2012年09月24日
欧州の民主国家に芽生えた「独裁のタネ」
「ヨーロッパは、民主主義を『生け贄』に出しはじめた」
光の見えないユーロ金融危機を何とかしようともがいていた「ECB(欧州中央銀行)」。その総裁のマリオ・ドラギ氏は、ユーロ救済のためなら「何でもやる。信じてくれ」と訴えていた。
その「何でもやる」との約束を形にしたのが、今回のECBによる国債「無制限」購入という特効薬だった。
投資家のジョージ・ソロスは、ECBによるこの決断を「過去にない、強力な一手」と誉め讃えた。しかし、この一手は危険な禁じ手でもあった…。
◎独断
借金で首が回らなくなっている国々の「国債」は、当然のように積極的な買い手が現れない。それゆえ、その金利ばかりが上昇して、回らない首がますます回らなくなる。
そこで、その人気のない国債をECB(欧州中央銀行)が「無制限」に買い取ろうというのである。
ところで、それら不人気な国債、貸した金が返ってくるかもわからない国債を買う金は、どこから来るのか? 当然、ヨーロッパ国民の小さな財布からである。
では、それをヨーロッパの国民は了解したのか?
そこが問題であった。
各国国民たちの「選挙の洗礼」を受ける政治家たちとは異なり、ECB(欧州中央銀行)の面々は、その洗礼を受けることなく席に座ることができる。
すなわち、ECBの決断は、すでに国民の手を離れているのである。
これが、「民主主義が傷つけられた」とする所以である。
◎マイナスと信用
第二次世界大戦後、「民主主義」という政治体制は急速に世界に浸透していった。そして、今もその勢いは衰えない。
ところが、民主主義の先陣をきったヨーロッパでは、その逆行現象が起こり始めていた。それは奇しくも、民主主義発祥の地、アテネ(ギリシャ)から始まったことだった。
「自由」を謳歌していた民主国家の民たちは、あまりにも自由に「お金」を使ってしまっていた。
モノには限りがあるものの、お金に限りはない。「マイナス」という数学的なトリックを用いれば、お金は無限に生み出せるのだ。
しかしそれでも、そのマイナスには限度がある。それが「信用」という曖昧な限度である。
数字的にはいくらマイナスになっても構わないが、人々が「お互いを信用し合える限度」は確実に存在する。
いくら民主国家が「自由」だといっても、「信用」の枠ばかりはそれほど自由ではなかったのだ。
◎破綻
信用というのは、「個」よりも集団のものの方が高まる。それは、一人が破綻しても誰か他の人が責任を取ってくれるからだ。
たとえば、ギリシャ一国の信用よりも、ヨーロッパ全体の信用の方が確実に高い。なにせ、ヨーロッパにはお金持ちのドイツの信用があるからだ。
それゆえ、「ユーロ」という欧州共通通貨の信用は、ギリシャ一国の信用よりははるかに大きなものだった。そして、そのユーロに加盟したギリシャは、ドイツのクレジット・カードを使うことが許された。自分のカードよりもずっと限度額の大きい他人のクレジット・カードを…。
その結果、さすがに度を超したギリシャは破綻。
そして、その責任は共同体である「ユーロ」が取ることとなった。つまり、ギリシャの「使い込み」を、他国の国民が負担することになったのである。
この「アリとキリギリス」状態に、ドイツ国民は怒った。「なんで、俺らがエーゲ海のビーチで楽しんだバカンス代を払ってやらなきゃならないんだ!」
怒ったドイツはギリシャに命じた。「もう少しカネを貸してやるけど、もっと節約しろ」と。
これにはギリシャもカチンとくる。「俺たちは民主国家だ。財布のことまで首を突っ込まれるのは真っ平ゴメンだ!」
こうして、ユーロ危機はギリシャを発火点として、その火は野火のごとき広がりを見せる。
救済を必要とする国家が続々と手を挙げはじめ、まったく収拾がつかなっくなってしまった。
◎救済と緊縮
困窮した国家を救済しなければ、その国の国債の利回りは高騰し、月々の支払いはますます増える。そうなると、破綻は早まるばかり。そして、破綻は連鎖する。
それゆえ、救済は必至。しかし、救済を受ける側は、「緊縮」を命じられる内政干渉に難色を示す。たとえば、日本が中国政府に消費税を10%にしろと命じられたら、どう思うだろう。
貸し手と借り手の「綱引き」は決着のつかぬぬままに、その綱はどんどん細くなっていき、両者共倒れの様相を呈してきていた。
そこで、冒頭のECB(欧州中央銀行)の登場である。
「わかった、わかった。俺らがその借金、全部買い取るから。いくらでも買い取るから」
そう言うECBのカネは、先に述べた通り、「みんなのお金」である。そうそう勝手に使ってよいものではない。
ところが残念ながら、このECBの決定に「反対する術(すべ)」は誰も持たない。
かのドイツですら、この決断を覆すことはできない。大国ドイツですら、ECBにおける議決権は、他国と同様の一票。議決権は経済規模に比例するわけではないので、ドイツの一票とギリシャやマルタの一票は同じ価値なのである(それでも、ドイツは唯一の反対票を投じたが…)。
しかも、この投票は国民に選ばれた政治家たちによるものではなく、各国の中央銀行総裁たちによるものだ。ご存じの通り、金融政策に関して、政治家たちは関与できない。中央銀行は完全に独立した機関なのである。
