「世界の人々のほとんどは、『イランの素晴らしさ』を知りません。皆、イスラム革命(1979)後の30年間のイランだけを見て、判断してしまっているのです」
ノーベル平和賞(2003)を受賞しているイラン人弁護士、シリン・エバディ氏は、そう語る。
「核兵器を製造しようとしているテロリスト予備軍」というイランの烙印は、欧米諸国により押されたものであり、それゆえに、そればかりを鵜呑みにしていては、現実を誤認してしまうというのである。
当のイラン人たちは、こう口を揃える。「私たちはアラブ人ではないし、ましてや、テロリストでもない」。イラン人の中には、自分たちが「ペルシャ人の末裔である」と強く意識している人々も少なくないという。
我々が「イラン」という国を少しでも正しく認識しようと思うのであれば、同国の歴史を多少なりとも知る必要がある。
歴史的に、イランは「ペルシャ」であり、イランが正式名称となったのは20世紀に入って以降、つい最近の話である。
この国には、古代のペルシャ帝国から脈々と受け継がれてきた「2500年にも及ぶ長大な歴史」が今も息づいているのだ。
ここに、その全ての歴史を見守り続けていた遺物がある。それは、イランの国宝とも讃えられる「キュロスの円筒印章」である。
ラグビー・ボール大の、この日干し粘土づくりの物体の表面には、びっしりと楔形文字が刻まれており、そこには驚くべき知見が記されている。進化したはずの現代社会においても、実現できていない理想が…。

この円筒印章が作られたのは、紀元前6世紀ごろ。
それは、アケメネス朝ペルシャの初代国王(諸王の王)「キュロス」が、戦わずしてバビロンに入城した頃であった。
のちに名君となるキュロスも、もともとは小国(アンシャン)の王にすぎなかったわけだが、従属していたメディア王国に反旗を翻した時から、物語は始まった。
キュロスの宗主国であったメディア王国というのは、じつはキュロスの祖父がその王であったが、外交政策における意見の相違から、縁深かった両国は泣く泣く決別したのである。
そして、その戦において、キュロスは祖父を生け捕りにすることになる。
敵味方に分かれたとはいえ、キュロスは祖父を決して手荒には扱わなかった。祖父を王者として手厚く遇してやまなかったのである。
これは、「たとえ肉親でも容赦なく殺害する」のが普通だった紀元前の時代にあっては、稀有のことであった。この時代は、日本でたとえるならば戦国時代のように、親が子を殺し、子が親を殺す殺伐とした世の中だったのである。
こうしたキュロスの「寛大さ」は、周辺諸国にはついぞ見られることのなかったものであり、のちに彼が大帝国を築く礎ともなっていく。
その後、キュロスは「不死身の一万人(不死隊)」と呼ばれた最強軍団を率いて、周辺諸国を席巻してまわり、その最後の仕上げとして、「新バビロニア王国」に兵を向ける。
当時のバビロニア王(ナボニドゥス)は、完全に民衆の信頼を失っており、キュロスがその城下に迫った時、その城門は戦うことなく、自然に開かれたのであった(紀元前539)。
キュロスの軍門に下ったバビロニア王は捕虜とされるも、彼が冷遇されることはなかった。キュロスは「王の礼」をもって彼を遇し、彼が没した際には、盛大な国葬までを行っている。
ペルシャ王国は、世の常である戦いによる征服という手段をとりながらも、その後の統治はじつに「寛大」であった。多民族、多宗教、多文化、それらを排除することなく、すべて飲み込んだのである。
徳高きキュロスの元には、水が自然に流れ込むかのように、人々は集い、王国は力に満ちていく。
その結果、このペルシャ王国は、世界初の巨大帝国を築くことになるのである。その版図は、現在の中東地方全域を足下に収めるほどに広大であった。

1879年に発掘された「キュロスの円筒印章」というのは、その名君・キュロスを讃えすぎるほどに、讃え上げた文言で埋め尽くされている。
「全宇宙の王、偉大な王、世界四方の王…」
もっとも、こうした誇大な修飾語句にさほどの意味はない。より重要なのは、その内容である。
キュロスの円筒印章には、民族の自由、宗教の自由が明言されており、奴隷は解放され、あらゆる種類の弾圧を禁じている。
その内容は、1700年以上のちのイギリスのマグナカルタ(大憲章)よりも「真の自由」について深く言及しているといわれ、2300年後のアメリカ独立宣言の理想とされたのだという。
