明治時代、日本の陸軍大学校に赴任したメッケル少佐は驚いた。
「生徒の中に『欧州人』がいる」と。
いや、それは欧州人ではない。伊予生まれの列記とした日本人「秋山好古(あきやま・よしふる)」である。
彼自身は「顔の美醜には関心がない」とは言うが、かれは紛れもなく「美男」であった。それも欧州系の…。それは弟・真之(さねゆき)とて同様で、この兄弟はともに、目鼻立ちの整った美しさを備えていた。
以下に記すことではあるが、兄・好古は陸軍、弟・真之は海軍において、それぞれが日露戦争を勝利に導く立役者となっていく。
「最後の古武士」と呼ばれるのが兄・好古である。微禄ながらも武士の家に生まれ育った好古には、「私利私欲」というものが全くなく、「質素倹約」に務める「質実豪胆」なる武人だったのだ。「贅沢に流される」などというのは全く縁遠い人物だったのである。
この武人の兄と東京で共に暮らしていた弟・真之、足袋も帯も贅沢だとして使わせてもらえず、食事もたった一つの茶碗を二人交代で使うことを強いられる。新聞など読むのももってのほか。ある雪の日に下駄の鼻緒が切れた時などは、「裸足で行け!」と厳格なる兄・好古に喝を入れられた。
そんな兄を、弟・真之は畏れ、かつ敬い続けた。それゆえ、一時志した文学への道を諦め、兄と同じ軍人の道を歩みはじめることにもなる。
「好古にとって、『酒』は主食であるらしかった」
粗衣粗食なる好古であったが、酒ばかりはその例から漏れる。戦場にあってすら、酒を呑まなかった日は一日もなかったと伝わる。呑むどころではない、浴びるのだ。
「真之は『豆』である」
3度のメシよりも好きという炒り豆、それは常に軍服のポケットに忍んでおり、事あるごとにポリポリポリポリ。
「態度が悪い」というのは兄弟共通であったらしい。
とりわけ、弟・真之の「奇行」はよく知られていた。ところ構わず屁を放(ひ)り出し、立ち小便も遠慮がない。軍議の最中でさえ、水虫の足を掻きむしる。
そんな奇行の真之に対して、上司であった東郷平八郎は決して戒めることがなかったという。「奇行の果てに湧き出てくる智謀」、それに東郷は期待していた。
「男子は生涯一事を成せば足る」
これが武人の兄・好古の信念である。そして、彼にとっての一事とは「騎兵」であった。
好古が陸軍大学校の教壇に立ったある日、つかつかと窓辺に歩み寄るや、やにわに拳を握りしめ、窓ガラスを叩き割った。そして、一言。「騎兵とは、これだ」。
彼の言わんとするところは、騎兵とは「高い攻撃能力を備えながらも、防御力は皆無に等しい」ということだった。敵を粉砕することはできるかもしれないが、自分は血まみれになる覚悟をしなければならない。実際、窓ガラスを叩き割った好古の拳は血塗れになっていた。
そして迎えた日露戦争。
陸軍には好古、海軍には真之の姿がそれぞれにあった。
そして、兄・好古は「黒溝台会戦」にて、弟・真之は「日本海海戦」にて、それぞれ赫々たる功績を成し遂げることとなる。
まずは兄・好古(よしふる)。
黒溝台会戦において自らが騎兵を指揮し、史上最強と謳われていたロシアのコサック旅団に決戦を挑んだ。真正面から押し寄せる強靭極まりないコサック旅団。好古の騎兵隊が「木っ端微塵に砕け散る」のは、ほぼ確実と思われた。
ところが好古、この時に思わぬ行動にでる。なんと「下馬」である。騎兵の本領を捨て、人馬ともに塹壕へと潜ったのだ。
じつは卓越した先見性を持っていた好古の騎兵隊は「機関銃」を持っていた。そのほかにも砲兵や工兵をも随伴させており、塹壕にあっても敵を邀撃することが充分に可能だったのだ。「防御力が皆無に等しい」と分かっていた騎兵隊に対して、好古は充分な備えを施していたのである。
好古の機関銃は、ロシアのコサック騎兵に対して猛烈に火を噴いた。
数にして5倍という巨大な敵の最前線に立たされながら、好古は一歩も引くことがなかった。それどころか、史上最強のコサック騎兵を跳ね返してしまったのだ!
