2012年12月06日

日本人は数学が好きなのか? 俳句から明治維新


なぜ、日本の俳句は「五・七・五」なのか?

サイエンスナビゲーターの「桜井進(さくらい・すすむ)」氏に言わせると、それは「白銀比」なのだという。



西洋の芸術世界においては、「黄金比(1:1.68…)」というものがよく知られている。この美しき比率は、古代ギリシャに端を発するということで、パルテノン神殿やモナ・リザなどの「ヨーロッパの美しさ」を陰で支えているとも言われている。

それに対して「白銀比(1:1.41…)」というのは、別名「大和比」とも呼ばれることからも分かるように、法隆寺の五重塔、菱川師宣の見返り美人図、雪舟の秋冬山水図などに見られる「日本の美しさ」を支えるものである。



白銀比の「1.41…」という数字は「√2」のこと。直角三角形でいえば「1:√2:1」という図形のことであり、その三角形の一辺を5倍の長さにすれば「5:7:5」となる。それはすなわち、俳句の「五・七・五」につながる。

茶道や華道、日本建築を陰で支える美しさが、言葉の世界の「俳句」にも隠れていたということだ。





◎整数論


さらに桜井氏に言わせれば、俳句が白銀比を保つことができるのは、日本語が「指折り数えられる」からだという。

たとえば、松尾芭蕉の「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」は一字一字数えることができるものの、「This is a pen」はそうもいかない。英語の場合、音の数と文字の数が一致していないのだ。



数学的に言えば、日本語は「整数」であり、小数点的なものではない。単純明快であり、数がハキハキしている。そして漢字やひらがな自体も「絵」のような芸術性を備えている。さらに漢字は「音読み」と「訓読み」という多様性も持っている。

すなわち、俳句はその数的な整合性(白銀比)を柱とし、表現力豊かな文字や響きがそこに彩りを加えているのである。

なるほど、文学芸術の粋とも思われるような俳句が、じつは数学的な概念に支えられている。桜井氏は、こうした日本語の特色が日本をして「数学大国」たらしめることになったと考えている。



◎好奇心


江戸の昔、日本には「塵劫記(じんごうき)」という数学書のベストセラーが誕生する。

数学書というといかにも堅苦しく響くが、そこに載っている問題は「コメや俵やマスなどを使った生活に密着した問題」であった。それゆえ、じつに親しみの持てるものであった。だから庶民層にも大受けした。一方、身近な問題を取り上げながらも、数学的内容は極めて高度であったため、学識者たち、さらには将軍さままでがハマッてしまった。

「庶民から将軍まで数学に熱狂した時代なんてどこにもない。この日本の江戸時代後期だけです(桜井進)」



「一家に一冊」あったと言われる数学書「塵劫記」。

ベストセラーとなった秘密は、「面白い問題だらけ」だったことにあった。それが日本人をして「数学好き」の側面を浮かび上がらせることにもなったのだという。



この「面白さ」という観点は、東アジア文化圏においては日本以外にはついぞ見られなかったものであもある。

たとえば、東アジア文化圏の中枢たる大国・中国においては、日本よりもずっと「実利的」であった。中国において数学に求められたことは「役に立つか立たないか」の一点のみ。ところが日本は、「実利を無視して、好奇心から数学にハマっていった」のだ。



具体的にいえば、中国の方程式においては「変数が一つ」。変数というのは「x,y,z」といった動く(値が変わる)数字であるが、中国では「x(エックス)一つだけの方程式を解いて、それでいいやと思っていた」。役に立つか立たないかだけを判断できればそれで良かったのである。

ところが、日本人の好奇心は決して「x(エックス)一つ」で収まるものではなかった。それは中国人からみれば「無駄なこと」だったかもしれない。しかしそれは、その後の日本の飛躍的な発展には欠くべからざる「無駄さ」でもあった。





◎洋算


日本が歴史上、数学的離れ業を演じるのは「明治維新」においてであった。

江戸期の数学的熱狂は日本の数学である「和算」を大成させ、ある意味「世界の頂点」にあったとさえ言われている。

ところが、明治新政府はその和算をあっさり捨ててしまうのだ。その理由は「軍事力を高めるためにはドイツのマニュアルを読まなければならない。そのためにヨーロッパの洋算、横書きの数学が必要だ」というものであった。

つまり、軍事上の必要性から和算は廃止されてしまったのである。当然、江戸の数学者たちはこぞって猛反対。それでも、明治政府は洋算へと日本を踏み切らせた。



驚くべきはここからで、明治期の日本人たちは「外国の数学である洋算」をいとも容易く短期間でマスターしてしまうのである。

「他言語の数学をそんなに迅速に自国語に吸収してしまうというのは、数学の世界では奇跡的です(桜井進)」

それはひとえに、江戸時代の和算が非常に高度であったため、日本人の数学的な下地が確固としたものだったことの証左でもあろう。



もし、日本の数学が実利一辺倒であったら、外国の新たな数学を取り込む余地は限られたものとなっていたかもしれない。

しかし幸いにも、日本人の雑多なる好奇心は、和算に大いなる無駄な領域をも生み出してくれていたのである。そしてその無駄な領域はおそらく洋算をも守備範囲内に収めていたのだろう。見知らぬ洋算とはいえ、それは変数の一つに過ぎなかったのだ。



◎数学大国の末裔


江戸時代の平和が育んだ庶民の好奇心は、思わぬ恩恵を日本にもたらしたようだ。

期せずして日本は世界に冠たる「数学大国」となっていたのである。そして、その末裔であるわれわれ日本人の中には、世界に引けをとらない偉大な人々が数多く存在している。



たとえば、今年のノーベル賞(医学生理学賞)を受賞した山中伸弥教授(京大)。彼だけに限らず、理化学系ではこれまでに15人の日本人がノーベル賞という栄誉を授けられている。これは東アジア文化圏においては異例のことで、中国人や韓国人の受賞者はいまだゼロである。