実際、アメリカの独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは、キュロスの熱心な信奉者だった。
2500年後の現代社会においてすら、「民族の自由」や「宗教の自由」は我々の
乗り越えられない大きな課題となっているのに、紀元前に生きたキュロスは、その理想をいち早く掲げていたのである。
アメリカが奴隷を解放できたのは、いつだったか? キュロスが奴隷を解放した2400年後ではなかったか。

キュロスは単なる理想家ではない。
彼は実際にバビロニア王国に囚われていた人々を解放し、あらゆる民族の習慣を認め、いかなる宗教をも尊重したのである。
その関大さゆえに、彼の築き上げた理想の大帝国は、その後、200年の栄華に浴することになる。
この高徳な王・キュロスは、現代のイラン人の理想であり、彼らがその末裔であることを誇るのは当然のことである。
それは、中華民族が自らを偉大なる「大漢帝国」の末裔であることを自認することと同一のことであろう(漢民族、漢字…)。
本国、日本においてのそれは「大和朝廷」ともなりえようか(大和魂、大和撫子…)。
ところで、かくも大昔のペルシャ帝国・キュロス王の「寛大さ」が世に長く語り継がれてきたのは、冒頭の遺物「キュロスの円筒印章」の功績ではない。
このラグビー・ボールのような遺物が発掘されるのは、ずっと後の世の1879年であり、キュロス王のアケメネス朝ペルシャが滅んで、2200年も後の出来事である。
それでは、誰がそれを語り継いできたのか?
それはユダヤ民族である。
ユダヤの民は、かつてバビロニア王国に征服されて捕らわれの身となったことがあった。これは、かの「バビロン捕囚」と呼ばれる史実である。
この出来事は、歴史上で苦難続きのユダヤ民族にとって、最初の大きな試練であり、バビロニア王国によるその抑圧は70年以上も続いた。
涙なみだのユダヤ人たちが捕らえられていたバビロンに颯爽と姿を現し、その城を無血開城させた人物といえば…、それはペルシャのキュロス大王であった。
寛大なるキュロス王は、ユダヤの民を解放するのみならず、バビロニアによって奪われていたエルサレムの神殿の黄金の器を彼らに持たせ、護衛の兵をつけて祖国まで送り届けた。そして、かつての地に神殿を再建させたのである。
※こうした寛大な措置は、なにもユダヤ民族だけにもたらされた恩恵ではなく、ほかの民族や宗教に対しても同様で、バビロニアが奪った神の像を送り返したりしている。
ユダヤ民族にとって、キュロス王には感謝してもしきれぬ想いがあり、この解放を丁寧に旧約聖書に記し、後世に伝えたのである。
キュロス王は、日本人にとっては馴染みの薄い存在かもしれないが、欧米世界においては、その聖書を通じて「古代の理想的な王」として広く知られているのである。
※ギリシャの歴史家・クセノフォンが記した「キュロスの教育」には、キュロスが偉大な統治者であることが述べられており、それ以降のヨーロッパ文化では、キュロスは「模範的な為政者」ともされるようにもなっている。
そして、「キュロスの円筒印章」の発掘は、聖書の中の伝説と思われていたキュロス王の実在を裏打ちすることともなるのだが、それと同時に論争の的ともなってゆく。
まず、発掘したのが大英博物館の調査隊であったため、このラグビー・ボールのような遺物は、イギリスへと持ち去られた。さながらロング・パスのごとく…。
これはペルシャ帝国の末裔を誇るイラン人にとって、心穏やかな出来事ではない。彼らは「キュロスの円筒印章」の返還を切望し続けたが、その念願が叶うのは、130年以上も後のこととなる。
当時のイギリスは、世界中に植民地を抱える大英帝国として絶大な権力を行使していた。
そして、その傲慢さからか、イギリスは「バルフォア宣言(1917)」という、のちの中東世界に大問題を巻き起こすトンデモ宣言をしてしまう。
その宣言の具体的な内容は、国を失っていたユダヤ人たちに、「イスラエル」の
建国を約束するものである。
ヨーロッパに散り散りになっていたユダヤ人たちは、このバルフォア宣言に狂喜し、時のイギリス王・ジョージ5世を、かつてバビロン捕囚から解放してくれたキュロス王の肖像画と並べて讃えたほどであったという。
