2012年10月05日

世界の見た歴史の中の日本人。その静かなる柔和さ。


2011年3月11日、かの大震災に遭って、なぜ日本人が「平静と秩序」を保ち得たのか?

世界の常識では、大災害は「暴動と略奪」に直結するはず。中国の唐山大地震(1976)、アメリカのサンフランシスコ大地震(1989)、ロサンゼルス大地震(1994)…。そこには必ずそれらがあった。



「なぜ、日本の災害では、略奪が起きないのか(アメリカ・CNN)?」

それが外国人たちの頭を困惑させ、議論を巻き起こした。

「日本人はなぜ、こんなに冷静なのか(中国・新京報)?」



そして、とりあえず賛辞を送るより他になかった。

「他国では、日本人ほど正しい行動は取れないであろう(イギリス・BBC)」



◎数千年の気質


むしろ、東日本大震災を受けて必要以上のパニックに陥ったのは、日本人以外の人々。

日本から我先に脱出を計った外国人たち、塩が放射能に効くとのことで極端な買い占めに走った中国人たち、日本全体が放射能に汚染されてしまったと思い込んだ人たち、日本列島が津波で沈没してしまったと流言飛語を流した人たち…。



そうした周辺の騒動をヨソに、当の日本人たちは自分たちの運命を粛々と受け入れていた。

こうした日本人の気質は、いつ頃からこの国民たちに宿ったのであろうか?

「数千年前から、さほど変わっていない」と、黄文雄氏は歴史を振り返りながら述べる。「日本人には、日本の風土に培われた強さがある。それが日本人の底力でもある」



◎災害の果ての日本人


「私がどうしても滅びて欲しくない一つの民族がある。それが日本人だ」

こう言ったのは、足かけ7年間、駐日フランス大使を務めた「ポール・クローデル」。能や歌舞伎、さらには水墨画や花鳥画などを愛した文化人であり、詩人である。時は1943年、日本の敗戦色が濃厚となってきた時のことだった。

彼の言葉はこう続く。「あれほど古い文明をそのまま今に伝えている民族は他にはない。彼らは貧しい。しかし、高貴である」



彼が日本人の気質に感嘆したのは、関東大震災(1923)の時が最初だった。

「廃墟の下に埋もれた犠牲者たちでさえ、『助けてくれっ!』といった差し迫った叫び声をあげなかった。ただ、『お願いします…』という慎ましい懇願の声だった。震災当日の夜の野営地でも、不平一つ聞くことはなかった(朝日の中の黒い鳥)」





幕末に日本を訪れたアメリカのペリー提督も同様、安政南海大地震(1854)に遭った日本人の対応に驚いている。

「彼らは落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事に取り掛かり、意気阻喪することもほとんどないようであった(ペルリ提督日本遠征記)」

さらに、同じ幕末に横浜大火に遭遇したエドゥアルド・スエンソンも、「日本人はいつに変わらぬ陽気さやノンキさを保っていた。いつまでを不幸を嘆いて時間をムダにしたりはしなかった。持ち物をすべてを失ったにも関わらずにである(江戸幕末滞在記)」





日本という未知の異国に住んでいた日本人という民族は、よほど彼らの目には奇異に写ったらしい。こうした記録は数多く残っている。

こうした記録を見るにつけ、日本人の気質というのは、やはり根深いものであることがうかがえる。確かに、幕末から関東大震災、そして東日本大震災と、何か目には見えない一貫したものを感じざるを得ない。



◎日本人の胸中


運命を運命として受け入れる柔軟な心をもった日本人。こうした気質を持つのは、それ歴史が苦難続きの悲しいものであったからなのかもしれない。日本人は自分たちの苦労をおいそれと表に出そうとしない。むしろ、相手に心配させるのが悪いことでもあるかのように、自分の心の内だけに仕舞っておこうとする。

「ヨーロッパ人とは異なり、日本人は相手に不愉快なことを言うべきではないと心に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。苦悩をあたうる限り胸中にしまっておくのである。自らの苦労については一言も触れず、少しも気にかけていないかのような態度で、あとは一笑に付してしまうだけである」

この記述は、イタリアの外国人宣教師アリッサンドロ・ヴァリニャーノの「日本巡察記」にあるものである。まさか、これが370年前の戦国時代の日本人であるとは、言われるまで気づかない。それほどに、ここに描かれた日本人像は今のわれわれが持つもの酷似している。






