「飛べない蚊」
「死の遺伝子」をプログラムされたその蚊は、卵から羽化しても水面にジッとしたまま。そして、死を迎える。生まれてからは、飛ぶことも交尾することもできない。
なぜ、このような蚊が作られたかと言えば、それはウイルス性疾患である「デング熱」の拡散を抑えるためだった。デング熱は「世界で流行している最も悪性の感染症」であり、毎年約1億人が感染している。
このデング熱のウイルスをバラまくのが「ネッタイシマカ」と呼ばれる「蚊」なのである。この蚊が人間の血を吸うときに、人体にウイルスが侵入してくるのだ。
もし遺伝子を操作して、この蚊を全滅させてしまえば…。
ジェームズとアルフェイはさっそく実験に取り組み、そして成功させた。
しかし、この両者はのちに「まったく異なるアプローチ」で、この蚊を世界に広めようとする。誠実なジェームズに対して、アルフェイのやり方は「荒かった」。それが世界に「遺伝子組み換え蚊」に対する拒絶反応を引き起こしてゆくことになる…。
◎死の遺伝子
ジェームズは蚊の遺伝学において「草分け的存在」だった。蚊の遺伝子を初めて単離したのも、遺伝子組み換え蚊を初めて作ったのも彼だった。
その蚊を伝染病の根絶に活かそうと思い立ったのは10年前、農業向けの害虫駆除を応用することを考えた。農場では放射線を当てて「不妊にした虫」が害虫の繁殖を抑えていた。
しかし、蚊という小さな生物は、放射線を当てるとヒドく弱ってしまい、すぐに死んでしまうのだった。
ほぼ同じ頃、アルフェイは「メスだけを殺す遺伝子」をハエに組み込むことに成功していた。
デング熱を媒介するのは「メスの蚊」である。なぜなら、オスの蚊は人間を刺さない。つまり、メスさえ飛べなくしてしまえば、デング熱は広まらなくなるということである。
こうして、ジェームズとアルフェイはお互いの知識・技術を持ち寄り、2002年、ついに「メスの飛翔筋を操るスイッチ」を突き止める。
飛翔筋の発達を阻害されたメスは、飛ぶこともオスを惹きつけることもできなくなる。その一方で、オスの蚊は正常に成長するので、まんまと他のメスに「死の遺伝子」を伝えることが可能であった。
蚊の受精卵に導入されるその遺伝子には、識別用の遺伝子も同時に組み込んである。そのため、その幼虫は妖しい蛍光色を放っていた…。
◎デング熱
デング熱という伝染病は、約25億人が暮らす熱帯・亜熱帯の国々に発生する。赤道を中心に北回帰線と南回帰線に囲まれた地域は、ほぼその全域がターゲットとなる(インド、東南アジア、中南米、アフリカ中部などなど100以上の国々)。
デング熱を媒介するネッタイシマカという蚊は、もともとアフリカに住んでいたというが、400年前の奴隷船に乗って、世界各地へ伝播していったのだという。以後、海外旅行者などがその役を担うことになり、1970年以降は「10年ごとに倍増」する勢い。とりわけ、人口が過剰に密集した貧困地域などでは悲惨な状況が展開されている。
軽度のデング熱は「骨折熱」とも呼ばれるが、その症状はインフルエンザ程度のもので、1週間ほどで治る。
しかし、もっと重い「デング出血熱」となると、目や鼻・口・女性器などから出血し、最大で20%の患者が死に至る。ただ、適切な治療を受けさえすれば、その死亡率は1%にまで下がる。
デング熱による世界の年間死者数は、「エボラ出血熱やマールブルグ熱など、他のすべての出血熱による死者数の合計を上回る」。ちなみにデング熱に効くワクチンはまだない。
◎ネッタイシマカ
メキシコの、とある貧困地域をジェームズは訪れた。
ある女性の家は、四方を囲むはずの壁が「3枚しかない」。まるで映画のセットのようであり、「これでは蚊を家から閉め出せない」。慢性的に濡れた土間、たくさんの容器に溜まった雨水などなど、蚊が卵を産みたがる場所は無数にあった。「大さじ2〜3杯の水」があれば、蚊はどこでも繁殖できる。
その女性はもちろん、デング熱のことは知っていた。しかし、その病気が洗濯オケの中にウヨウヨと身をくねらせるボウフラ(蚊の幼虫)によって広まることまでは知らなかった。
ネッタイシマカという蚊は、日本にいる蚊よりも少々小さめで、その分、羽音があまりしない。「プーン」という不愉快な音がハッキリしないため、「叩き潰したり、追っ払ったりする手がかり」がない。
しかも、この蚊は夜ではなく日中に人を刺すので、「蚊帳(かや)では身を守れない」。
もっぱら人間の血だけを狙うネッタイシマカは、一回血を吸えば一ヶ月は生きられる。「あちこちで人を刺して病気を広めるには、充分な時間だ」。
デング熱と同様、マラリアという病気も「蚊」が運ぶ。
それでもジェームスがデング熱をターゲットに選んだのは、デング熱がネッタイシマカというほぼ一種類に限られるからである。一方のマラリアは30〜40種類もの蚊が運び役となっている。