このバルフォア宣言が問題となるのは、ユダヤ人にイスラエルの建国を約束したこと自体ではない。
問題となるのは、この約束と同時に、イスラエルと同じ場所を「アラブ人」に与えると約束してしまっていたことである(フセイン・マクマホン宣言)。
要するに二枚舌、ダブル・ブッキングである。現在のイスラエルとパレスチナがドンパチを続ける原因の一つは、ここに求められるのである。
中東地域を巡る情勢は、複雑怪奇にもつれ合っているが、話の流れから単純に割り切れば、「ペルシャ人」「アラブ人」「ユダヤ人」によるイザコザとも言える。
古くから中東地域に生きてきたこの3者は、歴史上(今なお)、土地を取ったり取られたりの争いを繰り広げ続けてきた。
キュロス王のユダヤ人に対する寛大さのおかげで、ユダヤ人とペルシャ人というのは、基本的に良好な関係といえる。
しかし、イスラム教を掲げたアラブ人に対しては、ユダヤ人・ペルシャ人の双方とも、あまり好ましい感情は抱いていない。
イスラエルとパレスチナが「犬猿の仲」なのは、それはユダヤ人とアラブ人の対立という構図である。
また、ペルシャ人の大帝国を征服したのはアラブ人だ。そして、ペルシャ人の末裔たる現在のイランにおいて、1979年のイラン・イスラム革命以降、政権を担っているのは、イスラム系(アラブ)である。
現在のイスラエルとイラン(ペルシャ)が仲違いしたのは、イランがイスラム政権に支配されて以降の話である。
こうした民族や宗教の違いによる二重、三重の対立が、中東地域で起こっていることは、まったく歴史の皮肉である。
なぜなら、古代時代に同地域を支配していたペルシャ帝国は、「キュロスの円筒印章」が語るように、民族や宗教の違いをすべて容認して繁栄した超国家であったのだから。
中東の地が世界に先駆けて繁栄したのも、そして、最も戦禍に苦しみ続けているのも、それはひとえに「豊かすぎた」からなのかもしれない。
メソポタミアという自然風土に恵まれた地域は、食糧の増産が容易であったため、はやくから文明の芽が花開いた。古代においては最高の資源であった「鉄」や「木材」も豊富で、その文明はますます進み、学問も深化してゆく。
現代においても、「石油」という時の資源が足元に眠っていてくれたおかげで、今なおその恩恵の元に国家を運営することが可能になっている。
こうした豊かさは、まさに「両刃の剣」だったのであろう。
富む一方で、それを争ったのだ。
この地域ほど権力者たちの「草刈り場」となった地域も珍しい。かつてはローカルだった争奪戦も、大航海時代以降は、まさにグローバルである。
そんなイランには「タアロフ」と呼ばれる処世術があるという。
タアロフとは、「自分がへりくだることで、相手を讃える」というペルシャ以来の伝統である。それゆえ、イラン人たちは客人を最高にもてなすのだという。彼らは人を喜ばせるのに一生懸命なのだ。
タアロフはとても好ましい慣習ではあるが、うがった見方をすれば、これはイラン人たちの「生き抜く知恵」でもあった。
「誠意を尽くして、相手との波風を立てないように努めるが、自らの本心は決して明かさない」
歴史上、常に危険にさらされ、度重なる侵略を受け続けたイラン人たちは、じつに用心深い側面を内包し、彼らが本当の姿を他人に見せることは、まずないのだという。
陸続きの大陸の大動脈に位置していたペルシャ人たち。彼らにとっては、逃げる場所も隠れる場所もなかった。「国にとどまって、侵略者とうまく共存していくしか道はなかった」のである。
ペルシャ帝国のキュロス王は、もとは小国の王であっただけに、その辺の機微を熟知していたのかもしれない。
それゆえに、民族や宗教を排除する道ではなく、すべてを受け入れる道へと進んだのであろう。
キュロス王は、強いばかりではなく、弱さを知っていただけに、不遇なユダヤ人たちの涙を見過ごすことがなかったのだ。
彼のペルシャ帝国(アケメネス朝)は200年の繁栄ののち、マケドニアの王・アレクサンダーによって灰塵に帰すことになる。
しかし、ペルシャの征服者となったアレクサンダー大王は、ペルシャの先進性を軽んじることができなかった。彼は結局、ペルシャの文化や行政制度を採用することとなるのである(妻もペルシャ人とした)。
ペルシャは滅んだといえど、その魂は歴史にとどまり続けた。
