2012年10月21日

もっとも名古屋らしい殿様、徳川宗春。


その名古屋のお殿様は、まさか自分が殿様になるなどとは考えていなかったのかもしれない。

なにせ、彼は長男でもなければ次男でもない。なんと二十男だったのである。それゆえに、若き日々を気ままな遊び人として送ることも許されていたのである。

ところがなんと、兄上たちには次から次へと不幸が襲う。あまたといた彼の兄弟のうちで成人できたのは、彼を含めてたったの5人。あれよあれよと彼はお殿様へとなってしまった。

そのお殿様というのが尾張藩7代藩主「徳川宗春(とくがわ・むねはる)」。宗春以降の名古屋は、彼の気風のままに、ド派手で豪華な路線を突き進むこととなり、それは現代の名古屋にまで通じることになったのだとか…。



◎気ままな二十男



「徳川宗春(とくがわ・むねはる)」が生を受けるのは、元禄文化が華やかなりし真っ最中。しかも天下の名古屋城、御三家筆頭の尾張徳川家のもとである。父(3代藩主・綱誠)は物心もつかぬうちに亡くなってしまうが、跡を継いだ兄(4代藩主・吉通)には相当に可愛がられたようである。

しかしこの後、尾張徳川家は呪われたかのように藩主の死が重なる。そして気がついたら二十男であった宗春にまでお鉢が回ってきてしまっていたというわけだ。

気ままな二十男が一転、責任重大な御三家の筆頭・尾張徳川家を相続することとなったのである(ちなみに、徳川宗家以外で将軍を出せるのは、尾張徳川家か紀州徳川家かに限られていた。そして優先権は尾張にあった)。



こうして、若い頃から遊びに夢中だったという宗春は、35歳にしてまさかまさか、尾張の殿様となってしまった。時は享保年間。お気楽な元禄の世はすでに終わり、江戸時代はじまって以来の「大不況」の真っ只中である。

さあ、尾張の運命やいかに?



◎鮮烈なる登場シーン


藩主になって初めてのお国入り(初入部)、宗春は周囲の心配の通りに、一発目からやらかしてくれる。

カゴにも乗らずに漆黒の馬にまたがった宗春のイデタチといったら、真っ黒づくめの黒装束。ピンポイントに用いた朱色と金がなんとも粋である。さらに、その頭に載せられた唐人笠は、笠の両端がクルリと巻き上がった巨大なものであった。

宗春はその大名行列の事前に、前代未聞のお触れを出していた。普通、殿様の行列といったら、庶民はみんな平グモのように土下座して、絶対に頭を上げてはならぬものであった。ところが、宗春のお触れは「頭を上げて、殿様の顔をよく見ろ」といっていたのである。

宗春はさほどに目立ちたがりやだったのか、それとも、余人には計り知れぬ深い意味があったのか…。





また別の折、墓参りに参詣した宗春。今度は真っ赤な羽織を着て、真っ白な牛にまたがっていた。頭には例の不釣り合いに大きな唐人笠。

そして、その口には、長さ3m以上もあるキセルが…。当然、そんな長いキセルは一人では持てない。キセルの先端はお付きの者が担いでおり、その先からはプッカリプッカリ、紫色の煙である。

口うるさい家老たちの慌てぶりは、如何ほどか?



◎積極財政


宗春はとんでもないバカ殿様だったのか。

いやいや、おそらく彼は名君の一人である。大不況下に行った彼の施策は、現代でも正当化されるものであり、アメリカの得意とするところでもある(後述)。

奇抜なイデタチで世間をアッと言わせた宗春は、「何かが変わる」という予感を名古屋の民に与えようとしていたのかもしれない。



事実、宗春の登場により、名古屋は激変した。

周辺諸国が飢饉に苦しむ中、名古屋ばかりは飢えた領民を出さない。いや、その人口は減るどころか激増した。宗春以前の名古屋の人口はおよそ5万人。それが宗春の時代に2万人も増えているのである(40%増)。

その名古屋の繁栄ぶりは「京(興)も冷める」と言われたほど。つまり、京の都でさえ青ざめるほどだったのである。



いったい、宗春は何をしたのか?