すなわち、ネッタイシマカの遺伝子さえどうにかしてしまえば、デング熱は劇的に封じ込められる可能性があったのだ。

◎反発
一般的に考えれば、ジェームズとアルフェイのやろうとしていることは、とても良いことのように思える。実際、デング熱に苦しんでいる熱帯・亜熱帯の各国には、そうした遺伝子技術を歓迎する政府も数多い。
しかし、遺伝子操作を生理的に嫌う向きも確実にある。「いかなる遺伝子組み換え生物を野外に放つことにも反対する団体は多い」。
さらに、デング熱に直接苦しめられている貧困地域においても、反対の火の手は上がる。途上国と呼ばれる国々は長い間、「先進国の野外実験をするのに都合のいい場所」であり、研究者たちの「無神経な態度」が地元の反発を買ってきたのである。
たとえば、今から40年以上前(1969)、WHO(世界保健機関)とインド政府が協力して、3種類の蚊を減らす遺伝子的実験を行ったことがあった。それはフィラリア、デング熱、黄熱、マラリアを媒介する蚊をターゲットにしたものであった。
ところが3年後、ある村には奇妙なウワサがたちはじめる。村の飲み水用の井戸に、チオパテという薬品が投じられたというのである。ある研究者によれば、その薬品は「動物に奇形やガンを引き起こす」というのだから堪らない。
さらにインドのPTI通信社は「WHOがアメリカのためにインドで極秘実験」と報じる(確かにアメリカ政府は一部の研究に資金を出していた)。その報道の内容はと言えば、「ネッタイシマカを生物兵器」として実用化されようとしているというのである。
「ほかの蚊と違って、卵を乾燥させれば、紙にくっつけて封筒に入れて送れば、国中どこでも羽化させることができる」
こうした陰謀論の高まりによって、結局WHOはインドでの計画を断念せざるを得なかった。
◎慎重なジェームズ
ジェームズはこうした「過去の失敗」を熟知していた。それゆえに、遺伝子組み換え蚊がたとえ善意であれ、その押し付けには慎重であった。地元の混乱を起こしてしまったらもう、どうしようもないのである。
「人々は遺伝子組み換えを怖がっている」
熟慮の末、ジェームズは「メキシコ」に目をつけた。
「メキシコには遺伝子組み換え生物に関する『国内法』があり、遺伝子組み換え生物の輸出入に関する国際的枠組みである『カタルヘナ議定書』にも署名していました」
とくにタパチュラという地域は、遺伝子組み換え昆虫を使う考え方を「怖がっていなかった」。なぜなら、この地域では以前に別の昆虫・チチュウカイミバエの実験も行われていたことがあった。
それでも、地元農村の長は「変な話だ」と思っていた。
「どうして、わざわざ人口の蚊を大量に飼おうとするのか? 蚊が逃げ出したら、村民や畑に害は出ないのか? ほかの昆虫まで不妊になりはしないのか?」
ジェームズは根気よく地元の人々との対話を続け、その疑問を一つ一つ丁寧に分かりやすく説明していった。身振り手振り、ときにはジョークを交えながら。そのおかげで、ジェームズは次第に「よそ者のアメリカ人」ではなくなっていく。
「よく分かったし、このプロジェクトが気に入ったくらいだよ!」
大豆農家の村長は金歯を見せながら笑っていた。
「ここだけじゃなく、メキシコ全体、世界各地でも役立つだろう!」

◎強引なアルフェイ
一方、アルフェイは全く異なったやり方で、「事を密かに素早く」進めていた。
2002年に企業「オキシテック」を設立していたアルフェイは、2009年にカリブ海のケイマン諸島(グランドケイマン島)で「遺伝子組み換え蚊を野外に放っていた(当時、未公表)」。その効果は絶大で、300万匹以上放たれたオスの蚊によって、同地域のネッタイシマカの数を80%も減らすことに成功した。
しかし、地元からの賛同は得ぬままであり、ただ地元政府に言って「夜のローカルニュース番組中で、5分間の枠を一回取った」だけだった。不妊の蚊について説明するパンフレットも作られたものの、「遺伝子組み換えについては、まったく触れられていなかった」。
当然、「地元住民が懸念を口にする機会」もまったく与えられない。それゆえ、悪いウワサがたった。
「科学者が蚊を入れたバケツをもって外に飛び出し、誰にも監視されずに野外に放っている…」
いまやアルフェイのオキシテックは「秘密主義」だとみられ、人々は「なぜ秘密にするのか訝(いぶか)っている」という有様だった。
◎悪意
ジェームズがアルフェイの暴挙を知るのは、ケイマン諸島での実験から14ヶ月も経った頃。
イヤな過去がジェームズの頭の中を駆け巡る。「遺伝子組み換え昆虫全体に対する反発を招きはしないか?」「この技術の可能性が十分に認知されないうちに、研究が潰(つい)えてしまうのではないか?」
