ある統計によれば、日本の富裕層「上位1%」で、日本のすべての富の「20%」を占めるそうだ。
それでは、アメリカは?
アメリカは富裕層上位1%が、アメリカの富の「40%」を占める(日本の2倍の割合)。
昨年(2011)の9月にアメリカで起こった「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall street)という運動は、こうした「富の格差」に抗議するものであった。
その参加者たちは自らをこう定義した。「私たちは残りの99%だ(We are the 99%)」。
ここ30年間で、上位1%の収入は「急増」している(275%増)。
ところが、同じ期間、中間所得層(国民の60%)の収入は40%増にとどまる(上位1%の約7分の1)。低所得者層(国民の20%)ともなれば、わずか18%増(上位1%の約15分の1)。
こうした富の格差は明らかに「増大する傾向」にあるため、上位1%に引き離され続ける「残り99%」は、ウォール街で抗議の声を大にしたのである。
こうした不公平を是正するために、国家には「税金」という制度がある。
単純に考えれば、お金持ちから税金をたくさん取って、自らを恵まれないと叫ぶ「残り99%」に分配すれば、いくぶん公平になるような気がする。
こうした考えを示すのが、「所得税」という制度である。
それぞれの収入に応じて税率が変わるようにもなっているため、収入が多い人がたくさんの所得税を払い、逆に収入が少ない人の負担は軽くなる。
実際に、日本での所得税はアメリカよりも税率が高いため、アメリカほどの格差は生まれないのだという人もいる。
日本とは異なり、「実力の国」アメリカにおいては、収入が多いのは「自分の実力」と考える傾向が日本以上に強いため、富裕層への課税は政治的にシビアな問題となる。
「能力あるものが収入を得て何が悪い? 収入を得れば得るほど支払う税金が増えるというのでは、ヤル気が失せる」

まったくの正論であろう。
それでも成功者の中には「謙虚」な人物も少なからず存在する。
自分の成功は「運が良かった」というのである。
つまり、その成功は自分の実力や努力のみの成果ではなく、周囲の環境やタイミングが幸運にも自分に味方したのだと言うのである。
考えてみれば、収入獲得レースのスタート地点は皆大きく違う。
紛争地帯に生まれる人もいれば、平和な先進国に生まれる人もいる。スラム街に生まれる人もいれば、大富豪の家に生まれる人もいる。
我々の「種」のまかれた場所が「肥沃な大地」であれば、その種はいかんなく実力を発揮して「大木」となることも夢ではない。
一方、その種が「砂漠」に落ちたとすれば、その種は発芽することすら叶わないかもしれない。
「種」自体に幾ばくかの優劣はあれど、それが発芽して大きく成長するには、その土壌や気候が大きくモノをいうのは、大自然の摂理に他ならない。
もし、ある成功者がその成功を「全く自分の実力だ」と主張するのであれば、それは少々傲慢な主張なのかもしれない。
「他の恩恵」というものは、少なからず存在するはずである。その恩恵は、成功者を生みやすい社会の土壌であったり、周囲の人々の助けであったりもするだろう。
世界の大富豪「ウォーレン・バフェット」は、この辺の事情を周知し「お金持ちにもっと高い税金を課せ」と主張する。
マイクロソフト(Windows)の「ビル・ゲイツ」も、他者への寄付行為に熱心である。
大自然の法則には「循環」という概念がある。
「陰極まれば陽に転ず(易経)」という言葉は、流転してやまない世界を如実に表現したものである。
ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツのような成功者たちは「陽極まり」、「陰」にいる残り99%への配慮を始めたのかもしれない。
またそれは、自らが「陰」に転じないための無意識の防衛であるのかもしれない。
富への道は「一方通行」でもないのだろう。
皆がみな、富への階段を登りたいと思っているわけでもない。なぜなら、積極的に富の階段を降りようとする人々だっているのだから。
キリスト教の聖人とされる「聖フランチェスコ(12世紀)」という人物は、裕福な商人の息子として生まれながら、「身にボロをまとい、裸足で歩き、一片のパンによって生きる乞食僧」に徹したと伝わる。
「無所有」と「完全な貧困」に徹した彼の求めたものは何だったのか?
