「農民に『学問』は必要ない!」
と怒鳴られ、行灯(あんどん)の火を吹き消された金次郎。
その伯父は、「行灯の油がもったいない」と言うのである。
14歳で父を、16歳で母を亡くした金次郎は、一家離散。やむなく伯父の元に身を預けられていた。かように肩身の狭い金治郎、学問など決して許される環境ではなかった。
彼はのちの「二宮尊徳」。小学校の校庭などで、薪を背負って本を読んでいる、あの銅像の人物である。
◎油つくり
一家が寝静まった頃、ひとりで本を読むのが金次郎のかすかな楽しみの一つであった。ようやく手に入れた書「大学(孔子)」を蛍の光で読むこともあったという。
だが、伯父が「やめろ」というなら仕方がない。「油がもったいない」という伯父にも一理ある。
「それなら、油をつくろう」
あくまで前向きな金次郎、さっそく友だちから貰った「菜種」を川の土手に植えると、その翌年には金色の花がキレイに咲き並ぶ。そして、袋にいっぱいの菜種が収穫できた。
近所の油屋さんは、それを「菜種油」と交換してくれた。
しかし、それでも伯父は一向に喜ばない。「いいから、もっと働け」と膠(にべ)もない。
それならばと、金次郎は山仕事の行き帰りに本を読むことにした。かの有名な「薪を背負って本を読む金治郎」の誕生である。
◎天然の学者
のちの二宮尊徳は、こんなことを書いている。「大道は『水』のようなものであり、滞ることが決してない。しかし、その大道を『書物』にしてしまうと、水が凍った『氷』のようになってしまい、それは少しも世の潤いとならない」。
かの銅像のせいか、二宮尊徳は読書の権化とも思われがちだが、彼は「書の限界」も十分に心得ていたのである。書物から離れ、大自然の中で菜種を育てた金次郎は、天地自然の妙に魅了されつつあった。
そんな金次郎は、近所のお百姓さんが捨てた「稲の苗」を拾って、それを家の近くに植えてみた。するとどうだろう、秋には二俵(120kg)もの大収穫を得ることができた。
「わずかの苗が、これほどの富をもたらすとは…」
天地自然の理は、完全に金次郎を虜(とりこ)にしてしまった。書を飛び出した彼にとっての新しい師匠は、この大自然となったのだ。
剣持広吉という和漢の学問に通じていた豪農は、こんなことを日記に記している。「私は多くの書物を読んで学習してきた。しかし、自然から学んでいる尊徳先生には、とうてい敵うべくもない」と。
剣持は自らを「稽古した学者」、そして金次郎尊徳を「天然の学者」と書いている。
◎人道は自然ではない
かくして天地自然は金次郎の師となった。以後、彼はどの思想学派にも属することがなかったという。
天地自然が御師匠様といえども、金治郎は決して従順なばかりの弟子ではなかったようだ。「天道と人道とは同じではない。天道は自然であって、人道は自然ではないのだ」とは彼の言葉である。
すなわち、金次郎は人道を自然のままに放任することを良しとしなかった。人が生きていく道は、自然のままの道とは異なるのである。
自然のままに任せておけば、「家屋は壊れ、衣服は破れ、溝や堀は埋まり、堤防は崩れる」。これでは人が生きていくことは適わない。
「人は五穀を食うために田畑をつくり、雨露をしのぐために家屋をつくり、寒暑を防ぐために衣服をつくる。田畑に水を引くために溝や堀をつくり、水害を除くために堤防をつくるのである」
自然の為すこと、そして人の為すことには、明らかな違いがある。自然はときに人道を塞いでしまう。それゆえ、人間は自然に「ひれ伏すわけにはいかない」、というのである。
かといって、傲慢に自然を屈服させようとするわけではない。あくまでも自然と「対等な立場」に立ち、自然とやりとりをしていく。こうした関わりの中にこそ、「自然を活かす道」があるのだと、金次郎は考えた。
自然は人間を「生かす」。そして、人間は自然を「活かす」のである。
◎「分度」を超していた服部家
伯父の元に身を寄せてから8年、24歳となっていた金次郎は亡父が手放さざるを得なかった土地のほどんどを買い戻し、さらには買い増しまでして見事に「二宮家」を復興してしまっていた。
その手腕を買われた金次郎、32歳の時に服部家の財政立て直しを依頼される。この服部家というのは1200石という大家であったが、実際の収入は400俵足らず、名目の3分の1程度に過ぎなかった。それでも依然として1200石の家計を続けていた服部家。その行く先は窮乏への道であった。
金次郎の頭には「分度」という基本があった。
この分度というのは、身の程に応じた生活を送るという意味で、自分の置かれた立場や状況をわきまえるということである。「貧富の違いは、分度を守るか失うかいよる」と彼はいう。