現在、遺伝子組み換え生物の試験を取り締まるための「国際的な法や機関は存在しない」。それゆえ、研究者もバイオ企業も「やりたい放題」。「バイオ植民地主義者」たちは、こっそりと他人の裏庭で実験を行い、それを黙っていることもできるのだ。
とりわけ、アルフェイが選んだケイマン諸島という場所には、「最低限の規制」しかない。税制も緩いため、金融業者はこの地をタックスヘイブン(租税回避地)と呼び、マネーロンダリング(資金洗浄)の場として用いたりもする。
そんな場所でコッソリ行われたアルフェイ大規模な実験には、悪意を感じざるを得ない。
「蚊が(グランドケイマン島の)野外に放たれていたことを、国際社会は驚きをもって受け止めた」
それでもアルフェイの実験は「合法」だった。企業のオキシテックは「何の法も破ってはいない」と強気である。「良くも悪くも注目を集めるには違いないが…」と幹部は語る。
アルフェイの進撃は続く。
次はマレーシア。「20を超える非営利団体が抗議する中、オキシテックは人の住んでいない地域での実験を始めた(2010)」。
そしてブラジル。「蚊とデング熱に一年中悩まされる貧しい地区で、6ヶ月にわたる試験を始めた(2011)」
さらには、興味を示しているパナマとフィリピン、フロリダ州へもその食指を伸ばしている。

◎論争
「オキシテックによる遺伝子組み換え蚊の野外放出試験は『極めて危険』だ」と、国際環境保護団体グリーンピースのコッター上級研究員は警告する。「『完全はあり得ない』ので、繁殖力のあるメスの蚊が多少は放たれるだろうし、それがどんな影響を及ぶすのか、今は分からない」。
たとえ狭い地域内であるにせよ、「ある生物を根絶することが倫理的といえるのか?」。そんな問いも発せられる。
一方の推進派は、こう反論する。
「ネッタイシマカは人間が住む環境だけを利用して進化してきた『侵入種』だ」
侵入種ゆえに、都市部のネッタイシマカは「重要な食物連鎖のいずれにも属していない」というのである。すなわち、その根絶の影響は限定的なのだという。
そんな水をかけ合う論争はさておき、そもそも、「ネッタイシマカを根絶しても、デング熱の伝播を永久に止められるかどうかは疑問だ」との意見もある。
というのは、1950年代と1960年代にアメリカで行われたネッタイシマカの根絶作戦は「無残にも失敗した」からだ。デング熱を媒介する別の種・ヒトスジシマカがすぐに侵入して来て、ネッタイシマカの仕事を取って代わってしまったのである。
◎特殊管理下
ところ変わり、ここは誠実なるジェームズの実験施設。メキシコのタパチュラの外れである。
有刺鉄線で厳重に取り囲まれた検問所には、「蚊の両脇を男女で固めている図」が描かれている。この看板は遺伝子組み換え蚊が厳重に管理されていることを示している。その下のスペイン語を読めば、「特殊管理下」であることが分かる。
この土地を取得した時、ジェームズは誠心誠意、地元住民の理解を得ることに務めた。それは前述した通りである。
「地域のリーダーたちと協力し、伝統的な土地共有プログラムによって土地を入手。安全な試験施設を建設した」
ジェームズは根気よく時間をかけて、慎重に事を運んだのだ。
そんな彼にとって、アルフェイの横柄な行為は残念なことであった。たとえそれが合法だとしても、人々に要らぬ不信感を与えてしまったことに変わりはない。
たとえ世界のためになることとはいえ、「予想外の結果が生じることを恐れて反対する人々」は必ずいるのである。
◎昔日の夢
かつて、ジェームズとアルフェイが一緒に協力して「メスの飛翔筋を操る遺伝子」を発見した時、二人は同じ夢を見て興奮したはずだった。
「これで、デング熱を撲滅できるかもしれない!」
しかし、その後の2人は対照的だった。あくまでも地元住民の心に気を配り続け、ゆっくりと歩を進めたジェームズに対して、アルウェイは急ぎ過ぎた。そして、企業による合法という名目は、逆に人々の疑いを強くしてしまった。
人間は蚊のような小さな生き物に悩まされるほどに「弱い」。その弱さゆえに、物事を必要以上に疑う性向も内面に抱えている。
確かに科学者は「最強の武器」を手にしているのかもしれない。そして、それは確かに多くの人々の生命を救う可能性を秘めているのかもしれない。
しかし結局、人間の心は一歩一歩ずつしか進めないのである。たとえ科学が一足飛びに発展しようとも。
ジェームズが管理する施設には、何千匹のネッタイシマカがゲージ内に育てられている。
朝7時、そのゲージのアミの目を通り抜けた朝日が、光の筋となって金色に輝く。
「この世のものとは思えぬほど、美しい…」
しかしその美しい光は同時に、一部のゲージに「たまらなく暗く陰」をもつくり出していた…。

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出典:日経サイエンス
「遺伝子組み換え蚊でデング熱を撲滅」