2012年02月21日

日本の森は「オオカミ様」が支えてくれていた。オオカミ信仰を忘れると…。


そのオオカミは山中に鹿を追ってきたからか、えらく弱っていたという。何かの拍子に川へと転落してしまい、ある筏師の目の前まで流れ着いてきた。

そして、そのオオカミはそこで撲殺されることになる(1905)。

このオオカミこそが「最後のニホンオオカミ」であり、これ以降、公式には「絶滅した」とされている(過去50年間以上、生存が公認されていない)。



それでも、「ニホンオオカミは山中に生き続けている」。そう信じる人々は数多い。

なぜなら、日本人の心の中には「オオカミ信仰」というものが根強く残り、現在においても、その信仰は脈々と受け継がれているからである。



オオカミを漢字で書くと、「獣編に良い」で「狼」。つまり、「良い獣」を意味する。

かつては「大神(おおかみ)」と書いた。これは文字通り「大いなる神」という意味であり、オオカミは神様のお使い(御眷属)と見なされていたのである。

より正確には、「大口真神(おおぐちのまかみ)」と書き、この言葉は万葉集の時代からも見られる古くからの呼び名とされている(現在の「お札」には、この「大口真神」と記されている)。

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オオカミを信仰する人々は、「オオカミは人を襲わない」と口をそろえる。

オオカミは「温和」な動物であり、むしろ田畑を荒らし回るシカやイノシシを取り締まってくれる頼もしい警察組織のような存在だというのである。



そうは言えど、オオカミが人を襲った実例がないわけではない。

人間がある一線を踏み越えた時、たとえ温和なオオカミとて人間に容赦することはないのである。



我々現代人は、「オオカミは人を襲う」と常識的に思っている。

しかし、歴史を知る人から言わせると、それは「赤ずきんちゃん」に代表される西洋の常識なのだという。江戸の日本に黒船が現れて以降の、新しい常識だというのである。

たとえ人を襲うことがあっても、古来の日本人は一貫して、オオカミを邪視したことはなかったのだともいう。



「関東の秘境」とも呼ばれる奥多摩には、そうしたオオカミ信仰が広く庶民の心に根付いている。

その中心となるのは秩父の三峰神社であり、その周辺21社が何らかの形でオオカミ信仰との関わり合いをもっている(日本全国では250社を超えるとも)。

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その内の一社「釜山神社(寄居町)」では、今も不思議な神事が毎月一回、必ず行われている。



その神事とは「お炊き上げ」のことである。

毎月17日のお炊き上げの日、人が手を触れずに洗い、炊き上げた饌米(せんまい)をおひつにつめて、奥の院の裏手にあるという特別な谷間にお供えする。

※お米を洗う時も、人が手を触れていけないのは、人手の触れたものをオオカミは食さないと信じられているからである。



その時、一ヶ月前にお供えしたおひつを回収するのだが、そのおひつの中を覗けば、米粒一粒も残さずにスッカラカンになっているのだという。

「昔から三分三厘ってんで、ちょうどおひつの縁の1cmくらい下に、たくさんの歯形の跡がつくって言うんだいな。」

この「お炊き上げ」の神事は、300年来、ひと月も欠かすことなく続けられ、その秘密の谷間の場所は、宮司のみの知る他言無用の地とされている。

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こうしたオオカミ様への「お炊き上げ」は、日本各所で行われている。

というのも、オオカミ信仰は山々を渡り歩く「修験者たち」によって日本全土へ広まったと考えられているからである。



ある地に残る「オオカミ講(民間信仰)」のお炊き上げを見ると、そこにはオオカミ様への感謝の気持ちとともに、「畏怖」の念が強いことに驚く。

オオカミへの「畏(おそ)れ」から、お炊き上げの神事を「止(や)めるに止(や)められない」のだという。「もし、それを止(や)めたら…」、どんなタタリがあるか分からないというのである。



お供えをする場に行くと、その「畏れ」のために、お願い事の言葉すら浮かばず、頭の中が真っ白になってしまうのだともいう。

オオカミは「ありがたい存在」であると同時に、「心底おっかない存在」でもあるのである。




山に暮らすオオカミは、ある意味「自然そのもの」であり、オオカミに対する「畏れ」は、大自然に対するそれと同一のものでもある。

それゆえ、オオカミ信仰の隆盛は、天変地異のそれと軌を一にすることもしばしばである。



近年、もっともオオカミ信仰が盛んになったのは、江戸末期から明治の初期にかけてのことだったという。

この動乱の時代には、疫病コレラが大流行したり、異国から外国船がやって来たり、大地震が起きたり、大火事が起きたり…。

この異常な世相に人々は恐れ慄き、「やれアメリカ狐だ、先年モグラの仕業だ」と人心の不安定さは極みに達していた。



「オオカミ様を粗末にしたタタリじゃあ。

大自然を怒らしちゃあ、人間は生きてはいけない」

心底そう思った人々がその時代に多くいたことは、なにも不思議なことではない。



昨年の大地震、大津波、そして放射能に対しても、人々の反省はオオカミへ向いたと言われている。

福島県飯舘村にある「山津見神社」もオオカミ神社の一つであるが、信仰心厚い人々によれば、この地は放射能被害を受けたものの、逆に言えばこの地で「放射能が止まった」のだとも言う。

