2012年10月07日

動かぬ子供の心が動いたとき…。「紙芝居」先生、平光雄


「紙芝居」を使う名物教師。

その最初の一枚は、まっ白い画用紙の真ん中に「小さな赤い丸」が一つ。その赤丸の中には内側へと向かう矢印が何本か書かれている。

その絵を見た小学生たちは、「ウメボシだ!」と一斉に声を上げた。確かに、それはウメボシ弁当である。


umeboshi.jpg


紙芝居の先生には、ウメボシを書いたつもりはなかった。ただ、気持ちが自分ばかりに向かっている心の状態をイメージ化したものだった。

それでも、子供たちがウメボシと言うなら、ウメボシでいい。他人に気を向けない自分勝手で小さな人間を「ウメボシマン」と呼ぶことにしよう。



「それ以来、自分勝手な行動をとる子供に『あいつはウメボシマン』だと言うだけで、大事な価値観を教えることができるようになりました」とその先生は語る。

「考えてみて下さい。同じことを子供に伝えようとして、『こら、自分のことばかり考えて行動するな』と説教臭く言うのと、『ウメボシマンはダメだぞ』と言うのとでは、だいぶ違うでしょう」

お説教には耳をふさぐ子供たちも、ウメボシマンと言われると思わず笑って受け入れてしまうのだという。



◎言葉の節約


その教師の名は、「平光雄(たいら・みつお)」氏。愛知県で小学校の先生を務めて、今年で30年目となるベテラン教師である。

彼にとって「学級崩壊」という言葉は無縁に等しい。学級崩壊が起こるのは、教師に「サービス精神」が欠如していることに一つの原因があるという平先生。

「たとえば、子供たちに何かを教えるときに、『少しでも分かりやすく』伝えるために、『ちょっとした工夫を加える』ということをせずに、あたかも事務連絡のように済ましてしまう教師がいます。すると、子供たちの心は教師から離れていき、クラスの統率力は失われてしまうのです」



彼が教師として常に心がけるのは、「言葉の節約」ということである。

「これはムダ話をしないという意味ではありません。子供たちを前にして話が長くなると、子供たちはすぐに疲れてしまうのです」

しゃべる方も疲れるが、聞く方はもっと疲れる。しゃべるのは肉体的な疲れに過ぎないが、聞くのは「精神的な重労働」なのだと彼は言う。

「それをダラダラと話していたら、いくら正しいことでも、本当に伝えたいことが伝わらなくなってしまいます」



そこで登場するのが冒頭の「紙芝居」。

シンプルな絵を使って、子供たちにイメージさせることにより、言葉を「節約」するのである。

まさに「百聞は一見にしかず」の実践版だ。



◎変わりたい子供たち


平先生がこうした手法に行き着いたのは、自身が学級崩壊のクラスを任されたことがあったからだ。そのクラスは、「先生の話を聞かないという空気」が完全にできあがっていたという。

はて、どうする?

その深い悩みの中で、彼は一つの事実に気がつく。それは、「どんな子供の心の中にも、『変わりたい』という気持ちが必ずある」ということであった。



では、その気持ちを引き出すのには、何が必要か?

そのクラスを注意深く見ていると、ある「欠けているもの」に気がついた。それは「みんながドッと湧き上がる笑い」だった。

学級崩壊したクラスからは、いやらしい笑い声や冷めた嘲笑しか聞こえてこなかったのだ。そんな湿った笑い声ではなく、彼らには「カラッと乾いた笑い声」が必要だと平先生は考えた。



◎笑い


子供たちをドッと笑わせようと、一生懸命に笑い話をするようになった平先生。ちょっと下品なものや、ナンセンスなもの、子供たちがどんな話を面白がるのだろうと、そのツボを模索していった。メルヘンからヤクザまで…。

