秩父(埼玉)には、「武甲山」という勇ましい名を持つ名山がある。
その名の由来となったのは、日本武尊(ヤマトタケル)の「甲(かぶと)」。彼自らが、この山の岩室に自身の甲(かぶと)を奉納したという伝説が残るゆえである。

かつては武人の甲(かぶと)のように隆々と勇ましい山容を誇った「武甲山」。
しかし、現在の姿にその甲(かぶと)の面影はない。むしろ、甲(かぶと)を脱いでしまったように、ほっそりとしてしまっている。
というのも、この武甲山が「石灰岩」の宝庫だったため、その採掘のために山全体が大きく削り取られてしまったためだ。
かつての山頂は最高地点1,336mを記録したが、現在、その地点の標高は1,295mにまで下がってしまっている。
武甲山の石灰岩は日本屈指の良質さを誇り、古くは「漆喰」の原料として、高度経済成長期には「セメント」の原料として、盛んに掘り出されていったのである。

地球の歴史をさかのぼれば、この山の誕生は「海の中」である。石灰岩というのは、もともとは海中の「サンゴ礁」に由来する。
海面に浮上してなお隆起した武甲山は、現在の秩父に落ち着くことになったのである。
地球が人間たちの時代に入ると、武甲山は「神」として祀られるようになる。
それは、この山が貴重な「水」を人間たちにもたらしたが故と思われる。
※「神奈備(かんなび)」とは、神が宿る場所を意味する言葉であるが、現在の「秩父神社」の神奈備は、他ならぬこの武甲山である。
武甲山からもたらされる湧き水を、秩父の人々は「井戸神さま」といって大切に祀ってきた。
井戸水の周りに「二股の大根」を置いておく風習は、井戸神さまへの感謝の現れである。また、男根が祀られるのも、やはり武甲山のもたらす水に由来するものである。
日本武尊を想起させる武甲山は、男性的なイメージを強く喚起させるのである。
武甲山の伏流水は、「龍神池」という神聖な池を満たす。
この水は田畑に恵みをもたらすとして、春(4月)の「御田植祭」において、「龍神様」として大切にお迎えされる。
そして、秋に大いなる収穫がもたらされると、今度は冬(12月)に開催される「秩父夜祭」において、感謝とともにお送りすることになる。

「秩父夜祭」で送られる龍神様を待つのは、秩父神社の「女神さま」である。
秩父夜祭は、武甲山の龍神様と秩父神社の女神さまの「逢瀬の場」ともなるのである(先にも記した通り、武甲山は秩父神社の神奈備ともされている)。
便宜上、秩父神社で出会うとされる龍神様と女神さまであるが、その本当の逢瀬の場は、宇宙に輝く北極星である。
というのも、秩父神社の女神さまは、「北極星(北辰)」の神様(日本名:妙見菩薩)であるからだ。
龍神様は空を駆け昇って、女神さまと一年ぶりの再会を果たすことになるのである。
武甲山は別名「妙見山」とも呼ばれるほど、秩父地方は「妙見信仰」の盛んな土地柄でもあった。
地球から見上げる北極星は、地球の自転軸の延長線上にあるために、あたかも「不動の星」のように見えるため、その不動の北極星は、全天を支配する最も聖なる星と考えられたのである。
妙見信仰とは、その北極星を祀る信仰のことである。
妙見さま(北極星)に従うのは、北斗七星。
北斗七星の星の一つは「貪狼星(とんろうせい)」という名を持ち、それは秩父に伝わる「狼信仰」へと派生していくものでもあると考えられている。

また、北極星と同等に大切に敬われた星の一つが「金星」であり、その金星を司るのが「虚空蔵菩薩」ということになる。
虚空蔵菩薩に付き従うもの(眷属)は「ウナギ」。水中のウナギが転じて、「龍」ともなる。
このように、北極星を司る妙見菩薩は「狼」を、金星を司る虚空菩薩は「龍」を導くようになった。
そして、これら全ての信仰が仲良く融合した形が、現在行われている「秩父夜祭」とも考えられる。
妙見山とも呼ばれる武甲山は、狼を養って土地の人々を守りながら、一方で龍神を招き入れ、貴重な水源となってくれる。
その龍神様は、人々に実りの収穫を与え終わるや「昇龍」と化し、天空の北極星(女神・妙見さま)を目指すことになる(天空での龍神様の姿は「金星」である)。
そして、また春が来れば、龍神様は地上に降りてきてくれる。こうして、天と地を行き来する龍神様は、天空の富を毎年地上にもたらしてくれるのだ。
蛇足ではあるが、この地で毎年開催されるお祭りに、「龍勢まつり」というのもある。
巨大なロケット花火を真昼間に打ち上げるお祭りであるが、こうしたお祭りがこの地に継承されていることにも、「龍」との深いつながりが見て取れる。

天と地を龍によってつないだ秩父の「武甲山」。
古代の人々の思想は壮大であり、ロマンに満ちている。
貪狼(とんろう)のように貪欲な現代の人々には、武甲山は石灰岩の宝庫としか映らないのかもしれないが、古代の人々は「目には見えない恵み」を確実に感じていたのである。
痩せ細った武甲山の示唆するものは何であろう?
山に依って生きてきた民族は、その山の真価を忘れてしまったのだろうか?
冷ややかな目で山を眺め、そこに資源を見出す現代人。
熱い視線で山をじっと見つめ、ありもしないドラマをそこに見た古代人。
ただただ無心で秩父夜祭に熱狂する人々は、そんな古代人の心をそのままに感じているのかもしれない。

出典:新日本風土記 「秩父山中 里物語」