2012年07月31日

チベットに想う、「国」の姿。


かつて中国の毛沢東は、こう言った。

「人を支配するには、百人の軍隊よりも『ただ一曲の名曲』があればよい」



そうした戦略のもと、「チベット」の歌曲は徐々に中国化され、今ではその踊り方、歌い方、装いまでがすっかり中国式にすり替わってしまったのだという。最近ではチベット語で歌うことも許されるようになったというが、かつては中国語でしか歌うことができなかったともいう。

現在のチベットは中国の一部とされているが、その抑圧に対するチベットの抗議は後を絶たない。北京オリンピック時の騒動も記憶に新しいが、現在でも抗議の焼身自殺がやむことなく続いている。



何よりチベットの擁する最高指導者「ダライ・ラマ」が、チベットの土地に入れないというのは異常な状態である。

中国とチベット、その関係やいかに?




◎チベットとは?


中国の奥座敷のような山中にあるチベット。そのチベットの位置するチベット高原というのは、世界最高峰のヒマラヤ山脈の山裾ということもあり、高原としては世界最大級の広大さを誇る。

面積にして日本の国土の6倍、かの広大な中国の23%もの面積を占める。



「山が川を生む」の言葉通り、アジアの主要な大河川のすべては、このチベット高原に源を発する。中国を潤す長江・黄河、インドのインダス河・ガンジス河、東南アジアのメコン河・サルウィン河…。

チベット高原に端を発する大河川群は、世界人口のおよそ半数の人々の生活を支えていることになる。



◎歴史あるチベット


日本は世界一歴史のある国家であり、初代・神武天皇から数えれば、その皇紀は2672年。一方のチベットも負けてはいない。チベット暦に従えば、今年は2139年となる。

さらに歴史を遡れば、インドと中国に古代文明が起こったのと同じ頃、山中のチベットでも文明が誕生していたと考えられている。ただ、その地理的に孤立していた土地柄から、考古学的証拠は乏しい。それでも、紀元前5000年の遺跡が発掘されるなど、チベット文明は誕生から7000年は経ているものとされている。



チベットの伝説によれば、チベットは長らく「水の中」にあったとされている。それがいつしか、現在のような高原となり、「雪の国」と称されるようになる。

そして、その雪の国に降り立った「観音菩薩」。その土地の主となるよう運命づけられていた観音菩薩は、人の子を生むために雄猿に姿を変え、6人の子を成した。そして、その6人の子供たちはそれぞれ、チベット民族の6つの氏族を形成することになる。

※現在、チベットの最高指導者とされるダライ・ラマは、観音菩薩の化身であるとされている。





◎強大なるチベット


チベットに明らかな国が現れるのは紀元前127年。この年が現在のチベット暦の起点となる。

その後、数百年して、歴史の教科書にも見られる「ソンツェン・ガンポ王」が登場(7世紀)。チベット高原の諸族を初めて統一したのは彼であり、事実上の初代建国の父である。ソンツェン・ガンポ王の勢いや著しく、唐とネパールの王室はチベットに娘を嫁がせるほどであった。



王の死後もチベットの隆盛は300年にわたって続き、ティソン・デツェン王の治世には、唐の都・長安を陥落させた(763)。そのため、一時的ではあるが、唐がチベットへの朝貢を余儀なくされていた時期もある。

※当時の中国は、美女・陽妃姫に溺れた玄宗皇帝のために大いに国が乱れ、チベットだけに限らず、ウイグルなどの諸民族も大きく力を伸ばした(821年、三国会盟により国境線確定)。



◎モンゴルの旋風


世界を席巻したモンゴル帝国の旋風は、チベット高原にも吹き荒れた。

ところが、モンゴルとチベットの関係は、チベットが宗教としての聖地だったこともあり、征服者と被征服者の関係というよりも、「寺と檀家」のような関係(チュ・ユン)に落ち着いた。モンゴル(元)のフビライ・ハーンはチベット仏教を受け入れ、チベットを師として仰いだのだ。

世界最大の帝国で国教となったチベット仏教は、モンゴルの傘下にありながらも、その地位は別格であり、モンゴルに直接支配されることもなければ、モンゴルに納税したこともなかった。



こうして、中央アジアに出現したこの「風変わりな関係」は、のちに中国を支配する清の時代にまで受け継がれていくことになる。檀家である清は、彼らの寺(チベット)を外敵から守るために、幾度か出兵もしている。