服部家に関していえば、この家は完全に「分度」を失っていた。実収入の4倍もの暮らしが持続できるわけはない。
さっそく「分度」を守らせようとした金治郎、借金の返済計画を5年と定め、毎年の予算を厳しく切り詰めた。この計画は予想以上の成果を上げ、服部家の借財は一年前倒しの4年で完済。それどころか、逆に300両もの余剰が生まれていた。
感に耐えかねた服部家は、この余剰分300両のうち、じつに100両をも金次郎へと差し出した。ところが金次郎、これを服部家の使用人たちに分け与えてしまう。
ここには彼の「推譲」という思想が見てとれる。節約して余った分を、家族や子孫のために蓄えることを「自譲」、他人や社会のために譲ることを「他譲」。これがより良い社会への道だと、彼は考えていたのである。
◎つまづき
さあ、いよいよ名の上がった金次郎、今度は小田原藩主・大久保忠真公の目に止まる。そして、命じられたのが下野国・桜町領の復興であった。
この時、金次郎35歳。ところが残念ながら、彼はこの地で大いにつまづくことになる。ここの誇り高き武士たちは、もともと「水のみ百姓」であった金次郎をバカにしてはばからない。その嫌がらせや妨害には目に余るものがあった。
7年目のある日、金次郎は突然、行くえをくらます。家族にも弟子にも何も告げずに…。
消えた金次郎、フラフラとさまよっていると、ある農村での熱烈な不動明信仰に出会う。そこに何か思うところでもあったのであろう。彼はその足で、成田山新勝寺(下総国)へと入り、そのまま21日間という過酷な断食の行に入る。
◎一円
断食から明けた金次郎。「一円」という悟りに至っていた。
人間は善か悪か、美か醜か、真か偽かの「半円」しか見ていない。それは虹の半分しか見えないことと同じだ。本当の虹は「円」の形をしているというのに…。
たとえば、夏の寒さは稲などには甚大なる被害を及ぼす。しかしその一方で、夏の寒さを利用して旺盛に育つ雑穀もある。夏の暑さを「悪」と決めつけることは、稲の側から見た「半円」にすぎない。反対側の雑穀の立場からも眺めてみて初めて、それは完全な「一円」となり得るのである。
「見渡せば、敵も味方もなかりけり
おのれおのれが心にぞある」
この成田山参籠以降、金次郎の村おこしは一変する。
自分に反対する武士や農民たちにも「一理」ある。それに反じてばかりでは、彼らを活かすことはできない。彼らの立場から見える景色を一緒に見てこそ、彼らを活かす道が見えてくるはずだ。
「一円」の悟りを得た金次郎、二宮尊徳はその一生涯において、600もの村々を復興するという偉業を成すことになる。
この偉業は己自身の力にのみ頼んでいては成し得なかったであろう。己自身の力は結局「半円」に過ぎぬのだから…。村人たち一人一人が立ち上がってこそ、その半円は「一円」と成り得るのである。
◎秋ナスの味
ある日、「ナス」を食べていた金次郎は、「んっ?」と顔をしかめる。「これは秋ナスの味だ…」。季節はまだ夏前。明らかに何かがおかしい。
「今年は冷夏か?」と思い至った金次郎は急遽、村人たちに稲の代わりに「ヒエ」を植えることを指示する。村人たちは半信半疑。金にならぬヒエなど植えたくない。
それでも金次郎は譲らない。もし冷夏が襲えば、稲などひとたまりもない。冷夏にあっても実るのは、寒さに強い雑穀・ヒエをおいて他にはないのだ。
かくしてその夏、金次郎の懸念は的中し、日本全土は前例のないほどの冷夏に襲われる。天保の大飢饉のはじまりである。
この大凶作にあっても、金次郎の取り仕切っていた桜町ばかりは餓死者が出なかったという。稲の代わりにヒエをあらかじめ植えさせていたこと、それに加えて、普段から一人当たりヒエ5俵を蓄えさせておいたことが、見事に奏功したのである。
◎限りある貧困、無限の実り
金次郎は貧乏を嘆く農民たちに、こんなことを言って励ました。
「貧困にはしょせん『限り』がある。貧困が無限に続くことなどない。むしろ『無限』なのは実りのほうである。一粒のタネから一つの実りしか得られないことなどなく、実りは必ず倍々で増えていくのだから」
「貧しさが無限だと思うのは、妄想にすぎない」といって村人を鼓舞したという金次郎。実りを得るために必要なのは、一粒のタネをまくことだと説いたのだ。
「一粒のタネをまく」という小さな一事、これをひたすら積み重ねることで、やがては大きな収穫を迎えることができる。この「積小至大」、小さきを積みて大い至る、というのは金次郎の教えである。
