2012年05月01日

人を寄せつけぬ火山から一転、一大観光地となった「蔵王」。


昔々、雪深い山あいのその村は、「冬は寝て暮らす」より他になかったという。

なにも、好き好んで寝ているわけではない。それより他、何もできぬ土地柄だったのである。米を作るにも不向きで、冬場に山上から吹き降ろす寒風は、全てを凍てつかせてしまうのだ。

ここは「蔵王」の麓の村である(山形)。



「蔵王」という名は、かの「蔵王権現」からとられている。

蔵王権現というのは、修験道の祖とされる「役行者」が呼び寄せたと謂われる仏様である(この仏様は、珍しくもインドや中国に起源を持たない、「日本独自」の仏様なのだとか)。



何故、そのような名がつけられたかと言えば、その山があまりにも「荒ぶる山」だったためである。100万年前から続くという「火山活動」。地の底深くマグマのたぎる火の山は、火を噴いてやまなかった。

その「荒ぶる山」を鎮めようと、都からは何人もの修験者たちが送り込まれ、その頂きに多くの神々を祀った。そして、その祈りの中心が「蔵王権現」だったのである。



蔵王権現というのは、仏様と呼ぶには似合わぬほどに「猛り狂っている」。

実に躍動的なその様は、煮えたぎるマグマを具現しているようでもあり、その形相たるや、思わずひれ伏さずにはおれぬほどに恐ろしい。まさに、噴火続きの荒ぶる山そのものである。

蔵王という山はそれほど人を寄せ付けぬ山でもあったのだ。

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蔵王が最後に火を噴いたのは、明治28年(1895)。

「火が垂直に舞い上がるほどの激しい噴火」。

近くの硫黄採掘場で働いていた人は、こう記している。「爆裂後、本地には一種のガスを発散し、人皆、目まい、卒倒せり」

硫黄が溶けた酸性の水は、いまだに生き物を生かしてくれない。噴火口となった「御釜」は元より、その水が流れ出る「酢川」もそうだ。

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しかし歴史上、その荒々しさはかえって修験者たちを魅了し、いつしかその山は「聖地」とされていた。

それでも、その土地に暮らす人々にとっては、厳しい環境は「苦」以外の何物でもない。「苦」を好んで求めるのは修行者ばかりである。



江戸時代、その厳しい蔵王に、ある一羽の鳥が「幸運のタネ」をもたらす。

そのタネはまさに実際の種であり、それは「柿」の種であった。その種は鳥が運んだとも、洪水が運んだとも、さらったゴミの中から出でたとも伝わる。

その由来はいずれにせよ、この種が発芽し、この貧しい村に「富」をもたらしたのは確かであった。



川口久右衛門の庭先に芽を出したというその種は、すくすくと成長し、いずれ「紅」のような美しい実をつけた。

そこで、山形のお殿様にその美しい柿を献上したところ、たいそう喜ばれ、その場で「紅柿」と命名されたという。



「秋に至り、数百万の取実ありて、その利を得、『莫大の潤ひ』とな り…(関根川口敏氏所蔵掛軸)


平たく言えば、紅柿によって「大儲け」したのである。

長年住民たちを悩まし続けた蔵王からの寒風。それがこの時とばかりは、大いなる味方となった。その風が吹き下ろしてくれるお陰で、たいそう質の良い「干し柿」ができたのだから。



その干柿に吹く「白い粉(糖分)」は高品質の証である。

「真っ赤な火」を噴く山のふもとで実った真っ赤な柿は、その寒風にさらされて「真っ白な粉」を吹くのである。その白い粉の吹いた様は、「小判」を連想させるとして、たいそうな「縁起物」としても扱われたのだという。

※今もこの地の「おせち」に干柿は欠かせない。この干柿を食えば「お金がたまる」と言い習わされてきているのである(なお、この紅柿は、今でもこの地「山形・上山」の特産であり、「干し柿の品質は無類」と絶賛されている)。