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日本人は古くから「大神様」と呼び習わしてきたわりに、オオカミ信仰の歴史は意外にも浅い(さかのぼること300年程度)。

オオカミ神社の代表格である「三峰神社(秩父)」の伝承に従えば、その起こりは1721年である。日本各所に残るオオカミの狛犬とて、この時代を溯るものはないのだという。



オオカミ信仰が明らかにその姿を現す陰はに、江戸時代の「犬」将軍・徳川綱吉の存在がある。この将軍の発令した「生類憐れみの令」は、人間と動物の関係を一変させたのである。

その時代、犬のみならず、田畑を縦横に荒らし回るシカやイノシシすら、農民たちは殺せなくなった。そうした時、なんとオオカミ様の有り難いことか。人は襲わず、田畑の害獣を駆除してくれるではないか。

オオカミ信仰に見えるオオカミに対する「畏怖」と「感謝」の入り混じった複雑な感情の裏には、そんな歴史もあるのである。



俗説によれば、オオカミ信仰の衰退は「狂犬病」の流行にあるということになる。

犬からオオカミに伝染(うつ)った狂犬病は、神様であったオオカミ様を狂わせた。その狂った神様は、本来襲わないはずの人を襲ってしまったのだ。

「赤ずきんちゃん」が日本人に知られる以前にも、オオカミが人を襲うということは少なからずあったのである。それゆえに、江戸末期にコレラという恐ろしい疫病の当て字に「虎狼痢」が当てられ、恐るべき獣としてオオカミが虎と並び称されてもいるのである。



じつは、オオカミと犬を区別するのは、思いのほか困難である(ニホンオオカミであることを証明するには、その頭蓋骨を開いてみて、犬とのわずかな差異を確認するより他にない)。

犬も元々は山に住むオオカミだったと考えられており、山に居残った種がオオカミのままで存在し、人になついてきた種が犬になったということだ。

そして、山に残ったオオカミは「神」となり、人に従った犬は「家畜」となったのだ。



家畜化した犬は、人間の意向に沿うように沿うようにと自らを変えていった。

その涙ぐましい努力は、犬に極端な無理を強いることになり、その大きなストレスに耐え切れなくなった犬は、頭が狂って「狂犬病」ともなった。

そして、人間によって狂った犬の病が、神であったオオカミをも狂わせたということになる。そして、狂える神々は巡り巡って人間をも襲うことになった。



オオカミという存在は、然るべき生態系を維持するためには欠くことのできない存在である。

オオカミを徹底して駆除してしまったアメリカが今行なっていることは、オオカミを復活させることだ。




日本とて、アメリカの愚行を笑えない。すでにニホンオオカミは絶滅したとされているのであるから。

日本の国土には、いまだに広大な森林が残るとはいえ、その森にはもうオオカミがいないのである。

オオカミのいない森は、魂の抜けたような状態になってしまい、無秩序にシカやイノシシが跋扈することにもなった。彼らは食えるだけの草木を食えるだけ食らってしまう。森の形が変わるほどに…。



かつてオオカミが睨みをきかせていた日本の森は健全だったのであろう。

草食動物もほどよく抑制され、かといってオオカミが増えすぎることもない。草を食むものと、肉を食むものバランスが、健全な森をより健全にしていたのであろう。

傲慢になりがちな人間とてオオカミを敬い、おいそれと森をブチ壊すようなことはしてこなかったはずだ。



ところが、オオカミを失って慢心した人間たちは、現在どんな所業に出ているのか?

我々の失ったものは、オオカミそのものではなく、大自然に対する敬意なのだとも言えよう。

見方を変えれば、大自然に対する敬意を失った人間たちを見限って、オオカミたちは森を去ったのかもしれない。



ただ、幸いにも日本人の心の中には、オオカミ信仰に象徴されるような、大自然に対する敬意は少なからずも残されている。

「いない」と思われていたイリオモテヤマネコの存在を証明した「今泉吉典」氏は、奇しくもこう言った。

「いないと思った時に、終わる…」



その意味合いにおいて、ニホンオオカミは、日本人の心の内に確実に存在している。

こうした日本人の想いが、最後の一線で日本人の愚行を押しとどめているのかもしれない。



オオカミが一線を超えようとしていた人間たちを襲ってくれたのは、ある意味「幸い」であったのかもしれない。それはある種の「警告」でもあったのであろうから。

今や、オオカミたちは度を越しすぎた人間たちを襲ってもくれない。山中にヒッソリと潜んでいたとしても、その姿すらも見せてくれないのだから。



もし、日本人の心の内からすら本当にオオカミが消えた時、

いったいは日本はどんな形をしているのだろうか…?








出典:ETV特集
「見狼記〜神獣ニホンオオカミ」



posted by 四代目 at 06:50| Comment(2) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は狼が大好きなのですが、絵本や小説などでは悪者扱いされているのをみてとても嫌な気持ちになった事が多々あります。
でも、この記事を読んで救われたような気持ちになりました。

ありがとうございました。
Posted by 雨 at 2012年12月08日 15:20
なんだかとても神秘的で興味をそそられます。
日本狼発見の旅に出てみたいですね。
Posted by 荻野 智子 at 2017年01月08日 17:06
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