「違反行為を少なくするには、『罰』を与えればいいのか?」
この問いに対して、イスラエルにある10の「保育園」で行われた実験は、皮肉な結果を示している。
実験のターゲットとなったのは、保育園の「お迎えの時間」である。
保育園が終わって、親が子供を迎えに来る時、保育園側が困るのは、親たちが決まった時間に現れないことであった。ひとつの保育園あたり、平均して「週に6〜10人」の親たちが、お迎えの時間に「遅刻」していた。
「どうしたら、親たちの遅刻を減らせるのか?」
「そうだ!『罰金』をとろう」
そういうことになって、「10分遅れたら、10シェケル(約200円)の罰金」という『罰』を、遅刻した親たちに課すことになった。
さて、その結果は…?
「すぐに変化は現れました。
罰金の導入から最初の一ヶ月間、お迎えの時間に遅刻する親は増え続け、『当初の3倍』に達し、その後も高止まりを続けてしまったのです」
この実験結果は、明らかに「罰が違反行為を少なくしていない」。
いやむしろ、「罰金を設けたことによって、親たちは『堂々と』遅刻して来るようになったのだ。
「遅刻一回、10シェケル(200円)? それで済むなら好条件だ!」
こうして、親たちの間には「お金で解決できる」という空気が広がり、罰金がなかった頃に感じていた「気マズさ」や「罪悪感」から解放されたのである。
罰やストレスを与えて行動を制限するどころか、皮肉にも「自由と安心感」を与えてしまい、人々はそれに甘えることすらできるようになったのだ。
ちまたでは、こんな標語を目にすることがある。
「ルールよりマナー」
遅刻の罰金がなかった時は、「決してヤリたい放題ではなかった」。そこには暗黙の社会的制約、つまり「マナー」が存在していた。
しかし、罰金という「ルール」を設定したことにより、そのルールの範囲内でなら「ヤリたい放題」になったのだ。
痛く反省した保育園は、罰金制度の導入から3ヶ月後に、その制度を「廃止」した。
しかし期待に反して、罰金がなくなった後も、遅刻者が減る気配は一向になかった。その後もずっと遅刻者の数は、当初の2〜3倍を維持し続けたのだ。
かくして、一度失われた「マナー」は二度と復活することはなかった。
遅刻者を減らす目的で導入された罰金は、「保育園の文化」を完全に崩壊させてしまったのである。
どうやら、ルールとマナーの関係は「不可逆的」であるようだ。
マナー(暗黙の了解)からルール(公の法)は生み出せても、その逆、ルールからマナーは生まれないようである。
この実験結果が示唆するものは、過去の経済学が用をなさなくなりつつある要因の一つでもある。
従来の経済学は、外部から与えられる原因(罰金や報奨金)が、人々の行動をコントロールすると考えていた。その一方で、人々の心の内側から起こる動機はむしろ軽視されがちだった。
簡単に言えば、人々は「給料(お金)のために行動する」のであり、それ以外の動機は無視できると考えられていたのである。
ところが、近年のデジタル技術の革新は、その行動原理を根底からひっくり返してしまった。
ネット上では、実に多くの人々が「無償」で動き回っているではないか。Linux(無償のOS)しかり、Wikipedia(無償の百科事典)しかり、Blogしかり、Twitterしかり…。
ニューヨーク大学のクレイ・シャーキー教授によれば、ネット上の無償の行為は、「知力の余剰(congnitive surplus)」によって成り立っているのだという。
彼に言わせると、世界には「1年間に1兆時間も知力が余っている」のだそうだ。
一日に換算すれば27億時間、大雑把に計算すれば、一日24時間のじつに一億倍の時間が余っていることになる。
「チリも積もれば山となる」
一人一人の空き時間は限られたものであろうが、それら小さきものたち全てを世界中から集めてみれば、それは一日を一億倍にも膨らましてしまうのだ。
全世界に散らばる「断片化された空き時間」は、デジタル時代以前、砂に撒かれた水のように儚く消えゆくものであった。
しかし、デジタル時代の到来以降、さらにはソーシャル・メディア(blog、twitteer、Facebookなど)が普及して以来、どんなに断片化された知識でも、集約されて巨大な山や山脈を形成することが可能になったのである。
その好例が、ケニアで見られた。
2007年、ケニアでの大統領選挙が大きな議論を呼んでいた。
選挙直後に民族間の武力抗争が勃発。ほどなくして、政府は「厳重な報道規制」を敷いてしまったのだ。
その規制の中をかいぐって、弁護士のオリ・オコーラは、ケニアで現実に起きていることを「ブログ」に綴り始めた。
彼女がブログへの情報提供を呼びかけると、それに呼応して「投稿が殺到」。とても一人では処理し切れないほどであった。
すると、そこに2人のプログラマーが手を挙げる。
彼らは瞬く間に自動化プログラムを書き上げ、提供される膨大な情報を自動処理して、それらをネットの地図上に表示させるようにした。
こうして、政府に封じられたはずの民衆の口は開放され、民族紛争にまつわる暴力行為の状況を、誰もが把握できるようになったのである。
投稿された情報提供を地図上に示して、それを共有することを「危機マッピング」というのだが、それはこのケニアで始められたものである。
この優れたプログラムは、その後「3年もせずして世界中に広まった」。それは、彼らがこのプログラムを「オープンソース」、つまり誰でも無料で使えるようにしたからである。
選挙違反の監視から、除雪状況、震災後のハイチなどでも使われている。
クレイ・シャーキー教授は言う。
「人々には創作意欲や共有願望がある」
それらは時として金銭的な価値を超越し、デジタルの波にのって世界を席巻するのである。そしてその時が、過去の経済学を意味のないものにしてしまう瞬間でもある。
外部から与えられる罰や給料ばかりが、世界を変えて来たわけではないということだ。
ネットやデジタルに対して否定的な人々は、こう言う。
「くだらないモノで溢れている」と。
まったくごもっともである。
しかし、シャーキー教授に言わせれば、
「くだらない創作だって、創作に変わりはない。
何よりも大事なのは、『やる』ということ。たとえそれが『ネコ画像』だっていいんだ。
本だって、科学誌より150年も早く、官能小説が世に出たのだから」
「言われたからやるのではない。給料のためにやるのではない」
そんな人々の厚意は、ネット上に降り積もっている。そして、時には見上げるほどの巨峰になることも…。
さらには、「くだらない」と一蹴されていたものから、社会全体が恩恵を受けることがあるのも現実である。
この現実は、外側から規制し、外側からしか眺めてこなかった従来の経済学では、決して予見し得なかった現実でもあろう。
どれほどくだらなくとも、内側から湧き上がった力は、侮り難き可能性を孕んでいるのである。
もし、そのくだらないものが共有され、より発想豊かな人の目に止まれば、それが何に化けるのかは予想だにできない。
ニュートンが目にしたのは、単なるリンゴが落ちる様であったのだし、アルキメデスが見たのは、風呂からお湯が溢れ出る様にすぎなかったのだ。
「人々の厚意で成り立っているモノほど生産性が高いものはなく、しかも低コストである(シャーキー教授)」
どんなに小さな厚意でも、どんなに短い空き時間でも、デジタル技術はそれらを統合する可能性を秘めている。
たとえ、どんなに「くだらないもの」だとしても…、少なくとも、それらを共有してみる価値はあると思われる(ニャ〜)。
現代のニュートンやアルキメデスに期待して…。
ネット・バカ
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出典:
TED Talks クレイ・シャーキー 「思考の余剰が世界を変える」
スーパープレゼンテーション “知力の余剰”を活用せよ