藩のお金を惜しみもなく使って、町の景気をジャカジャカ盛り上げたのである。祭りは派手にやるわ、遊郭は増やすわ、芝居を年に100回もやらせるわ…、名古屋の町では毎日のように花火が打ち上げられていたという。

今で言えば、極端な緩和政策。ケインズに先駆けること200年前。世界恐慌を抜け出す秘策となった公共投資の拡大であった。



◎消えない100両


当然、口うるさい家老は、野放図に藩の金を使う宗春に意見する。なにせ、時は享保の改革が行われている真っ最中、日本全国が質素質素、倹約倹約の時代だったのである。

「幕府から倹約令が出ているというのに…、差し障りがありますまいか?」

すると宗春、逆に家老に問い正す。「倹約せずに使った金はどうなる? たとえば、贅沢三昧して一夜に100両を使ったら、その100両は消えてなくなるのか?」



当然と言わんばかりの家老、「もちろん、無くなりまする」。

ここぞとばかりに宗春、「金が消えてなくなるものか! その100両は遊女屋なり料理屋なりの懐に入る。その金で遊女が箸を買うのなら、その金は小間物屋に回る。その小間物屋は子供に小遣いをやるかもしらん。そうすれば、子供はアメ玉でも買うだろう。アメ玉屋はアメをつくるために米を買う」。

つまり、お金は「消えてなくならない」というのである。天下を巡り巡って、その途上途上で多くの人々の懐を潤していくと言っているのである。



「風が吹けばオケ屋が儲かる」、「どこかでチョウが羽ばたけば、どこかで竜巻が起こる(バタフライ効果)」。この世の中、どこがどう繋がっているかは見えぬものの、必ずどこかで繋がり合っていることだけは確かである。

たとえ、100両をドブに捨てたとしても、それが再び天下の流れに乗ることもあるだろう。要するに、宗春は流通経済論をまくし立てたのであった。そして、ヘリコプターから大金をバラまくために、惜しみなく藩の金庫からカネを引っ張りだしたのであった。



当然、名古屋の庶民は大喜び。

「かかる面白き世」にしてくれた宗春を「仏菩薩の再来」と崇め奉り、ただただ「ありがたし、ありがたし」。

宗春の撒いた甘い水に、周辺の人々が面白がって集まってきたというわけだ。



◎宗春、江戸を驚かす


さて、好景気に沸く名古屋を苦々しく思っている御仁が江戸にいた。ほかならぬ8代将軍「徳川吉宗(とくがわ・よしむね)」、質素倹約令を出した張本人である。

名古屋の宗春は、将軍家のお触れを無視するどころか、真逆のことをやって大成功している。これほどの皮肉もないものだ。スキあらば宗春の足をすくってやろう、と暴れん坊将軍は良からぬことを考え始めていた。



そのスキを宗春が見せたのは、参勤交代で江戸にやって来た、その尾張屋敷でのこと。

例のごとく、宗春は豪奢な振る舞いに出た。嫡子・万五郎の端午の節句を祝うため、何の祭りかと見紛うほどに鯉のぼりから、武者のぼり、吹流しで屋敷中をいっぱいにしたのである。



ここは名古屋ではない。質素倹約の総本山・江戸である。子供のお祝いに金のカブトをつくらせた町人が牢に入れられるほどであり、端午の節句といえども、町はシンと静まり返っていた。

そこに突如として出現した宗春のお祭り屋敷。その派手さにビックリした江戸の庶民たちは、なんだなんだと宗春の屋敷を遠巻きに集まり始める。

その人混みを見た宗春、そんなに遠くで見ていないで入れ入れとばかりに、町のみんなを大名屋敷に招き入れてしまった。中では振舞い酒を出すほどの歓待ぶり。押すな押すなの大盛況である。



