2012年07月23日

賢人たちの道標となってきた「六然」の教え。


ホテル・オークラの隣にある「大倉集古館」には、勝海舟の書と伝わる「六然訓(りくぜんくん)」という掛軸がある。

「自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」

こうした掛軸などがあることで、「六然訓」は勝海舟の言葉とされることも多々あるが、正確に言うならば、この言葉は「明(中国)の崔銑(さいせん)」 という人物によるものである。



◎崔銑 (さいせん) という人物


硬骨漢として知られる彼は、平たく言えば「毒舌家」であり、その舌が災いして牢屋にブチこまれてしまう。というのも、崔銑が時の権力者・劉瑾(りゅうきん)に恐れもなく歯向かい、痛烈に批判したからであった。

時の権力者・劉瑾というのは、「専横いたらざるなし」と言われたほど情け容赦のない宦官であり、当時の人々からはたいそう顰蹙を買っていたのだという。その横暴に対して、心ある有志たちは度々の弾劾を試みるのであるが、その度に皆投獄されていったのである。



投獄されたとはいえ、崔銑に正義があるのは明らか。のちに陽明学の祖ともなる「王陽明」は、崔銑の投獄に大きく異を唱えた。

「諌官(かんかん)の地位にある者を捕らえるとはもってのほか!」

諌官(かんかん)というのは、政治や法律を定める時に、為政者に「忠言」を捧げる役職である。しかしながら、その諌官が暴君に対して忠告すると、決まって殺されるのも常であった(煮られるか、炙られるか、裂かれるか、斬られるか、獄されるか、毒を送られるか)。

それゆえ、死を覚悟して言葉を発する諌官には気骨のある者が少なくなかった。そして、その一人が崔銑 (さいせん)であったのだ。



◎崔銑、王陽明に諭す


王陽明による援護は虚しく終わったどころか、彼までもが投獄の憂き目に遭ってしまう。

こうして、期せずして獄中で相まみえることとなった崔銑と王陽明、この時に崔銑が王陽明に語ったとされる言葉が、冒頭の「六然(りくぜん)」である。



自処超然(自ら処すること超然・ちょうぜん)
処人藹然(人に処すること藹然・あいぜん)

有事斬然(有事には斬然・ざんぜん)
無事澄然(無事には澄然・ちょうぜん)

得意澹然(得意には淡然・たんぜん)
失意泰然(失意には泰然・たいぜん)





◎感奮興起させる寸言


6つの「然(ぜん)」が韻を踏む「六然(りくぜん)」。

この六然を座右の銘とした「安岡正篤(やすおか・まさひろ)」氏は、こう語る。「寸言こそは人を感奮興起させる。六然訓などはその最たるものである」と。



安岡氏にそう言わしめる以上に、この詩歌は美しい。

訓戒としての実用性もさることながら、整いすぎるほどに整然と列挙された各語句には、微塵の無駄もない。そして、対比された語句の鮮やかさは見目にも心地良い。



◎自処超然・処人藹然


最初の対比は「自分と他人」である。

自分には「超然」、他人には「藹然(あいぜん)」。具体的には、「自分のことばかりに固執し過ぎず(超然)、他人と和めよ(藹然)」となる。「超然」というのは、「一歩離れて客観的になる」ということであり、「藹然(あいぜん)」というのは、「グッと近づいて主観的になる」ということである。

※「藹(あい)」という言葉自体の意味には、「まめまめしい」などがあり、和気藹藹(わきあいあい)という語句の中にも見れれる。「藹然」となると、とても和やかな様を表す。



一般的には、自分を中心に、そして他人をその外側にと考えるものであるが、六然においては、その逆のことを言っている。「自分から離れ、他人に近づけ」と。

超然と藹然の対比は、その距離感の対比であり、自他の「間合い」の妙を示すものでもある。



◎有事斬然・無事澄然


次の対比は「有事と無事」。すなわち、「何事か起こった時(有事)」と「何事もなき時(無事)」の比較である。

何事か起こった時(有事)には「斬然(ざんぜん)」、刀で一刀両断するがごとく明らかな断を下す。それに対して、何事もなき時(無事)には「澄然(ちょうぜん)」、澄んだ水面のごとく静けさを保つ。



「斬然」と「澄然」は、その激しい動きと静けさの対比であると同時に、斬るという「縦の動き」と水面のような「横の静けさ」、つまり「縦と横」の対比をも感じさせる。

似た言葉に「疾きこと風の如く、静かなること林の如し」というものがあるが、こちらの場合は、動き(疾さ)を横に吹く風で表現し、静けさを縦に林立する林に例えている。

どちらが縦で、どちらが横にせよ、縦と横が「動と静」の象徴となっていることは興味深い。



◎得意澹然(淡然)・失意泰然


最後は「得意と失意」、「調子の良い時」と「落ち込んだ時」の対比である。

そのシチュエーションは両極端であるものの、それらに対する心の反応は「淡然(たんぜん)」と「泰然(たいぜん)」、双方ともに「落ち着き」を表す同義語。すなわち、調子の良い時も、落ち込んでいる時も心はつねに同じ落ち着きを保っているのである。

この点、それまでの対比とは大きく異なる。なぜなら、これまでの対比が「超然・藹然(離れ・近づく)」、「斬然・澄然(激しさ・静けさ)」という両極を示すものであったからだ。

