その大地は塩辛かった。
海からはだいぶ離れているはずなのに、磯の香りもする。
「こんなとこにまで、あの津波は来たのか…」
東日本大震災の大津波によって壊滅的被害を受けた東北沿岸部の「農地」。ガレキは取り除かれたとはいえども、土壌には大量の「塩分」が残されたままであった。
このありがたくない置き土産を除去するのに「3年はかかる」と国は見積もっていた。
「3年…」、これは生きる術を失ってしまった農家たちにとって、絶望的に長い年月であった。
◎若きビジネスマン
誰もが諦めていたその塩辛い農地に、一人の若いビジネスマンが現れた。
京都でベンチャー企業を成功させた29歳、「西辻一真」さん。京都大学・農学部で農業に関する法律や土壌学を学んだ彼は、耕作放棄地を「体験農園」として生まれ変わらせるビジネスで、年商を2億円近くまで押し上げた。
その彼が、塩害農地を再生させる秘薬を持って現れた。
それは海洋微生物とサンゴを混ぜ合わせた「塩害除去剤」。耕作放棄地となって荒れてしまった土壌を改良するために開発したものだった。
「海の匂いがしますね」とビニールハウスに入った西辻さん。その土をペロリと舐めると、「うわぁー、しょっぱい。塩の結晶が浮いていますね」。
そのビニールハウスの中の塩分濃度は、基準値の10倍にまで達していた。津波でハウスこそは流されなかったものの、深さ1mの海水に浸かってしまっていたのである。
そこで早速、持参した塩害除去剤を撒いていく西辻さん。地元の農家が半信半疑の眼差しで見つめる中、その効果を試す実験が始まった。
◎救世主
塩害除去剤を撒いてから一ヶ月。いよいよ種蒔き。選ばれたのはハツカダイコン(二十日大根)。あえて、塩害に弱いとされる作物を蒔いてみての実験である。
そして種蒔きから6週間後、成長は少し遅れたものの、そのハツカダイコンはキレイなに丸く赤く育っていた。
「津波をかぶった土地でも、作物は実るんだ…」。半信半疑だった農家の人たちも素直に驚いた。そして、そこに希望のタネを見た。
「正直言って、『助かった〜』っていうのが本音。もう、できないと思っていたもの」と農家の人も感謝感謝。
こうして土壌改良の救世主となった西辻さん。
次はトマト、次はキャベツと、被災農地に次々と作物を実らせていき、一躍「時の人」となった。
「被災地の農業を次々と再生させる若きビジネスマン」
メディアはこぞって彼をもてはやした。
◎出会い
そんな西辻さんの成功を伝え聞いたのが、宮城県亘理町のイチゴ農家、齋藤正一さん、66歳。「是非に」と西辻さんを町に呼び寄せた一人である。
京都の若きビジネスマン・西辻一真さん、そして被災農家の齋藤正一さん。この二人の出会いがのちに、失望の農地に希望の片鱗を見せてゆくことになる。
しかし、その道のりは海の塩以上に塩辛かった。
成功者としての西辻さんを散々に打ちのめすことにもなるのである…。
◎疑問
福井県の山間で育ったという西辻一真さんは、幼い頃から畑の野菜づくりに慣れ親しんできたのだという。そして小学生くらいになると、ある疑問を抱くようになる。
「なんで何にも植えられずに放っておかれる畑が、こんなにあるんだろう?」
それは廃れた耕作放棄地への疑問であった。そして、それらの土地は「農業への諦め」に他ならななった。
その諦めに納得のいかなかった西辻さん。農地に関わるややこしい法律や、いかにして土地の力を再生させられるのかについて学びを深めていく。
そして京大卒業後、自らが立ち上がった。「自分で何とかしないといけない!」。そして生まれたのが農業ベンチャー「マイファーム」。その理念は「耕作放棄地の根絶」であった。
そのビジネスモデルは、農家から耕作放棄地を借り受け、土壌を改良したのちに体験農園として一般の人々に貸し出すというもの。これが大当たり。創業からわずか4年で体験農園の数は60を超え、年商は2億円に達する勢いとなった。

もともと農地再生を旗頭に掲げていた西辻さんにとって、津波でやられた農地を復活させることはボランティアの域を超えていた。それは、もはや「使命」であった。
それゆえ、亘理町のイチゴ農家・齋藤さんの頼みを無下にはできない。その頼みを承諾。多忙な自社の業務をほったらかしてでも、東北の地に駆けつけた。
しかしのちに、その大きな代償を支払うことにもなる…。
◎身体一つ
一方のイチゴ農家・齋藤さん。自宅もハウスも真っさらな更地になってしまった大地で、ガレキのゴミ拾い(アルバイト)をして何とか生活を凌いでいた。