以後、江戸にはこんな落書が流行りだす。

「天下、町人に似たり。紀州(紀伊)、乞食に似たり。尾州(尾張)、公方(将軍)に似たり」

天下の将軍・吉宗は「町人」のような暮らしぶりであり、その生まれである紀伊(和歌山)は「乞食」のような暮らしを強いられている。一方、尾張の殿様(宗春)こそが将軍様のようだ、と言うのである。



◎倹約とは何ぞや


暴れ出さんばかりに頭に血がのぼった8代将軍・徳川吉宗。即座に、叱責の使者を尾張屋敷へと遣わす。

眼前に詰問状を突きつけられた宗春、返し矢を放つどころか、「仰せ出されそうろう段、おそれかしこみそうろう…」と平伏して謝罪したのである。



なんとも呆気ない幕切れに、拍子抜けした使者たち。その使者たちを、宗春は別室へと誘う。「ま、お茶でも…」。

すると宗春、別室では人が変わったように、「これからは雑談でござるが…」と切り出しはじめる。謝罪したのは、使者たちの体裁を保つためであり、別室に移ったのは、自分の意見を堂々と述べるためであった。

なるほど、宗春は使者の対面と自分の殿様という立場を十分に配慮していたのである。本音はあくまでも雑談として聞いてくれと…。



いきなり宗春は「そもそも倹約とは何ぞや」と使者たちに問いかける。

宗春の持論は「下を苦しめず、むしろ下を守るために、上のものが慎むことこそ『倹約』」である。



単刀直入に言ってしまえば、将軍・吉宗の倹約令は民衆の暮らしを良くするためというよりは、幕府の貧乏を打開するための策である。幕府は租税率を四公六民(40%)から五公五民(50%)にまで引き上げた。

一方、名古屋は藩の蔵を開けて、「民とともに世を楽しんでいる」。税率も「四ツならし」という定めにより、四公六民を守っている。



さらには藩札と呼ばれる藩の借金札を尾張藩では一切発行していなかった。ところが、将軍・吉宗の実家・紀州藩では藩札を濫発したために、経済が大打撃を被っていた。

何よりかにより、将軍・吉宗の仕切る日本全国が大不況に陥っているではないか! 享保17(1732)年に西国で発生した大飢饉では、200万人が被災、うち1万2,000人が餓死するという大惨事に至っており、江戸では大規模な打ち壊しが巻き起こっていた。



あまりの正論に言葉を失った使者たち。

そして当然、この「雑談」は吉宗公の耳にも届く。しかし、宗春が公式に謝罪してしまっているので、それ以上の追求は叶わなかった…。



◎方向転換


江戸の尾張屋敷の一件が収まると、宗春は名古屋へと帰っていった。

ところが、帰ってきた名古屋城の様子がどこかおかしい。尾張屋敷の一件で、将軍の叱責を被った宗春が公式に謝罪したことにより、その面目が丸潰れだったのだ。そのため、家臣たちは「お家の取り潰し」を恐れていたのである。



もともと、庶民たちには絶大な人気を誇っていた宗春も、城内のお偉方にはたいそうウケが悪かった。というのも、大藩の重臣たちは得てして変化を嫌うもの。保守的な思想に凝り固まっているものであり、宗春のような柔軟性と先進性はそのカケラも持ち合わせていなかった。

さすがに宗春もマズイと思ったのか、以降、極端な緩和政策を180度転換。武士たちに「節度」を求め始める。遊郭遊びを禁止し、博打も禁止したのである(1735)。



はじめ、その禁令は武士だけを対象とし、町人たちは依然自由のままだった。

しかし、その綱紀粛正の波は庶民をも襲い掛かることになる。遊郭は閉鎖、芝居小屋の新設も禁止されていくことになるのである(1736)。



その頃、こんな唄が名古屋で流行りだす。

「キヤキヤするわいの、ウカウカするわいの、ヘカヘカするわいの」

この意味不明の唄は、妙に民心が定まらぬ名古屋の不安を表すものだと言われている。いよいよ、宗春の時代の終わりが近づいていた…。



◎クーデター


このスキに乗じたのが、暴れん坊将軍・吉宗。幕府の老中・松平乗邑(のりむら)は、尾張藩の家老・竹腰志摩守と密談におよぶ。

老中・松平乗邑の脅しはこうだ。「宗春の失脚後、尾張藩主に田安宗武(たやす・むねたけ)を据える」というのである。田安宗武というのは、将軍・吉宗の次男。つまり、尾張徳川家の首を、同じ御三家の紀伊徳川家にすげ替えるぞ、と言うのである。

