2012年06月19日

孤高の里「祖谷(徳島)」。平家の伝説とともに。


四国のヘソのヘソ、奥の奥と言われる「祖谷(いや)」。

「平家の隠れ里」とも言われるだけあって、その谷の深さはまことに浅からぬものがあるようだ。

2億年もの間、吉野川の激流が削ってきたという「大歩危(おおぼけ)」「小歩危(こぼけ)」という渓谷、その名の由来はそれぞれ、「大股で歩くと危ない」「小股で歩いても危ない」と言い伝えられているほどである。



そうした断崖絶壁に渡されたのは、カズラ(つる)で作られた「かずら橋」という吊り橋のみ。

ひと一人が渡っただけでも、また、よそ風がそよいだだけでも揺れるというカズラ橋。徳島に伝わる民謡には、こう歌われている。「♪祖谷のカズラ橋ゃ〜、蜘蛛の巣の如く〜、♪風も吹かんのにユラユラと〜、♪風も吹かんのにユラユラと〜」

平家の落ち武者も、この吊り橋を切り落としてしまえば、源氏の追っ手を谷の向こうに立ち往生させることができたのだとか。




その深い深い渓谷の向こうの里、祖谷(いや)。

江戸時代の石碑には「祖谷、我阿州之桃源也(祖谷は阿波藩の"桃源郷"である」と記されている。俗世から切り離されたような祖谷に初めて足を踏み入れた人々は、そんな感慨をも抱いたのであろう。

ある人はこの地を「日本のチベット」と呼び、またある人は「日本のマチュピチュ」とまで呼んだ。



そして、アレックス・カー(Alex kerr) は「日本のグランドキャニオン」と呼んだ。

日本をこよなく愛する彼は、その書にこう記す。「祖谷峡は、日本で一番深い峡谷です。川は阿波石のためエメラルド色に染まり、聳え立つ岸壁は玉のよう。そして、谷の向こうの山からは白い滝が、まるで筆で書いたようにまっすぐに流れ落ちていました」

祖谷の地に一発で魅せられた彼は、この平家の落人の里に民家を買って、それを「城」と称して暮らしていた時期があったのだという。

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自然が生み出した険しさにより、祖谷の地は否が応でも人の俗世から隔てられてきた歴史がある。アレックス・カーの言うように、祖谷は「仙人の住処」のようであったのだ。この隔世の地は、平家にとっては格好の「逃げ場」だったのであり、現代人にとっても「失われてしまった何か」を彷彿とさせてくれる不思議な土地なのだという。

何億年も人を拒んできた祖谷に、人の影が見え隠れし始めるのは、およそ1200年前。その開祖と伝わるのは、「恵伊羅御子(えいらみこ)と小野老婆(おののおば)」である。現在、「お山さん」の墓に祀られている両人は、奈良時代の中期に「農耕とハタ織り」の技術をもって、紀州(和歌山)の熊野からこの地へと渡ってきたのだという。



そして時は下り、平安時代の末期、源平の激しい合戦の末、平教経(のりつね)が祖谷の渓谷に落ちのびてきたのだと、土地の人々は口をそろえる。この地に代々伝わる「阿佐家」というのが、その由緒ある末裔なのだという。

祖谷に落ちのびてきたという平教経という人物は、平清盛の異母弟・平教盛の次男であり、「たびたびの合戦で一度の不覚もとったことがない」と言われるほど、平家随一の猛将であった。

彼が平家物語に姿を現すのは、平清盛亡き後、平家が源義仲に都を追われるシーンからである。足利義清に追討される平家を奮い立たせたのは、この平教経。先頭に立って奮戦し、ついには追討軍の大将・足利義清を自害に追い込み、大勝する(水島の戦い・1183)。



また、源氏方のヒーロー・源義経の最大のライバルとされるのも、この平教経(のりつね)である。

源義経によって急襲された「屋島(やしま)」にあって、「王城一の強弓」で名を馳せた平教経は、その自慢の弓に矢をつがえ、源義経の四天王の一人、佐藤継信を射抜いている。