◎日本人の平和観


戦争という大人災に遭っても、日本人の心は他国の人々とは異なるようである。

時は明治維新以来の大国難、超大国ロシアとの日露戦争。日本という小国は風前の灯火のようであった。「皇国の興廃、この一戦にあり」。それでも、日本人は日本人であり続けた。その様子はドイツ人医師・ベルツの日記の中に見られる。

「どうもロシアの攻撃的な調子から見て、日本の態度はあまりに控えめすぎではないどうか、と述べたところ、氏(伊東巳代治)の曰く、『さよう、まあ考えてご覧なさい。我々にとって一番肝心な点は、その忍耐と抑制により、我々日本人が平和を願っており、戦争を求めているものではない、という事実を列強に示すことなのです』

世界でも特異な存在である日本民族は、その戦争と平和のとらえ方からして異なるようだ。欧米人が矛盾を感じるようなことでも、日本人は平気で受け入れてきたようである。あたかも、水と油のごとき戦争と平和が共存しているかのように…。「武」という文字の概念は、「戈」と「止」の融合であり、「戈(ほこ)」は戦い、「止(とめる)」は平和を意味する。この一字に、日本人の願いが込められているのであろう。






◎哀れみ


そしてロシアとの戦争は佳境に入り、ついに日本海沖で世界最強と言われたバルチック艦隊と激突する。それでも、日本人は日本人のままだった。

「日本人がその歴史の上で重大なこの危機に際して、落ち着き払っているのには、どの外国人も皆感心している」とベルツは記す。



結果的にロシアに勝利した日本人は、敗者となったロシア人にむしろ同情した。戦勝に浮かれるどころか「極めて静粛」で、「むしろ憐れな捕虜の連中に、すっかり同情しているような態度であった」とベルツ医師はその印象を語っている。

日本に根強い「判官びいき」。敗者となった源義経に対する同情と同様、その憐憫の情は浅からぬものがある。これも日本人の運命の受け入れ方の特徴であるのだろう。「勝敗は兵家の常」、勝つも負けるも抗いがたい運命と思い極めているところがある。



◎負けて静かに…


幸いにも日本はロシアに勝ったが、不幸にもアメリカには負けた。第二次世界大戦の敗戦後、台湾にいた日本人60万人は日本へと帰国の途につく。その様を、林茂生は歌に詠んでいる。

「天を恨まず、地に嘆かず、黙々として整々と去る。日本人、恐るべし」

彼が「日本人、恐るべし」と表現したのは、敗戦という屈辱的かつ過酷な運命に際しても、日本人たちがパニックに陥らずに粛々と引き揚げていったことに強い衝撃を受けたからであった。台湾にいた日本人たちは、半世紀にわたり台湾で築き上げてきた全財産を中国に接収されたにも関わらず、粛々としていたのだ。

その引き際の美しさもさることながら、その運命の受け入れ方は、台湾人・林茂生の常識を超えていたのである。



「彼らの、物事を当然のこととして受け入れる態度は、西洋人も見習うべきではないかと思う」

こちらはエセル・ハワードの「明治日本見聞録」にある言葉である。彼は薩摩藩・島津家の家庭教師を務めた人物であった。

「この平静さは日本人の特徴であって、一部は生来の気質からくるものであり、一部は訓練によるものである」






◎窃盗せず


「邪馬台国」というのは、1800年ほど前の日本にあった国家とされるが、そこに見られる日本人もまた、すでに日本人である。「盗窃せず、争訟少なし」とは中国の魏志倭人伝にある言葉である。

時は下り、聖徳太子の時代にも似たような記述が中国の史書に見られる。「人、すこぶる恬静にして、訴訟まれに、盗賊少なし(物静かで争わず、盗人も少ない)」、「性質、直にして雅風あり(性格は素直で、上品なところがある)」。これらは隋書・東夷伝から。



いずれの時代も、中国は大国であり、東の端の日本は野蛮な民族とみなされていたわけだが、そうした先入観の中にあっても、中国にこのような記述が残されているのは特筆に値する。つまり、よほどのことだったのである。

当の大国・中国はといえば、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」という状態である。それなのに、蛮族であるはずの日本という国には「盗みがない」。これはやはり、記しておかねばならぬほどの稀有のことであったのだ。



