2012年02月14日

歴史のスレスレを生き抜いてきた「白川郷」。合掌造りを生んだ波乱の歴史。


「飛山濃水(ひざん・のうすい)」とは、現在の「岐阜県」の特性を如実に言い表した言葉である。

かつては、「飛騨」と「美濃」という2つの国であった岐阜県。「飛山(ひざん)」の意味するところは「飛騨の山岳地帯」であり、「濃水(のうすい)」とは「美濃の水郷地帯」を指す。



美濃の大地を潤す複数の河川は、その多くを飛騨の深い山並みに端を発する。

「飛騨山脈」ほど急峻な渓谷を多数抱える山脈も珍しい。それは、長い年月の間に大量の雨水や雪解け水が、積極的に谷を削り取っていった痕跡でもあろう。



そんな深い谷々で分断された飛騨の国の奥にある「白川郷」は、まさに「陸の孤島」であり、その地に人々が生を営み続けたこと自体が、驚愕の事実ですらあるようにも思える(かつては罪人の流刑地ともされていたこともある)。

いかにして、かつての人々が白川郷に住むようになったのかを探っていくと、その歴史は薄ボンヤリとしており、まったく定かでない。

源平合戦の初期に、木曾義仲という源氏方の武将が、倶利伽羅(くりから)峠で華々しく平氏方を打ち破る戦(1180)を展開したが、その時の平氏の落ち武者が白川郷に住み着いたとも言われている(しかし、この話が伝説の域を出ることはない)。




より確かな歴史が見えてくるのは、この地に「浄土真宗」が伝わってからである。

もともと、白山信仰の根強い土地柄であった白川郷であるが、美濃国から追われてきた僧・善俊(親鸞の弟子・後鳥羽上皇の息子)の熱心さによって、白川郷はのちに北陸の一向一揆衆とも結託するほど熱烈な浄土真宗の信仰地となってゆく(「岷江記(びんこうき)」)。

白川郷自体で一向一揆が起こったという記録はないが、他国の戦いにおいて、その都度出陣を要請されており、京の真宗本願寺派と北陸の一向衆徒を結ぶ街道拠点として重要な役割を果たしたのだと言われている。



司馬遼太郎に言わせれば、こういうことになる。

「飛騨国白川谷という秘境の渓谷に住む人々のすべてが、室町末期に浄土真宗の門徒になり、この宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明をつくった(街道をゆく四 白川谷の村々)」




急勾配の山々に両脇を圧迫されたような白川郷にあって、その地の人々が阿弥陀如来に救いを求めたことは、じつに自然な成り行きのように思える。

その細長い渓谷には、民家を並べるのがやっとやっとで、とてもではないが十分な糧食を生産できるような土地を確保することができなかった。

そのため、村民が無闇に増えることを恐れた村人たちは、長男以外の結婚を正式に認めなかった(分家を増やさなかった)のだという。

加えて、日本有数の豪雪地帯ともなれば、人々がこの地に住み続けたこと自体がむしろ奇跡的である。



白川郷の「合掌造り」の家屋は、その生活の厳しさを雄弁に物語ってくれる。

常の合掌造りよりも急勾配の屋根の傾斜(60°)は、豪雪を重力により振り落とす役割を果たすと同時に、広い「屋根裏」を確保する意味もあった。

稲作の土地が確保できない白川郷では、家屋の屋根裏を利用した「養蚕(ようさん)」が盛んに行われていたのである。

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地域によって、養蚕は住居とは別棟で行われることもあるが、農地の限られた白川郷においては、少しでも農地を確保するために、養蚕は住居の「屋根裏」で行う必要があった。