よく言われるように、ペルシャを征服したはずのアレクサンダー大王は、逆に「ペルシャ化」されたのである。
ペルシャ人たちは土地を奪われてなお、侵略者に同化されることはついぞなく、幾多の侵略者たちを「ペルシャ化」してきたのである。
アラブ人に支配されたとはいえ、ペルシャ人たちに言わせれば、「アラブ文化と呼ばれるものは、ペルシャの受け売りだ」となる。
ペルシャ人の魂は、タアロフにより守られ続けたのであろう。表面上は相手に支配されたとしても、その本心が揺らぐことは決してなかったのだ。
ペルシャ人のお気に入りの神話は、フィルドゥシーの「王の書(シャー・ナーメ)」に登場するロスタムという戦士である。
倫理的に正しいのは決まってロスタムである。しかし、かれは無能な支配者に仕えなければならないというジレンマに苦しむのである。
ペルシャ人が守り続けた鉄のように堅い魂は、2500年という時の流れに抗い続けて現存する「キュロスの円筒印章」のイメージと重なってくる。
ペルシャ人の魂は目には見えぬけれども、「キュロスの円筒印章」はそれを実在化させたもののようにも思える。
「イランという国の真の姿を知りたいのなら、『キュロスの円筒印章』を理解することです」とシリン・エバディ氏(冒頭のノーベル平和賞受賞者)が言うのも、ペルシャ(イラン)歴史の一端を垣間見れば、十分に納得のいくところである。

歴史は手を変え品を変えながら、堂々巡りを繰り返しているのであろうか?
古代のペルシャはバビロニアと敵対したわけだが、それを現在の地図上で見れば、イラン(ペルシャ)とイラク(バビロニア)の戦争とまったく同じ構図である。
言うなれば、イラン・イラク戦争の種は2500年前にまかれていたのである。そして、いまだその帰結は見ていない。
ユダヤ人(イスラエル)はどうか?
バビロニア(イラク)に捕囚されたのは、2600年も昔の話でありながら、いまなおアラブ人(パレスチナ)との折り合いを見つけられずにいる。
それぞれの歴史の転換点には、決まって「キュロスの円筒印章」が現れた。
イラン・イラク戦争において、種々の民族からなるイラン国民を一致団結させるための象徴として選ばれたのは、ほかならぬキュロス王である。
そして、イスラエルがイギリスにより建国を約束されたときも、キュロス王は登場している。
歴史が足踏みを続ける限り、「キュロスの円筒印章」は人類にとって必要とされ続けるのかもしれない。
2500年前を経てなお、「キュロスの円筒印章」に刻まれた言葉は、恒久的には成就していない。この言葉が成就するまで、キュロス王は死んでも死にきれないだろう。
「キュロスの円筒印章」が2500年も生き続けたという奇跡には、それ相応の意味があって然るべしである。

今、国連には「キュロスの円筒印章」のレプリカが掲げられている。
しばらくは砂漠の下で休息していた「キュロスの円筒印章」は、再びこの世に必要とされている。
この物体は、今の世界を見つめて何を想うのか?
「キュロス王のいた頃は、よかったな…」とでも思うのであろうか…。
物語 イランの歴史
―誇り高きペルシアの系譜
関連記事:
低く建てられた首里城(沖縄)の意味するものは?平和を求めた水平感覚。
今なお「バベルの塔」の高くなり続けるような現代文明。何千年も変わることのない人間の欲望が…。
支配層の都合により民族は分断され、「20世紀最大の大虐殺」は引き起こされた。美しき国「ルワンダ」。
出典・参考:
TED talks
二ール・マクレガー: ある物体 2600年の歴史
National Geographic「追憶のペルシャ」


ぼくの知らないことばかり
読んでる途中で
高校の世界史の先生を思い出した
臨時教員でした
熱意が凄いので
結構引きこまれていました
他の同級生が
例えば、アッバース朝とか
何度も唱えるもんだから
知らぬ間に、覚えちゃいましたね
私のような、浅学の身にとっては
高校で勉強するレベルの世界史を
思い返すと、決まってぺルシャ人なんですね
イスラム化した後も
イブン・バトゥータとか
「三大陸周遊記」だったかな
いい官僚も輩出していると記憶しています
イスラム教の「寛容」とは、一味も二味も
違いますね
ぼくは、さっきわたしって書きました?
ま、矢切りの渡し?