若き日の彼は、ローマ教皇のお膝元に「あまりにも貧しい乞食が多い」ことに愕然とする。
心を痛めた彼は、一人の貧しき乞食のボロと自分の贅沢な衣装を交換し、自らを富豪の御曹司から一介の乞食へと変貌させる。
すると…、今までの宿には入れてもらえなくなり、物乞いをしても「あまりにも恵む者が少ない」ことに驚いた。
キリストはかつて、こう言った。
「空の小鳥を見なさい。種をまきもしないし、刈り入れもしない」
聖フランチェスコは、こんな詩を書いた。
「私はヨレヨレの服を着ているが、小鳥たちは素晴らしい衣服を身につけている。
小鳥たちは透明な声で鳴くが、それは好い声になろうとしてなったわけではない。」
小鳥たちは、自然の恩恵をそのままに受け、そのままに生きる。
そして、小鳥たちが「他と比較すること」は決してない。
「格差」という概念は、他と比較して初めて生まれるものである。
隣りの人の給料の額を知らなければ、自分の給料が高いのか安いのかが分からない。それゆえ、格差があるのかないのかも分からない。
それはある意味「幸せ」な無知であり、「原初的」なことでもある。
「ジョン・ロールズ」の唱えた「無知のヴェール」は、こうした考えに基づいている。
自らをヴェールに覆うように周囲の知識に目をつむれば、自分が「本当に欲するもの」が見えてくるというのである。
それはあたかも、中世キリスト教の聖者たちが「山に籠ったり、砂漠に隠れたりして、自らに課した困難に耐えながら神を想った姿」のようであり、聖フランチェスコが何不自由ない生活を捨て、完全な貧困を目指したようなものでもある。
世の中の些事は、我々の心をグラグラと惑わす。
見たくないものも見せられ、聞きたくないことも聞きかされ、いつの間にか、想いたくないことまで想ってしまう。
はたして、己の生は何のためにあったのか?
空の小鳥たちが決して惑わされることのない問いに、我々は答えを見出せない。
他人との「差」を、「格差」という否定的な捉え方をする限りにおいては、その差は広がりを続けるのであろう。
逆にその差を、「多様性」という少々前向きな捉え方をしたらどうか?
富める者だけが出来ることもあれば、貧しい者にしか見えない世界も必ずある。
多くの人々に平等な負担を課す消費税の是非や、特定の富裕層へ対するさらなる課税の是非に、万人が納得する答えを提示することはおおよそ不可能なことのようにも思える。
他者との比較という「相対性」の世界において、その差がなくなることは望むべくもない。

一方、自らを「無知のヴェール」で覆って、他者との比較から離れたならば、その「絶対的な世界」には何らかの答えがあるのかもしれない。
その答えは万人に通ずるものではないかもしれないが、少なくとも「今の自分」を納得させるものではあるだろう。
ところで、「無知のヴェール」という考え方は、単なる「現実からの逃避」なのであろうか。
格差に目を向けなければ、世界の格差はなくなるのだろうか。格差に目を向けなければ、逆に格差が広がるに任せてしまうことになるのではないか。
この答えは、我々の知るところではない。
なぜなら、これは現在進行中の出来事であり、現在の我々はその渦中に置かれているのである。
「無知のヴェール」が現実逃避に終わるのか、それとも問題解決へと向かう道筋なのかは、我々の「これからにかかっている」とも言える。
「無知のヴェール」の中で想うことの一つに、「自分の価値観は本当に自分のものなのか」というものがある。
聖フランチェスコはローマの乞食を目にして以来、その価値観は一変してしまった。それは、王宮の外に足を踏み出したブッダとて然りであろう。
時代の速度が加速し続ける現代において、歩みを止めることは自殺行為ともなる。
一日とて仕事を途絶えさせることが許されず、一月(ひとつき)でも給料がもらえなくなれば、あっという間に窮してしまう。
それは富裕層上位1%の仕業なのであろうか?
良かれ悪しかれ、世界の何かは「極まりつつある」ようだ。
その転ずる先は、幸となるのか、不幸となるのか?
この岐路にあって、自らをヴェールで覆って何かを想うことは無駄ではないように思う。たとえ、それが高速道路の真ん中であろうとも…。
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