つまりは、最後の最後で、心の状態が「一つ」に収まるということか。



◎陽明学


この崔銑(さいせん)が諭した六然(りくぜん)、それが王陽明の心にどう響いたのか? のちの王陽明は自らの思想を「陽明学」として大成させることになる。

「陽明学」という学問を分かり易くいうなれば、それは「心の宿った学問」ということになる。当時の中国で主流だった学問は「朱子学」であり、この学問はいうなれば現代の科学のようなもの、「理」に徹しすぎるきらいがあり、その心は失われがちであった。

王陽明にとって、朱子学のいう「理」は理解し難いものであった。朱子学は「一木一草に理ある」と言うのだが、その理はどうしても心の外にあるように王陽明には思えて仕方がなかったのだ。



たとえるならば、朱子学のいう「理」は池にたまった水のようなものに過ぎず、その水が枯れれば無くなってしまうものであった。それに対して、王陽明の求めた「理」はその内側に心を持つがゆえに、枯れることは決してない。それはあたかも、コンコンと湧き出てやまぬ山の泉のように…。

より具体的に言えば、朱子学の理は「教科書の中」にあり、陽明学の理は「実践の場」に求められたのである。

よく知られる「知行合一」というのは王陽明の教えであり、知識は実践されてはじめて活かされると考えられた。この点、形骸化してしまった朱子学という学問の知は、王陽明にとって「用を為さぬもの」でしかなかったのである。





◎六中観


安岡正篤という人物は、明治・昭和を生きた日本の陽明学者(1898〜1983)である。冒頭にも述べたように、彼は王陽明のみならず、六然(りくぜん)を唱えた崔銑にも心酔していた。

安岡氏の「六中観」というのは、崔銑の六然にインスパイヤーされたものである。

忙中、閑あり。苦中、楽あり。
死中、活あり。壺中、天あり。
意中、人あり。腹中、書あり。

忙しさの中にもヒマを見つけ、苦しい中にも楽しさを見出す。
もうダメだと思ったところにも活路はあり、暗いツボのような状況でさえ、その真上には小さいながらも天はある。
心の中に理想となる人物像を持ち、知識は自らの腹の中に修めておこう。





とりわけ、最後の「腹中、書あり」という部分は、陽明学の教えそのものであろう。

知識は机の上に置いておくだけでは用を為さない。それを噛み砕いて、腹の中に飲み込んでおかなければ、活きてはこないと、安岡氏は言っている。その知識は「頭の中」ではまだダメなのであり、行動・実践することで「腹の中」へと収めるのだ。

「こうした精神の陶冶、生きた学問になりますと、急場の間に合わせうとしても駄目なものでありまして、平素から備えておかないといけません」



◎悟るとは


早朝に勉強することが多かったという安岡氏。ほのぼのと夜が明けてくる頃に、お茶をたてて頂いていると、空が白むにつれて、薄ぼんやりと庭のアヤメが見えてくる。

「なるほど。悟るとは心の闇が白んでくることか。暁は『さとる』とも訓ずる」

人生の晩年にあった安岡氏であったが、そのアヤメの白む様を見て、自らがようやく「人生の暁」に達したような実感を得たのだという。



そして、次の一口をすすった時、「了」という字も「さとる」と読むことに気がついた。

「なるほど。悟るとは『了(おわ)る』ということでもあったのか。悟った頃には人生がもう終わる。そんな風に人生はできている」

悟れば終わるのであれば、もう少し迷っておくのも悪くないと彼は思い直し、「学ばぬといかん」と心新たにしたという。





◎世の乱れ


陽明学というのは不思議な学問で、その姿を表舞台に表すときは、決まって世の乱れた時である。

王陽明がその学問を確立したのも、腐ってしまった朱子学へのアンチテーゼであった意味合いが強い。ちょうど、明という大国も下り坂に差しかかる頃で、北の大地からはモンゴル、海からは倭寇などが度々の侵攻を繰り返していた(北虜南倭)。そして、国内の政治は宦官・劉瑾に牛耳られていたのである。



日本で言えば、幕末に乱を起こした大塩平八郎は陽明学者であり、それは前年の大飢饉(天保の大飢饉)により飢えた農民たちを救うためでもあった。その後、明治維新の傑物を続々と排出することとなる松下村塾、その塾長・吉田松陰も陽明学者であった。

時代は下り、近年の陽明学の大家・安岡正篤氏の生きた時代も、日清・日露、そして2度の世界大戦が起こった激動の時代であった。

歴史上に幾度か浮上する陽明学。何よりも「実践」を重んじるその信奉者たちは、机の前に座したままでいることを良しとせず、敢然と世の乱れに立ち向かってきたのである。その果敢な様は、六然にいう「有事には斬然」そのものではあるまいか。



◎行き過ぎれば…


「理」が過ぎれば「心」忘れ、世は乱れる。

数字を巧みに操るウォール街でデモが起こるのも、故なきことではないのだろう。

科学も行き過ぎれば、その善意が悪と化す。



六然(りくぜん)に込められた想いは、極端に走りがちな人の心を戒めるものなのでもあろう。

「我良かれ」ばかりでなく和気藹々(自処超然・処人藹然)、何事もなければ極めておとなしく、事ある時のみ決然と立ち上がる(有事斬然・無事澄然)。そして、いかなる状況にあっても、心は平穏(得意澹然・失意泰然)。



陽明学の大家・安岡正篤氏をもってしても、「なかなかに思うに任せませぬ」、その心。

泰然へと至る道は、はるか彼方に霞むばかり…。



はたして、現代文明というのは「池の水」なのであろうか、それとも「山の泉」なのであろうか?

それは、その中心に何を据えているかで決まるものなのかもしれない…。







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出典・参考:
【そもそも人間学とは何か】六然と六中観
posted by 四代目 at 12:49| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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