幸いにも、住居には人々の温もりがあるので、春の遅い白川郷では、屋根裏がハウスのように暖かく、その点においても屋根裏養蚕は効率的であった。



南北に細長い白川郷の渓谷には、谷筋に沿って南北の「風」が吹き抜ける。

白川郷の合掌造りの屋根が南北に平行に造られているのは、その吹き拔ける風を屋根裏に通すためでもある。

その構造のおかげで、屋根裏の窓を開放すれば、夏場の蒸し暑い屋根裏がカラリと涼しくなり、蚕(かいこ)が蒸し暑さでやられることを防げたのだという。




そして、その構造は屋根の面を「東西」に向けることになった。

屋根が東西を向くことで、一日中屋根に太陽が当たるようになり、屋根に厚く積もった雪は溶け易く、濡れた屋根も乾き易くなった。



「茅(かや)」で葺(ふ)かれた屋根は、ジメジメと湿りやすい。なぜなら、茅という素材はあまり「水を弾かない」からである(逆に、水を吸着する性質がある)。

屋根の素材が水を吸うとなると、いかにも雨漏りしそうな感じがするが、じつは水を弾く撥水素材の方が雨漏りしてしまうのだという。



水をタップリ含む茅(かや)は、表面20cmほどはグッショリであるものの、それより下には水を通さない。というのは、吸い取った水は屋根の急傾斜によって、すかさず軒へと排水されるからである。

もし、茅(かや)が水を弾くのであれば、幾重にも積み重ねられた茅が盛んに水を弾き合い、軒先に流れ落ちるスピードよりも速く家屋内部へ水を落としてしまうのだという。



白川郷の茅葺屋根の厚さは1mにも及ぶ。

この厚さがあれば、表面20cm程度に水が浸透しようとも、決して屋内に及ぶことはない。

雨水を防ぐべき屋根なのに、逆に雨水を屋根に吸収させるというのは、発想の逆転であり、土地に生えるものを有効に活用しようとした先人たちの苦肉の策でもあったのだろう。



また、三角の屋根組みには、釘が一本も使われていない。

巨大な屋根を固定しているのは、柔らかい縄やネソと呼ばれる樹木(マンサク)の繊維である。

柔らかい素材で結び付けられた大屋根には、適度な弾性があり、その弾性は雪の重さや、風の風圧に対する柔軟性を生むこととなった。

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マンサクの木から取られた「ネソ」という素材は、マンサクの枝を捻(ねじ)って使い易くしたものである。

屋根組みを結び付ける時の「ネソ」には、まだ水分が残った状態であるが、その水分は年月とともに囲炉裏の煙で次第に乾燥してゆく。すると、水分を失うにつれてネソは少しづつ縮んでいき、より硬く締まっていくことになる。

その結果として高まる強度は、鋼鉄並みとも言われている。



豪雪地帯の家屋に降り積もる「雪の重さ」は、想像を超える重量になることもある。

今年ほどの積雪(2m以上)となると、茅葺きの屋根に積もった雪の重さは、およそ150トン強。軽自動車15台分であり、小さなジェット飛行機一機分でもある。

100年以上、家屋によっては250年以上も豪雪に耐え抜いてきた白川郷の合掌造りの強度には、恐るべきものがあるとも言えよう。

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ところで、極端に高い強度を求められる屋根組みの結束材とされた「ネソ」とは、それほどに強力なものなのであろうか?

じつは、ネソの原料となるマンサクの枝は、決して扱いやすいものではない。その枝を強く曲げ過ぎるとポキリと折れてしまう程度の弾性しか持たず、樹皮に至っては簡単にちぎれてしまう。

そのマンサクの枝を、丁寧にねじって曲げほぐすのは大変な重労働であり、高い技術も要求された。それは成年男子が身に付けるべき必須の技術でもあったのだという。



おそらく、屋根の結束材としては、マンサク以上に適した自然素材は他にもあるのであろう。しかし、過去の人々が利用できる資源というのは、その郷のモノに限られていたはずである。

きっと、白川郷の合掌造りを屋根裏で支えるマンサクは、より身近に入手できる素材であったのであろうし、先人たちはその活用方法を試行錯誤の中で模索していったのであろう。