また、源平最後の大戦となる「壇ノ浦の戦い」では、源義経をすんでのところまで追い回し、追い詰められた義経は舟を飛び飛び逃げるよりほかになかったのだという(八艘跳び)。



この剛の者・平教経(のりつね)は、不思議なことに3度死んでいる。

一度目は、一の谷の合戦で討ち死にしており(吾妻鏡)、二度目は、壇ノ浦の戦いで源義経を追いつめ損ねた後、三十人力で知られた敵方の安芸兄弟を両脇に抱えたまま、もろとも海に沈んでいる(26歳・平家物語)。

そして、三度目は祖谷の地に落ち延びた後、20年してからこの地で息を引き取っている。



歴史上には「死ぬはずがない」と信じられ、伝説的な生存説を生み出す武将がいる。源義経がそうであり、そのライバル・平教経もそうなのである。

一の谷でも死なず、壇ノ浦でも死ななかった平教経は、同じく壇ノ浦で入水したはずの「安徳天皇(当時6歳)」をその窮地から救い出し、祖谷の地へと逃れ落ちたと伝説は語る。



平教経は、安徳天皇とは別ルートで四国に落ちのび、両者は「剣山(徳島)」の山頂で落ち合ったのだという。

その剣山の山頂で、安徳天皇がやおら取り出したるは「三種の神器」の一つとされる「宝剣」。そして、その宝剣を山頂の宝蔵岩に埋めて、平家の復興を祈願したと伝わる。この宝剣は、壇ノ浦の合戦の際に海中に没したとされるものであり、源氏方が血眼になって海底をさらっても、一向に出てくる気配のなかったものである。

※標高1955mの剣山(つるぎさん)は、四国地方第2の高峰であり、現在は百名山の一つとされている。この山名の由来が、この安得天皇ゆかりの宝剣にあるという説がある(それ以前の山名は石立山といった)。



祖谷に入った平教経は、その名を初名であった「国盛」と変え、平国盛と称するようになる。

その後、平国盛の長男・氏盛が「阿佐」の姓を名乗り、それが現在の阿佐家につながるのだという。第23代となる現当主の阿佐道彦氏は、家宝として「平家の赤旗(大小二旒)」をはじめ、家系図や宝刀などを代々受け継いできている。



この阿佐集落にある鉾神社は、平国盛が鉾を納めて社を建てたものであると伝えられ、現在、その中には安徳天皇と平国盛の木像が安置されている。

また、境内にそびえる幹回り10m以上の杉の巨木は樹齢800年以上といわれ、その杉はほかならぬ平国盛が植えたものだということから、「国盛杉」と呼ばれている。

他にも、落ちのびた平家一行がこもったという岩窟は「平家の岩窟」と呼ばれていたり、安徳天皇が装束をかけられたという「装束石」、鉾を立てかけたという「鉾立て石」などもある。

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しかし、敗者となった平家は、祖谷の閉ざされた地にあってなお、世を忍んで生きねばならなかった。

平国盛の墓と伝わるのは、「伏せ墓」と呼ばれる森の中の単なる石積みであり、そこに家名はない。それは子孫の永続を願った国盛が「名を消して墓に入れ」と遺言したからなのだという。



平国盛はこの地に隠れ住み、その後の20年を生きたとされるが、まだ子供であった安徳天皇は、不幸にも祖谷に入った翌年に、病気のために崩御されてしまう。時の激流の中、わずか3歳で天皇に即位した安徳天皇。たとえ壇ノ浦を生きのびたとしても、平清盛の孫という血脈は悲しくも薄幸であった。

歴代最年少で崩御された安徳天皇は、「栗枝渡八幡神社」に祀られ、社殿のかたわらの「御火葬場」は聖域とされた。不思議なことに、その聖域の四方にはどんな大雪でさえ降り積もらなかったという。また、村人たちは「その聖域の入ると腹痛が起こる」といって、無闇に近づくことすらできなかった。幼い天皇は、腹痛にでも苦しめられていたのだろうか…。