そのタネを実際の田畑に植えることはもちろん、自らの心の田んぼ「心田」にも植えよと金次郎はいう。
村人たちの心に希望の芽が出てこそ、その村は立ち直ることができるのだと彼は考え、それを実践していった。その信念のもと、金次郎は日本の村々に「希望のタネ」をまき続けたのである。
そして、600村にも及ぶ奇跡的な復興は、その大いなる収穫だったのだ。
◎悲願
金次郎、最期の大仕事となったのは「日光の復興」であった。
天明の大飢饉以来、この地はすっかり廃れ、離散する農民たちは後を絶たなかった。荒れ果てたとはいえ、日光は徳川家康を祀る神領。この地の復興は徳川将軍家の威光がかかった悲願でもあったのだ。
金次郎の齢(よわい)、すでに58。高齢と過労は彼の肉体を蝕みつつあり、体調は崩れ気味であった。それでも、彼は杖を片手に日光89カ所、新田2カ所を自らの足で隈なく見て回った。それには3年もの月日を要した。
その苦心の結晶が「日光仕法雛形(全64冊)」であり、幕府に提出されることとなる。しかしどういうわけか、幕府の腰は重く、この仕法の着手が命じられた時には金次郎、すでに67歳になっていた。
金次郎は自らに残された時間が少ないことを悟っていたのかもしれない。周囲もそれを察していた。日光の奉行は「籠で回られては…」と気を回すも、金次郎は杖をついて自力で歩き、指示を飛ばして回った。
のちの内村鑑三は「尊徳は真の独立の人」と賞している。
まずは農業用水となる水を引き、荒れ地をたちまち農地に変えた。そして、村人たちには5両、10両という「報奨金」を与えながら、村人たち自身の行動を促していった。
「今の日光には1000町歩の耕地がある。たとえ痩せているとはいえ、一反で4俵の米をつくれば、4万石もの米がとれる。開墾をすればさらに増える」
「無限の実り」を信じる金次郎は、力強く村人たちを励まし続けた。
しかし、その時が訪れるのは思ったよりも早かった…。
享年70歳、金次郎が天に召されたのは、この大仕事に着手してわずか2年後の秋のことであった…。
◎遺訓
金次郎の遺した「報徳訓」には、こんな一節がある。
今年の衣食は昨年の産業にあり(今年衣食住昨年産業)
来年の衣食は今年の艱難にあり(来年衣食在今年艱難)
富者は「明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめる」。それに反して、貧者は「昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる」。
「今日のものを明日に譲り、今年のものを来年に譲るということを努めない者は、人であって人ではない。宵越しの銭を持たぬというのは、人道ではない」とも彼は記す。
さらに言う。「富んだ者がその分度を守って余財を推し(推譲)、これを貧しい者に及ぼしたなら、天の気が下にはたらき、地の気が上へはたらき、両々相まって世の中は豊かになる」。
天地自然を師とし、死ぬまで田畑に立ち続けた二宮尊徳の言葉は重い。
◎半円
戦後、二宮尊徳は戦時中の軍国主義高揚に利用されたという理由から、人々の記憶から消されていくこととなる。それは楠木正成と同様の運命であった。
人々の脳裏から二宮尊徳が消えていくにしたがって、その思想も忘れられていくことになる。それゆえか、今の世の中はかつての服部家のように「分度」を忘れ、さらには「一円」という考え方をも欠いてしまったかのようにも思える。
本来の虹は「円(まる)い」はず。それを半円にしか見れないのは人間の性(さが)であるかもしれない。しかしそれでも、我々は見えない「もう半分」を想像することができる。
禅の言葉に「担板漢(たんぱんかん)」というのがある。板を担いだ漢(おとこ)の視界は、その半分が担いだ板で遮られているため、物事の「反面」しか見えないことを意味している。見える方の片側に山ばかりを見ていると、その反対側の実りには一向に気づけない。
冷夏の裏には何があったのか。戦争の裏には何があったのか。
無限であるものは、何なのか?
目に見える半円には、妄想ばかりが映りがちである。
きっと、金次郎の心にかかる七色の虹は、きれいな真ん丸だったのであろう。
まるでそれは、後光のように…。
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出典:
致知2012年10月号「心田を耕すことから全ては始まる 〜二宮金治郎に学ぶ生き方〜」
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