チベットの立場は、ヨーロッパでいえばローマ教皇に近いものがあったという。19世紀半ばにチベットに滞在した者の記録には「たとえるなら、チベット政府はローマ教皇で、中国人大使はローマ駐在のオーストリア大使だ」ともある。

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◎欧米から押し寄せる植民地の波


新たな大波はイギリスからやって来た。新エネルギーである石炭の活用法を発達させたイギリスは、その石炭の力を借りて世界の海へと漕ぎ出して来たのである。その勢いや殺ぎ難し。インドをはじめとするチベット南方の諸国は次々とイギリスの軍門に下り、大国の清ですら、アヘン戦争に敗北した。

そのイギリス帝国の強力な対抗馬となっていたのはロシア。北方のロシアは怒濤の勢いでアジアに南下・東進してきていたのである。北はロシア、南はイギリスの板挟みにされたチベット。檀家の清は頼りにならないどころか、チベットに攻め入ってくるではないか。



欧米列強による草刈り場と化したアジアは混乱の極みに達する。大陸のはずれにあった島国・日本とて例外ではない。いかにイギリスの猛攻を凌ぎ、ロシアの南下を阻止するか。国を挙げての戦いが始まっていた。

日露戦争における日本の歴史的勝利は、アジア全域をまさに飲み込まんとしていた植民地化の波を最後の最後で防ぎきることとなった。

この勝利があって、幸いにも日本は植民地化を免れる。それは明治維新の功労者たちの先見の明であり、早い段階で大陸に足場を固めていたことが奏功したものであった。ちなみに、アジアで植民地化されなかった国は、日本とタイの2カ国だけである。



◎中国共産党によるチベット占領


チベットにおける本格的な混乱は、太平洋の戦火がやんだ後、1949年に中国共産党が国民党に勝利し、中華人民共和国が成立してから始まった。

チベットに攻め寄せる人民解放軍は4万の大軍。迎え撃つチベット軍はわずか8000。わずか2日で東チベットの州都・チャムドは陥落。この侵略行為に対して、チベット側は「強者による弱者征服の最悪の実例」と世界各国に訴えた。

しかし、世界は「遺憾」を表明するばかりで、「温情ある政府と心満ちた人民からなる幸せの国・チベット」は侵略され、解放という口実のもとに占領されてしまう。



さあ、世界の助け船はやって来ないと悟ったチベット、中国共産党との直接交渉にすべてを託さざるをえない。

ところが、北京に入ったチベットの代表団は「侮辱的な言葉を浴び、暴力をほのめかす脅しを受け、囚人同様に拘束」されてしまう。挙げ句の果てには、「強迫と銃剣を突きつけられた」代表団は無理矢理「平和協定」に署名させられた。

署名はしたものの、協定の効力発生に必要とされた印章の捺印は拒否した代表団。しかし、中国政府はその書に偽造したチベットの印を捺してしまった(中共・チベット17条協定、1951)。



◎虚しい大儀


「中共・チベット17条協定」は明らかに国際法に違反しており、本来であれば詐欺により無効ということになるのだが、中国共産党はこの協定を盾にしてチベットの武力制圧を完了してしまう。

その大義名分とされたことの一つが「チベットからの帝国主義勢力の駆逐」であったが、中共軍の侵入前にチベット内にいた西洋人はたったの6人。しかも、中共軍侵入時にはすでにチベットを去っていたという。



また、「農奴解放」という名目もあった。中国共産党に言わせれば、チベットは「人口の90%が虐げられながら生活する、まさにこの世の地獄」であったのだ。しかし、実際には中国が農奴と呼ぶ小作農はそれほど多くは存在せず、物乞いも「両手の指で数えられるほど」しかいなかった。

自給自足が行き届いたチベット社会は地獄どころか、飢饉すら経験したことのない平和さであったという。そんなチベットに本当の地獄が現れるのは、中国による占領以降、毛沢東により「気違いじみた大躍進政策」が実行されてからである。その結果、チベットは初めての飢饉にさらされたのであった(1959〜63)。

そして、その後の文化大革命は、チベットにさらなる死と破壊の波を押し寄せさせることになる…。



◎天国という名の地獄


チベットからの亡命を余儀なくされたダライ・ラマ法王は、のちの自伝にこう記している。

「人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだ。〜中略〜。磔、生体解剖、腹を裂き内蔵を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、馬で引きずり回して殺したり、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残虐さは枚挙にいとまがなかった。処刑の最中に『ダライ・ラマ万歳』と叫べないよう舌を引き抜いたりもした」



中国共産党は「社会主義の天国」をチベット人に約束したはずであったが、その天国とはいかなるものか。現在、インドにあるチベット亡命政府の首相ロブサン・センゲ氏は、こう語る。