また、数学の分野に特化した世界的な賞としては「フィールズ賞」がある。それは4年に一度、しかも40歳以下という厳しい条件で一度に4人しか受賞できない。いわば「天才中の天才」しか獲れない賞である。

「その賞を日本人は3人が受賞しています。ちなみに中国、韓国はゼロです。つまり、日本は世界に冠たる数学大国だということです。ほとんどの日本人はそのことを知りませんが…(桜井進)」



◎無駄な好奇心


桜井氏が言うには、日本の数学は戦後の教育で良くなったわけではなく、江戸時代の頃からすでにかなり高いレベルに達していたとのことである。

思うに、江戸の庶民たちは数学を勉強しようという気はサラサラなかったのではないかと思う。ただ「塵劫記」という本に書かれてある問題が面白かったから、それにハマっていっただけなのではなかろうか。

ベストセラーというのは学問分野のカベを乗り越えるからこそ、そうなるものであろう。分野の中にとどまっている学問は所詮、象牙の塔から一歩も外へ出るものではないのだから。



そして、江戸の庶民たちの多くには数学を学ぶ必要性もなかったはずだ。だからこそ、役に立つかどうかには無頓着でいられたのだろうし、いわば全部が無駄なことでもあったのだろう。

しかし、無駄なことばかりをやっていても、それらは何らかの「下地」にはなるはずである。直接的な成果はすぐに現れずとも、いつの日かの土台になっている可能性は大いにある。

平清盛がムリを押して建造した大輪田の泊という港の底には、無数の「捨て石」が沈んでいるのである。たとえ庶民のしがない数学への関心とて、その砂粒が集まれば、いつかは立派な白洲になることもあるだろう。



実際、無意味とも思われた江戸の庶民たちによる数学的素養の蓄積は、明治期の日本の頭上に大花を咲かせることとなったのだ。

「役に立つ」という観点だけから行われる「勉強」の効果はおそらく限定的である。即効性はあるかもしれないが、それはきっと刹那的である。

それに対して、「好奇心」というモチベーションからは、どこか未来に直結しているような印象を受ける。たとえその時は無駄と断じられようとも、無駄なくして悠久の土台は築かれない。港は海上に浮いているのではなく、その海底に堅牢なる土台を擁しているのである。



◎根っこ


「先生、どうして足し算から勉強するんですか?」

ある小学一年生は、桜井氏の講演を聞いて、こんな質問をしてきた。

「見ている学校の先生や父兄はひっくり返る。こんな小さな子どもが、そんな本質的な質問をするのかと」



「それは世界が足し算からできているからだよ。かけ算も割り算もすべて足し算が元になっているんだよ」と桜井氏は7歳の子どもに優しく説明する。

小さな子どもが「根源的な質問」をできるのは、彼らがまだその根っこの部分にいるからであろう。一方で、すっかり樹上の高みに登ってしまっている親たちは、その根源や本質を忘れがちでもある。

そして子どもの何気ない一言は、「教育とは何か」を大人たちが忘れていることにも気づかせてくれる。



「わかった! よっしゃ! と思った瞬間の快感を知っている子どもたちは、それを中心に勝手に動き出します」

「花まる学習塾」の高濱正伸(たかはま・まさのぶ)氏は、そう語る。

「答えが合っているかどうかだけに注目していると、結局おもしろくない方向に進んでしまいます」



「答え」だけに囚われてしまうことは、役に立つか立たないかを表面的に判断することにもつながるだろう。そこからは無駄も生まれなければ、面白みも生まれない。

高濱氏に言わせれば、それは「数学に限らず、死んだ状態です」となる。さらに彼は言う、「日本の問題はそこに集約されると思います」。





◎競争


「競争」という概念は、無駄を削ぎ落とていく戦いであるのかもしれない。

しかし、肉の旨味は無駄な脂身であったり、無駄な贅肉であったりもする。無駄肉を削ぎ落した骨をウマイウマイと食うのは犬ばかりである。

その点、あまりに合理的になりすぎると、自らが立っている土台を少しずつ少しずつ切り崩していってしまうという恐れもある。熾烈な競争の渦中にあっては、一切の無駄が許されないかもしれない。しかし、それが許されない状況にあっては、未来へ飛び立つ土台をも失われる危険性もある。



逆に「みんな平等」を是として、それが行き過ぎるのも困りものである。

どちらかと言うと、子どもたちは競争を「面白がる」のだ。彼らはいつも、無駄に競いたがる。

すなわち、競争も平等も畢竟、一長一短であり、そのどちらかが一方的に支持されることのほうが、面白くなくなってしまうことにもなるのだろう。



無駄なことをやれるのは幸いだ。

それはきっと無駄にはならない。

すべてが終わった後にしか、無駄かどうかの判断はできないのだから。



幸いにも世界はずっと終わらない。人間一人が死んでも終わらない。

過去の人が面白がって海中に投げ入れた小石一つでさえ、その波紋は後世にどんな波紋を広げていくのか分からない。

どうせ小石一つ投げるのならば、多少面白がってもバチは当たらないだろう。どんな小さな個人にでも、歴史にしょうもない一石を投じるくらいの無駄は許されているはずである。

皮肉にも、しょうもないほどに面白いかもしれないのだ…。







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出典:JBpress
「日本が中国・韓国より決定的に優れているワケ」

posted by 四代目 at 06:27| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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