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江戸時代、別の「白い粉」も蔵王に富をもたらした。

それは温泉成分を干し固めた「湯の花」である。それが遠く江戸の町にまで出荷されていたのである。



その湯の花は、限られた家だけが作れる特権であり、その特権をもつ人々は、「湯之花取仲間」という組織をつくっていた(今なお、その伝統はこの地に息づいており、誰もが湯の花を取れるわけではない)。

温泉成分の濃い蔵王温泉のお湯は、温泉を引いてくるパイプを詰まらせる厄介モノでもあったのだが、それは取りも直さず、湯の花の豊富さをも示している。

現在でも2ヶ月に一度は真冬でも、温泉成分が蓄積するパイプの内側を清掃しなければならず、そしてその作業はそのまま「湯の花取り」ともなるのである。

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さて、いよいよ蔵王の話は現代につながってくる。

今の人々が「蔵王」と聞いて連想するのは、「スキー」をおいて他になかろう。



蔵王がスキー場として名を馳せるのは、明確なスタート地点がある。それは昭和25年(1950)である。この年に何があったかといえば、戦後に日本を支配していたGHQが、ある人気投票を行ったのだ。

それが「観光地百選」であり、そのトップに「蔵王」が選出されたのである。

この地に生を受けた歌人・斎藤茂吉もその喜びを詠っている。「みちのくの、蔵王の山が、一等に、当選をして、木通(あけび)霜さぶ」。



以後、皇太子さまが蔵王を訪れたり(1951)、白洲次郎が別荘を構えたり、映画が撮られたり…。

蔵王の「樹氷」を世界で初めて撮影し、海外に知らしめたのが「塚本閤治」。英国国際コンテスト風景実写部門1等賞を受賞した「Mount Zao」という映画は、その他多くの賞を海外で受賞している。

「トニー・ザイラー(オーストリア)」は、20歳そこそこでオリンピック(コルチナ・イタリア)の三冠王に輝き、その周辺の世界大会の金メダルを総ザライにもした伝説のスキーヤーであるが、彼の主演する映画「銀嶺の王者」は、ほかならぬ蔵王で撮影されたものである。

※皮肉にも彼は、映画によりスキー界を引退する。若くして名を馳せた彼は、その「爽やかな美男子ぶり」を買われ、以後、俳優に転向したのである。

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大昔の蔵王は、火の山として恐れられ、寄る人といえば修験の修行者ばかり。その熱すぎる火山とは裏腹に、寒すぎる寒風は、人々の食を脅かし続けてきた。

その蔵王が、いまや世界に知られる観光地となり、土地の豊かさは果樹王国とまで称されるようにまでなっている。



もし、300年前、庭先のゴミから柿の芽が出なかったら…。

もし、スキーがなかったら…。

この地は、また別の顔を見せていたのかもしれない。



今の我々は蔵王に火山の影を見ることは、まずない。

しかし、この山が火山をやめたわけでは決してない。



世界中の人々がこの地に遊ぶようになったのとは裏腹に、この山がかつて溶岩流で満たされた地域(現在のスキーエリア)には、いまだ猿たちは足を踏み入れないのだという。すぐそこの果樹園では、猿の群れがサクランボをかじっているというのに。

それは、「太古の記憶が、猿たちにこの地に住むことを躊躇させているのだ」、という人もいる。



有史以降の蔵王の火山噴火を見ても、773年、1227年、1624年、1694年、1809年、1831年、1867年、1895年と数多い。100年に一度くらいは暴れているようだ。

いまは静かに鎮座なさっている蔵王権現さまであるが、それは一時の休息を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。



人の記憶は幸せにも忘れやすい。

地震や津波も、過去になれば忘れることができてしまう。

それに比して、地球規模の動きのなんと緩慢で、悠長なことよ…。





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出典:新日本風土記「蔵王」
posted by 四代目 at 07:50| Comment(1) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
小学生の息子が夏休みの研究で蔵王温泉の歴史について調べなければならなかったので、とても参考になりました。
Posted by ayu at 2013年08月10日 14:22
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