「『社会主義の天国』を約束した中国は、チベットとの間に道路を造ると、森林を伐採してチベットの豊富な天然資源を持ち出し、貴重な仏像や文化遺産まで持ち去っていったのです。『社会主義の天国』は、チベットを中国の植民地にして経済発展のために搾取するものだったのです」



中国のチベット占領以降、チベットの豊かな森林の半分は木材となって消え去り、チベットの地下に静かに眠っていた天然鉱物も盛んに掘り起こされた。こうした無思慮な開発は、水源地としてのチベット高原を痛く傷つけてしまい、その下流に暮らす世界人口の半分の人々に多かれ少なかれ悪影響を与えてしまっている。

また、チベットに存在した僧院の97%以上が、無人化ないし廃墟化。全チベット内の僧院6259ヶ所のうち、破壊を免れたのはわずか8ヶ所だけだったという。



◎同化政策


1954年に完成した中国とチベットを結ぶ2本の道路、成蔵公路と青蔵公路。これらの道路を通じて、はじめは軍隊が送り込まれ、のちに大規模な中国人による入植が行われることとなった。現在のチベットには、チベット人600万人に対して、中国人はそれを上回る750万人が暮らしている。

軍隊による武力制圧から、人民による中国同化。それは冒頭に記した毛沢東の言葉、「人を支配するには、百人の軍隊よりも『ただ一曲の名曲』があればよい」の示すものでもある。

中国政府はチベット人の中で優秀な子供たちを見つけると、上海などにある特別な学校へと進学させる。「5〜6歳でチベットから連れてこられた小学生は、12〜13歳頃にはもう中国語しか話せない」というほどに、その教育は中国式である。悪く言えば、それは同化政策による洗脳教育となる。



◎チベットの国旗

チベットには国としての国旗がある。しかし、それはチベットを独立国として認めない中国政府にとっては忌まわしいばかり。「チベットの国旗と似たものを所持するだけで、7年間投獄される」。

その国旗に描かれるのは、チベット伝説の雪山と2頭の雪獅子。そのデザインには日本人・青木文教氏が関与しており、そこには日本の「旭日旗」を思わせる意匠が重ねられている(太陽から放射する6つの光線はチベット民族の起源となった6氏族を意味する)。

Source: artelino.eu via Morri on Pinterest





旗の周囲に描かれた黄色の縁取りは、「仏教がすべての場所で永遠に栄えること」を象徴しているのだが、右側の一方だけにその縁取りはない。その縁取りのない一ヶ所は「仏教以外の教えや思想にもオープンであること」を示すのだという。

しかし皮肉にも、中国共産党はその縁取りのない東方からやって来ることになる。チベットのオープンさが仇となったかのように。



◎現代に生きる万里の長城


現在の中国政府は諸外国に対して、「チベットは中国の国内問題であり、内政干渉すべきではない」と主張する。そして、おせっかいなアメリカに対しては、「アメリカがチベットについて口を挟むのならば、我々はアメリカ先住民について問いたい」という言い方をする。

時代がソーシャル化し、世界がグローバル化する中にあっても、中国共産党は頑ななままであり、インターネットを厳しく規制する「金盾(ファイアー・ウォール)」により、徹底的な検閲を行っている。それはあたかも、歴史上、夷狄の進入を防いできた遺物「万里の長城(ザ・グレート・ウォール)」のように。



インドにあるチベット亡命政府の首相ロブサン・センゲ氏の給料は、インドの平均月収にも満たない3万円程度である。それでも激務に励む彼を支えるのは、その信念にほかならない。

「チベット仏教には、『シャンティディバ』という言葉があります。『もし問題が解決できるなら、なぜ悩む。もし解決できないなら、悩んで何になる』という意味です」

はたして、チベット問題というのは「解決できる」のか、「解決できない」のか。いずれにせよロブサン首相に「悩み」はないのである。

「チベットには『ディグドゥイット、ディグドゥイット』という言葉もあります。『大丈夫、大丈夫』という意味です。解決できる問題は解決すればいいし、最善を尽くしたならば、あとは悩むことはないのです」