◎極度に嫌われる盗み


いつの時代にあっても、日本における「盗みの少なさ」は外国人を驚かせる。戦国の時代ですらそうである。宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本人は「盗みを極度に嫌う」と本国に報告している。

「盗みは厳しく罰せられる。これは人のものを欲することが、人間として最大の悪だと認識されていたためである」とザビエルは解釈している。



戦国の世が終わり、江戸の泰平が訪れた時代などは尚更だ。「日本全国の旅行はきわめて安全なり。大道に賊なく、窃盗のごときも稀なり」と「欧米人の日本人観」には記されている。

「正直と忠実は、国中に見られる。この国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。ヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」とスウェーデンのカール・チュンベリー。



そういえば、今時の日本人はiPhoneで席取りをしても、そのiPhoneが盗まれないことに外国人が驚いたという話も聞いたことがある。また、日本では普通に設置されているという自動販売機も驚きの対象だ。国によっては、またたくまに壊され、中のカネを抜き取られてしまうというのだから。

なるほど、近年の東日本大震災においても、日本に「火事場ドロボウ」が他国に比べて少なかったという事実は、この国の歴史がいかに一貫性のあるものであるかを裏付ける証左でもあるのだろう。



◎アジアでの稀有の存在


こうした日本人の安全性は「国民の誇り高い性格の中に主として存在している」とドイツのリュードルフは考えた。彼は開国直後の日本を訪れた外国人である。つまり、厳しい法によって縛られているのではなく、むしろ国民が自発的に道徳的に振る舞っていると感じたのだ。

「日本人は嘘をついたり、物を強奪することに嫌悪感を持っている。この点において、日本人は中国人と著しく異なっている」と彼は続ける。



当時の東アジア社会は、「水滸伝の梁山泊さながら」の世界、つまり、匪賊が跋扈する時代であったという。

朝鮮半島では、火賊、草賊が暗躍し、満州でも馬賊が幅をきかせていた。台湾は「三年一小反、五年一大乱(三年に一度は反乱、五年に一度は大乱)」であった。

中国も言わずもがな、この国は易姓革命が正当化されているため、前政権を滅ぼすのはむしろ天命とされた。そのため、社会に「車匪路覇(路上に巣食う強盗)」が蔓延るのが常であったという。それは現在においても、そうなのだそうだ。






◎不屈の反発力


一説によれば、「全地球の10%のエネルギーと20%の天災が日本に集中している」ともいう。これらの数字に信憑性はどうあれ、日本に災害が多いのは昔も今も変わっていない。この国は昔から火山と地震の国なのだ。

日本民族が滅びて欲しくないと切に願ったフランスのポール・クローデルも、日本は「地球上の他のどの地域よりも危険な国である」と書き残している。その最も危険な国土に暮らし続けた日本人の歴史は、それら続発する大災害への対応・対処の歴史でもあったのだろう。



大災害によって、何度も何度も住み家を打ち壊されてきた日本人の「反発力」はまた、他国の人々を驚かせてきた。

「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場では、1,000戸以上の仮家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいるではないか!」。1万戸が消失した東京大火(1876)を目撃したドイツ人医師・ベルツは、その驚嘆を日記にそう記している。

また、エリザ・R・シドモアの見た復興はもっと早い。「焦土と化したばかりの場所に日本家屋が建て直されるスピードは比類がない。大火のあと12時間のうちに、小さな店の主人は元の場所で商売を再開してしまうのだ!」

こうした不屈の反発力を、黒船のペリー提督は「日本人の特性」と呼んでいる。



◎もののあわれ


自らの国が自然災害の巣である日本人は、他国の災害も決して他人事ではない。

1999年、台湾中部大地震が襲った時に、真っ先に駆けつけたのは日本の救援隊だったという。台湾の人々は、日本救援隊の昼夜を問わぬ救助活動に驚いたというが、何よりも感動したのは、「死」に対する敬意であったという。運悪く助からなかった遺体の前で整列し、頭を垂れる日本人たち。死者を悼む日本の風習は、じつに深いものであった。

その救援隊が台湾を去る時、空港に集った台湾人たちは全員総立ち、そして深々と最敬礼。その目は感涙にあふれていたという…。これらの行動は、台湾人たちにとっては全く例外的なものであり、日本人の敬意に触れた台湾人たちが、さらなる敬意でそれに応えた現れだったとのことである。