現在の補修においても扱いにくいマンサクが依然として使われているのは、伝統を重んじるためだとも言われている。



さて、白川郷の歴史において、もう一つ重要な要素がある。

それは、「煙硝(えんしょう)づくり」である。煙硝というのは、鉄砲火薬の原料となるものであり、硝酸カリウム(KNO3)の俗称である。

白川郷は「加賀藩の火薬庫」とも呼ばれ、その深い山あいが軍事機密を保つためには格好の場と考えられたのである。




意外なことに、養蚕と煙硝づくりはつながり合っている。

煙硝を作るためには、蚕(かいこ)の「クソ」が大量に必要とされたのである。



硝酸の大元は「アンモニア」である。

蚕のクソには大量の尿素が含まれており、その尿素は土壌微生物の分解によりアンモニアに変化する。

そのアンモニアを硝化細菌(ニトロソバクターとニトロバクター)が酸化することで「硝酸」が生まれ、その硝酸は土壌中のカルシウムイオンと自動的に反応して、硝酸カルシウムが形成される。

最後に灰汁(あく)を加えれて煮詰めれば、硝酸カルシウムが硝酸カリウムと変わり、お望みの「煙硝」が出来上がることになる。



他言無用の緘口令が敷かれた村内。合掌造りの家屋の内部は、煙硝づくりの化学工場と化していたのだという。

囲炉裏の両脇には、煙硝生産のための秘密の穴が掘られ、その底にヒエ殻、次に蚕のクソ、その上をヨモギや麻で覆い、最後に土で埋め戻された。



下拵えが完了すると、その囲炉裏端は何気ない生活の場へと装われ、5〜6年かけて放置発酵させることになる。

発酵が完了した煙硝土は、水に浸した後に釜で灰汁(あく)とともに煮詰められ、濃厚になった液体を自然乾燥させて、ようやく煙硝の完成をみる。



なんと複雑で、高い技術を要することだろう。

当然、煙硝づくりの技術は自然発生的に白川郷に起こったわけではない。

確実に他所から伝えられた技術である。



その秘密は、白川郷が浄土真宗の信仰の地であったことと深く関わっている。

織田信長と抗争を続けていた石山本願寺(浄土真宗)は、信長の鉄砲部隊の無比の強力さによって、押しに押されていた。

そこで一計を案じた石山本願寺、信長の鉄砲に対抗するため、密かに火薬の製造を開始する。そして、その格好の地として選ばれたのが、人跡の薄い白川郷であったのだ。



煙硝が「塩硝」と呼ばれたのは、煙硝を「塩」と偽って輸送していた頃の名残りであり、煙硝を運び出す街道は、決して地図に記されることはなかったのだという。

江戸期に入っても軍事秘密基地とされた白川郷には、他の地に例を見ないほどの特権も付与される。米による年貢が免除されることとなったのだ。



もともと米の生産には極端に不向きだった白川郷にとって、年貢米の免除ほど有り難い話はないはずだ。

こうして、人が住むことが全く適さない白川郷は小さなユートピアとなり、その歴史が廃れることなくしばらくは続いていくのである。

為政者により保護されたとはいえ、それでも自然環境の厳しさが和らぐわけではない。この地に無理矢理にでも住み続けるために、先人たちは煙硝のみならず、先述の通り、合掌造りという知恵の結晶をもこの地に生み出すことになったのである。




白川郷の衰退は、煙硝づくりの終焉とともに始まってゆく。

江戸幕府が倒れ、鎖国が解除されると、太平洋の対岸であるチリから大量に硝石が輸入されることになる。そうなるともはや、手間のかかる白川郷での煙硝づくりは必要とされなくなった。

残された産業である養蚕も芳(かんば)しくない。男たちは鉱山へと足を運び、女たちは製糸工場への出稼ぎを余儀なくされるようになる。




終戦後に造られた「御母衣(みぼろ)ダム(1961)」は、白川郷周辺地域の多くの集落を湖底に沈めることとなった。

高度経済成長とともに、村人たちは次々と山深い飛騨の地を後にし、過疎化した村々では茅葺屋根の葺き替えすらままなくなり、ポツリポツリと合掌造りの家屋は消えていった…。

