2012年09月19日

世界に「日本人」を示した男。新渡戸稲造


「新渡戸くん、6,000億円かかった大芝居だ。一つ見物しに行こうではないか」

まるで芝居小屋にでも行くかのように新渡戸稲造を誘ったのは、後藤新平。彼の言う「6,000億円かかった大芝居」というのは第一次世界大戦のこと。そして、その行く先は海のかなた、ヨーロッパである。

時は大正8年(1919)、第一次世界大戦が終わって間もない頃であった。アメリカを回ってからフランス・パリについた一行。ここでちょっとした事件が起こる。そして、それは新渡戸稲造の将来を決定づけることともなるのだが…。



◎国連事務次長の任


パリの日本大使館、そこでは頭を抱える西園寺公望や牧野伸顕の姿があった。

「語学が堪能で、見識を備え、人格も素晴らしく、欧米人のなかで仕事をしても遜色のない人物…。そんな人物が、どこかにいないものか…?」

第一次世界大戦に途中から参戦した日本は、棚ボタ的に「戦勝国」となっていた。そのため、新たに誕生した国際連盟の「事務次長の割り当て」が来ていたのだ。しかし、お偉方たちが頭を悩ますように、その「人物」の見当がつかずにいた。



そんなところへ、フラリと現れた新渡戸稲造。その姿をみとめた牧野は小さく叫んだ。「あぁ、適任者がやって来た…」

こうして、あれよあれよと新渡戸は「国連事務次長」の席に就くこととなった。

「まったく思いがけなく、また求めずして、事務次長の一人に任命されました。自分に手腕があろうとは思いませんが…」と、当時の新渡戸の書簡には記されている。



◎ジュネーブの星


当時の日本は、中国に対して「対華二十一カ条要求」を突きつけていたこともあり、ヨーロッパでは「好戦的で野蛮」との風評が立っていた。その強い風当たりは、国連の事務次長となった新渡戸の横っ面にも、もちろん吹きつけた。

そんな風の中に置かれても、「なぁに、損しても良い。馬鹿を見ても構わぬ」と新渡戸は覚悟を決めていたとのことである。



そして数年後、クリスマスのパーティで連盟職員が数百名も集まった会場で、一つの余興が行われた。それは、「このジュネーブ(国際連盟)で、最も人気のある人物を順に3人挙げよ」という一種の人気投票であった。

その集計の結果は…、なんと全員が全員、「Inazo Nitobe(新渡戸稲造)」をナンバー・ワンと書いているではないか! 2位と3位は皆バラバラの人物を挙げているのに、新渡戸の一位ばかりは全員が一致していたのである。

就任当時の下馬評はどこへやら、わずか数年で、新渡戸は最高の評価を手にしていたことになる。



「ジュネーブ(国際連盟)の星」という呼び名は、そうした新渡戸を讃えたものである。

世界が西洋を中心に回り、日本がまだ「劣等国」とみなされていた、その時代にあって…。



◎騎士道と武士道


事務次長としての新渡戸の功績は少なからぬものがある。たとえば、ユネスコの前身となる知的教育委員会を立ち上げ、アインシュタインやキュリー夫人らを引っ張ってきたのは彼であるし、オーランド諸島の帰属問題(スウェーデン・フィンランド)に平和的解決をもたらしたのも彼である。

しかし、それ以上の功績は、世界に「日本人」を示したことであった。彼自身、そのことを「to do」よりも「to be」と表現している。

新渡戸を見るまで、西洋の人々は日本人を始めとした東洋人を「数段下等の民族」と決めつけていた。ところが、新渡戸の「紳士ぶり」はどうか。彼が下等な民族なのか? 新渡戸は紳士の多い西洋にあっても、「紳士中の紳士」だったのである。ゆえに、ともに働いた連盟職員たちも、その評価を180°変えざるを得なかったのだ。