東日本大震災を受けた日本に台湾から多額の援助が贈られてきたことは、このことと無縁ではないのだろう。



災害に遭った人々を懸命に救助しようとする気質もまた、日本人の心に深く根差したものである。たとえ「村八分」にされた者でさえ、火事の時と葬儀の時ばかりは話が別だったという。そして、それは歴史的に国境という垣根をも超えたものである。

トルコ人が海難事故を起こしたエルトゥールル号、明治時代初期の出来事の際、その通報を受けた近くの海岸の村民たちは、総出で救助と介抱に当たったという。自らの食糧の蓄えも乏しいというのに、非常用のニワトリまで差し出したという村民たち。それを聞いた明治天皇も、可能な限りの援助を行うよう支持し、生存者たちは故郷トルコまで送迎されることにもなる。

トルコの恩返しは時を超えて、イラン・イラク戦争の時に返される。戦地で取り残された日本人200名以上を救出してくれたのは、危険を顧みぬトルコの航空機であった。





他国人の不幸を憐れみ、同情する日本人。

「もののあわれ」の心はいつの時代にも、日本人を突き動かしてきたのである。

そして、「情けは人のためならず」、思わぬ時に自らも助けられてきたのである。



◎柔和な教育


エセル・ハワードは、日本人の気質は「一部は訓練によるものである」と言ったが、その一端はカロンの「日本大王国志」にも見受けられる。カロンは江戸の鎖国前後を見た外国人である。彼は日本人の子供の教育に着目した。

「日本人は子供を注意深く、また柔和に養育する。たとえ終夜やかましく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決してない」

日本人は辛抱強く待ち続けるというのである。子供の理解力が発達するのを。子供たちが分かるようになるまでは、「辛抱と柔和」とをもって宥(なだ)めるというのである。

「柔和と良教育とをもって誘導せねばならぬ、というのが彼らの解釈である」



日本の社会では、大人がその背中をもって、その生き様を示していたのだという。それゆえ、子供たちも自制することを覚えるようになる。そのため、「打って教え込む必要はなかった」とカロンは記す。

カロン自身、「日本人は忠実にして信頼するに足る」と、本国オランダで激賞していたとも。






◎日本人像


他人の目を気にする日本人は、世界で孤立することを恐れ、いつも「ふつう」であろうとしていたのかもしれない。しかし、その歴史と民族性はどうしても「ふつう」とは言い難い。

静かで控えめであり、災難にあっては自分の身よりも他人の身を心にかけ、落胆しすぎることなくまた立ち上がろうとする。もし、人智を尽くしても及ばぬことあらば、敬意をもってそれを受け入れる…。

はからずも、こうした日本人像が東日本大震災に際して、日本人自らの身から出てきたのである。ひょっとしたら、それは自分自身も忘れていた想いだったのかもしれない。それでも、2000年を超える永き歴史の中で、こうした気質はずっとずっと育まれ続けてきていたのだ。それを美徳として…、時に遭っては実践しながら…。



自然に対する「諦観(あきらめ)」はいつしか「達観」となり、それは人災の最たる戦争においてすらそうなっていった。

「武力なくして、いかにして国を守るのか?」というのは、世界の当然の問いである。しかし、その武力が戦争を抑止する一方で、その武力があるからこそ戦争が引き起こされるという矛盾も、この問いには含まれている。そして、この矛盾は自らの尻尾を追いかける犬のように終わりのないものである。

もし、その敵意が他者のものではなく、自分の尻尾だったとしたら…、自らの所業が鏡に写し出されたものだったとしたら…。日本の平家物語はそんなことを語っている。



「日本人はなぜ、世界から尊敬され続けるか」というのは黄文雄氏の問いである。

その理想的な日本人というものを鏡に写した時、そこに写る姿には、みな襟を正さずにはいられない。それは外国人に限らず、日本人としてもそうであり、その姿に思わず頭が垂れるのである。そんな時にはじめて、「武」という力が「戈(ほこ)」を止められるのかもしれない。

波風に揺れぬ水面のように、静かに静かに…。大石が投げ込まれても、水面が収まるのを辛抱強く待ちながら…。







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出典:日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか

posted by 四代目 at 06:45| Comment(0) | 災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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