先天性の股関節脱臼。
そのため、その少女は1歳から4歳までを病院の小児病棟で過ごした。物心がついたのも病院のベッドの上。そこが最初の世界であり、すべてであった。
親がその世界に入ってくるのは、ずっと後。それは病院に里心がついてしまわないようにという配慮からだった。
独りぼっちの病院。
股関節がVの字のギプスで固められているため、身動きもままならない。壁から離れるとパタッと倒れてしまうため、壁に立て掛けられたまま。
そんな彼女を、小児病棟のほかの子たちが毎日いじめる。彼女のオヤツを取り上げてしまうのだ。それは一人一人に配られるはずの小さなビニール袋に入った、キャラメルやクッキー。ふつふつと復讐心が…。
幸いにも、その少女の股関節脱臼は生命にかかわるものではない。しかし、彼女をいじめていた他の子供たちは違った。小児ガンなどの重い病に冒されており、ひとり、またひとりと死んでいくのだった…。
「ざまあみろ」
正直、そう思ったと、後の彼女は述懐する。そして、そう思ってしまったことが後の彼女を苦しめることにもなる…。
◎凄腕社長
大人になったその少女の名前は「太田光代(おおた・みつよ)」。
爆笑問題という売れっ子タレントを抱える芸能プロダクションの女社長であり、爆笑問題「太田光(おおた・ひかり)」の妻でもある。20代で社長になって19年、今では芸能事務所のほか、店舗経営(花屋・カフェなど)やネット配信などの6社をマネージメントしている凄腕社長。
もともとはモデルから女優、お笑いまでをこなすタレントだったという光代さん。その人生は、現在の夫である太田光と出会ったことにより急転直下、そして急上昇することとなったのだ。
◎奇縁
その出会いは光代さん24歳の時。同じ事務所・太田プロに所属していたことが、その縁であり、その2年後には結婚していた(1990)。
「ビートたけしの再来」
当時の爆笑問題は、そう褒めそやされていた。ところがある日、調子に乗り過ぎた爆笑問題は所属事務所を飛び出してしまう。
「若気の至りでしょうね。その事務所はたけしさんがいたところだったんで、その再来と売り出していただけなのに…。本人がまんま受け取っちゃったんです。オレは天才だ、と」
光代さんは当時を冷静に振り返る。彼女に言わせれば、太田光は「間違っちゃいがちな人」となる。
事務所を飛び出してしてしまった、自称・天才の爆笑問題にはサッパリ仕事が来なくなってしまった。いわゆる「干された状態」である。
その後、3年ほどまともな仕事がなかったという爆笑問題。太田光は家に籠りきり、
ゲームや読書びたりの毎日。
それでも、妻の光代さんは「まあ、いずれ『何か』やるだろう。いずれ『何か』になるでしょう」と漠然と思っていた。「まあ、一人ぐらい食べさせていけばいいかな」。爆笑問題が干され続けていた3年間は、妻の光代さんが働いてその生活を支えていたとのこと。
◎不安
夫の太田光に関しては楽観していた光代さんであるが、爆笑問題の相方である田中のことは「ものすごく不安」になったという。
田中あっての爆笑問題。太田光が世に出るにしても、その前にあるのが爆笑問題。ここが起動しないことには『何か』が始まらないのだ。
ところが、その田中。バイト先のコンビニで実に活き活きと楽しそうに働いており、店長にならないかと誘われて、まんざらでもなさそうな顔をしている。
「合ってるんですよ。すっかり馴染んでるんです」と光代さん。
もはや田中は、爆笑問題のことなど忘れ、コンビニの店長を夢見ていたのである。
「これではダメだ」
さすがに光代さんも焦った。いくら爆笑問題に才能があったとしても、彼らは「スタートする方法」をまったく知らなかったのだ。
「だったら、もうしょうがないから、私がやるわ」
◎見切り発車
自分の住んでいた狭いアパートに電話を一本引いて、そこを事務所とした光代さん。経営の知識もなければ、OLの経験すらない。
「社長なんかできるか分からなかったし、どうやって会社を立ち上げていいかも分からない」
そんな「ないない尽くし」でも光代さんが思い切って立ち上がったのは、鳴かず飛ばずであった爆笑問題が、得意のネタで「NHK新人演芸大賞」を受賞したからだった(1993)。
「今しかない!」
そんな光代さんの直感を、夫の太田光は「動物的なカン」と表現する。相方の田中に言わせれば、「王(貞治)か長嶋(茂雄)かでいえば、長嶋かな」ということになる。
◎天職
「(光代さんは)行動力がすごい」
これは爆笑問題の2人とも認めるところである。
「考え過ぎちゃってる人って、すごく遅れたり、できなかったり、やんなかったりするじゃないですか。でも(光代さんは)行動も早いんです」と田中。
確かに、光代さんは「考え過ぎる人」であった。勉強は嫌いだったというが、考えることが好きだった。
「すごく、物事をいっぱい考えちゃうんですよ。ああでもない、こうでもないって。それが子供の頃、すごくストレスでした」と語る光代さん。
彼女にタレントを始めたのは、タレントがアイディアを考え出す仕事と考えたためだった。役作り、役どころ…。しかし、それでも考え過ぎて、噛み合わないところもあり、それがモヤモヤとなっていた。