◎祖国への想い


彼は最後に、しみじみとこう言った。

「我々チベット人の夢は、首都ラサを詣でることです。ポタラ宮からラサの谷を見下ろし、深呼吸を一つして言うのです。『あぁ、これがチベットだ』と」

Source: weibo.com via Jessica on Pinterest





なんという言葉であろう。自らの国を見るのが夢だという言葉は。

もし、日本が日露戦争で敗れていたら…、もし、日本が中国に武力制圧されていたとしたら…。我々の夢は首都・東京を眼下に見下ろすことであったのか。

幸いにも、日本はロシアの南下を満州で防ぎ切り、中国共産党の猛攻は台湾の国民党の奮戦によってピタリと止められた。現在、尖閣諸島のいざこざで済んでいることは、もっけの幸いなのかもしれない。場合によっては、協定の書に偽の日本印を捺されていたかもしれないのだから…。



チベットは不幸にして国を失った。

それはウイグルにしても、台湾にしても同じ思いなのであろう。



◎日本の心意気


現在においても海上に多くの領土問題をかかえる中国。その中国の強硬なる姿勢に過剰に反応する周辺諸国の対応は、決して故なきものではない。中国の歴史を知っている者ならば尚更だ。

尖閣諸島の領有権を主張する中国は、最近では沖縄のそれまで言い出す者もいるという。過去の琉球王国が中国に貢ぎ物を送っていたという事実がその根拠である。



譲れば譲るだけ前に出てきそうな外交姿勢に対しては、必ずどこかで踏みとどまる必要も生じるであろう。

こうした危機感は、日本ではある意味お馴染みのものである。古くは聖徳太子が決然と言い放った。「日の出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」。庶民の多くが裸足で歩き、手づかみで食事をしていたという時代にあって、聖徳太子は日本の独立国としての気概を大国に示したのである。

大帝国モンゴルの襲来に遭っても、時の執権・北条時宗はその身命を賭して、国を護った。鈴木大拙氏はその偉業をこう讃える。

「時宗は日本国家の上に降りかかろうとした大災害を除くため、天から遣わされた使者であったごとくに思われる。彼は日本歴史における最大の事件の終末をつけるとともに逝ったのである。彼の短い人生は単純であった。その全部はこの事件に捧げられたのだ」



近現代における金字塔となったのは、日露戦争における「コペルニクス的な大勝利」であった。欧米列強のアジア完全制覇の夢を打ち砕いたのは、この勝利に他ならない。

しかし悲しいかな、石炭から石油へと時代が変わる中で、日本は追い詰められていく。石炭は日本にあったものの、石油は日本になかったのだ。窮鼠となった日本はアメリカに噛みつき、そして敗れた…。



それでも国を失わなかったのはなぜであろう。

一時は日本語すら失われ、日本の貨幣・円をも消えゆく危機に立たされながら…。

やはり、そこには有名・無名の多くの日本人たちの国を護ろうとする尽力があったのであろう…。



◎色を付けられる歴史


歴代の王朝が変遷を繰り返してやまなかった中国という国家は、前時代の王朝の歴史を「上書き保存」してしまうのに長けた国家でもあった。つまり、過去を否定し、現在を正当化することを得意としたのである。

その時は荒唐無稽に思える主張ですら、正式な歴史書に記されて既成事実となってしまうと、後で読んだ人は「さもありなん」と納得してしまう。そして、受け入れてしまう。つまり、もし尖閣諸島を中国が支配することになれば、それはそれで後世には正当化される危険性があるということだ。世界にひかれている現在の国境線には、不当なものが山ほどあるのである。



今回の記事は、チベット亡命政府の記す歴史を元に構成されているが、その同じ歴史を中国政府が記すと、まったく別の風景が浮かび上がってくる。どちらの言い分にしろ、多少の色づけはやむをえないものの、やはり色を付けすぎているのは中国共産党のものであると感じずにはいられない。

時の政府は、真上から強い光をあてて歴史を記す。その結果、その陰は極端に暗いものとなり、いずれは忘れさられる。すっかり陰となってしまったチベット亡命政府、それが消え去るのであれば、その時にチベットの歴史は中国共産党によって上書きされることにもなるのであろう。



チベット僧たちによる抗議の焼身自殺は涙を誘う。

しかし、その行為を中国共産党は「テロ行為」としか記そうとしない。





それでも、チベットの高峰は静かなままである。

人の歴史はそれほどに儚いものなのか。

水の中から現出したというチベット高原が、その姿を地上に顕しているのも、ひょっとしたら一時なのかもしれない。



そして、チベットの観音様はすべてを知っているのであろう。

今も昔も、これからも…。






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出典・参考:
チベットを知るために(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
致知2012年7月号「他者のために生きてこそ、自己を超える存在となる」チベット亡命政府首相ロブサン・センゲ

posted by 四代目 at 07:32| Comment(0) | 領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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