※茅葺きの葺き替えには3千万円以上の金額がかかると言われている。30年に一度くらいは葺き替えが必要とされるのだが、かつては村民たちが総出・一丸となる「結(ゆい)」と呼ばれる共同作業により葺き替えが行われていた。

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周囲の集落がダムに沈む中、なぜか白川郷だけは取り残される形となった。

ダムの補償金の対象ともならなかったため、他の集落のように補償金を使って便利な現代建築に建て替えることも出来なかった。

白川郷に残る合掌造りの家々は、幸か不幸か、こうした消極的な理由で温存されることになる。



時代にすっかり取り残されてしまった白川郷であったが、奇跡的に残されていた前時代の貴重な景観は、新しい時代に再評価されることになった。

かつて白川郷を訪れていたドイツ人建築家「ブルーノ・タウト」は、合掌造りの合理性・論理性を大いに賞賛し、白川郷が世界に知られるキッカケともなった。



あれよあれよと進んだ「世界遺産」登録の話。

めでたく1995年に正式登録されることとなる。



現在、白川郷を訪れる観光客は、100万人とも150万人とも。

意外な形で息を吹き返した白川郷は、一大観光地と化しているのである。



歴史というフィルターを通して白川郷の合掌造りを見た時、その様は歪みながらもギリギリのところを生き抜いてきたことが理解できる。

平家の落人伝説にはじまる白川郷の歴史は、信仰の一大地へと発展したがゆえに火薬(煙硝)と出会い、軍事機密を守る秘境の谷となった。

そして、その軍事基地を支えていたのは、意外にも小さな虫たち(蚕)のクソであったのだ。



おそらく、養蚕だけを細々とやっていたのでは、白川郷の存続は覚束なかったであろう。国家権力と密着した軍事要素があったからこそ、その存続は図れたとも言えよう。

それゆえに、人々は不便な土地であった白川郷にしがみつくようにして住み続ける道を選んだ。そして、そのために合掌造りの技術を高めていったのだろう。



かつての合掌造りは、幾多となく豪雪の重みで潰されたのではなかろうか。

現在にまで生き抜いた合掌造りの家屋は、先人たちが試行錯誤してようやく編み出した結晶なのでもあろう。



その屋根の勾配は60°という崖のような急傾斜であり、地場の茅(かや)やマンサクを何としてでも活用しようとした先人たちの苦闘の痕跡も見られる。

屋根に向きそうもない水を吸いやすい茅(かや)を1mにも積み重ねることによって、撥水素材以上の防水効果を実現し、折れやすいマンサクの枝を丹念に揉みほぐすことにより、鉄鋼並みの強度を持たせることに成功した。



いつ無くなってしまっても不思議はなかった白川郷。

それでも、現在まで生きている。

歴史に残されるものには、それ相応の意味があろう。そして、それが奇跡的に存続しているとなれば、その意味はより重いものとも考えられる。



今冬、日本列島は未曾有の豪雪に襲われている。

30何年振りとも言われる豪雪とて、長い長い歴史を持つ白川郷にとっては、如何ほどのものか。この地は、それ以上の苦難を生き抜いてきたのであろう。




一時期は国家権力に守られたとはいえ、この地を支え続けたのは、白川郷に住み続けた人々に他ならない。

彼らは「結(ゆい)」という協力精神によって、脅威的な大自然の中を生き抜いてきたのである。そして、その結束はマンサクの枝以上に強固なものであったのであろう。



世界遺産ともなった今、その結束は世界に広がったとも考えられる。

波乱万丈続きの白川郷の歴史は、これからも予想を超えた展開を見せていくのかもしれない。

マンサクの花咲く中を…。






出典:アインシュタインの眼
「白川郷〜合掌造りの知恵を解き明かす


posted by 四代目 at 08:31| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしく欲しかった情報でした。

私は石垣島のガイドですが、こんな素敵な歴史文

化もった「白川郷」行きたいですね。

ありがとうございます。
Posted by 島人はり〜 at 2016年10月16日 10:43
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