ひっくり返らんばかりに仰天した竹腰志摩守。尾張藩にはれっきとした後継者がいるというのに、それを差し置いてお家取り潰しとは…。



老中・松平乗邑が示した条件は「宗春の失脚」。

当時の常識として「主は一代、御家は末代」という考え方があった。つまり、主君は代わりがきくが、尾張徳川家が潰れたらそれまで、ということだ。すなわち、竹腰志摩守は主君を裏切るしかなかったのである。



そして、クーデターは起こる。

宗春が江戸に参ったスキに、尾張藩の主な重役たちが「殿が藩主になってから決められたことは全て廃止とする」というお触れを名古屋城下に出したのである。もちろん、宗春には無断で。

名古屋から遠く離れた江戸で、宗春はこの謀反を知った。そして、瞬時に敗北を悟った。「お家騒動」にまで発展したら、お家取り潰しは目に見えていた。宗春は重臣たちの謀りごとを黙認するより他になかったのである。



◎沙汰


すっかり、マナ板の上の鯉となった宗春。いよいよ幕府からの処分が言い渡される。

「隠居の上、謹慎もうしつける」

その正式な沙汰を伝えに来たのは、なんと外様大名(浅野幸長)。恐れ多くも尾張徳川家は御三家の筆頭、その藩主に謹慎を申し付ける使者に外様大名が選ばれるなど前例なきことであった。

さらに、謹慎というのは厳しすぎる。謹慎とは、住む屋敷がそのまま牢屋となり、そこからは一歩たりとも外に出ることは許されない。これまた御三家の殿様に対しては前代未聞であった。



さらにダメ押しが、宗春の跡目である。通常、他から藩主を迎える時は、先代の養子という形をとるもの。ところが、宗春にはそれも許されなかった。一度、尾張を幕府に取り上げられてしまったのである。そして、改めて8代藩主となる徳川宗勝に尾張が下されることとなった。

もちろん、8代藩主となった宗勝は、先代・宗春の子ではない。尾張の支藩である高須藩主であった。



◎終り初もの


あまりの厳しい沙汰、あまりに無礼な処置。

クーデターを起こした尾張の重臣たちも、さすがに激しい衝撃を受けた。まさか、こんなことになって、尾張が恥をかかされるとは思ってもいなかったのだ。

尾張の筆頭家老・成瀬隼人正は泣きじゃくって、沙汰を受けた宗春を待っていた。成瀬は年の頃20歳とまだ若く、筆頭とはいえ、古老たちに踊らされていたところがあったのだ。



ボロボロと涙をこぼす成瀬。上ずる声で宗春に詫びはじめる。

「あり得べからざること…。かくの如き処置は未曾有のことにござりまする…。面目次第もござりませぬ…」

詫びるに詫きれぬ成瀬は、ただただ歯を食いしばるのみ…。



すると、宗春、あっけらかんと一言、

「『終わり初もの』と言うわいな」と呵々大笑。

御三家で前代未聞の初めてのことならば、それはそれで良いではないか、と言うのである(ちなみに「終わり」は「尾張」にかけてある)。



謀反を起こした筆頭家老に対して、洒落で応えた宗春。その粋な言葉を廊下に残したまま、異色の殿様は姿を消していった…。

そして、派手な殿様を失った名古屋は、火が消えたように寂しくなってしまった…。



◎終焉


責任を感じていた成瀬隼人正は、たびたび幕府に恩赦を願い出るも、それは容易に叶わなかった。屋敷に閉じ込められた宗春が初めて屋敷から一歩を踏み出すことができたのは、なんと26年後。先祖の墓参りが許された。