ところが、社長業というのは、まさに「考えること」こそが仕事だった。社長はずっと考えていることが許された。そして、考え過ぎるということがなかった。モヤモヤもなく、どこまでもクリアーだ。
「私、これ向いてるわ。天職だ…」
そう光代さんは感じていた。社長になってたった一週間で。
光代さんがそう言うのを聞いた太田光はからかった。「一週間で何が分かったの?」。そう言って笑っていたという。
◎単独ライブ
その後、光代さんの考えること、ああすればいい、こうすればいいと考えること全てが、スパスパと気持ちの良いほどにハマっていく。「なんか、浮かんじゃうんですよ」というアイディアは、次から次へと湧いて出る。
そのアイディアの一つが、爆笑問題による「単独ライブ」。いちいち一つ一つの仕事を何重にも人と会って決めていくのは、じつに非効率。一度にたくさんの人を一カ所に集めて、一気に爆笑問題を売り込もうという大作戦である。幸い、爆笑問題のネタには定評があった。
ところが、このアイディアに当の爆笑問題は猛反発。「ライブはやりたくない、テレビに出たい」と駄々をこねる。光代さんはテレビの仕事が取れないから、ライブを提案したにも関わらず、「ライブは意味ない」と爆笑問題は大反対したのである。
「やれっつたら、やれ!」
渋る2人を一喝したという光代さん。ついに単独ライブを決行。凄まじいまでの行動力を見せつけた。
この作戦を考え抜いていた光代さんは、その事前の準備にも抜かりはない。この単独ライブのために送ったDMは、なんと4,000通。それを全て一人でこなしていた。その宛先はといえば「カン」だったという光代さん。そのカンも大当たり。
「ライブ後、一気に決まりました。レギュラー5本」
こうしてついに、太田光は「何か」になる糸口を掴んだのであった。
◎あれよあれよ
小さなアパートの一室からスタートした事務所「タイタン」は、いまや杉並区の阿佐ヶ谷のビル一つを埋め尽くすまでに成長。ほんの数年であれよあれよと、そこまでたどり着いてしまったのだという。
「30代での記憶っていうのがほとんどないんです。気がついたら40過ぎてた。42ぐらいだったかな」
光代さんが社長業に乗り出したのは29歳の時。それから10年以上は、まっしぐらだったということだ。「若い時期を全部つぶしてやってくれた」と夫の太田光。
現在の爆笑問題の活躍はご存知の通り。
テレビは週に12本、ラジオも2本のレギュラー番組を抱え、テレビで見ない日はないほどだ。
◎夫・太田光
太田光は「本」も書く。その中でも、今まで書いた「文明の子」と「マボロシの鳥」はベストセラーになった。じつはこの2冊、太田光が光代さんと約束した映画の脚本になるはずだった。どうして、それが小説に?
「怖くなっちゃったんですね、期待度が高すぎて」
光代さんが分析するには、太田光は「今を崩すのが怖い人」。ひと一倍、人の目を気にして、新たなチャレンジに二の足を踏んでしまうのだという。だから、すぐ逃げてしまう。そして、「反抗」してくる。
「すごく私のことをネタにしていた時期があって…。ダメージを与えようとしていたんでしょうね、私に。最初のうちは悪意を感じましたからね。あぁ、反撃してたんだなって。反抗期ですよ、子供の」
太田光の作戦通り、光代さんは「すっげー怖い人」というイメージが世間に印象づけられた。「お酒を飲むとスゴイ」とか…。
それでも光代さんは、「人にどう思われようが、何を言われても、私はあんまり気にしないです」と淡々。
そんな光代さんを、太田光は「織田信長」、田中は「酒」と評する(酔っ払ってお風呂で溺れかけてという前科があるため、それ以来、風呂の栓は太田光が持ち歩くようになったともいう)。
◎十字架
現在48歳となっている太田光代さん。その波乱の人生にあっても、小児病棟時代の経験が「一番つらかった」と語る。
楽しみにしていたお菓子を、イジメっ子たちに毎日取り上げられた日々。そして、そこ子たちの死を「ざまあみろ」と思っていた自分…。
「子供の時に、お菓子がもらえない感じって、もうね…、ほんとにね…、何ですかね…。何が辛かったって、あの時が一番辛かったですよ、今までの人生で。毎日毎日なんか…」
彼女がそんな自分に苦しみだすのは、小学校の後半くらいから。
遠く離れて振り返ってみると、小児病棟でお菓子を取り上げられたことくらい、「大したことではないな」と思えるようになっていた。今の自分はおいしいお菓子をいっぱい食べられるし、もっと楽しいこともいっぱいある。
でも、不幸にも死んでいったあの子たちは、もうお菓子が食べられない…。それ以来、光代さんは亡くなった子供たちの分の人生まで、自分が背負っているような気持ちになっていったという。
一時は、土下座までして爆笑問題を売り込んだという光代さん。彼女が凄腕社長として名前を轟かせているのも、その背負うものの大きさからなのかもしれない。
爆笑問題が世の中に笑いを提供できているのは、ほかならぬ彼女の背中の上である。
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出典:NHK仕事学のすすめ「社長力ってなんだ」太田光代