「だいたい、ここ全部ハウスだったの」と齋藤さん。地区会長でもあった齋藤さんは、地域24軒のイチゴ農家を束ねる存在で、自らも11棟のビニールハウスを手がけていた。
朝4時から作業を開始して、それが終わるのは夜の10時。それが毎日の日課であり、味が良いと評判のイチゴは1パック2,000円もの高値で取引されていた。
ところがあの日以来、そのすべてが海の彼方へと持ち去られてしまった。
「ほんと、身体一つしか残んなかった。すべて財産がなくなったちゃ。ゼロだからさ…」
そして、毎日のゴミ拾いのアルバイト。しかし、その最後の頼みの綱も、予算不足という理由から、あっさり打ち切られようとしていた…。
◎希望のタネ
期せずして異色のコンビとなった京都の西辻さんと宮城の齋藤さん。大震災がなければ、名も知らぬ顔も知らぬはずだった二人が、二人三脚を始めることとなった。
その手始めとなったのは、塩分除去剤で塩っ気を抜いた後の農地に植えられた「菜の花の種」。
「除塩の菜の花、亘理町『イチゴ生産もう一度』100人で種まき」
新聞にそう報じられた通り、去年の11月、海からの寒風が吹きすさぶ中、全国から集ったボランティアたちによって希望のタネが蒔かれた。サッカーグラウンド18面分という広大、しかし不毛になった農地に…。
「これは小さな種まきかもしれませんが、『10年後の未来』にとっては、本当に大きな種まきだと思います」と言って、西辻さんは参加者たちをねぎらった。
◎イチゴ団地
当然、齋藤さんの亘理町には行政による支援の話もきていた。
それが「亘理町『いちご団地』造成事業」。国の復興予算を使って、震災の翌年には新しく「イチゴ団地」を造る計画だった。当初の話では農家の負担金はゼロ、誰でも参加できるという話であった。
ところが、その旨いはずの話からは、どんどんと旨味が抜けていく。
復興庁の査定によって予算の4分の1がカット。誰でも参加可能というノボリを引き上げざるを得なくなり、農家にも負担が強いられることに…。
参加の条件は「後継者がいること」、そして最低5年は続け、その後は農家が土地をすべて買い取るという厳しい条件が付与された。「いろいろと国のほうの規制がありまして、最初の要望からはズンズンと絞り込んできておりますが…」と、町役場の担当者の立場も苦しい。
残念ながら、被災してすべてを失った農家たちに、この条件は厳しすぎた。震災前に250軒あった亘理町のイチゴ農家のうち、イチゴ団地に参加できたのは99軒。たったの4割程度にとどまることとなった。
多くのイチゴ農家では後継者が失われていた。莫大な設備投資をしてそのローンの支払いが滞るなか、目下の日銭も稼がなければならない状況では致し方ない。小さな子供を抱えた若き後継者たちは、当面の仕事を見つけなければならなかったのだ。
齋藤さんのイチゴ農家は7代続く名門で、息子も8代目となる意欲をもっていた。
しかし、40歳になる息子には養うべき家族もできていた。それゆえ、泣く泣く仙台へと移り、土木会社への就職を決めることとなった。
後継者を失った齋藤さん、イチゴ団地への申請は叶わなかった…。
「そりゃ、やりたいよ。心の片隅ではね。でも、ちょっと諦め加減になっていたんだ…」
◎起死回生の計画
失意と諦めに沈んでいた亘理町の光となった西辻さん。遠く京都の地にあって、懸命にイチゴ農家の生きる道を模索していた。
行政による復興計画には失望したという西辻さん、それでも諦める気はサラサラない。「諦めちゃいけないから、僕たちがいるんです」と心強い。進まない行政を横目に、着々と自らの復興計画を練り上げつつあった。
その計画は、まず農家同士の組合「農事法人」をつくり、初期費用を国の交付金でまかなうというもの。つくる作物は「トマト」。塩害に強く、灌漑設備なしでも栽培できる作物を選んだ(齋藤さんたちの農地では水路などの設備が壊れたまま)。
西辻さんの仕事は、国の支援を取り付けることと、生産する農産物の流通先の確保。この計画の根幹は、「農家の自立を促すこと」であり、自分の会社からは出資しない予定であった。
◎予算確保
しかし、行政の壁は予想以上に重く厚かった。
当初の目論見であった全額支援を受けられるはずの「東日本震災復興交付金」への申請は却下。先約であるイチゴ団地計画が優先される結果となった。
それならば、と申請したのが、半額の助成を受けられる「東日本大震災農業生産対策交付金」。こちらの申請は認められ、当初計画の初期費用1,500万円の半分をまかなう道がついた。
では、残りの半分をどうするか?