安徳天皇と平国盛は、祖谷(いや)に籠もったわけだが、平国盛の妻・海御前は夫と離れ放れとなり、九州・福岡へと流れ着いた。そして、その地で「河童」に化身したという言い伝えが残る。ほかの女官たちも河童と化し、従った武将たちは「平家ガニ」と化した。

その河童たちが最も恐れたというのが、ソバの白い花だったという。「白」という色は源氏の象徴であり(平家は赤)、その色に源氏の影を見たのであろうか。




祖谷に逃れた平家の落人たちは、隠れ里に身を潜めながらも、いつの日かの再興を信じて、武芸の鍛錬を怠ることがなかったようである。

剣山の平坦な山頂は「平家の馬場」とも呼ばれ、かつて馬の調練が行われていたことを偲ばせる。また、「百手神事」として伝わるのは、ひたすら矢を射る神事である。百手(ももて)というのは、源平盛衰記にみられる記述で、200本の矢を100回に分けて射ることを意味する(甲乙2本の矢が一手)。

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こうして、平国盛以来の剛の気風は、その子孫にも脈々と受け継がれていく。そして、隔絶した土地柄に加え、平氏 であるという誇りが、彼らの「独立心」をより揺るぎのないものとしてゆく。

南北朝時代には、「阿波山岳武士」と呼ばれる勢力を築き、圧倒的な大勢力の北朝に対して、祖谷のみに孤立してなお、頑強な抵抗を続けている(のちに所領安堵)。



戦国時代には、阿波の三好氏にも、土佐の長宗我部氏にも従わず、豊臣秀吉の四国平定になって、ようやく領地を明け渡している。

祖谷の地に入った蜂須賀家政は、平国盛の末裔とされる阿佐家の守ってきた「平家の赤旗」を「大変貴重なものである」と認め、それを掛け軸にして後世に遺すように命じたのだという。

それが、現在の阿佐家に伝わる門外不出の家宝「平家の赤旗」である(当時は茜染めによる見事な赤色だったというが、現在は黄色く変色してしまっている)。

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江戸時代になっても、祖谷の人々は質実剛健を重んじる独自の気風を守っていたのだそうな。その気風は現代にも残り、「内にあっては協調性を重んじ、外には大変に厳しい」というのが祖谷という土地柄なのだという。

つい最近までは道路もなかったというこの地は、ほとんど「独立した国」であり続けたのだ。



しかし、険しい山々に閉ざされた地で生きていくことは、そうそうに容易なことではない。一人離れ、また一人離れ…、今の祖谷に暮らす人々はそう多くはない。山の恵みは豊かなれども、その恵みは「死なない程度に生かしてくれる」という謙虚なものなのである。

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山の斜面にへばりついたような祖谷の各集落は、平坦な土地に乏しく、土を上へ上へ耕していかねば、土が谷へ谷へと流れ落ちてしまう。幼な子などは、木にでもくくりつけておかなければ、コロコロと川へ転げ落ちてしまうほどである。

この険しさゆえに、「誰も祖谷には手をつけられなかった」のであり、その地は外部の者には「桃源郷」のようにも見えたのであろう。

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祖谷を初めて見たアレックス・カーは、こう言っている。「当時の祖谷は、まるでおとぎ話の世界でした」。しかしそれは、彼が言うように「ギリギリのタイミング」であったのであり、「消えゆく間際」だったのである。

世間から離れすぎた祖谷は、再び人を遠ざけ、雲の上に戻ろうとしている。祖谷を現世につなぐ吊り橋「かずら橋」の材料となるカズラは、十分な太さを持つものが少なくなりつつあり、その架け替えは困難になりつつある。そして、祖谷の集落には子どもがめっきり少なくなった。

諸行無常…、祖谷の地に生きてきた人々の思いは、いかなるものか…。





美しき日本の残像
アレックス・カー




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出典:新日本風土記 「祖谷 大歩危」
posted by 四代目 at 12:05| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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