出産予定日は、その次の日だった。
ところが、その夜、お腹の中の赤ちゃんの胎動がない。
不安に駆られたその出産間際だった女性は、急いで病院へと走り、エコー写真で調べてもらった。
すると、恐れていた通り…、胎内の赤ちゃんの心臓は止まってしまっていた…。
◎死産
「胎内で亡くなった赤ちゃんは異物に変わります。早く出さないと、お母さんの身体に異常が起こってきます」
その死産を手助けした助産師「内田美智子」さんは、その時の様子を語り始める。
「普段なら私たち助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって、『頑張りぃ! 元気な赤ちゃんに会えるから頑張りぃ!』と励ますんです」
ところが、死産をするお母さんには「かける言葉」がない。「産んでも何の喜びもない赤ちゃんを産むのは、大変なことなんです…」。
ようやく産まれた時、その分娩室は「まったく静か」だった。
赤ちゃんが元気に生まれたきた時の賑やかさは、まったくなかった。
シーンとした中、母親となるはずだった女性の泣き声だけが響いていた…。
◎お乳
「一晩だけ、抱っこして寝ていいですか?」
明日にはお葬式をしないといけない。せめて今晩だけでも抱っこしていたいと、その女性は言うのであった。
その夜、看護師が様子を見に行くと、月明かりの下、彼女はその子を抱いていた。
「いまね、この子におっぱいあげてたんです」
よく見れば、じわっと零(こぼ)れてくるお乳を指ですくいながら、そのお乳を赤ちゃんの口元まで運んであげていた。
たとえ死産であっても、胎盤が外れた瞬間に女性ホルモンが働き出し、お乳は出始めるのだという。
その女性も、赤ちゃんを抱いていたらお乳が滲んできたので、それを与えようとしていたのであった。
◎母性
「若いお母さんの中には、タバコをやめるのはイヤ、夜中に起きるのはイヤ、24時間べったりされるのはイヤというような理由で、授乳をしない人たちもいます」
助産師歴33年、2,600人以上の出産に立ち会ってきたという助産師・内田美智子さんは言う。
「赤ちゃんはお母さんにくっつきたいと思っているのに、お母さんは離れたいと思っている…」
内田さんは、母性とは「育つもの」なのだと感じている。
「母性本能という言葉がありますが、母性は本能として備わっているわけではなく、育つものだと言われている方もいます」
それは、生まれてきた子どもとくっついていることで育つものだと言うのである。
◎犠牲
「子育てというのは、親の『犠牲』の上にあるものです」
母親は出血もするし、傷もできる。一年も二年もお乳をやっていれば、体重とともに命も削られていく。そして、「自分の時間」も失われてしまう。
「ところが最近、子どものために自分の時間を犠牲にしたくないという若い親御さんも増えています」
また逆に「甘やかしすぎる」こともある。
「手をかけること」と「甘やかしてしまうこと」は違うのだと、内田さんは考える。
「一から十まで全部してやっておいて、そのまま放り出されたら子供は悲劇です。自分のことが何もできない大人になってしまいます」。これが「甘やかす」ということだ。
一方の「手をかける」というのは、「できないことを一つずつ出来るようにしてあげて、親元から離れた時に一人でも生きていけるようにしてあげる」ことなのだという。そして、このことこそが親の仕事であると内田さんは言っている。
古い中国には、こんな言葉があった(宋名臣言行録)。
「寛(かん)なれども、縦(じゅう)に至らず」
「寛」というのは、寛大な心を意味し、「縦」というのは「放縦(ほうじゅう)」、つまり、勝手気ままに放任するということである。
この言葉は帝王学の書(宋名臣言行録)にみられるものだが、人と人との関わりの妙を示す言葉でもある。そして、それは親と子の関わりでもあるかもしれない。
寛大であることと甘やかすことは異なり、それが過ぎて「縦(じゅう)」に至ってしまえば、それは行き過ぎだというのである。
◎しあわせ
子どもが一晩中泣き止まなかったりすれば、「あぁ、うるさい。ちゃんと寝てよ」と思うのが人情。
しかし、それは「最高に幸せ」なことだと助産師の内田さんは言う。とりわけ、死産なども見てきている彼女なれば、なおさらである。
「自分の目の前に子どもがいるという状況を『当たり前』だと思わないで欲しいんです」と内田さんは訴える。
子どもが授かったこと、子どもがまとわりついてくること、それは「当たり前」ではない。これは、当たり前ではない不幸を目の当たりにしてきた内田さんが、心より思うことでもある。
「しあわせ」という日本語は、奈良時代には「為合」という字が当てられていたのだという。これは「天に合わせる」という意味らしい。
時代が下り室町時代になると、それが「仕合」となる。こちらは「人間に合わせる」という意味になる。かつては「天」との関わりが深かった日本人も、人と人との関わりが増えていく中で、人の間に「しあわせ」が生まれるようになったというのである。
「仕合」は「試合」とも同義である。武道などの試合では、相手より先に攻めることを「先の先(せんのせん)」、相手の出方を待って応じることを「後の先(ごのせん)」と言う。
子と親との関係でいえば、「後の先」とは子どものために自らを犠牲とする、つまり、子どもに合わせていくということになるのかもしれない。そして、それが「しあわせ」にも通じていくことになる。そうなるのなら、もはや犠牲は犠牲ではない。
しかし、いつまでも親が「後の先」でいると、それは「甘やかす」、中国の古典では「縦(じゅう)に至る」ということになる。子どもの将来を考えるのであれば、ときには「先の先(せんのせん)」が「しあわせ」に結びつくこともあるということだ。
◎生の反対
「生の反対はなんだと思う?」
その先生は、内田さんに唐突に聞いてきた。
「『死』じゃないですか?」と、内田さんは素直に返す。
待ってましたとばかりの先生。
「僕は『死』じゃないと思うよ」
思わせぶりな先生の次の言葉は、じつに意外なものだった。
「『生まれて来ないこと』だと思う」
「死ぬ」ということは、生まれ出たからこそ生じること。
もし、生まれることがなかったならば、「死」は生じない。
「生まれてきた者にしか、生も死もない。だから、生の反対は『生まれて来ないこと』、『無』なんだ」
そんな先生の話に内田さんは「ストンと腑に落ちた」。
それは、死産の子、流産の子をたくさん見てきたからでもあった。
「生まれるってことは凄いことなんだよ」と、内田さんは強く言う。
それは、すでに生まれてしまった我々にとっては、すっかり忘れてしまっていることでもあり、なかなか実感できないことでもある。
「当たり前のしあわせ」
できれば、それを実感できないのが一番の幸せなのだろう。
ただ、それを完全に忘れてしまった時、それは姿を消してしまうものなのかもしれない…。
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出典:致知2012年12月号
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