それは、あらかじめ決めておいた流通先に「前払い」という形で話を持ちかけた。そして、とりあえずそれは要望という形で受理された。
新たな農事法人に参加を申し出てきた亘理町の農家は、齋藤さんを含め全部で31名。
まずは15ヘクタールにトマトを作付けしてみるということで、西辻さんの考え出したモデルは動き出すことになった。

◎座礁
「半分以上、辞めたから」
それは思わぬ報告であった。組合の発足からわずか一ヶ月で、半分以上の農家が背を向けて去ってしまったというのだ。詳しく話を聞けば、辞めてしまったのは半分どころではない。残っていたのはたったの9人だけだった。
その理由は、西辻さんにも心当たりがあった。国に申請したはずの交付金の決定が先送りにされてしまったため、組合員に今年4月分の給料が払えなかったのだ。
この頃、国内、とくに被災地には国民の不満が渦巻いていた。読売新聞はこう報じている。「復興交付金、厳しい査定に不満続出。宮城、認定57%」。被災地に十分な支援が行き届かないにも関わらず、日本各所の他の地域に復興予算が使われているという問題が浮上していたのだ。
その煽りを食ってしまった西辻さんの組合計画。最初は参加を表明した人々も、こうした世論を聞いて、先行きに希望を失ってしまっていたのだ。たかが1ヶ月の未払い、しかし次の月にそれが支払われる保証などどこにもなかった。
「やむなし」と判断した西辻さんは、会社の金で国の交付金の遅れをカバーすることにした。最初の約束では自社からの出資はナシということだったが、事ここに至りては他に仕様がない。
ひとたび「絶対に逃げません。絶対に何とかしますから」と宣言していた西辻さん。自分の言葉にも背くわけにはいかなかった。
時に、希望のタネであったみんなで蒔いた菜の花は全滅していた。
枯れた原因は、冬季の強い海風。防風林を津波で失っていた土地に、それはあまりにも厳しかった。辛うじて芽を出した菜の花も、巻き上げられた砂の中に埋れてしまっていた…。
◎泣きっ面に…
悪い知らせは続く。
次は、確保していた流通先からの「前払い拒否」の通告だった。実績のない組合に先に金を渡すわけにはいかないというのが、その理由だった。
はたして、西辻さんは初期予算の1,500万円を全額建て替えざるを得なくなってしまった。
資金繰りの失敗は、組合員たちの不信を招くと同時に、京都の自社マイファームからの顰蹙(ひんしゅく)をも買うこととなった。
京都の本社に西辻さんが顔を出しても、スタッフたちは冷淡だ。「1ヶ月前はあんなんじゃなかったんですけど…」と西辻さんは悲しい顔を見せる。
「社長、もういい加減にして下さいよ」と、スタッフたちも呆れるほどに、西辻氏さんが被災地に掛かりっきりになってしまっていたのである。体験農園の数は順調に80にまで増え、いよいよ多忙となっていた。
自社の業務を疎(おろそ)かにする社長、そこに、今回の思わぬ巨額出費である。
そんな逆風のなかにあっても、亘理町の齋藤さんばかりは西辻さんを信じ続けていた。「たとえ一人になっても、オレはやんなきゃいけないから」と齋藤さんは覚悟を語る。
齋藤さんは希望を見せてくれた西辻さんに心底感謝していた。
「オレはさ、トマトやんねがったら、ブラっと何にもやんねがったがもしんね。仕事もなくてさ。テレビばっか見てたがもしんね。でもやっぱり、働くってことはいがったな(良かったな)って思ってさ」
毎朝8時になると決まってトマトの畑に通う生活に生きがいを取り戻していた齋藤さん。丹精込めたそのトマトは、小さな青い実を膨らませ始めていた。
◎曲がり角
ある日のこと、いつものように仙台空港に降り立った西辻さん。しかし、その様子がどうもおかしい。
「大変なことになりました…」と、うつむく西辻さん。組合に緊急会議の招集をかけた。
「じつは僕、マイファームをクビになってしまいました…」
呆れ果てていた創業当時の仲間から、離縁状を突きつけられていたのだ。
「その日は、僕の30歳の誕生日で、結婚記念日でもあって、非常にめでたい日であったはずなんですけれども…。まさか…」
組合設立からわずか4ヶ月。
ついに八方塞がりとなってしまった。
◎オアシス
それでも齋藤さんはトマトの世話を欠かさず続けていた。
「トマトを手がけたんだがら、あくまでも成功しなきゃうまぐねぇど思ってさ。どうなるか、やってみねど。進むべきは進んでいぎだいなと思って」
見渡せば、周りの農地は閑散としたまま、草が生えるのもおぼつかない。そんな荒涼とした中にあって、齋藤さんが欠かさず水をやってきたトマト畑ばかりは、青々とした生気を保っている。
それはカラカラの砂漠の中のオアシスのようであり、希望があふれ出る泉のようでもあった。
被災地の農家の多くは、みな諦めた。3年たっても塩が抜けるとは限らない。そして、西辻さんの組合に最初は賛同した人々も、その多くが今はいない…。
