続メダルなし。北京オリンピック(2008)では、中村友梨香が13位止まり。そして今年のロンドン五輪(2012)での最高位は木ア良子の16位。入賞すらならなかった…。

世界のトップレベルが上昇し続ける中、日本のレベルは下がっていった。ここ2大会、アフリカ勢の層が厚さを増して、世界のトップレベルをずっと高いものに押し上げている。



「素質の面ではもはや、アフリカ勢に負けているのは明らか。相当な改革をやらないと、この先ますます日本人選手は厳しいですよ」とスポーツシューズの名職人、三村仁司氏は苦言を呈する。

「これが木ア良子がロンドン・オリンピックで履いた靴です」と三村氏は、「シミのついたマラソンシューズ」を手に持つ。

それは衝撃的に軽い。わずか115g。パソコンのマウスほどに軽い。そのシューズについたシミはロンドンでの激闘を物語っていた。丹念にシューズを手がけた三村氏は、そのシミに無念を滲ませる。



「今の日本の立ち位置は、『階段の踊り場』に例えられるのかもしれない。再び上昇カーブを描くのか、あるいはこのまま沈んでしまうのか…」

高橋尚子は、今の現役選手たちの練習量の少なさに驚く。

「現役を引退して、他の選手の練習メニューを知ると、改めて自分が凄い練習をしてきたんだって思います」と高橋。「ケガを恐れてか、私たちの頃よりも練習量がガクンと落ちている印象がありますね」。



日本人の良さは、「真面目にコツコツと土台を築いていけるところ」にあると高橋は感じている。

高橋は自分よりも今の選手たちの方が身体能力に優れているとも話す。ただ、彼女の目から見ると、日本の伝統である「距離を積む練習」が不足しているように思えてならない。

このままでは、世界の背中は遠ざかるばかり…。



それでも、「日本代表の行く末について、過度に悲観することはない」。

「仮説を破るのはいつだって、選手たちなのだ」

科学は後追いに過ぎず、仮説はつねに「事実によって覆される」。



わずか半世紀前、女子のマラソンは「不可能」と断じられていた。

その偏見を破ったのは誰だったか?



誰が38歳の日本人女性の台頭を予見できたのか?

まさか、小柄な日本人選手が世界を制することになるとは、思いもしなかったであろう。



「女たちは半世紀で、1時間半も記録を縮めた」

これはどんな仮説も及ばなかった、厳然たる「事実」である。

そしてこの事実は紛れもなく、「これからの希望」でもあろう…。







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出典:Number
「スポーツ50年の進化」
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posted by 四代目 at 06:48| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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