その島は、「金門島」と呼ばれる島である。
中国大陸に沿うように位置するこの島を台湾と呼ぶことは、まことに不自然だ。
金門島は台湾島から270km以上離れている一方で、中国大陸からは最短で2kmほどの距離しかない。
台湾から見れば、金門島は遠く離れた飛び地であるが、中国から見れば、自分の庭先の小石のような島なのである。
当然、中国側はこの島を我が物にしようと躍起になった。
大軍を送り込んだり、対岸から無数の砲弾を浴びせかけたり…。
ところが、そのたびに中国軍は台湾に撃退され続ける。なぜか、この小さな小さな島一つが獲れなかったのだ。
※金門島の面積は150平方mほど。日本の小豆島(香川)、奥尻島(北海道)、宮古島(沖縄)などの島々とほぼ同じ面積である。
現在、金門島の特産品の一つに「金門包丁」というものがあるが、この包丁こそが金門島がいかに激しい戦場であったかを物語る。
金門包丁の材料とされるのは「砲弾」。
その砲弾は、金門砲戦という戦い(1958)の際に、中国本土から金門島へと撃ち込まれた砲弾だ。
1958年8月23日午後6時、中国軍の金門島へ対する砲撃が開始される。
砲撃開始からわずか2時間で、4万発もの砲弾が小さな島めがけて一斉に打ち込まれた。
開戦初日の一日を通しては、5万7千発の砲弾が金門島を襲った。
翌日、アメリカの第7艦隊が台湾海峡に姿を現し、台湾側への物資の補給、ならびに陸海空3軍の共同軍事演習を始める。
時はアメリカ・ソ連が世界を真っ二つにした冷戦の時代。数年前までは、朝鮮半島を舞台とした米ソ代理戦争が行われていたばかり。
中国と台湾のいがみ合いに顔を出したアメリカを、ソ連が黙って見ているわけはない。中国空軍の戦闘機はソ連製(ミグ17)である。
しかし、アメリカが核兵器を使うことを示唆するや、ソ連は急速に態度を軟化。中国側に「米ソ間の核戦争を刺激しないように」と警告を発する。
中国側が停戦へと動き出すのは、アメリカが台湾に提供した強力な兵器・8インチ榴弾砲が、金門島対岸5kmにあるアモイ(厦門)を壊滅させてからである。
名目上は、開戦からおよそ40日ほど経った頃に停戦は成された。
しかし、金門島への定期的な砲撃は、この後21年間の長きにわたり続くことになる(1979年の米中国交樹立まで)。
毎週、月・水・金と続けられた金門島への砲撃。その目標は無人の山々であり、戦術的な意味合いというよりは、政治色の強いものであった。
最終的には47万発もの砲弾が、中国本土から金門島へと撃ち込まれたと言われている。
その砲弾を材料にした金門包丁を作る職人・呉さんは笑顔で語る。
「冗談で言うんだ。砲弾は天から降ってきたギフトだ、ってね。毛沢東からの贈り物さ。」
形式的に金門島へ撃ち込まれ続けた中国の砲弾は、金門島の包丁職人たちに無料で良質な材料を提供し続けたことになる。
かつては中国から金門島へと飛んできた砲弾。それが今度は、包丁となって中国本土へと帰って行く。
中国本土からの観光客も、あっけらかんとしている。「俺らは砲弾で撃ち込んだものを、また持って帰るわけだ」、と。
ちなみに、金門包丁の値段は、日本円にして1,200円〜1万5,000円程度とのこと。
金門島を巡る中国と台湾の争いの歴史をたどって行くと、その重要な分岐点には、意外にも一人の日本人が現れる。
もし、彼がいなかったら、金門島は簡単に中国のモノとなっていただろうと言う人さえいる。
その日本人の名は、「根本博」。彼の天才的な戦術により、金門島に上陸した圧倒的多数の中国軍が全滅に追い込まれているのである。
時は第二次世界大戦が終結した後。混乱が続く中国国内では、泥沼化した内戦が長い尾をひいていた。
内戦の2大勢力となっていたのは、共産党(毛沢東)と国民党(蒋介石)である。
当初、国民党(蒋介石)が圧倒的な優位に立っていたものの、遼瀋戦役で満洲を失うや、淮海戦役においても大敗。長江以南へと雪崩をうって敗走していく。
追い詰められた国民党(蒋介石)に残されたのは、福建省と台湾のみ。
いよいよという日が近づいていた。
すっかり勢いを失っていた国民党(蒋介石)は、中国本土最後の地・厦門(アモイ)をアッサリと放棄。
そして逃げ込んだ先は、小さな小島「金門島」であった。
誰もが国民党(蒋介石)の敗北を予感した。共産党(毛沢東)は、その小島めがけて2万人もの大軍を投入し、一気に上陸を成功させたのである。
大勝利を目前とした共産党。
ところがっ…、突如として湧いて出た国民党軍は、上陸した共産党軍の船数百隻を一気に焼き払い、陸海双方から共産党軍を挟撃する。
金門島に追い詰めたと共産党軍に思わせたのは、じつは国民党軍の策略であり、共産党軍はまんまとこの小島に誘い込まれていたのである。
完全に浮き足立った共産党軍は、一敗地に塗(まみ)れて壊滅。
世界戦史に残る奇跡の大勝利は、ここに成された。
そして、金門島を巡る中国と台湾の因縁は、ここに端を発することにもなった。
この鮮やかすぎる大勝利に、当時の人々は首をかしげた。
なぜ、連敗連敗で戦意を喪失していたはずの国民党軍が、いきなり息を吹き返したように見事な大戦略を成功させることができたのか?