それは、置いといて、と
わたしは、そもそもシーア派が
正統でしょうって、思っていましてね
正統カリフ時代の後
ウマイア朝が成立するしました
うん、うまい
先生にそう覚えなさいって
ザマを見るのは、カルタのハンニんだぞって
どうしょうもなく、いい先生でした
名前も、顔も覚えていますけれどもね
伏せときます
あの不可思議な先生は、少なくとも
ぼくの、あ、高校生みたい?
記憶の中に息づいている
懐かしな
本題に戻らせて下さい
わたしは、やっぱりシーア派が正統的なんじゃないかなって
思うんですよね
アラブ人の方には、申し訳ありませんけれども
ムハンマドの時代は、確かクライシュ族でしたかね
今風に言うと、政治・経済・軍事・宗教
一人で622〜632でしたかね
の間に手中に収めてしまったわけです
でも、彼の死後、割りと彼の末裔は冷遇されてきた
第四代カリフ、アリーの暗殺?で
正統カリフ時代は、終焉を迎えた
アリーの嫁が、ムハンマドの末裔じゃなかったかな
アラブ人の商船団
貿易で富み栄えていた
そんな大商人が、・・・
イスラムの寛容さ、という場合
ペルシャのキュロス王の寛容さ、か
ぼくは、個人的に良からぬ場所で
話したことがあるし
欧州では、マイノリティー同士っていう感じ?
「ちょっと、灰皿化してくんない?
ビールも売ってくんないんだぜ」
「何人?」
「ドイツ人」
「どこ行くの?」
「ギリシャへ仕事探しに」
どう見たって、イラニアンでしょうって
ま、いいけど
「じゃ、ご一緒に、タバコでも」って
やけに、人懐っこそうな感じでね
どの道、食堂車でのことですのでね
僕の場合は、袖の下ですからね
そういうことすると
あ、禁煙の食堂で
ドイツ人とそこのオーナーが、タバコふかしってから
そのオーナーとこ行って
1ユーロ、チップを払って
「灰皿くんない」って
そしたら、ドイツ人が
あいつ、日本人だろ
頭いいなって、言ってやがって
彼らは、政治から宗教から経済から
ユダヤがどうのとかって
よくもまあ、いろいろ話してんだなって
ぼくの横では、車掌さんが並んでて
そろそろ、混みあう頃かなって頃合いに
じゃ、チェックを、って言って
出ていこうとすると
なんか、Good !!
って、合図をくれたりして
ま、随分と余談が過ぎましたね
異民族支配
ローマ帝国もですけれど
寛容なんですね
やっぱり、王位にあるものっていうのは
中国流にいうなら
天
天とは、文字通りの天ではなく
人民なんですね
如何に、非支配者層に受け入れてもらえるか
その要諦は何か?
そして、そもそも
何のための、支配なのか?
防衛戦争の果てなのか?
様々にあろうとも
王は、孤独なものじゃないのか?
中国では、寡聞にして、間違いかもしれませんけれども
皇帝の「字」なのかな?
よくは、詳しくはわからないけれども
日本でも、西郷さんは
吉之助で、「字」が隆盛だったらしい
弟の従道さんが
なんか、新政府ではそうすんだってって
告げると
なんでもいいから、届けとけって
ホントかなって、思うけど
ま、大物はちゃうなって
思ってしまいますね
従道さんや夏目さんとかの家を
見たことが何度かあるので
うううんって、思っちゃいますね
それで、中国の皇帝は
人民の心を慮るように
いわゆる、らしくない名前を付けて
人民のこころを、常にこころするように
という意味で、そんな名前を付けていたらしいんです
ま、租税徴収権とでも
いいましょうか
それまでの生活を、維持することを
許すことにより
反乱を防ぎ
帝国を維持する経費を徴収する
ってことですかね
この帝国の中で、どれほどの
人々が、交流し、交易し
そんなことを、想像してしまいますね
『寡人』は「(徳の)少ない人」の意味で孤独とかそんな意味では使いません。(『寡』自体には寡婦の意味がありますけど)
後、西南戦争の西郷は『隆盛』の方が正しい名です。日本名に字(あざな)があるのかさえ甚だ疑問ですが、比較的親しい相手が使う名前の事を字というなら吉之助の方が字にまだ近いでしょう。
最後に一つ、イヴン・バットゥータを官僚、それもペルシャ官僚というのはさすがにおかしい。あれはアフリカの人間だし、あの人は旧世界を一通り旅してその記録を残したのが偉業な訳だから。