それでも希望を捨てなかったのは西辻さんその人、そして、齋藤さんをはじめとする心ある有志たちであった。
彼らの潤いある心には、ちゃんと見えていたのかもしれない。植えたトマトが赤々と実る姿が…、そして、その先にある甘いイチゴの姿が…。
◎収穫
トマトがいよいよ収穫期を迎えた今年9月。
仙台空港にはふたたび西辻さんの姿が戻ってきた。以前と変わっていたのは、彼の坊主頭だ。心機一転、生まれ変わったような姿になっている。
会社からはスタッフの一員として会社に残ることが許され、月一回だけという約束で、ふたたび齋藤さんたちのサポートを続けることができるようになったのである。
トマト畑には、予想以上にたくさんの人々が手伝いに来ていた。町のイチゴ団地のスタートが延期となっていたため、かつての農家仲間たちも収穫の手伝いに来てくれていたのだ。
道路には何台ものトラック、畑には収穫用のコンテナがそこらここらに多数並べられ、トマト畑は収穫の活況に湧いていた。
「僕も作業入りますよ」と腕まくりする西辻さん。
その坊主頭を見た齋藤さんは帽子を渡す。「頭暑いからさ。帽子ねえどダメかなと思って。もし、あれなどぎ、タオルかぶってな」。
西辻さんは必死になってトマトをもぎ続ける。「僕だけみんなより、少しでもたくさん採らないきゃいけないと切に思ってる人ですから」。
そんな西辻さんの姿に齋藤さんは苦笑い。「そんなちっちゃなトマトまでいらねって。ゴルフボールより大っきいやつしかいらねの。オレが監督してねどな(笑)」。
そんなやり取りに周りのみんなもつられて笑う。
その畑には、かつてあった平和な光景が戻って来ていた。
まわりの農地が黒い土を露呈したままで、イチゴ団地の計画も先延ばしになってしまった今、このトマト畑ばかりがひとり、復興の狼煙を高らかと上げていた。
◎凍み大根
「オレ、大根も考えてたの」と齋藤さんは、西辻さんに話しかける。「冬の寒い時に、ハウスのなかで凍み大根つくって売るのさ。冬の仕事っていうので」
「あぁ、いいですね。しましょっか、凍み大根」と西辻さん。
自分の会社を失いかけても亘理町のサポートを続けてきた西辻さんは、「凍み大根」を切り出してきた齋藤さんの言葉に、成功の一端を感じていた。
西辻さんは悩んでいたのだ。「僕にとって、何がここの成功なんやろ…?」
子どもの頃に感じた耕作放棄地への疑問、それは「諦め」への問いかけであった。
そして、その問いは大津波をかぶってしまった農地を舐めてみたときにも、ふたたび彼に問いかけてきた。「ここで諦めていいのか?」。
人が絶望し諦めるのは、そこに希望の光を見出せなくなったとき。
その諦めの地に、たとえ小さな一灯でも希望を灯すことができれば…。
◎10年後の未来
「凍み大根」の話は、明らかに希望の灯が未来を照らし出した証拠。
今までは作物の栽培さえ考えられていなかった土地にトマトが実ったことで、「次は大根を植えよう」という気持ちを持てるようにまでなったのだ。
「未来の話をしてるなぁ、と思いました」と西辻さん。「まだ何の成果も出ていないですけど、その芽は出てきたのかもしれません」。
何もかもがなくなってしまった畑から生まれた、未来への芽。
まだまだ逆風が冷たい中、いよいよ「10年後の未来」が始まろうとしているのかもしれない…。
「…東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って『こわがらなくてもいい』と言い…
…日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き…
…褒められもせず、苦にもされず…
…そういうものに、私はなりたい(宮澤賢治)」

関連記事:
世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。
風評被害をどう受け止めるのか? 10年後の東北を見据える星野佳路氏とともに。
世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。
出典:ETV特集
「被災農家を救え 若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日」
自分も西辻さんに助けて頂いた一人です。
諦めない勇気をもらいました。
これからもよろしくお願いします。
応援してます。
義母の残した畑で自産自消をしていますが、元々は植木苗木の畑を→畑に変更して3ヶ年経過ましたが中々植物がうまく育つことが出来ず、失敗の連続ですが自産自消ですから農業の本を参考に頑張っています。
何事にも健康が第一です。お体を大切にして下さい。2015.02.07
11:37 篠塚 陸夫