「キティちゃんの目は、これくらいのバランスじゃないと、可愛くないぞ」

すると次第に子供たちがドッと笑うようにもなってくる。その時、平先生は初めて「教室の空気が動いた」と感じたという。



教室の空気を動かすことを、彼は「初動」と呼ぶ。

たとえ学級崩壊してしまっているクラスであれ、その空気を動かすことができれば、良い方向に転がしていく道も見えてくる。

いかにして、海底に付着してしまったような子供たちの心を動かすことができるのか。それが平先生の求める「初動教育」なのだという。



その根底にあるのは、「子供たちは変わりたがっている」という事実である。

変わりたいのに変われない子供たち。そんなやるせない現実が、子供たちを苦しめていることも少なくないのであった。

ワッと笑えば、フッと心は軽くなる。そこに平先生はサッと救いの手を差し伸べる。もっともっと楽しいことがある場所へと誘うために。



◎ルール


動き出したクラスを導いていくには、「ルール」も必要となってくる。

そのルールは、教師の感情に左右されるものであってはならない。怒る、叱るにも理性的で明確なラインが必要なのである。何が叱られ、何が褒められるのか? その一線に感情の波があると、子供たちは再び海底へと潜っていってしまうのだ。



そのラインは「単純明快であること」。それがポイントだと平先生は言う。

「たとえば、一生懸命に頑張って失敗したことは絶対に叱らない。その代わり、人をバカにした時は絶対に許さない」

子供たちを戸惑わせないように、安心感を与えること。それがルールづくりの最大の目的となる。そのために、昨日と今日のラインはいつも同じ所に引かれている必要があり、そのラインは誰の眼にもハッキリ見えることが大切なのである。



そのルールが明確である時、子供たちは「失敗したらどうしよう」とか、「こんなことをしたらみんなに笑われるかもしれない」という不安から開放される。

失敗してもみんなが笑わないことが「分かっている」時、彼らは生き生きと積極的に動き出すのだ。そんな流れができ出すともう、用心深く海底にへばりついている必要もなくなってしまう。



◎百転び一起き


平先生が、そこまで親身になって子供たちのことを想うのは、自身が「挫折つづき」の人生を送ってきたからだと、彼は言う。

大学に入るのにも三浪したという彼は、「七転び八起きどころではありません。転ぶことの連続で、容易に起き上がることもできませんでした。何度も何度も転んでも、それでも、土俵から降りずに踏みとどまったから、教師にもなれたのです。教師になってからも、壁にはぶつかりっぱなしでした」と過去を振り返る。



そんな平先生は、子供たちに求められた色紙にこう大書した。

「百転び一起き」

この言葉には、「一念さえあれば、百回転んでも大丈夫だ」との自身の信念が込められている。



子供たちが「腐ってしまう」のは、物事がうまくいかなくなった時。

そこで踏み留まれば、その先にはもっと面白いことがあるかもしれない。時には「楽しくないこと」に耐える力も必要なのである。



平先生はそのことを得意の「紙芝居」で示す。クネクネと曲がりくねりながらも、上へ向かっていく一本の線。その先にはなぜか「ビール」が待っている。

これはスポーツ選手にはお馴染みの、プラトー(高原現象)をイメージした図でもある。どんなトップ選手にでも、必ずスランプはあり、技術が伸び悩むことがある。それは決して面白いことではない。それでも続けられるスポーツ選手だけが、もっと面白いことにたどり着けるのだ。

「百回転んだって、いいじゃないか」


beer.jpg



◎未来へ


今の平先生のクラスには「学級崩壊をしているヒマがない」。

それほど、子供たちは楽しむことに忙しいのだ。



彼が明確に意識するのは、教師が統率力を保つことと、子供たちが面白くないことにも耐えることである。

そのための「紙芝居」であり、そのための「ルール」である。



「変わりたい」と思う子供たち。

彼らがカラッと笑える時、きっと何かが動き出している。



平先生も、初めて学級崩壊のクラスの笑い声を聞いた時、「なんだ、この子たちはこんなに笑えるんじゃないか」と驚いたという。

きっと、日本の子供たちはもっともっと「笑える」のだろう。

彼らは「ウメボシマン」になりたいわけではないのだろう。


heart.jpg







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出典:致知2012年11月号
「子供が蘇る授業 教育は初動にあり 平光雄」
posted by 四代目 at 06:49| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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