世界が驚嘆した瞬間である。「まさか極東の島国で編(あ)まれたばかりの少勢が…」
好古は自らが信念とした「一事」を成した。
その手にはトレードマークともなっていた「切れない指揮刀」があった…。
そして弟・真之(さねゆき)。
「智謀湧くが如し」とのちに東郷が評することとなる彼も、それは勝手に湧きいでるわけではない。脳漿を搾り尽くして戦術を立て続けたのである。
確かに真之は天才であった。しかし、神ではない。日露戦争の序盤戦となった旅順港の閉塞作戦は、真之が実行策を練り上げていながら、3回すべてが失敗に終わった。黄海海戦においても、乾坤一擲のともに敢行した丁字作戦が失敗している。
こうした失敗のたびに、真之の神経は限りなく消耗したに違いない。
それでも、海軍総司令官の東郷平八郎は真之を信じ続けた。
参謀長の島村速雄も「作戦立案のすべてを任せる」と言い切った。
世界最強といわれるロシアのバルチック艦隊は、着々と迫りつつあった…。
「真之の脳髄がいかに悲鳴を上げ、かつ困憊しきっていたか」
その末に編み出されたのが七段戦法。バルチック艦隊を打ち破る真之の秘策である。
ついにその巨大な艦隊を眼前にした時、真之は「天気晴朗なれども、浪高し」との歴史的電文を大本営に発している。文学の才あふれる彼らしい美しさのある電文、「もはや神韻すら帯びている」。
のちに彼が「百発一中」というロシア艦隊の砲撃は、高い浪に翻弄された。そして、「百発百中」という日本海軍の一砲は、バルチック艦隊の旗艦であった「スワロフ」の司令塔を吹き飛ばし、ロシア海軍の総司令官であるロジェストウェンスキーに重傷を負わせた。戦闘開始からわずか15分の出来事であった。
「勝敗は最初の30分で決まった」
真之の七段戦法はそのすべてが実行されたわけでも、すべてが成功したわけでもなかった。それでも、バルチック艦隊はほぼ全滅した。ロシアのウラジオストック港にまでたどり着けたのは、たった3隻のみである。
「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」
その第一報をきいたイギリスは最初、信じなかった。「まさか、極東の小国が…」。
さらに真之の名声を高めたのは、勝利の後の日本海軍「解散の辞」であった。
それにはこうある。「神明はただ平素の鍛錬に努め、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりじかにこれを奪う」。
あくまで真之は倨傲を戒め、謙虚を貫いた。
戦火の止んだ晩年、この兄弟の想うところは「それぞれ」であった。
兄・好古はあくまでも「現場の指揮官」であろうとした。中学校の校長を引き受けることになる好古の胸の内には、「現場で指揮を執り、後続を教え導きたい」との想いが強かったのかもしれない。
一砲、弟・真之は「宗教の門」を叩いた。疲弊しきった脳漿を休ませるためであろうか。実際の戦闘の場においても、真之はつねづね「天佑」に助けられたとしか考えられない場面を数々目にしてきている。それゆえ、彼は自然と「神助」を信じる想いが強くなっていた。
死の床にあった二人も対照的であった。
兄・好古の最期の言葉は「馬を曳け」。彼は病床にありながら、心は戦場を駆け続けていたのである。
弟・真之が臨終に際して詠んだ句は、「不生不滅、明けて鴉の三羽かな」。
日本の誇る明治の英傑二人。
酒と炒り豆が供えられぬ日は、未だない…。
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出典:歴史人
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