◎ドイツの無力さ
「ECBの行動(無制限国債買い取り)は、違法であり危険である」
ドイツの世論は、そう言っている。ECBの計画は「紙幣を印刷して国家の借金を穴埋めする」に等しく、そのリスクや負担は「まじめに働いている国の納税者にまで分配」されるのだ。
これまでのユーロ圏内の救済策は、ドイツ議会の承認を得る必要があった。そして、ドイツの裁判所の審査対象にもなった。
しかし、ECB(欧州中央銀行)はEU(欧州連合)の機関であるため、ドイツの裁判所がチェックすることはできない。それができるのは、より上位の欧州司法裁判所だけである。
昔々、ローマ帝国の掟では、非常事態において独裁官(ディクタトル)という、あらゆる領域に強大な権限を有する一人の人物が選ばれることになっていた(独裁者の語源)。そして、このディクタトルの決断には何ぴとたりとも拒否権を持たなかった。
今のヨーロッパはいわば金融の非常事態。ECBはディクタトルとして行動することも許されるのかも知れない(そんな法はないけれど)。
非常事態にあって、権力が国民に「分散」されているのは、かえって不都合、非効率。ゆえに、ECBが独裁者となるのである。たとえ、民主主義には真っ向から反対することになったとしても。
金融のルールは、分散に弱い。お金はある程度まとまってこそ、その価値を高めることができる。
しかし、「卵は同じカゴに盛るな」との格言どおり、集中させればリスクも高まることにもつながるのだが…。
◎アリの一穴
かくして、ヨーロッパにおける民主主義の一角は綻(ほころ)んだ。
アリのあける小さな穴からでも、時には堅牢な堤防が決壊することもある。ECBによる独裁は民主主義にとって、アリの一穴となるのかどうか。
かつて民主主義を謳歌したアテネ(ギリシャ)は、独裁官を認めたローマに滅ぼされた。
しかし、そのローマも拡大につぐ拡大戦略により、自らの重みで瓦解してしまった。
今の世の中、国土が拡張することはないものの、バランスシートという風呂敷だけは大きく広げることができる。だが、広げすぎたバランスシートに潰されることもありうる。日銀がいくら紙幣をまいても、日本の景気は一向に上向かない。
自由を求めた民主国家は、ここに来て、その再考を迫られている。
「マイナス」という概念をもつマネーを野放しにすることが、いかに危険なことか。もはや、ありきたりの経済理論はまったく刃が立たないところまで、マネーは先に突っ走っていってしまった。
◎ドイツだけは孤立させるな
そのマネーを自由にさせすぎないように、中央銀行ばかりは民主的な投票からは独立することとなったが、その中央銀行もいまや手詰まりだ。
それは民主的に選ばれた政治家たちが、お金の使い道を握りしめているからでもある。選挙民にアメをあげたがる政治家たちが…。
思いっきり痛い目にあって、その不都合に気づいたギリシャは、一時的に国民が選ばない政治家たち(テクノクラート)を政権の座につけた。
ところがどっこい。民主的なギリシャの国民たちは黙っちゃいなかった。国論は紛糾、国の意見は散り散りとなり、その隙に極右・極左などの過激な政党も支持率を伸ばしてきてしまった。
そのギリシャの様は、どこかで見たような…。
あぁ、それはかつてのドイツではないか。第二次世界大戦の引き金を引いた、あの頃の…。
あの惨事以来、ヨーロッパではある一つの暗黙知が共有されることとなっていた。「ドイツだけは孤立させるな」。
「歴史に通じた人ならばきっと、ECBの会議でドイツ代表が孤立し、投票で負けた光景を見て、背筋が寒くなったはずだ」
幸い、ドイツには過激な思想をもった政党の台頭はまだ見られない。
しかし、ドイツ国民の心中穏やかならぬことだけは確かである。
いったい、自由が自由であるためには、何が求められるというのであろうか。
そもそも民主主義とは、何を求めていたのだろうか?
◎自らを由とする
ある人は「自由」をこう表現した。
「自由とは、自らを由(よし)とすること」
多忙のあまり、自分の時間が寸分ももてぬ中、彼女はそんな境地に達したというのである。
自分が好きなことをやるばかりが自由とは言い切れない。というのも、「好きなこと」というのは限定的であるがために、その道はどんどんと狭くなっていってしまう。つまり、自ら自由の道を狭めていってしまうのである。
他方、「由(よし)とする」心は「良し」にも通じ、好ましからざることをも受け入れていくことを意味する。それがゆえに、道幅は自ずと広がり、それが自由を広げることにもつながる。
とはいえ、「すべてを受け入れる」ということは、自由と言うよりも「盲従」ではないかともなる。
その点、日本の武士は「義を見てせざるは、これ勇なきなり」と言った。彼らは封建制度という個人の自由度の低い政治体制にありながら、決して主君に盲従していたわけではない。「義」を重んじ、時には主君を諌めもしたのである。それこそが「忠」であった。
「民主」とは何か? そして、「自由」とは何か?
金融という概念に自失しつつある先進国。
すでに各所で「義」の旗は掲げられているようだ。
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