若き日の新渡戸は、札幌農学校の机についていた。札幌農学校といえば「クラーク博士」。クラーク博士の言葉として「少年よ、大志を抱け」というものばかりが有名だが、彼が常に諭していたのは「Be Gentleman(紳士たれ)」ということである。

そうした「西洋の精神」に加え、新渡戸の心には「武士の魂」も宿っていた。盛岡藩に生を受けた新渡戸は、「生粋の武士」であったという叔父・太田時敏の手元で育てられ、武士としての心構え、そして所作を叩き込まれていたのである。



西洋の騎士道、日本の武士道、その二つを併せ持っていた人物。それが新渡戸稲造だった。

そして、その両翼の思想を根底から理解した上で著した書物が「Bushido(武士道)」であり、この書をもって、世界は初めて「日本人」を知ったのである。

その武士道を世界で体現してみせた新渡戸、まさにその存在「to be」こそが、彼の放つ魅力だったのだ。





◎便所の小窓から世界へ


幼い新渡戸の暮らした盛岡藩は、徳川幕府への忠節を最後の最後まで貫いた。しかし、明治新政府に敗れた。その頃7歳だっという新渡戸は、「我がモノ顔で市中を闊歩する新政府軍の兵士を、便所の小窓から恐る恐る眺めていた」という。

世界に扉を開いた明治新政府は、皮肉にも「便所の小窓から恐る恐る眺めていた」新渡戸少年のように、欧米列強に対しては「卑屈」であった。日本的なものを「古臭い」と恥じるような自虐的なところがあったのだ。



そんな情けない日本を見ていた新渡戸は、決然とこう言い放つ。「太平洋の架け橋となる」と。この言葉は、新渡戸が東京大学に入るための面接で、外山正一教授に「なぜ英文学を学ぶのか」と問われたことに対する答えであった。「日本の長所を西洋に紹介したい」という熱い想いが新渡戸の心中に渦巻いていたのである。

ところが、日本で最高学府であった東京大学ですら、新渡戸を満足させることができなかった。「やはり、西洋で学ぶしかない」と思い極めた新渡戸は、アメリカへと飛び出す。ちなみに、この時の費用を用立ててくれたのは、生粋の武士かつ叔父の太田時敏である。

アメリカの地では、アレゲニー大学(ペンシルベニア州)、ジョンズ・ホプキンズ大学(メリーランド州)を転々とし、3年後に帰国する。そして今度は、ヨーロッパ・ドイツに。ボン大学、ベルリン大学にて学びを深めることになる。



◎太平洋の架け橋

古今東西の知識を貪欲に吸収した新渡戸にとって、初の国際的な舞台となったのは、険悪化していた日米間の調停であった(1911)。当時のアメリカでは、日露戦争に勝利した日本の大国化が懸念されており、激しい「排日運動」が日夜繰り広げれていた。

日米の関係悪化を心配した新渡戸は、「太平洋の架け橋」となるべく排日激しい火中へと飛び込んでいた。



アメリカの排日運動の根底にあるのは、「日本への無理解」であると考えた新渡戸。日本は決して「好戦的」でもなければ、「野蛮」でもない。その想いを伝えるため、彼は合計66回もの公演を全米各地の大学で行った。

この想いが伝わったのか、すでに提出されていた「排日移民法案(外国人の移民を厳しく規制する法案)」は「廃案」となり、日米両国の関係はひとまず沈静化することになった。



当時のアメリカの新聞は、こうした新渡戸の活動に敬意を表し、「ミカドの遣わした平和の使節」と彼を称えている。

当の新渡戸も、「これで多少はお国のためになった…」と随行していた鶴見祐輔に漏らしている。

新渡戸は明らかに「太平洋の架け橋」となっていた。この8年後、新渡戸は国際連盟の事務次長に就任することになる。



◎苦言


事務次長としての責務、8年間を果たし終えた新渡戸は、66歳にして懐かしの日本へと帰ってくる。

ところが、その日本の世情はまことに穏やかではない。新渡戸には、お国がどこか悪い方向へと進んでいるように思えて仕方がなかった。そんな新渡戸の愛国心から、こんな言葉が漏れてしまう。「日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが怖いかといえば軍閥である」。