2年前に出版された「この命、義に捧ぐ」という本が、その秘密に迫っている。この書の主人公は、前掲の「根本博」。
フラリと国民党の前に現れた日本人・根本博が、死に瀕していた国民党に生命を与えたというのである。
根本博は大軍を率いて現れたわけではない。
彼の乗ってきたオンボロのポンポン船に同乗していたのは、たった7人。武器すら携行せず、その代わりに持っているものといえば釣竿ばかりだ。
そのあまりのみすぼらしさに、根本は牢獄へブチ込まれてしまう(根本は処刑をも覚悟したという)。
ところが、初老の日本人が名乗る「根本博」という名を国民党幹部が耳にするや、幹部連中は腰を抜かさんばかりにビックリ仰天。
根本博といえば、モンゴル戦線において最後までソ連軍に徹底抗戦した猛将である。
当時、日本の敗戦により、根本の軍も武装解除を要求された。
しかし、彼の軍が武装を解除することはなく、「ソ連軍を断固撃滅すべし。司令官たるこの根本が一切の責任を負う。」と高らかに宣言した。
なぜなら、いたずらに武装解除してしまった日本軍が各所においてソ連軍に大打撃を受けているという現状を知っていたからである。
武装解除してしまえば、軍のみならず、在留日本人をもソ連軍による殺戮に晒してしまう。
根本にはモンゴルに残された日本軍35万人、さらに在留日本人4万人の生命を如何にしてでも守るという強い決意があったのだ。
根本は胸中に遺書を忍ばせ、敢然とソ連軍に立ち向かっていった。
根本の日本軍を襲ったのはソ連軍ばかりではない。中国からは共産党軍が攻めかけてくる。
凄まじい白兵戦を三日三晩戦い抜いた根本軍。見事に35万の軍と4万人の民間人を無事帰還させることに成功する。
この大成功の陰には、蒋介石(国民党)がいた。彼が救いの手を差し伸べてくれていたのだ。
「その恩義に報いん」として、根本はほぼ単身・丸腰で、恩ある蒋介石の元へと馳せ参じたのである。
国民党幹部が、根本博の名を聞いて腰を抜かすのも無理はない。彼は日本軍きっての猛将であり、エリートでもあったのだ。
感激した蒋介石は、即断で根本を司令官顧問に任命。最も重要な「福健攻防戦」の指揮が、根本に任された。
前線を視察した根本は、本土アモイでの決戦の不利を悟る。むしろ、この地を捨て、金門島での戦いに勝利を期すことを提案する。
しかし、アモイ死守を力説する国民党の将軍との折り合いがつかない。やむなくアモイでの戦闘に突入するが、その乱戦の中、根本は精鋭部隊の救出に奔走し、勇猛な部隊を金門島へと逃れさせてゆく。
金門島に渡った根本は、軍が身を隠すための塹壕を掘る位置を細かく指示。上陸途中の軍を攻撃するのが常道であるところを、あえて完全上陸させて、その後に塹壕各所からの奇襲を行うという作戦に出た。
根本の策はスパスパと当たり、2万人もの大軍の共産党軍は壊滅へと追い込まれていく。
「古寧頭の戦い」と知られる金門島での攻防戦において、根本はまた一つ、彼の義侠心を示している。
古寧村の村人を盾にして最後の抵抗を試みる共産党軍に対して、根本は「村人の生命を守ること」を主張(そんなことを言い出す幕僚は国民党の中には誰もいなかった)。
村人を守るために作戦を大きく変更しながらも、根本は勝利を手中に収める。
生命を救われた古寧村の村人たちは、根本を「戦神」と崇(あが)め、長らく村の語り草としていくことになる。
村の古老たちは感謝を込めて、こう語る。
「根本さんは、私たちと一緒に死のうとしてくれた。
こういう日本人がいたことを、台湾人は忘れてはならないと思います。」
残念ながら、村の語り草以外で根本博が語られることは、ついぞなかった。
それは、のちに起きた国民党内部の政争により、こうした記録が抹消されてしまったためである。
戦神・根本博に光が当たるのは、戦後60年もしてからであった。
2009年、台湾政府は公式に感謝の意を表す。「古寧頭における日本人の協力は、『雪中炭を送る』行為であった」、と。
「雪中炭を送る」という表現は、困っている人に手を差し伸べるという意味である。
密航さながらにオンボロの一隻の船で海の荒波を漕ぎ出した根本博。
その様は、一か八かで海を渡った古来の遣唐使船のようである。
そして、金門島での大勝利は、あたかも三国志演義の一場面のようでもあり、赤壁の戦いのために圧倒的に劣勢な軍に一身を投じた諸葛亮(孔明)をも彷彿とさせる。
金門島が不自然ながらも台湾の領土であることの陰には、こんな日本人もいたのである。
歴史は親切にも、彼の名を再び世の知るところとしてくれた。
台湾と日本の間には、切っても切れないつながりもあるのである。
最近は中国に野心がとても遺憾です。歴史を歪曲しあたかも自分の国を正当化してくる。日本は中国から攻められるばかりではなく、反撃、攻撃をするべきですね。防衛ばかりだと、そのうち、日本はチベットのように呑み込まれます。中国がどれほど、汚い国かを世界に訴えそしてチベットを独立国家をできるように世界で助け、中国が他国を侵略できないようにさせないと、中国は経済力と軍力を武器に使い世界を支配しようとします。