その時の庶民の喜びようといったら…、尾張の人たちは宗春のために一斉に提灯を並び立てた。26年たってなお、庶民の宗春への想いは消えていなかったのである。

それでも宗春の罪は許されたわけではない。謹慎のままに息を引き取り、69年の生涯を終えることとなる。



明和元年(1764)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺に建てられた宗春の墓、その上には無情にも金網が掛けられた。幕府はあくまでも宗春の罪を許さなかったのだ。

宗春を肯定することは、将軍・吉宗を否定することになる。そんな風潮は将軍・吉宗が死してなお、延々と続いていたのであった。



◎憧憬


それでも、宗春の政策であった緩和策はずっと魅力的であり続けた。尾張藩にとっても、幕府にとっても。将軍・吉宗の質素倹約では、どうにも景気は回復しなかったのだ。

少しずつ、少しずつ、幕府は宗春の緩和策へと歩み寄っていく。そして、幕府をはばかっていた尾張藩でもやはり、宗春時代への憧れは強くなるばかりであった。



宗春の罪がついに許されるは、死後75年目(1839)。

尾張藩主に徳川斉荘(なりたか)が就いた時であった。この斉荘(なりたか)は紀伊・田安家の血筋、すなわち、かつて竹腰志摩守が恐れた尾張家乗っ取りが行われてしまったのだ。

さすがに尾張藩士たちも猛然と抗議。慌てた幕府は宗春に従二位権大納言を追贈、その時に墓の金網も外されたとのことである。



◎政治理念


宗春の政治理念を記した書が、現代に遺る。

「温知政要」というその書は、表紙をめくると一面の金箔。派手好きだった宗春の人柄が偲ばれる仕立てである。そして、最初の書かれているのは大書された「慈」の文字、最後には「忍」の文字。民を慈しみ、自らは忍ぶと明記したのである。



「正理に違いて、滅多に省略するばかりでは、慈悲の心薄くなり、覚えず知らず、酷く不仁なる仕方が出でて、諸人はなはだ痛み苦しみ、省略かえって無益費(むえきのついえ)となることあり…」

「省略」というのは、当時の質素倹約の風潮を指すものであり、そればかりでは、人々が慈悲を忘れ、不仁になってしまう。そして、それが過ぎれば、はなはだ無益なこととなってしまう、と宗春は言うのである。



これは当時、将軍・吉宗に対する明らかな宣戦布告と受け取られた。そして、発禁処分とされた。

しかし、庶民たちにはたいそう歓迎された。「元文世説雑録」という書には、当時の様子が記されている。「温知政要の著述、『慈忍』の二字の意味、御覚悟のおもむき、世こぞって『希代の名君』なりと、寄り集まっては評判し…」。

当時は童までが宗春卿が「慈悲者」であることを知り、土民漁夫は「釈尊の再来」、「周公や孔子にも勝る偉人」だと感涙の涙を流したというのであった。



◎尽きぬ魅力


しかし、宗春は時代を先んじすぎた。貨幣経済の行き渡らぬところへお金を蒔いても、それは藩の税収とはならなかった。なぜなら、年貢は現物の米で収められていたからである。

その結果、尾張藩は赤字財政に苦しむこととなる。宗春が施したカネは確かに天下には回ったが、それは藩の金庫に帰っては来なかったのである。



それでも、宗春の業績は色褪せない。

なぜなら、彼こそが名古屋の気風を育てたと万人が認めるからである。



現代の名古屋が「芝居どころ・芸どころ」と言われるのは、宗春が芝居小屋を奨励してくれたからかもしれない。

トヨタなどの世界企業が生まれるのも、宗春が祭りに熱心だったために、山車に乗せるカラクリ人形の技術が異常に発達したからなのかもしれない。

「名古屋の嫁入り道具はトラック3台分」と言われるのは…。



積極財政か、緊縮財政かという2択の問題は、宗春と将軍・吉宗の最大の争点となったわけだが、この2択は現代においても未だ答えが出ていない。世界大恐慌の折は積極財政が功を奏したとはいえ、リーマン・ショック後の世界では思うような効果が得られていない。そのために、今のユーロ圏諸国は、まさに質素倹約にヒタ走っている。

それでは名古屋はどうか?