オフレコであったはずのこの言葉は、翌日の新聞にデカデカと掲載されてしまい、容赦のない執拗な追及が新渡戸を襲うこととなった(松山事件)。「新渡戸氏の奇っ怪な発言」、「カブトを脱いだ新渡戸博士」などと書き上げられ、ひどいものでは「新渡戸氏の自決をうながす」などというものまであった。

不幸にして、日本という国家はこの後、泥沼の戦争(第二次世界大戦)に突入していくのだが…。とりあえず、この場にあっては新渡戸氏が頭を下げるより他になかった。



「上司の不興を買い、群衆の怒りを招くのは、私の家の伝統なのです」と、新渡戸は「編集余録」に書いている。「私の曽祖父は、封建領主と意見をあえて異にしたカドで、追放に処せられた。私の祖父は、維新戦争では負けた賊軍側であり、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私の父は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」

それでも新渡戸は、これら三代の祖父たちすべてが「政治的な罪」にすぎず、それは「名誉」なことであると心得ていた。



◎ふたたびの渡米


日本の世論が戦争へと傾くにしたがって、一時は沈静化していた日米関係も再び悪化をはじめる。アメリカで一時は廃案となっていた「排日移民法」が再び息を吹き返して、施行に至っていた。日本は日本で、アメリカの望まぬ「満州建国」を断行し、その国内では犬養毅首相の暗殺(515事件)などの社会不安が高まっていた。

「国を思ひ、世を憂うればこそ何事も、忍ぶ心は神ぞ知るらん」

この憂国の歌とともに、新渡戸はふたたびアメリカに飛んでいった(1932)。



前回の成功裡に終わった渡米からは20年以上が経っていた。そしてその間、アメリカの世論はますます日本に対して厳しいものとなっており、その反対に中国に対してアメリカはすこぶる好意的になっていた。

もはや、新渡戸の言で世論が覆るような状況ではなかったのである。新渡戸は傷心のままに、アメリカの地をあとにすることになる…(1933)。

そして、新渡戸が帰国したわずか3日後、新渡戸の心の傷には無情にも別の爪が立てられた。なんと、日本が国際連盟を「脱退」してしまったのである。あれほど、新渡戸が尽力して名声を上げていた国際連盟を…。



◎愛国心


たまらず、新渡戸はまた日本から飛んだ。

カナダで開催された第5回太平洋会議で「国際平和」を訴えるためであった。この時、新渡戸稲造77歳。もはや、彼に残された時間はほとんどなかった。

この最期の訴えを終えると、新渡戸は静かに息を引き取った…。



その後の歴史を、我々は痛いほど知っている。

「偏狭な愛国心」による争いに、世界はヒタ走ったのである。わが日本においては、新渡戸の恐れた軍閥が日本の行く末を決めてしまったのである。



日本の武士が最も大切な倫理観、それは「忠」であったと新渡戸は著書「武士道」に記している。

しかし、その「忠」は「義と勇」に裏打ちされたものでなければならない。「義」というのは己の心の内に感じるものであり、「勇」とはその心にしたがう決断である。日本の武士は「忠」であるために、時にはあえて主君に諫言もした。それは自らの「義」による「勇」である。そして、その時には必ず「死」を覚悟した。その諫言が受け入れられなかった時に、「忠」を貫き通すために…。

これはまさに、まさに新渡戸稲造が「to be」として示したものではあるまいか。



国家間の諍(いさか)いというのは、いまだ古臭い話ではなく、古くも新しい問題である。

その解決の道を探るときに、その道標となるのは、新渡戸稲造その人ではあるまいか。

本当の「星」となった新渡戸。その星はあたかも不動であるかのように、確かな方向を向き続けている…。







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出典:歴史街道 2012年 09月号
「特集:新渡戸稲造」

posted by 四代目 at 07:42| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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