時は江戸時代。
ある大名屋敷の門前での出来事。
とある浪人が「切腹のために、庭先をお借りしたい」と申し出る。
その屋敷の家老は、苦々しい顔をその浪人に向ける。というのは、当時、「切腹」すると称して、大名屋敷に「たかりに来る」浪人たちが少なからずいたからだ。
庭先を血で汚されたくない屋敷側は、幾ばくかの金を浪人に渡すことも多かったのだ。
そうした浪人たちに辟易していたその大名屋敷では、「見せしめ」のために本当にその浪人に切腹させることにした。
するとその浪人は「真っ青」になり、「もう一両日待ってくれ」と懇願する。しかし、その屋敷の家老は頑として許さない。
否応なく切腹の場が整えられ、その浪人は腹を切らざるを得なくなる。
ところが、この浪人の刀は「竹光(竹でできたニセモノの刀)」であり、これでは腹が切れない。
周りを取り囲む武士たちは、ニヤニヤと嘲笑っている。
「何糞!」と、その浪人は竹光を腹に突き立てる。しかし当然、刺さらない。
大いに恥をかかされた浪人は、ついには舌を噛み切って果てる…。
これは映画「切腹」に描かれるエピソードの一つである。
この話には後日談があるのだが、それはまた後ほど。
「ハラキリ」が世界に知られたのは、モンタヌスの「日本誌」によるものが最初だとされている(17世紀)。
欧米などのキリスト教社会では、「自殺」は最大の罪と考えられていることもあり、当時のヨーロパの人々は、日本のハラキリを「なんと野蛮なことを…」と呆れ果てたともいう。

しかし、当の武士たちにとって、切腹は「名誉」である。
切腹が名誉ある行為となったのは、戦国時代の「清水宗治」の切腹があまりにも見事であったためとも言われている。
豊臣秀吉に城を包囲された高松城主・清水宗治は、城内の民の命を助けるために、自らの腹を切る。その態度や様はじつに堂々たるもので、腹を切らせた秀吉も大いに感服したと伝わる。
また、切腹して果てた「大石内蔵助(赤穂四十七士)」の辞世の句には、こうある。
「あら楽し、思いは晴るる、身は捨つる、浮世の月にかかる雲なし」
自らが腹を切ることで、周りの人々が助かる。それが家や名誉を守ることにもつながる。
大石内蔵助の辞世の句には、そうした思いが成就したという心地良さすら感じられる。

しかし、一方で切腹は「安易な責任の取り方」と批判されることも少なからずあった。
ささいな理由から切腹してしまうという例も多く、新渡戸稲造は著書・武士道で、こう嘆いている。
「命は廉価だった。それは世間の名誉の基準で測っても、安いものだった」
冒頭でご紹介した浪人の話は、その一例でもある。
切腹を盾にして、お金をたかるという浪人も実際にいたのである。
しかし、この話の裏には悲しい事情があった。
大名屋敷の家老は、安易に切腹という言葉を口にする風潮を、「武士の風上にも置けない」と憤っていた。浪人に腹を切らせたのは、その軽々しい風潮を戒めるための「見せしめ」だったのである。
後日、またしてもその大名屋敷に、フラリと別の浪人「半四郎」が訪れる。その浪人は、やはり「腹を切りたい」と家老に願い出る。
「またか」と家老は呆れ果てる。
それでも、家老は切腹の場の用意にかかる。
家老が異変に気付くのは、介錯人を呼ぼうとした時だ。
切腹には「介錯人」という首を落とす役割の武士が必要であるが、なぜかその屋敷には介錯人となれる腕の立つ武士たちが、みな病欠で休んでいた。
切腹した者の首を一刀のもとに斬り落とすには、相当の剣術の心得が必要であり、優秀な介錯人が屋敷にいることは、その家の「誇り」でもあった。
だが逆に、そうした優秀な介錯人がいないことは、家の「恥」ともなった。

家老は狼狽する。
浪人に切腹を申し付けたはいいが、然るべき介錯人が屋敷に不在なのである。これほどの不名誉は大名家にとってあるまじきことである。
じつは、切腹を申し出た浪人「半四郎」が、その家の介錯人たちを討ち果たしていたのであるが…。
先に詰め腹を切らされた浪人は、半四郎の娘婿であり、半四郎はいわば「仇討ち」という形で、その大名屋敷に乗り込んで来ていたのである。
生活に困窮していた半四郎の娘婿は妻の病気を医者に見せることもできず、まさに決死の思いで大名家に「無心」を願い出ていたのである。しかし、無情にも本当に腹を切らされてしまったのだ。
家老に面と向かった半四郎は、家老に詰(なじ)り寄る。
「一両日待ってくれと懇願する娘婿に、なぜに最後の情けをかけてやれなかったのか」と。
「よくも金に困った若者をなぶり殺しにできたものよ」と半四郎が嘲笑した時、周りの武士たちが一斉に半四郎に襲いかかり、大乱闘の末、半四郎は切腹して果てる…。
武士たちの切腹は、「自己犠牲」の現れでもある。
切腹という風習は明治時代以降にほとんど見られなくなるものの、この「自己犠牲」の精神ばかりは日本人の心の奥底に深く根づき続けるものともなった。
第二次世界大戦を「お国のため」に戦った日本人たちの心にも、その自己犠牲は明らかにあったであろうし、高度経済成長の日本にあって、「会社のため」に家族を犠牲にした人々の気持ちの根底にも、やはりあったであろう。
一方、切腹の負の側面である「安易な責任の取り方」も、長らく日本に根づくことともなった。
誰かを「辞任」させることで、本当の責任の所在を不明瞭にしてしまうという悪しき風習も、現代社会には色濃く残っている。
新渡戸稲造は、こうも言っている。
「死を軽んずるのは勇気の行為である。
しかし、敢えて生きることこそが真の勇気であることもある」
何を「正義」とし、何を「名誉」とするのだろう?
潔く死ぬことであろうか?
それとも、泥臭く生きることであろうか?
死ぬ者(自)がいれば残される者(他)もいるということは、軽視されがちな事実である。
「明良洪範(1684)」という書によれば、子孫の加増や栄達を求めて切腹することを、「商腹(あきないばら)」としている。
しかし、残された者たちが加増されたり栄達したりしたケースは「皆無」であったともいう。
自己犠牲を悪く言えば、「自己満足」ともなってしまう。
お国のために戦った日本人たちは光栄であったであろう。そして、会社のために戦う日本人もまた然り。
しかし、ここに残されているのは、「本当に犠牲になったものは何なのか?」という問いである。犠牲になったのは自分ばかりであったのか、それとも…。
出典:100分de名著 新渡戸稲造“武士道”
第2回「名誉・日本人の責任の取り方」