ここの町は日本屈指の勢いを、今も保っているのではなかったか。それは質素倹約に勤しんだからであったのか。?



◎金のシャチホコ


「天下様でも敵わぬものは、金のシャチホコ、雨ざらし」

名古屋城の天守閣に輝く金のシャチホコは、もともと徳川家康が乗っけたものだった。それは薄い金箔を張ったようなハリボテではなく、分厚い金の延べ板をゴテゴテとくっつけた、いわば金の塊であった(慶長大判1940枚分、純金にして215kg)。そんな巨大な金塊(高さ2.4m)が「雨ざらし」にされていたという事例は、世界広し、歴史長しといえども類例を見ない。

家康は、当時の対抗勢力であった大阪城の豊臣家を威圧するために、名古屋城を大阪城の2倍の巨大さにして、極めつけに天守の上に金のシャチホコを備え付けたのであった。文字通り、大阪方を「しゃっちょこ張らせる」ために。





ところが、宗春が登場して以来、名古屋城の金のシャチホコは軍事的な威嚇ではなく、名古屋「繁栄の象徴」となった。

宗春の理念は金箔のような薄ペッラなものではなく、内側から光を放つ金塊のようだった。江戸の尾張屋敷で堂々とお祭り騒ぎを起こしたのも、国元だけで派手にして、江戸へ来たらネコのように大人しくなるという表裏を嫌ったためでもあった。

尾張の祭りを盛大に行った宗春は、大切な祭り(家康を祭る東照宮祭りなど)を奨励する一方で、人道に反する祭り(国府宮の裸祭厄男など)は禁止した。女子どもなど、社会的弱者を保護したり、死刑を行わなかったり…。

当時の人々が「慈悲者」と宗春を呼んだのは、故なきことではなかった。彼は決して、単なる派手なお祭り男ではなかったのだ。



◎今に…


第二次世界大戦時、アメリカの焼夷弾は名古屋城を炎上させた。

金のシャチホコも、宗春のお墓までも…。



現在の金シャチは復元されたものであるが、金の量は家康時代の半分以下である。

宗春のお墓も2010年、有志たちの手によって修復された。



名古屋の愛し続けた殿様・徳川宗春は、今の世に高く評価されている。気にしなければならなかった将軍は、もういないのだ。

たとえ金網に墓を縛られようと、たとえ焼夷弾で爆撃されようと、変わることのないものは確かに残った。徳川宗春という希代の殿様は、忘れるには「派手」すぎた。



お金を使うということは、お金を誰かに与えることと同じこと。他者には「慈の心」、自らには「忍の心」を持っていた宗春は、必ずお金が返ってくると信じていたのだろう。ただ、その壮大な理想は大きすぎたがゆえに、時間もかかりすぎたようである。

幸いにも、今の名古屋の人々の気風は、豪華主義ではあるものの、堅実性を備え、他者の目を気にするとの世評である。



名古屋という町をつくったのは家康かもしれないが、そこに魂を入れたのは、きっと宗春だったのだろう。

庶民を愛し、庶民から生まれる活力を育ててこそ、町は元気なると信じた殿様、徳川宗春。その想いは、今も名古屋の町に息づいているとのことである。







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出典:
NHK歴史秘話ヒストリア
徳川宗春(佳境編)
posted by 四代目 at 20:41| Comment(1) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。
私は宗春さんの魅力に取り付かれてやまない、田中小百合と申します。
あなた様も宗春様の魅力をとても理解されているようで、ブログに感動しました。
Posted by 田中小百合 at 2014年10月23日 11:25
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